ある日の放課後。
帰り支度をする私の机に、万遍の笑みで友達の夏帆(かほ)が近づいてくる。その笑顔に少しだけ嫌な予感がした。小さい子がイタズラを企んでいるような顔で目をキラキラとさせている。そんな好奇心旺盛な夏帆の口から出る言葉は予想がつく。きっとあの事だ。

「ねぇ、(つむぎ)!旧校舎の音楽室に行ってみない?」
予想通りの提案に、私はクスッと笑ってしまった。
高校に入学してしばらく、1年生の間ではある噂が流行っている。

旧校舎の誰もいない音楽室からピアノの音が聞こえる。

どこにでもありそうな怪談話だ。学校の七不思議とも言うのか。そもそも学校の七不思議なんて、昔好奇心で調べたら17不思議になったし、私の中ではもうとっくに破綻している噂話だ。
「夏帆⋯⋯もしかしてあの噂信じてるの?」
「もちろん!だって実際にピアノの音を聞いたって子もいるし⋯⋯えっと確か隣のクラスの高木君。てか面白そうじゃん?学校の怪談みたいで」
これはなかなか手ごわそうだ。できるなら避けたい。面倒だからあれこれ諦めさせる理由を並べてみた。
「あー⋯⋯そうだね。でも夏帆、部活あるでしょ?」
「大丈夫!部活前にパパッと行って検証しよう」
「でもなぁ⋯⋯」
「紬は帰宅部だから暇でしょ?いいじゃん行こーよー」
「私だって塾とかあるし忙しいんだけど」
「ね!10分だけ!付き合ってよ」
夏帆みたいに噂を信じて興味本位で音楽室に行く生徒が増え、ついこの前のホームルームで担任から「音楽室に不用意に近づくな」と話があったばかりだ。私がクラスの副委員長を任されている立場で、その注意勧告に歯向かうのは気が引ける。私が渋る理由はそこだ。大学受験を見据えて、優等生キャラでいたい気持ちが強い。だから面倒な副委員長も引き受けたんだから。
ふと昨日の夜に放送していた心霊特番を思い出して、きっと夏帆はあの番組に感化されたんだと、私は呆れ気味にため息をついた。それは半分、断れない性格の私に対しても。影響を受けやすい夏帆の好奇心は何よりも最優先事項だ。これは大人しく夏帆について行く方が家に早く帰れると察した私は「わかった。いいよ。一緒に行くよ。ちょっとだけだよ」と鞄を肩に掛けて椅子から立ち上がった。
「本当に?」
目を輝かせながら夏帆は私の手を取り、嬉しそうに教室を飛び出した。

うちの高校はこの春、私たち新入生の入学に合わせて校舎が新設された。真新しい教室を私達が初めに使えるのは気分が良かった。だから旧校舎にそこまで詳しくは無い。倉庫みたいになってる教室に、何度か授業で使う教材を取りに行ったことがあるくらい。
夏休みに取り壊しが決まっている旧校舎に近づく生徒はほとんど居ないし、雨の日に運動部が筋トレをしたりするのに使っているのを見たことはある。普段はひっそりと、終わりの時を待つコンクリートの塊。そんな旧校舎の3階、いちばん端が音楽室らしい。

私たちはゆっくり様子を伺いながら階段を登っていく。
入ったことの無い空間にドキドキと緊張する。
人の気配のない冷えきった空気が、怪談話の噂を尾ひれの様に盛り立てる。階段から音楽室に続く廊下を覗き込んでみるが、その空間も同じ。無音で冷えきった空気が漂っている。

「⋯⋯ほら、やっぱり何も聞こえないよ?」
「シーっ。小さい音かもしれないから」
夏帆は口の前に人差し指を立てた。
しんと静まり返ったコンクリートの塊の中に、私たちの緊張した息遣いだけがふたつ存在する。
「紬、せっかくだから音楽室の前まで行こうよ」
「えー、行っても変わらないって⋯⋯」
夏帆は乗り気では無い私の手をしっかりと握りしめて、廊下を進み音楽室の中を覗き込む。
「誰もいないか⋯⋯あっ!ねぇピアノ!ピアノがある!」
「音楽室なんだから、当たり前にピアノなんて置いてあるでしょ」
私も夏帆の横から覗き込むと、重厚感のある高そうなピアノが鎮座している。別に立ち入り禁止とまではなっていない旧校舎の、音楽室に近寄るな!との注意勧告は噂になっているこのピアノに悪戯をされるのを防ぐためだろうなと、私は理解した。

微かに、バタバタと下から足音が聞こえる。
誰かが階段を登ってきている音だ。
「ねぇ夏帆、誰か来るよ」
「うそ!先生だったらマズイよね、音楽室に近寄るなって言われてるし。うん、逃げよう紬!」
私の腕を引っ張るように、夏帆は慌てて走り出した。
「ちょっと⋯⋯痛い。待ってよ。早いよ」
運動部の夏帆は風のようなスピードで階段を駆け下りて、私達は2階の女子トイレにひとまず身を隠した。
3つの足音は2階を通り過ぎ3階に向かう。

