役目を終えたはずの巫女でした ― 選ばれなかった時間の続き ―

桜は鏡の中の自分を、じっと見つめた。

化粧って、すごい。
本当に、自分じゃないみたいだ。

落ち着かないまま小さく息をついた、そのとき。
控室の扉がノックされた。

「……はい」

少しだけ緊張のにじんだ声で返事をすると、扉がゆっくりと開く。
その瞬間、桜はただ見惚れてしまった。

そこに立っていたのは、クロトだった。

――これは、反則でしょ。

思考が一瞬止まる。

この半年で、少しは慣れてきたと思っていたのに。
やっぱり、全然だめかもしれない。

顔立ちが整っているとか、そういう話ではない。
もう、存在感そのものが違う。

どうしてこの人が、私と結婚したいとまで思ってくれたのか。

この半年、何度も繰り返してきた問いが、また頭の中に浮かぶ。
その問いを一度だけ、思わず本人にこぼしてしまったことがある。

けれど、返ってきたのは言葉だけではなかった。
行動でも、十分すぎるほどに示されてしまった。

あれは……。

ふと思い出して、桜は今さらのように頬を染める。

そんな桜を、クロトは黙って見つめていた。

言葉にすることはない。
けれど視線は、自然と目の前の姿に引き寄せられていく。

この半年、婚約者として過ごしてきた時間。
そして今日、ようやく妻として桜を迎えることができる。

その事実が胸の奥に満ちていく。
満たされる思いと、確かな幸福。

けれど同時に、この先もずっと、桜が自分の隣にいることを選び続けられるように、守っていくのだと改めて心の中で定めていた。

クロトは一歩近づき、手を差し出す。

「行きましょうか」

桜は一瞬だけその手を見つめ、それから少し頬を染めたまま、そっと手を重ねた。

触れた瞬間、ほっとする。
それでも、緊張までは消えない。

足取りは、まだ少し頼りなかった。

「大丈夫ですか、サクラ」

どこか笑みを含んだ声で、クロトが問う。

「緊張で……」

桜は視線を落としたまま、小さく続けた。

「手、冷たいですよね」

クロトは一度、その手元を見下ろす。

「……そうですね」

そう言ってから、包み込むように指を絡め、握り直した。

「ありがとうございます……」

桜も少しだけ力を込めて握り返す。

「だって、思ったより大事になってしまって」

思わずため息が漏れた。

神殿で行われる、大きな結婚式。
想像していなかったわけではないけれど、実際にその場に立つとなると、落ち着いてはいられない。

クロトもまた、少しだけ遠い目をしてから息をついた。

「サクラは元巫女ですし、診療所でも顔が広いですから」

「クロトさんだって、副師団長ですし……貴族、ですよね」

桜がそう言うと、クロトはわずかに苦笑する。

「私も、正直こういう場は得意ではないのですが……気づけば、外堀を埋められていました」

「……ですよね」

思わず桜も頷く。

互いにぼやくようなことを口にして、ふと目が合った。
そして、どちらからともなく少しだけ笑ってしまう。

けれど次の瞬間、クロトの表情にほんのわずかに申し訳なさが差した。

「本来なら、私が止めるべきでした。サクラには、なるべく負担をかけたくなかった」

桜はすぐに首を横に振る。

「クロトさんのせいじゃないです」

それから少しだけ言葉を探して、続けた。

「それに……皆さんが祝福したいと思ってくださってるのは、ちゃんと分かっていますから」

「あぁ」

クロトも小さく頷く。

二人はもう一度だけ視線を交わし、やわらかな笑みを交わした。

そして、式場の扉の前に立つ。

扉が開く。

二人は並んで、ゆっくりと歩き出した。

その姿を、さまざまな立場の者たちが見守っていた。

――――――――――

少し離れた位置で、凜はその光景を見つめていた。

「桜ちゃん、幸せそう」

ぽつりと漏らすと、隣に立つリーゼが穏やかに頷く。

「そうですね」

「まぁ、桜ちゃんへの溺愛ぶり見てたら、心配はしてないけど」

凜は苦笑しながら、これまで何度か見た二人の様子を思い出す。

リーゼはそんな凜と、前を歩く二人を交互に見て、ふっと微笑んだ。

「本当……よかった」

凜のその小さなつぶやきは、祝福のざわめきに溶けるように消えた。

――――――――――

親族席で、アルトはクロトを感慨深げに眺めていた。

弟の幼い頃からのさまざまな記憶が、走馬灯のように頭をめぐる。

「……あいつが結婚するとは。数年前なら考えもしなかった」

ぽつりと漏らすと、隣のエリスが小さく笑う。

「えぇ、本当に」

その間にいたリナが、きらきらした目で前を見つめたまま言った。

「サクラちゃん、きれい」

それから、少しだけ声を弾ませて続ける。

「クロトおじちゃん、すごく嬉しそう。サクラちゃんのこと、大好きだもんね」

アルトは一瞬だけ目を細め、それから視線を前へ戻した。

――――――――――

少し離れた位置で、ヴァルターは腕を組んだまま式を見ていた。

「……あの男がな」

誰に向けるでもなく、小さく呟く。

かつては、他人を危険にさらすくらいなら、すべてを背負う男だった。
それが人生の伴侶を得て、以前のように自分を削る戦い方はしなくなった。

無理をしないわけではない。
けれど、踏みとどまるようになった。

「変わったものだな」

その声音には、どこか安堵が混じっていた。

しばらく二人を見つめてから、

「……まぁ、良かったか」

小さく、そう締めくくった。

――――――――――

リエットは祝福を与える巫女として、ゆっくりと近づいてくる二人を見つめていた。

神殿長のもとで式が進む中、その役目を担う立場として正面に立つ。

かつての巫女と騎士ではなく、伴侶として並ぶ二人の姿に、小さく息を吐いた。

本当に、よかった。

十年来の知り合いでもあるリエットにとって、この結婚はただただ喜ばしいものだった。

そう思いながら、ほんのわずかに目を細める。

――――――――――

クロトさんと共に、足を一歩ずつ進める。

ちゃんと歩けてるかな。
変じゃないかな。

そんなことばかりが気になって、前を見る余裕なんてなかった。

でも――

時折、隣から視線を感じる。

そっと顔を上げると、クロトさんと目が合った。
大丈夫だと言うように、ほんのわずかに頷かれる。

それだけで、少しだけ呼吸が楽になる。

握られている手の温もりと、その視線に支えられるようにして、私は前へと足を進めた。

やがて、正面に立つ神殿長の前で足を止める。

神殿長が、わずかに手を上げた。

「――では、祝福を」

その合図に、リエット様が儀式用の杖を掲げる。

向かい合うのが、この儀式の形だ。

「お二人の未来に、祝福を」

澄んだ声が、場に満ちる。

次の瞬間、やわらかな金色の光が、私たちを包み込んだ。

温もりのように降り注ぐその光の中で――

「必ず、守ります」

クロトさんの低い声が、私にだけ届く。

私はわずかに目を見開いて、それから頬を染めながら、小さく頷いた。

「……私も、必ずそばにいますね」

言葉にすると、少しだけ震えた。
けれど、握り返した手には、きちんと力を込める。

光に包まれながら、そっと息を吐く。

――この人の隣で、生きていこう。




※これにて本編は完結となります。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。