ひとつの夜 ふたつの朝

金曜二十三時。

ああ……最悪。
誰? ここにウーロンハイ置いた人。
ウーロン茶だと思って飲んじゃったじゃない……。
〝お酒は一種類だけ、三杯まで〟
それが私が悪酔いしないためのルールなのに。

藤乗千咲(とうじょうちさき)、二十一歳。カラオケでグロッキー中。

このカラオケのお酒って、多分濃いめだ。
気が乗らなかったんだから、今夜はやっぱり来なければ良かった。
「あ、千咲が爆睡してるー」
この声は夕瑛(ゆえ)ちゃん。
あのね、爆睡なんてしてないの、意識はあるの。
と言いたいけれど、ソファ席にもたれかかって顔が上げられない。
「もう帰ればー? まだギリ終電いけるでしょ」
「んー……」
うん、帰りたい。帰りたいけれど、身体が重い。
「ダメそう。江宮(えみや)センパーイ!」
まあそうなるよね。
……あーあ。今日は絶対に迷惑をかけたくなかったのに。
「千咲、大丈夫?」
聞き慣れた落ち着いた声。
「だいじょぶ……で」
「大丈夫じゃなさそうだな。ちょっと水飲んどけ」
心配そうな声。
見えなくたって、顔だって想像がつく。
困ったように眉を下げて、だけど優しく笑っているんでしょう?
「悪い。俺と千咲、帰るね」
彼が幹事に声をかけたのが聞こえて、腕を引くように起こされる。
正直なところ、今日は二人きりになりたくないなって思っている。
けれど「歩ける?」と聞かれれば、聞き分けよく小さく頷いてしまう。
それから手を引かれて狭い廊下を抜け、エレベーターに乗り、外気に触れる。
六月の終わり。夜の空気はもう生ぬるいって、カラオケ独特の密閉空間から出たせいか、はっきりと感じた。
「終電ほんとギリだな」
彼がスマホを見てつぶやく。

彼は江宮翠斗(あきと)、二十二歳。
私たちは根津(ねづ)大学の映画研究サークル所属の三年生と四年生。
そして――彼氏と彼女。
つい今までサークルの飲み会で二次会のカラオケ中だった。正確にいえば翠斗くんはもう引退しているけれど、今日は学校にいたから後輩たちに半ば無理矢理付き合わされた。

「ごめんね。翠斗くんはもっといたかったよね」
「俺がそんなにカラオケ好きじゃないって知ってるだろ?」
付き合いで二次会まで出るけど、うまく周りをあしらって一曲歌うか歌わないかが翠斗くんのいつものパターン。
だけどマイクが回ってくれば、ちゃんと流行りの曲をソツなく歌ってみせる。そういう人だ。
翠斗くんに手を引かれて、駅に向かう。
「ちょっと急いだ方がいいかも」
彼の歩みが少し早くなって、置いていかれまいと私も早足になる。
「あ」
〝ヤバい〟って思った時にはもう遅くて、地面がスローモーションで近づいてくるのにどうすることもできない感覚。
酔いと小走りとサンダルって相性最悪だ。
デニムの膝も少し擦れてしまったかもしれない。
「つっ……」
ぼんやりとした痛みが足首あたりに走った。

駅前のバスロータリー。
最終バスが行ってしまって、もうバスの来ないベンチに座る。
酔いはすっかり覚めてしまった。
「腫れてはいないな」
彼はしゃがんで私の足首を見てくれた。
「うん。痛くもないから大丈夫だよ」
「千咲はすぐ我慢するからな」
翠斗くんが優しく笑うから、私もつられて苦笑い。
やっぱり、さっき想像した通りの顔だ。
優しくて、ちょっぴり困ったような顔。
「ほんとに大丈夫。早くしないと終電に間に合わなくなっちゃう」
「大丈夫だよ。もう間に合わないから」
そう言って、彼がまた笑う。
それと連動するみたいに、私の心臓がギュッて小さく軋む。
「なにそれ。全然大丈夫じゃないじゃない」
私が唇をへの字に結んだら、翠斗くんが今度はいたずらっぽく歯を見せた。
私はいつも、彼を困らせてばかりだ。
「とりあえず湿布買ってくるから待ってて」
彼はまだ営業しているドラッグストアに向かっていった。
その背中を見ていると、いまだに奇跡なんじゃないかって思ってしまう。
江宮先輩(・・・・)の彼女になれたなんて。