「あーあ、何も無かったね」
夏帆はつまらなさそうにポツリと呟いた。
「だから言ったじゃん、結局は誰かの嘘だよ」
「でもさぁ⋯⋯ってヤバい、私、部活に行かなきゃ」
夏帆は時計を見ると、また慌てだした。
「じゃあね、紬。続きはまた明日話そう!」
一目散にトイレを飛び出した夏帆の背中を見送り、とんだ時間の無駄遣いだとため息をつく。それから帰ろうと鞄を肩に掛けると、カバンに付けていたウサギのパスケースが無いことに気がついた。
「あれ?どこかで落としたかな⋯⋯」
教室を出る時には鞄に付いていたから、落としたとしたらこの道中だ。仕方なく来た道を戻ることにする。
もう一度階段を登ると、音楽室の方から男子の声がした。さっきの足音の主だろう。

「ほら、やっぱり嘘だよ。ピアノの音なんて聴こえないじゃないか 。高木の空耳だったんじゃないの?」
「確かに聞いたんだ、俺は嘘なんてついてない」
そう話している男子の足元に、私のウサギのパスケースは落ちていた。私はそれを見つけ安堵する。
「よかった⋯⋯あの人達、早く帰らないかな」

教室の影から男子の様子を伺っていると「おい、ピアノの近くまで行ってみようぜ」と、男子達はガラガラと音楽室のドアを開け中に入っていった。
チャンスだと思い、私は小走りで音楽室の前にパスケースを拾いに行く。

私の足音に紛れて、ポロンと音がする。
ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド、と順番に美しいピアノの音階が聞こえた。
「ピアノに触るなんて、勇気あるんだな⋯」
噂なんて嘘だと思っているが、幽霊の存在は半分くらい信じている。目に見えないだけで、いてもおかしくは無い存在だからだ。怖いなら見なければいいだけだし。そもそも霊感なんてこれっぽっちも無い私には関係ない話だ。面白おかしく噂のピアノを触って、もしも祟りなんて起きたらどうするんだろう?そんなことを思いながら、パスケースを拾い上げ、音楽室に背を向け歩き出す。
「よし、早く帰ろ。宿題しなきゃ」

「うわぁぁぁぁ」
背後から美しいピアノの旋律を掻き消す野太い叫びと、煩い足音が2つ音楽室から飛び出してきて、私を追い越すと、あっという間に遠くへ消えていった。
唖然と立ち尽くす私の耳にピアノの音色が響いた。今度は単調に弾かれた音じゃなく、聞いたことのある有名な曲だ。
「まさか⋯⋯ね?嘘よ、嘘。きっと先生達がピアノに悪さをしないように細工してるだけ。きっとそうだよ」
自分に暗示をかけるように呟きながら、一歩踏み出す。それでも、どこまでも耳に残る音色につられてゆっくり振り返ると、中途半端に開け放たれたドアが目に入る。なんだか不気味だ。

だけど、すぐそこに答えがある。
私にだって好奇心くらい少しはある。
この噂の真相を暴いて、夏帆に自慢してやりたい。
「きっとタブレットか何かで音楽を流してるだけ!」
何度も呟いて、そう思い込む。それから私は息を飲んで、もう一度音楽室に向かった。
ドアの隙間からチラッと中の様子を伺と、ピアノの前にひとりの男の子が座っていた。同じ制服を着ている。けど見たことがない顔。中性的で、こんなに綺麗な横顔の男の子なら廊下で一度すれ違ったら忘れないだろう。だけど、私の記憶にこの男の子の顔は無い。
透き通るような肌に、くっきりとした二重まぶたが印象的だ。サラサラとした髪を揺らしながら、気持ちよさそうに音を奏でている。
「なんだ、人がいるじゃん。やっぱり誰か弾いてたんだ⋯⋯。幽霊なんて見えるわけないもんね」
さっき聞こえた足音は3つ。飛び出してきた男子は2人だから計算は合う。
その綺麗な旋律に誘われるように、私は音楽室のドアを開け中に入った。
「だけど、なんでこの人は逃げ出さなかったんだろ?」
そんな私に気がついたのか、ふと顔を上げた男の子と目が合った。そして私はある決定的な違和感に気がついてしまった。透き通るような肌ではなく、実際にその男の子は透けているのだ。ってことはつまり幽霊?
私は目の前の出来事に一瞬にしてパニックになり、血の気が引くようにフラッと足元がおぼつかなくなる。
「ちょっと!大丈夫?」
男の子はピアノを弾く手を止め、スッと立ち上がる。
「だ、大丈夫です」
私は何とか正気を保つが、足が震えて動けない。幽霊に出会うなんて初めてで、あれほど学校の七不思議を馬鹿にしていた自分を後悔した。火のないところに煙は立たない。噂は本当にあったんだ。勢いに任せて変な好奇心で行動してしまった自分を恨んだ。見なかったことにしよう。そして忘れてしまえばいい。
この場から逃げようと、くるりと男の子に背を向ける。
「待って!君は僕が見えるの?」
男の子は慌てて私を呼び止めた。
ビクッと身体を震わせながらゆっくりと後ろを振り返り、それからゆっくりと首を縦に振る。
「驚かせてごめん」
目の前までやって来た男の子を、上から下までまじまじと見てもやっぱり透けている。近くで見ると、本当に綺麗な顔立ちの男の子だ。幽霊ってテレビや映画で見るような印象が強いせいか、もっとグロテスクなイメージだったけど、それとは正反対の王子様みたいな透明な男の子。気まずそうに頭を搔いている。

