「そういや、昨日、めっちゃ変な夢見てさぁ」
 三階の洗面所でしゃこしゃこと歯を磨きながら、俺は喋りかけた。相手は隣で歯を磨いている依人である。
 洗面所は寮の各階に設置されていて、五人で使えるキャパはあるものの、朝はどうしても混み合うことになる。
 まぁ、なんとなくの了解でいい感じに分散するんだけど。
 いや、でも、変な夢だったな。目線を横に流すという反応ひとつ返ってこなかったが、気にせず話を続ける。
 依人と同じ部屋で過ごすようになって、一週間。悲しいかな、俺は依人の雑な対応に慣れ始めていた。
「なんか鳥? オウムなのかな? わかんないけど、とにかく黄色いでっかいやつに求婚される夢でさ」
「…………」
「でも、なんか、求婚の仕方が独特で。デカいくちばしで、めちゃくちゃつついてくるんだよね。あ、もしかして、あれがキスだったのかな」
「…………」
「でも、こっちは人間じゃん。痛ぇって叫んだところで目ぇ覚めたんだけど。――いや、違うな。目ぇ覚めなかったら食われてたのかも」
 変な夢っていうか、ホラーだな。納得して、「ホラーだった」と訂正すると、ようやく依人が口を開いた。
 口をゆすいだから喋る気になったのであって、無視をしていたわけではないと信じたい。
「先輩って、朝からめちゃくちゃ元気ですよね。うぜぇって言われませんでした? 去年とか。同室だった人に」
「いや、海先輩はそんなこと言わねぇから」
 きりっと眉を吊り上げ、俺は海先輩を褒め称えた。
「めちゃくちゃ面倒見が良くて優しいの。マジ神」
「ああ、はい、なるほど。優しい先輩だから、思ってても言わないと。納得しました」
「いや、違うし。マジでそういうんじゃないから、腹立つな。なぁ、純平、うるさくないよな、俺」
 依人は依人で朝からめちゃくちゃツンツンしてるよな、と。半ば感心しながら、逆隣の純平に問いかける。
「え、え~……、なんで、そこで俺に聞くん」
 面倒ごとと思ったらしい純平が、嫌そうに童顔をしかめた。
 爽青学園に入学して以来の仲良しのはずが、こいつはこいつで友達甲斐がなさすぎる。むっとして、俺は端的に答えた。
「隣にいたから」
「えぇ……、まぁ、じゃあ、正直に言うけど、うるさいはうるさいで。基本、夏、声デカいんよな」
「ほら」
「いや、ほらじゃないから!」
「だから、その声がマジでうるさいんすよ、頭に響く」
 洗った顔をタオルで拭き終えると、儀礼的に「お先です」と言い残し、依人はすたすたと洗面所を離れていった。
「依人くん、超クール」
 完全に面白がっている調子で、純平の隣で支度をしていた沢見が呟く。ひゅうと古風な口笛がつきそうな感じだった。
「超クールじゃねぇし。っていうか、あいつがあれな原因、沢見にもちょっとあるんだからな」
 腹立ちまぎれに、沢見に責任を擦りつける。
 沢見も俺の仲良しだが、依人の入寮日に談話室でいちゃついていた片割れでもあるのだった。
「初日に四階の談話室で俺ら見たっていう話?」
 黙っていれば美人と評される顔で、沢見が俺を一笑する。
「盗み見続けた夏にも問題あるでしょ。気づいた時点で違う階に行ったらいいじゃん。暗黙の了解だよ、暗黙の了解」
「あー……、うん、まぁ、それはそう。俺もごめん」
「それはそうなんや」
「だって、まぁ。喋ってただけだし。一応」
 ふたりが元ブラザー、現恋人の関係であることは事実で、甘い空気が垂れ流しだったことも事実だが。
 談話室でキス以上のことをしていたわけではない。沢見の言うとおり、そっと離れたら済んだ話だ。
 ……それなのに、なにをあんなに嫌がるかな、依人も。
 当人に言わない限りは個人の自由だと思うけど、わかんないやつだな。内心で首をひねり、話を継ぐ。
「ただ、俺、そういう……、なんていうの? 適当な理由つけて退散するみたいなの苦手なんだよね」
「ああ、夏、そういうタイプだよね。馬鹿犬みたいな。だからって、盗み見してんなよって話だけど」
「誰が馬鹿犬だよ、謝っただろ」
 反射で言い返したところで、俺は我に返った。俺ばかり責められすぎている。