『江宮先輩、根津大行くんですか?』
そう聞いたのは高二の私。
紺のジャンパースカートの制服姿で、髪はおかっぱって感じのボブだったっけ。
私と翠斗くんは、地元が同じで高校からの先輩と後輩。
パソコン部も図書委員も一緒で、私は彼に懐いていたし、彼も私を可愛がってくれていたと思う。
あれは図書室の受付当番の日、一緒にカウンターに並んでいた日だった。
『受かったらね』
『先輩なら絶対受かります!』
だっていつも模試で上位だって、下級生にも知られてた。
『もしかして……芸術学科ですか?』
『ん? うん。詳しいね』
『だ、だって!』
あの時の私、もしも犬だったら絶対嬉しくてしっぽをぶんぶん振っていたと思う。
『私もいいなって思ってたんです。根津大の芸科』
翠斗くんは口に人差し指を当てて『シーッ』って言って笑った。あの頃から落ち着いた雰囲気だった。
根津大学の芸術学科は文学部内にある学科で、美術史、音楽史、映画史を学べる学科だ。
『先輩がいつも部活で動画編集してるのって、やっぱり映画監督とか目指してるんですか?』
ボリュームを抑えた小声で尋ねる。
『いや、興味がないわけではないけど、映画関連の編集とかライターの仕事がしたいんだよね』
具体的な夢がなんだかかっこいいなって、ますます彼に憧れた。
『私も映画は好きだけど、大学では美術史の勉強がしたくって』
『ああ、根津大だったら川上(かわかみ)教授?』
翠斗くんの言葉に『そうです』と答えた。
『有名だもんな。じゃあ一年待ってるね』
その『待ってるね』に深い意味なんてなかったと思う。
だけどその日から、〝なんとなく行きたい大学〟が〝絶対に行きたい大学〟になったの。



懐かしいことを思い出して、胸が切ない音を鳴らす。
「ひゃぁっ」
静かなムードから一転、間抜けすぎる声を上げて、肩なんかも上下させてしまった。
振り向いたら笑顔の翠斗くんが立っていた。手には水滴いっぱいのペットボトル。
「すごいよな、湿度高くて蒸すからもう水滴まみれ」
「もー首元びちゃびちゃだよ」
頬を片っぽだけ小さく膨らめる。
「湿布のついでに買って来た。酔いざまし」
当たり前みたいにペットボトルのフタを開けてくれて、それから「足出して」って湿布を貼ってくれた。
今この瞬間、江宮先輩が私の彼氏なんだって実感する。
「優しいね、翠斗くん」
つい、足首を見てくれている彼の頭に向かってポツリとつぶやく。
「どうした?」
顔を上げた彼に聞かれて、「どうもしない」と首を横に振る。
「歩けそう?」
翠斗くんの質問に「うん」と答える。