「あの。あなたは⋯⋯、幽霊なんですか?」
私は窮屈な喉から言葉を絞り出した。
「違うよ」
小さくはにかんで、男の子は鞄から何かを取り出し私に見せる。
『1年3組 水嶋奏斗(みずしまかなと)
そう書かれた生徒手帳。証明写真も目の前の本人と全く同じ顔をしている。
「君と同級生。この姿じゃ驚くのも無理ないよな」
私は現実離れしすぎているこの状況に、ぽかんと口を開けたまま固まってしまった。
「おーい!大丈夫?息してる?」
「だって幽霊じゃないなら⋯⋯どうして透けてるの?」
「僕は透過症って言う病気なんだ。聞いたこともないだろ?中学生の時に発症して。最初は足だったかな。だんだんと範囲が拡がって今じゃこれ。透明な僕は誰にも見えないはずなんだけど、たまにいるんだ。透明になった僕を見える人が」
「でも、どうやって高校に?受験とかその体じゃ受けられないんじゃないの⋯⋯?服も透けてるし⋯⋯意味わかんないよ」
「いい薬があるんだ。それを飲めば6時間だけ透明にならなくていられる。でも1日に1粒だけ。医者が言うには、薬を飲むと一時的に脳のメカニズムをなんとかって⋯⋯。まぁ、難しい話は置いといて。薬が切れると、まただんだん透明になっちゃうけどね。だから受験もしたし、授業はちゃんと受けてるよ。放課後にはこの姿だけど。着てるものも不思議と透けちゃうんだ。身につけてるものは一緒に。そこは便利かな!」
奏斗は自分の体を指さして、ニカッと笑った。
「ごめん、私まだ頭が追いつかなくて⋯⋯色々。説明してもらっても信じられなくて」
「まぁ、それが普通の反応だよ。僕も初めは信じられなかった。でも死ぬわけじゃないし、1日6時間は普通でいられるし。案外気楽なもんだよ」
未だに目の前の現実を受け入れられない私に、奏斗はもう一度ニカッと笑った。

「ねぇ、紬さん。僕と友達になってくれない?」


***


ひと晩考えて、気がついたら眠れずに朝を迎えていた。
昨日の不思議な体験は、私に強烈な印象を植え付けた。
だって、透明な人間に会ったんだもん。
宿題も手につかず、ずっと昨日の出来事だけを考えている。勉強は得意なくせにどれだけ時間を使っても、あの男の子が幽霊なのか人間なのか?未だに答えが出ない。
ハッキリと言えるのは、私に透明人間が見えるという秘密ができたことだ。言ったところで誰も信じてはくれないだろう。大きすぎる秘密を抱えてしまった私は、見えない重圧で肩が重い。心がソワソワとする感じが嫌で、余計なストレスとは関わらないようにしていたのに。朝食に用意された大好きなバタートーストも喉を通らず、牛乳だけ少し飲んだ。

寝不足で大きな欠伸をしながら、私は満員の電車に揺られている。ブレーキでよろめく人に押しつぶされそうになって苦悶の声が漏れた。ぎゅうぎゅうと詰め込まれたこの車両の中で、透明な彼は通学するのも大変だろうな。見えないから足も踏まれるだろうし、空いてる隙間だと思われて体を捩じ込まれるだろう。
昨日、そんな彼から「友達になってくれない?」と言われた答えを濁したまま、私は旧校舎を逃げるように飛び出してそのまま家に帰った。
透過症?なんて聞いたことが無い。だからスマホに『透過症』と打ち込み検索すると、ちゃんと指定難病の一覧にその病気はひっそりと記載されていた。
「じゃぁ⋯⋯あの人は本当に人間ってこと!?」