「それを言うなら、談話室で変な空気出すなって話だよ。本当に気まずかったんだからな。どうせ、おまえが『谷先輩~』ってぶりっ子したんだろ。谷先輩大好きだもんな」
「夏だって海先輩の前でかわいこぶるじゃん。あれも相当きついよ、海先輩は笑ってるけど。馬鹿犬好きなのかな」
「いや、かわいこぶってねぇし!」
 というか、だから、誰が馬鹿犬だ。
 それに、そんな言動はいっさいしていないはずである。先輩ブラザーに、ちょっと甘えていたというだけで。
「いやぁ、ほんま、朝から仲ええなぁ」
 暗に告げられた「うるさい」に、俺も沢見も「ごめん」と純平に謝った。
 いわゆるいつメンの俺たちだが、怒ると怖いランキングの最上位は、毒舌の沢見でも、直情型傾向のある俺でもなく、ぱっと見の印象が人畜無害の純平なのだった。
『あの関西弁でさぁ、目の笑ってない笑顔で詰められるとマジ怖いんだよね。あいつ、二年連続で寮生委員やってるけど、めちゃくちゃ合ってるよ』
 というのが、純平に生活態度で詰められた際の沢見の言である。心底げんなりしていたので、ガチの説教だったんだろうな。
 洗った顔を持参したタオルで拭きつつ、鏡に映る自分の顔を見つめる。
 主観的に判断してどこにでもいるレベルで、うちの親の言うことを信じれば「表情が明るくてかわいい」レベルの顔面だ。
 そういや、海先輩、俺のこと飼ってた犬に似てるって言ってたな。
 じっと鏡を見つめたまま、問いかける。
「なぁ、沢見」
「なに? って、いや、マジでなに。その真顔」
「俺ってもしかしてかわいかったりする?」
「……目の前の鏡見てから言えば? いや、鏡見ながら言ったな。ごめん、純平、パスしていい?」
「うーん、ゲイキャラは沢見だけで間に合うとるなぁ」
 ゴミくずを見るような沢見の目と、百パーセント苦笑いの純平を前に俺は唸った。
「マジ恥。忘れて」
 確認しなくても、かわいいわけがなかった。
 歯ブラシやらなにやらを片づけ、退散を決め込む。すれ違う寮生と挨拶を交わしながら廊下を進み、俺は三〇七号室のドアを開けた。
「ただいまー……って、もういねぇし!」
 室内は無人で、依人の机の上からスクールバッグが消えている。
 無情な光景に、俺は盛大に突っ込んだ。というか、どれだけ早く教室に行く気だよ。
 ……本当になにが「俺、男が好きだから」、「好きになっちゃうかもしれないよ?」だ。そんなこと言うなら、もっと俺のこと好きっぽい感じにかわいく振る舞ってみろっつーの。
 この一週間で溜まりに溜まった悶々を、俺は心の中でぶちまけた。
 ――あんまり仲良くすると、好きになっちゃうかもしれないよ?
 腹の立つ顔で言い放った直後、依人は固まった俺を放置して、さっさと談話室をあとにした。我に返って追いかけたものの、時すでに遅し。
 寮生がわらわらいる食堂で追いすがることもできず、俺は完全に問い質すタイミングを逸したのだった。
『あのさぁ、昨日のことなんだけど……』
『仲良くしたほういいっていう話、ちゃんと考えた?』
 など、など。一夜明け確認を試みたものの、依人の反応は、「昨日、俺が言ったこと覚えてます?」みたいな顔でのスルーか、おざなりな「はぁ」という相槌の二択だけ。
 基本的な同室内コミュニケーションも、最低限の挨拶のみ。
 冷たすぎる対応の数々に、俺は悟った。
 あのとんでもない発言は、絶対に嘘。あるいは、「仲良くしたい」と告げた俺に対する当てつけに違いない、と。
 あと、なんか、「男同士の恋愛は個人の自由って言っても、自分が対象になったら困るでしょ? きれいごとやめれば?」という嫌味も混ざっていた気がする。
「っつか、マジで性格悪いよな。べつに自分の性格がいいとは思ってないけど、俺も!」
 止まることのない愚痴をこぼしつつ、のそのそと制服に着替える。
 ……いや、まぁ、後輩のブラザーを楽しみにしてたのも、張り切ってたのも、俺の勝手なんだけどさぁ。
 わかっていても、それはそれ。「あーあ、同室おまえかよ」みたいながっかり感は、本人の前では出さないと海先輩に誓うので、ひとりきりの空間での溜息は許してほしい。
 朝から重苦しい息を吐き、俺は寂しく部屋を出たのだった。