私と翠斗くんはそれぞれ、アパートで一人暮らしをしている。
うちの大学の一人暮らしの学生は大学近くの学生向け賃貸を借りるのが一般的で、私たちもそうしている。
今いる駅は学校の最寄駅から一駅の繁華街。根津大生は飲み会のたびにここにやってくる。
いつもは一駅分でも電車に乗るけれど、終電に間に合わなければ歩いて帰ることだってできる距離。
「めずらしいね、千咲があんな風に酔うの」
「三杯までなら大丈夫なんだけど、今日はウーロン茶と間違えてウーロンハイ飲んじゃったみたい」
もしかしたら、理由はそれだけではないのかもしれないけれど。
ペットボトルの水に口をつけて、それから頬に当てた。まだ冷たさはあるけれど、さっきより随分ぬるくなっている。
「前に迷惑かけちゃったでしょ。翠斗くんに」
「もしかしておんぶして帰った日?」
「うん。……あんまり思い出したくないけど」
ハタチになったばかりの頃。
サークルの飲み会でお酒が飲めるのが嬉しくって、よくわからないままはしゃいでカクテルを何倍も飲んでしまった。
そしたら全然足に力が入らなくなって……あれは完全に醜態をさらしていたと思う。
「あれ以来、お酒の飲み方は気をつけてるんだよ。これでも」
あの日も今日みたいに終電を逃した。
「今日もおんぶしようか?」
「ダイエットサボってるから遠慮します」
「そんなやわじゃないって」
「『君はそんなに太ってないよ』って言って欲しいです、そこは」
また口をへの字に結んで、それから翠斗くんと目があって二人とも「ふっ」って吹き出した。
ちょいって、私から彼の右手に触れて手を繋ぐ。
「私って、迷惑かけてばっかり」
「そんなことないよ」

彼はそうやって優しく嘘をつく。
……翠斗くんの嘘つき。

大学は山というほどではないけれど、自然の多い場所にある。
繁華街の駅から大学の最寄駅に向かって歩くと、学生向け賃貸以外の家がどんどん少なくなっていく。
湿ったような土とアスファルトの匂いに、葉っぱの青っぽい匂いも交じって鼻をくすぐる。
「もう梅雨も終わるかな」
「あんまり雨降らなかったな、今年は」
雨は降っていないけれど湿度が高くて空気が少し重たい。秋でもないのにどこからか微かに鈴の音みたいな虫の声が聞こえてる。
一駅分は普通に歩けば二十分程度。けれど今日は私の足に気を遣ってゆっくり歩いてくれるから、きっと三十分はかかってしまう。
ふぅ……と小さくため息を漏らす。
それから「乗りたかったな、電車」とポツリとこぼしてしまった。
「足、つらい?」
聞き逃さなかった翠斗くんに問われて、焦って首を横に振る。
「ほら、ここって微妙な坂道だから。電車の方が絶対楽だったなって、それだけ」
「学校近くになるともっと坂道がキツくなるもんな」
「あれがなければ自転車通学もできたのにね」
「だなー。チャリがあれば今頃二人乗りで帰れてたな」
翠斗くんが笑う。
「高校の頃、一回だけしたね。二人乗り」
「一回だけだっけ」
「そうだよ。一回だけ」
私にとっては特別な日だったからよく覚えている。