学校に着くと、私は自分の教室を通り過ぎ1年3組の教室を覗き込んだ。昨日見せられた生徒手帳に記載されていたクラスだ。キョロキョロと教室の中を確認するが水嶋奏斗の姿はない。
「なんだ、やっぱりいないじゃんか⋯⋯。えっ、てことは私、本物の幽霊見ちゃったの?もう意味わかんない」
ゾクッと背筋に寒気を感じ、昨日できなかった現実逃避をする様に、くるりと方向転換をして自分のクラスの方を向く。すると、目の前に夏帆が立っていた。
「紬!おはよう!何してるの?」
「うわ!ビックリした!」
「何?その反応⋯⋯って、こんな所で何してるの?」
夏帆はすぐ脇のクラスをチラッと見ると、妙に何かに納得した顔をして、うんうんと頷いている。
「3組を覗いてたってことは⋯⋯さては紬も例のイケメンを見に来たんでしょ?ついに紬も恋しちゃうのかな?」
「え?待って。イケメンって何?なんの話?私はただトイレに行こうと思って!」
私は咄嗟に嘘をついた。だって「透明な男の子を探してるんだ」なんて言ったところで、夏帆になんて説明したらいいのか。とにかく簡単な嘘を口にした。
「なんだ。紬、3組にイケメンがいるって噂知らない?他のクラスの子はあんまり見たことないらしい。理由は分からないけど、そのイケメン結構早退しがちって話だし。実は私も見たことないんだよねー。あ、ごめんトイレだよね。私も行く!一緒に行こ?」
「夏帆っていろんな噂知ってるよね」
「だって面白いじゃん。私の情報網すごいんだよー」
行きたくもないトイレに夏帆と並んで歩いている。噂のイケメンを見に来たと同調してあの場をやり過ごした方が良かったかな?いやいや、それだと私のキャラが。
そんな私の横で、さっきまで得意げだった夏帆は、今度は何やら難しい顔で首を傾げはじめた。
「あのさ、私もついさっき聞いたんだけど⋯⋯昨日もピアノの音したらしいよ。だけど変だよね、私たちは何も聞いてないじゃん?噂の時間的に私達も音楽室にいた可能性があるのに」
そりゃそうだよ。幽霊の可能性が高いけど、もしかしたら弾いてる正体が透明な人間なんだもん。人間だとしたら、弾くタイミングだって本人の気分だってあるだろうしさ。なんて頭では考えつつも「聞こえる人にしか聞こえないとか⋯⋯?」なんてそれっぽい返事をする。本当は私もピアノの音を聞いたのに、その後ろめたい気持ちをグッと押し殺した。ハッキリと根拠の無いことはあまり言いたくない。
「やっぱ霊感ないとダメなのかなー」
残念そうに、夏帆は項垂れる。
「幽霊だとしたら、怒らせちゃうと悪いし。そっとしてあげた方がいいよ」
「だねー。じゃあ次は噂の3組のイケメンを見つけよう!」

授業中も透明な彼の事が気になって仕方なかった。集中できず、ペンをくるくると回してみたり、ノートの端に探偵みたいに事象のメモを書いてみたりした。
幽霊?それとも人間?
私の中では認めたくないけど、幽霊説が濃厚。いや、本当に幽霊だったら⋯⋯無理無理。そうだ、あの男の子の普通の姿をこの目で見たら、透明人間説を幾らか信じられるはず。そして、幽霊じゃないという安心が欲しい。天秤にかけたら透明人間説の方が怖くないもん。
時計の針を睨みつけ、授業の終わりを待ちわびた。昼休みのチャイムの音を聞くと私は急いで教室を飛び出して、水嶋奏斗の教室を目指す。
覗いた1年3組の教室はザワザワと騒がしかった。
その教室の真ん中で、例の水嶋奏斗はクラスメイトと談笑している。
「嘘!?⋯⋯本当にいた」
私は目を見開いて、フリーズした。
体は透けていない。他の生徒と何も変わらない。
水嶋奏斗は確かに実在した。
ポカンと大口を開けて立ち尽くす私に気がついた奏斗は、大きく手を振りながら廊下に出てきた。
「ほら、幽霊じゃないだろ?ちゃんと透けてない」
奏斗は両腕を大きく広げて見せた。
私は恐る恐る、奏斗の肩をポンポンと触ってみる。
細身の体つきだけど、しっかりと筋肉の厚みを感じる。
その感触が奏斗が人間であるという事実を決定づけた。
「うん。ちゃんと人間だ」
「だから最初からそう言ってんじゃん」
「よかったー。幽霊じゃなかったー」
ほっとした息と一緒に肩を落とした私に「最初からそう言ってるけど?」と、奏斗はニカッと笑う。

「じゃあ、紬さん。改めて僕と友達になってくれる?」

奏斗はしなやかで綺麗な指の右手を差し出した。私は頼まれたら断れない性格だ。つい手を握り返してしまう。
「えっと、私でよければ⋯⋯いいよ」
「本当に?やったー!マジで嬉しい!じゃ放課後、音楽室で待ってるから」
「え?今日?」
「うん!ピアノの練習の合間にさ、俺の話し相手になってよ!」
「だって、そんな急に言われても⋯⋯」
「おい、奏斗ー!早く弁当食べようぜ!」
教室から坊主頭の男の子が待ちきれない声で呼ぶ。
「やば、友達待たせてるんだ!じゃまた後で、紬さん」
「えっ、ちょっと!待ってよ!話終わってないよ」