高二の十月。委員会の集まりで遅くなった日だった。
『藤乗って家、俺と同じ方向だったっけ?』
歩いて帰ろうと思っていたら、自転車を引いた翠斗くんに声をかけられた。
『そうです』
『乗ってく? 後ろ』
『え……!』
『もう暗いからさ』
あの頃はただの片想いで、部活と委員会で少しずつ仲良くなれているとは思っていたけれど、それは思ってもみないような提案だった。
『急に言われても困るか』
〝こんなチャンスは絶対に逃したくない〟って気持ちで、首が取れちゃうんじゃないかってくらい、ぶんぶん横に振った。
当然のように翠斗くんには笑われてしまったけれど、うれしすぎて恥ずかしさなんて感じなかった。
学校を出て少し行ったところまでは、話しながら並んで歩いた。それだけでも十分すぎるくらいうれしかったの。
『乗れる?』
『は、はい、えっと、友だちとは二人乗りしたことあるから』
後輪の金具の小さな突起に足を乗っけて、彼の肩に手をかける。
女の子としか二人乗りをしたことがなかったから、翠斗くんの背中は大きくて、それに肩から伝わる熱にバカみたいにドキドキした。
『江宮先輩って、二人乗りとかしない人だと思ってました』
あの時の、十月の冷たくなり始めた風の、顔をすべるような感触だって思い出せる。
『なにそれ』
『なんていうか……ルールは守る人って感じかと思ってたので』
『あー、学校のルールとかはわざわざ破らないかな。波風立つのも面倒だから』
真面目といったら真面目だけれど、それよりは要領が良くてスマートだとか達観しているという印象だった。
『でももう放課後だし』
翠斗くんの声は笑っていた。
そういう一面を見せてくれたことも、巻き込んでくれたこともうれしくかった。
だから思い切って言ってみたの。
『先輩』
『んー?』
『あの……あ、翠斗先輩って呼んでもいいですか?』
『え?』
三年生は部活も引退して、委員会も十一月になったら活動を終えてしまうから、それまでに言うんだってずっと決めていたこと。
少しでも特別になりたかった。
『あ、えと……部活に江口(えぐち)先輩とか委員会に江本(えもと)さんとか、間宮(まみや)先輩とか、い、いるので』
変な顔をされたらそう答えようって、頭の中で何度も何度も練習していた言い訳も、全然うまく言えなかった。彼の顔は見えていなかったというのに。
『いいよ』
翠斗くんの声が今度は可笑しそうに笑っているのが伝わってきて、さすがに恥ずかしくなって顔が熱くなった。
『じゃあ俺も千咲って呼ぼうかな』
『えっ』
『わっ! 手離したら危ないって』
肩から離してしまった手を慌てて戻したけれど、翠斗くんの自転車は少しふらついてしまった。心臓は早鐘を打っているなんてものじゃないくらいドキドキして、手のひらから全部伝わってしまったんじゃないかな。



それが今はこうして手をつないで歩いているんだ。
それなのに、今の方が――。
「千咲」
「んー?」
「あのさ」
翠斗くんの方を見上げる。
翠斗くんの視線は私と反対の方。
「メッセ――」
「あ! 寄っていこうよ、公園」
「え?」
帰路の半分くらいを過ぎたあたり。
ちょうど通りがかった公園は、こうやって終電を逃して歩く時の根津大生の定番の寄り道スポットで、ここでおしゃべりをして無駄に帰りが遅くなったりする。
「コンビニで飲み物でも買おうか」
先ほどの水はもうほとんど空。
公園の前にあるコンビニに、翠斗くんの手を引っ張る。
「千咲は水?」
「うーん……あ、ラムネ」
コンビニの冷蔵庫に、ラムネ味のサワーの缶が並んでいた。
「これがいい」
「これ酒だよ」
「アルコール二パーセントだよ? ジュースみたいなものでしょ」
「水にしとけよ」
……また困った顔。
「これがいいの」
翠斗くんが止めるのを聞かないで、さっさとレジへ向かって会計を済ませた。