戸惑う私を置き去りにして、奏斗は友達の輪の中に戻っていく。「あれ誰だよ?」なんて、奏斗の友達が私を興味深そうにまじまじと見てくるから、気まづくなって仕方なく3組を後にした。

奏斗の話だと放課後には彼は透明になってしまう。
友達になったばかりだし、一方的に取り付けられた約束だし。私には果たす義理もない。帰ってしまっても良かったんだけど、私の生真面目な性格上、勝手に帰ってしまうのも気持ち悪い。だから案の定、放課後に旧校舎の階段をゆっくりと登ってしまっている。
音楽室のドアを開けると、奏斗はピアノの前でまた大きく手を振った。もうすっかり体は透けている。
「よかったー!来てくれないかと思ったよ。ほらこっち来て!」
細長いピアノ椅子をポンポンと叩き、奏斗は私に隣に座るように指示をした。
奏斗に触れないように椅子のギリギリに座り、様子を伺う。奏斗は楽譜を嬉しそうに捲りながら演奏する楽曲を迷っている。あるページで捲る手を止めると、鍵盤に指を置き演奏を始めた。

パタパタと足音が聞こえ、音楽室を覗き込む女子生徒は私を見つけると気まずそうな顔で音楽室のドアを閉めた。暫くしてまた足音がやって来てドアが開くと「何だよ、人がいるじゃん。つまんねー」と言って男子生徒が勢いよくドアを閉めて帰っていく。

それを見て奏斗は得意げに笑い始めた。
「よし!大成功!この音楽室の噂知ってる?ってか、紬さんも見に来てたくらいだから知ってるよな?あの噂、俺からしたらすげー鬱陶しくてさ。ゆっくりピアノの練習も出来ないんだよな」
「もしかしてさ⋯⋯、私を利用して噂をなくそうとしてない?さっきから、みんな私がピアノ弾いてるって勘違いしてない?」
「あ、バレた?」
奏斗はあの顔でニカッと笑う。
「なにそれ最低!」
帰ろうと立ち上がる私を、奏斗は必死に止める。
「違うんだ。嘘うそ!紬さんと友達になりたいって言ったのは、ちゃんと本当だから。ついでに?ちょっと噂の根絶をと思って⋯⋯」
私はじとっとした目で奏斗を見る。
「そんな目で見るなよ。謝るから、ごめん!紬さんは透明な僕とも対等に話してくれる貴重な人なんだ。昨日、僕を見つけてくれただろ?嬉しくて。だから絶対に紬さんと友達になりたかったんだ」
はぁ、とため息をついて私は表情を緩めた。
「私は現実として受け入れられてないけど⋯⋯この状況だってさ」
「すぐ慣れるよ!てか慣れてもらわないと困る。だって透明な僕の初めての友達なんだから」
「そんな簡単に言わないでよ」
「だけど、僕が見えるってことはさ⋯⋯まさか」
奏斗は何かを小声で呟く。
「え?なに?」
「いや、なんでもない!」

仕方なく椅子に座り直した私に安心した奏斗は、鍵盤に指を乗せると、またゆっくりと音を奏で始めた。
不思議な空気を掻き消すような、革命のエチュード。
見たこともないスピードで指が動く。合唱コンクールで指揮者をした時に、練習で伴奏者の演奏を近くで見たことはあるが、それとは迫力が比べ物にならなない。
クラシックなんて私には縁もゆかりも無い世界だし、音楽の教科書に出てくる超有名な曲しかしらない。奏斗の弾くピアノで、そんな私でも気持ちは高ぶり、なんとも言い難い高揚感に浸っている。まだプロでもない同い年の男の子の演奏するピアノの音にすっかり心を揺さぶられ、自分でも分からない感情がスーッと頬に線を描いて流れた。驚きのあまり拍手すらできず、ただ奏斗を見つめていた。

演奏が終わり、肩で息をする奏斗が奏でたその音に圧倒された私は、ハッと我に返り頬を袖で拭いながら、つい在り来りな感想を思わず呟いた。
「ピアノ、上手だね」
「ありがと」
「ずっと習ってるの?」
「昔は習ってたよ。だけど今は独学。透明な僕に教えてくれる先生はどこにもいないだろ?」
「ほら、薬 ⋯⋯あるんでしょ?薬飲んだら普通でいられるんでしょ?その時間でレッスン受けたらいいのに」
「これは俺の我儘だけど、その時間はできるだけ普通でいたいんだ。普通に高校に通って友達と他愛もないこと話してさ。みんなと一緒に普通の生活をしたい」
「それでもピアノを続けるの?」
「あぁ、俺の夢。いつかプロのピアニストになる!」
「透明なピアニスト?いや、もうそれ怪奇現象だよ」
「俺だって流石にステージに上がる時は薬に頼るよ」
「⋯⋯だよね」
「嬉しいのはさ、透明な俺がピアノを弾いても音は消えないだろ?だって音は元々透明だから!ピアノは俺が生きてる証みたいなもんだ。自由に表現出来る。ってこの病気で死ぬことはないんだけどね」
「だけど怖くないの?いつか消えちゃったらって⋯⋯。もしもずっと透明なままだったらって」
「んー怖くないって言ったら嘘だけど。そうだ!もしもの時は、紬さんが見つけてよ!俺のこと」
「えー⋯⋯難しいよ。透明人間の捜索なんて」
「大抵はここにいるから。そうじゃなくてもピアノを弾いて知らせるよ。俺ここにいるよ!ってさ」
「じゃあ小難しい曲はやめてね?私、ピアノの曲あんまり知らないから」
「そうか⋯⋯じゃあこれは?」
奏斗は片手で猫踏んじゃったを弾いた。
「それなら私も弾けるよ?見てて」
拙い手つきで弾いてみせる。
「おっ、いいじゃん」
奏斗は私の演奏に左手で音を重ねる。
私の下手な演奏が、それっぽく聞こえる。ようやく打ち解けられたように、音がひとつになった。
「これがふたりの合言葉だね。ここにいるよって合図」
「じゃあ練習しとくよ。私ももう少し弾けるように」
「うん!俺が教えてやるよ。両手で弾けるように」
奏斗は嬉しそうに、やっぱりニカッと笑った。