テニスコートより少し広いくらいの公園には、滑り台とブランコ、それからベンチがある。
街灯でそれなりに明るくて、根津大生らしきカップルがベンチでおしゃべりをしていて夜でも治安の悪さは感じない。
私たちはブランコに腰を下ろした。
翠斗くんに「後ろに落ちたりするなよ」なんて心配される。
「乾杯」
彼は水を買ったから、こちらだけがお酒で乾杯する。
その水だって、彼が飲みたいわけではないはずだ。
「今日は千咲と乾杯しなかったな」
「席が離れてたからね」
「それって――」
あっという間に水滴だらけになった缶を見つめる。
「もしかして、わざと?」
落ち着いた口調の翠斗くんの直球な質問に、ギクリとして一瞬答えを躊躇ってしまった。
「そんなわけないじゃない。夕瑛ちゃんが離してくれなかったの。ずっと彼氏ができたってノロケ話」
お酒の缶に口をつけた。
「あ、ラムネ味だ」
「あたり前だろ」
翠斗くんは笑ったみたいだけれど、顔が見られない。
「ラムネ飲んだね。私が一年の時の夏合宿で」
先輩が大量に買ってきた瓶ラムネをみんなで飲んだ。
「自分で開けたことなかったから、手がベタベタになっちゃって」
ビー玉を押し込んだら、泡がシュワシュワシュワってあふれてきた。
中身なんてほとんどなくなってしまったけれど、それが可笑しくてたくさん笑った。
「今ならきっと、翠斗くんが開けてくれたね」
地面に足をつけたまま、ブランコを少しだけ揺らした。
「あの合宿から――」
あの時、翠斗くんに告白したんだ。
彼の卒業までに告白できなかったことを悔やんだけれど、それは受験の糧にした。
高三の一年間は、遠くの翠斗くんのことを考えてずっと気が気じゃなかった。
想いを募らせるだけ募らせて、大学に行ったらすぐに気持ちを伝えるんだって思っていた。……なのに結局夏になるまで言えなくて。
「もうすぐ二年かぁ。長野は星がきれいだったね」
この二年、ケンカらしいケンカもなくてずっと穏やかだった。
「ここはライトが明るすぎて、星が見えないね」
当たり前のことを言って、小さくため息をこぼす。
「そういえば翠斗くん、私もあの映画観たよ。ゾンビのやつ。配信始まってたから」
「え?」
急に話題を変えたから、彼の戸惑いが伝わる。
「好きだよね、あの監督」
「うん」
「私には少し難しかった。UFOが出てくるなんて思わなかった。それに日本刀を持った女の人とか」
こんな話、どうでもいい。
今しなくたっていい話。
「まあでもあの監督はそういう人だよ。うちのゼミにも研究してる子がいるくらい、カルト的な人気がある人」
私にはその映画はよくわからなかった。というよりその監督の作品が私には難しい。
「翠斗くんのゼミって仲良いよね。いつも楽しそう」
「人数が少ないからな」
ゼミの人たちと大学のカフェで話しているのを見かけては、〝いいな〟なんて憧れて見ていた。
だって翠斗くんは、いつもすごく楽しそうに笑っているから。
「……私も映画史の専攻にしたら、もっと詳しくなったのかな」
翠斗くんと同じ目線で話せたのかな。
それからしばらくは、映画だとか彼のゼミの話だとか、それに私の授業や友達のこと……それから、久しぶりに高校生の頃のことなんかを話した。
全部どうでもいい話だ。
取り止めがなくて、だけど時々笑いがこぼれたりする話。
でも今は、こういう話だけしていたい。
「――て、夕瑛ちゃんも言ってた」
「そっか」
「…………」
だけどそう時間が経たずに切れ切れに沈黙がおとずれる。
「せっかくだから!」
空っぽになった缶を足下に置いて、裸足でブランコに立つ。
「危ないって」
この公園のブランコを漕ぐのは初めてではないけれど、かなり久々だ。
キィ……キィ……と、棒のような鎖の擦れる音が公園内に響く。
身体に浴びる風はやっぱりどこか重苦しい。
「手が鉄くさくなっちゃうかも」
「落ちるなよ」
翠斗くんが、心配そうにこちらを見ている。
はしゃいだように笑っている私は、ちゃんと酔っ払っているみたいに見えているのかな。

もう日付もとっくに変わって、公園の時計の長針は下を向いている。気づけば、ベンチにいたカップルの姿ももうない。
「そろそろ行こうか」
「……うん」

嫌だな。

心臓がドクンドクン、て……不安な音になってる。

嫌だな。

「千咲、あのさ――」

嫌だな。

「おんぶ」

今夜、彼の言葉を遮るのは何度目だろう。
「やっぱり、おんぶして」
わざとへらへらとした笑顔を作る。
「これ、ちゃんとお酒だったみたい。ブランコの揺れで酔いが回っちゃった」
「だから言ったのに」
コンビニで缶を捨てたら、翠斗くんは道路に背中を向けてしゃがんでくれた。
「あはは。なんか緊張するかも」
もっと強いお酒を飲んでしまえばよかった。
何もわからず背中にもたれかかれるくらい、酔ってしまえばよかった。
ううん。カラオケで、起き上がれないくらい酔い潰れたらよかったんだ。
「ダイエットしておけばよかった」
「『君はそんなに太ってないよ』」
「棒読み。ふふ」
自分から言い出したくせに、恐る恐る、彼の背中に手をかける。
「汗かいてるだろ」
「私も汗かいてるし。全然ヘーキ」
あったかいな、翠斗くんの背中。
暑苦しいのとは全然違う。心地よいあたたかさ。
「心臓の音、聞こえるかも」
耳が背中についているわけではないのに、身体から鼓動が伝わってくる。
トクン……トクン……って、落ち着いた音。
何度も何度も聞いた、優しい音。
この熱だって、何度も感じた。

家まではもう、十分もかからない。
「ねえ、翠斗くん」
「ん?」
翠斗くんが『ん?』って聞き返すの、好きだな。
もっと聞いていたかった。
「覚えてる? 前におんぶしてもらった日」
一年くらい前。
二年生になったばかりの頃。
四月生まれの私は二十歳になっていた。
「あの夜はずっとおんぶだったな」
「ご迷惑をおかけしました。……今もだけど」
「酔っ払ってる千咲もかわいかったから」
「ふふ」
あの日、本当は途中からは結構意識がはっきりしていた。
「あの日、『翠斗くんって呼んでいい?』って聞いたんだよね」
「あーそうだったっけ」
もう半年も付き合っていたのに、ずっと〝翠斗先輩〟のままだった。
「私ね、そういうの……顔を見てたら言えないみたい」
照れくさくって緊張して、顔を見たらうまく言えなくて、背中越しに聞いたんだ。
あの二人乗りの日と同じように。
「翠斗くんのことが好きすぎて」
「……そっか」
「だから今日もね、背中越しなら大丈夫って思ったの」
ダメだな、声が震えちゃう。

「呼び方……え、江宮先輩に、戻すから……」

翠斗くんの足が止まる。
「ちさ――」
「止まらないで、顔、見たらダメだから……」
往生際の悪い私は、今日、彼の言葉を何度も何度も遮った。
「メッセージ、見たよ」
【話したいことがある】って。
通知画面で息が止まって、既読もつけずに無視してた。
「だから本当は今日……二人になりたくなかった」
なんの話かすぐにわかってしまったから。
「なのに、二人になったら一秒でも一緒にいたいって思っちゃって」
だけど時間の長さが怖くてたまらなかった。
いつ、そういう話になってしまうんだろうって。
電車に乗って、何事もなくいつもみたいに帰ってしまいたかった。
前におんぶしてもらった日は、この時間がずっと続けばいいのにって思っていたのに。
「ほんとダメだね、私、こんな時まで迷惑……ばっかり」
「迷惑なんかじゃないって。迷惑かけてるのは俺の方だろ?」
そんなことない。
そんなことないって言いたいのに。
「翠斗くん……他に……好きな人、できた?」
「…………」
「あの、同じゼミの人でしょ?」
一緒にいるところを見た瞬間に、すぐにわかってしまった。
「私といる時と、全然、違う顔してたから……」
自然で、見たことのない無邪気な表情。
それに一緒にいる時も、よくゼミの話をするようになっていたよね。
鼻の奥がツンって、苦しい。
「私、翠斗くんのこと好きすぎた」
好きすぎたからダメだった。
「だからずっと、翠斗くんに〝憧れの先輩〟をやらせてたんだって、あの、あの人といるところを見て……」
気づいてしまった。
「千咲」
「……ごめんね」
「なんで謝るんだよ」
「ごめんね、ずっとずっと、追いかけて――」
私のアパートはもう目の前。
翠斗くんは、私を背中から下ろして前を向かせた。
だけど顔が見られなくて、泣きながら俯くことしかできない。
「千咲は全然、迷惑なんてかけてないって」
彼の言葉に俯いたまま首を振る。
「だって――」
「ちゃんと好きだった」
思わず、顔を上げた。
「ちゃんと好きだったけど、俺たちっていつもこの顔だったよな」