***


塾の無い日の放課後、奏斗に会いに行くのが私の日課になった。
透明になっても授業は聞けるが、先生に質問の出来ない奏斗の為に、私が勉強を教える役目も追加になった。つまり、私はピアノの練習の合間に話し相手になってくれる家庭教師って訳だ。都合よく使われているみたいで、どこか気に入らない。
「ねぇ、私ってすっごく都合よく使われてない?」
「そんな事ないって!俺だって勉強教えてもらう対価にピアノ教えてるだろ?」
「別に頼んでないしー」
「頼むよ。俺、紬さんに見捨てられたらやってけないって。ただでさえ成績やばいのに、音大に行く夢が⋯⋯」
「へー、音大目指してるんだ」
「当たり前だろ?だって最終目標はプロのピアニストなんだから!」
「音大って実技試験だけじゃないの?コンクールとかで優秀な成績を収めたら、向こうから声かかるんじゃ?」
「私立なら実技試験だけって所もある。コンクールの成績で推薦なんて道もあるけど、俺こんなんだから毎回コンクールに参加できるかって言われたら⋯⋯無理。学校だって透ける前に早退ってのも多いし、出席日数だけでも不利じゃん?悔しいよな、学校にはいるんだけどな!それにさ、なるべく学費で親の負担になりたくないから国公立を目指したい!病気で親にもかなり迷惑掛けちゃってるし」
「ちゃんと考えてるんだね。でも学校は知らないの?病気のことだって⋯⋯ほら、指定難病にも認められてるわけだし」
「理解を得るのは難しいよ。言っても信じてもらえることは少ないし。いるかいないかも分かんないヤツの扱いなんて難しいだろ?だから言ってない」
奏斗は少し寂しそうに笑った。そして、すぐにいつもの調子で「紬さんは?やりたい事あるの?」と質問してくる。その質問の答えは、私にとっては難問だ。
記憶にある夢は、幼稚園児の時に夢見たケーキ屋さんになること。それ以来は皆無だ。
「私はまだ決まってないなー。なんとなく進学して⋯⋯なるべくレベルの高い大学に入れれば将来の選択肢広がりそうだし」
「うわー現実的⋯⋯つまんな」
「私は現実主義なの!未だにこの状況だってさ⋯受け入れられてない部分も多いんだから。何よ服まで透けるって⋯⋯現実からかけ離れすぎでしょ?いいじゃん!真面目に授業も受けてるし。これからちゃんと夢だって見つけるし!」
「わかったよ、ごめん!もう言わないから」
奏斗は気まずそうに、数学の問題を解き始めた。