〝困ったように眉を下げて、笑っている〟

鏡に映したみたいな顔。
本当は、自分でも気づいていた。

「俺も千咲も、どうしていいかわからなくて、本音がぶつけられなかったんだよな」
わかってた。
「千咲の中の俺でいたくて」
私は彼に嫌われたくなくて、本音を言えなかった。
だからケンカもなかった。
手をつないでいるのに、触れ合っているのに、二人乗りにドキドキしていた頃よりもずっと遠くに感じてた。
「でも、でも……好きだもん。翠斗くんのこと、今だって――」
言ったって仕方がないのに。
「絶対、一番好きだよ」
翠斗くんは「ごめん」って言いながら、私を抱きしめた。
「あの人よりも……」
「ごめん」
最後なんだ、ってその温もりが伝えてくる。
言いたいことも、伝えたいこともいっぱいあるのに、言葉はもう全然出てこない。
ひたすらに、子どもみたいに泣くことしかできない。
理解してしまっている頭に抗いたくて、もがいてしまう。
さよならするって、彼の背中では覚悟を決めていたはずなのに。
私って、本当にダメだ。

翠斗くんは、私が落ち着くまで抱きしめていてくれた。
残酷な優しさなのかもしれないけれど、純粋にうれしいと思ってしまう。
「……ごめんね」
彼の胸の中でまた謝る。
「だから、何が?」
「……大学、追いかけてきちゃって、サークルだって同じにしちゃって」
私のそういうところは、彼を追いつめていたのかもしれない。
「ちがうだろ?」
翠斗くんは私の頭を撫でた。
「千咲ははじめからうちの大学に来たがってたし、映画だって好きだっただろ?」
「…………」
「そういう風に思わせるのも、苦しかったんだ」
「でも……」
彼は、私の目を見るように覗き込んだ。
見つめられて、きっと眉は八の字だ。
自信がなかった。
全部、翠斗くんの真似なんじゃないかって。
彼の後を追っている自分に、自信なんて持てなかった。
「千咲はちゃんと、自分の足で立ってるよ」
〝俺がいなくても大丈夫〟
そう言われているみたいで、苦しい。
だけど本当は今までの方がずっとずっと苦しかった。
本当はとっくに気づいてた。

私たちは、どこかうまく噛み合わない。

「翠斗くん……」
静かに深く、息を吐く。
「……今までありがとう」
首に手を回して、ぎゅっと抱きつく。
「大好きだったよ」
本当はまだ大好きだけれど、彼はもう一緒に歩いてはくれない。
「俺も好きだった」
「だけど、ごめん……」という小さな声が耳元で響く。

大好きな声。

大好きな温度。

大好き。大好き。それしかない。

だけど――。

身体をそっと離す。

「……じゃあ、ここでお別れだね。おやすみなさい……江宮先輩」
これだけ泣いたら、今夜はぐっすり眠れそう。
「千咲、これ」
翠斗くんは開けていないペットボトルの水を差し出した。
彼が私のために買った水。
彼が、私のために最後にしてくれたこと。
「ありがとう」って苦笑いで受け取ったら、背中を向けて、別々の方向に歩き出す。

歩きながら、もらったペットボトルを見つめる。
「ここで開けなかったら、一生飲めないやつでしょ……」
きっと思い出として大切に保管してしまう。
私ってそういう性格だ。
キャップを回したペットボトルは思ったよりも柔らかくて、開けたら少し水がこぼれた。
ごくごくごく、と歩きながら流し込めるだけ流し込む。
「ぬるい……」
こぼれたって気にしない。
だってどうせ、汗と涙でぐちゃぐちゃだ。
全然止まらない涙に、水分を補給してしまったことを後悔する。明日はどんな顔で目覚めるんだろう。

それから玄関を開けてドアを閉めたら、先ほどまでとは別の世界。

「バイバイ、翠斗くん」

私たちはもう、同じ朝を迎えない。

fin.