急に現実を突きつけられると、内心焦る。
ピアニストになりたいってしっかりとした目標がある奏斗がちょっとだけ羨ましくもある。真っ直ぐで、子供みたいに夢を追いかける姿はキラキラと輝いている。反面、私は地味に机に向かって毎晩つらつらと数式とか漢字を積み上げる。いったい何のために勉強してるんだ?
たまにプツンと集中が切れ、手が止まる。次に考えるのはこの積み重ねに意味があるのかという事。
まだ先の見えない透明な現実を追いかけているだけで、どこに行けばいいのか分からない。自分の将来なのに、決まってない!なんて逃げてるけど、自分で決めきれないから目を背けてるだけ。
「いいね、夢があるって⋯⋯」
ポロッと零した弱音に、奏斗はあの笑顔でこう言った。
「紬さんは勉強得意だろ?それは努力の賜物だ。誰でも出来るわけじゃない。紬さんの武器!いつか夢ができたときにいい大学にいて、勉強頑張ってたらその夢まで近いだろ?叶う可能性だって高い!だから今のままでいいんじゃない?焦らなくてもさ」
「そうかな⋯⋯?」
「とにかく今やれることをしっかりやる!夢なんて焦って決めるものでもない!俺はたまたま早く見つけられただけ。俺はピアノで紬さんは勉強!」
「奏斗君は勉強も!でしょ?」
「⋯⋯そうだけど。なんだよ、せっかくいいこと言ったのに。そう言われたら薄っぺらくなるじゃん」
その子供っぽさに、思わず笑ってしまった。
「奏斗君、たまにはいいこと言うんだね」
「なんだよ、たまにはって⋯⋯なぁ、この問題さ」
「またこれ?さっきも教えたよ?この公式をさ⋯⋯」
奏斗は私を見てニコニコと微笑んでいる。
「俺、紬さんが先生だったら勉強頑張れるかも」
「えっ?」
「教え方すっごく上手いし、分かりやすい。あっ!いっそのこと学校の先生とか⋯⋯?」
「やめて!それ以上言わないで!私、影響されやすいから。将来はちゃんと自分で決めたいの」
人に言われたことをすぐ真に受ける性格だから、私は咄嗟にピアノの鍵盤を強く弾いた。鍵盤ハーモニカで習ったうろ覚えのきらきら星の楽譜を頭でなぞりながら、音をかき鳴らし、奏斗の言葉を忘れようとした。
そう言えば、幼稚園の頃からそうだ。親の期待や友達の期待に応えようと背伸びばかりしてきた。それが一番いい選択だと思い込んでいた。自分で考えることをやめ「紬はこっちの方がいい」と言われれば苦手な色の洋服もニコニコしながら着ていた。
今、目の前にいる奏斗は私とは正反対。自分の道を自分で決めてその運命を受け入れている。家族だって生身の奏斗に会いたいはずなのに、1日の限られた僅か6時間を自分のやりたいように使う。家族は本心ではいい気はしてないだろう。奏斗だってそれを分かっていない訳じゃないはずだ。その我儘な性格、やっぱり羨ましい。そして、悔しい。私にはまだ何も無いから。何一つ自分で決められないから。
「夢が見つかったら教えてよ。応援したいから」
そう言って笑った奏斗の顔は、透けて見える夕日よりも眩しかった。


***


昼食前の体育の授業は苦手だ。その疲労感は群を抜いている。鳴りそうなお腹を抑えながら急いで着替え、夏帆と向かい合って弁当を広げる。大好きなハンバーグを見つけ、綻んだ顔の私に夏帆はまた噂話を始めた。
「ねぇ、最近聞いたんだけど⋯⋯あのピアノの噂の真相。結局、女子生徒が弾いてたってオチだったらしい。誰もいない時は、あのピアノ最新型で自動演奏機能があるらしくてさ、その誤作動なんじゃないかって」
私は一瞬ドキッとする。小さく切り分けたハンバーグが、箸をすり抜けて白いご飯の上に転がった。
もしかして、その女子生徒が私ってバレてる?
「そうなんだ⋯⋯」
恐る恐る、夏帆の次の言葉を息を飲んで待った。
「まぁ、でも。真相が分かってすっきりしたわ。見て、たこさんウィンナー可愛くない?私が作ったんだー」
「うん!かわいい!上手だね」
上擦った声で答えた私は、転がったハンバーグを急いで口に運んで誤魔化した。よかった。バレてない。
「ねぇ、今日部活休みなんだけど、一緒に帰らない?」
しまった、今日は奏斗と約束をしている日だ。夏帆の部活のない日はよく一緒に帰っていたけど、最近部活が忙しい夏帆から、今日誘われるとは予想していなかった。
「ごめん、用事あるんだ⋯⋯」
「そっか!紬、最近忙しそうだよね?放課後になるとすぐ帰っちゃうし」
「塾がね⋯⋯ちょっと忙しくて」
「紬、親にすごく期待されてるもんねー。私なんて半分諦められてるし。そのお陰で私も助かってるんだけど。紬先生、またテスト前に勉強教えてね!」
「うん、いいよ!」

放課後、夏帆にバイバイと挨拶をして、私は急いで旧校舎に向かった。先生がいないことを確認して、すっかり慣れた階段を二段飛ばしで駆け上がる。この放課後の密会を、今では少し楽しみにしている。奏斗はいろんな曲を弾いてくれるから、好きなクラシック曲も見つけた。今日はどんな曲だろう?と楽しみに音楽室のドアを開けるが、まだ奏斗の姿は無かった。
「まだ来てないのかな?」
私はピアノ椅子に腰を下ろすと、教えてもらった猫踏んじゃったを両手で弾き始める。
ガラガラと扉が開き、私は「遅いよ!」と顔を上げる。
「嘘っ⋯⋯紬だったの?」
驚いた顔で夏帆が立っている。そして、見る見るうちにその顔は険しくなり、赤く火照っていく。
「なんで紬がそこに座ってるのよ」
「えっと、その⋯⋯」
急な出来事に頭が真っ白になる。
「私を馬鹿にしてたの?噂なんて知らないフリしてさ」
夏帆の怒号に、私は慌てて立ち上がりピアノから身を乗り出した。
「待って、夏帆。誤解なの。私ここで友達を待ってて」
「友達?こんな所で?ピアノの前に座ってるのに?噂の女子生徒の正体がまさか紬だったなんて。あの日もよく平気な顔して私に付き合ったね。幽霊の仕業なんて言ったりしてさ。それにさっきも塾だって嘘ついて⋯」
呆れた顔はもっと赤くなり、夏帆は捲し立てる。
「違う、私じゃない。本当なんだよ⋯⋯信じて」
「紬じゃないなら、いったい誰よ?」
「それは⋯⋯」
「ほら、言えないじゃん。もう無理!紬のこと親友だって思ってたのに!」
もう最悪だ。私の目の前に真っ黒な幕が下り始めた。
私だって、誤解を解きたい。頭が混乱してるから考えられない。けど、下手なことを言って奏斗に迷惑がかかってしまったら、それは不本意だ。なんとか奏斗を守りたい。けど、そしたら私は?犠牲になるしかないのかな。
打開する術を失って、私は肩を落として項垂れた。

「お待たせ、紬さん!」

聞きなれたその声が、私の幕をギリギリで止めた。
すがるように顔を上げる。
夏帆も後ろを振り向き、その声の主を驚いた顔で見上げる。まだ透けていない奏斗が立っていた。
「ごめんね。ちょっと会話聞こえたんだけどさ。悪い、ずっとここでピアノ弾いてたのは俺なんだ。紬さんとは最近友達になって放課後に勉強教えてもらってるんだ。教室じゃ集中できないからここで」
「えっと⋯⋯誰?」
「俺、3組の水嶋奏斗。たしか紬さんの友達だよね?」
「そうです⋯⋯けど」
「最近よく俺と一緒にここに居たから、ピアノを引いてたのが女子生徒って噂になったのかも⋯⋯ごめんね!紬さん」
奏斗の言葉に戸惑う夏帆は、その場に立ち尽くしてしまっている。私もどうしたらいいのか分からず、ピアノの前から動けない。
そんな私に奏斗は微笑むと、優しい口調で夏帆に話しかける。
「あの噂を作った俺にも責任あるし。紬さんと君と、2人の仲を壊すようなことしたくないからさ。ごめん」
奏斗はそう言って夏帆に謝った。
「私こそ、勝手に勘違いして⋯⋯」
「それ、紬さんに言ってあげてよ。俺は全然気にしてないから。ほら、はやく」
夏帆はゆっくりと私の方に近づいてくる。
「紬、ごめんね。私が信じてあげれなくて」
「私も、ちゃんと夏帆に言えばよかった。塾なんて嘘ついてごめん」
「ううん。今日は私帰るね。紬、また明日」
去り際に奏斗にぺこりと頭を下げて、夏帆は気まずそうに帰って行った。奏斗はどうだという顔で、得意げに親指を突き立てている。

一気に緊張から解放され、私はストンと力が抜けてピアノ椅子に座り込んだ。
「え!ちょっと!大丈夫か?」
奏斗が慌てて近づいてきて、私の顔を覗き込んだ。
「⋯⋯大丈夫じゃないよ」
ドキドキと心臓が悲鳴をあげて脈を打つ。
身体がギュッと強ばり、両方の目から涙が溢れ、上手く呼吸ができなくなってしまった。
私の異変に気がついた奏斗は「大丈夫だから。ゆっくり息を吐いて、ほら。ゆっくり⋯⋯」と、私の手を握り落ち着かせようとしてくれる。
それでも、落ち着かない私にまた優しく奏斗は「焦らなくていいから、ゆっくりでいいよ」と声をかけ続けてくれた。
10分くらいしてようやく落ち着いた私は、やっと会話ができるくらいに回復した。
「奏斗君、ありがとう。落ち着いた」
「あー⋯⋯マジ焦った。よかった。俺のせいで紬さんが友達とギクシャクしちゃったら、俺合わせる顔ないよ」
「何で奏斗君のせいになるの?」
「だって、俺が紬さんに友達になってくれなんて頼まなきゃ、こうはなってないだろ?」

じんわりと目頭が熱くなる。
こんなに涙が溢れるのは、何でだろう。
親友の夏帆を失ってしまうのが怖かったから?
それもある。だけど違うんだ。
きっと、奏斗と出会う前の私なら「そうだよ、あなたのせいで」と責任を擦り付けていただろう。だけど、奏斗と出会ってしまった。あの日、なりゆきで友達になったとはいえ、それに後悔なんて微塵もない。
透明になっちゃう不思議な友達だけど、今となっては私の大事な友人のひとりだ。君と過ごす時間が、今は⋯。

「⋯⋯私は、奏斗君と友達になれてよかったよ」
「え?ほんとに?」
「うん。私の知らない世界を教えてくれるから」
「なんだよ。改めて言われると、なんか照れるな⋯⋯」
「ごめん。私、今日はもう帰るね。ちょっと休みたい」
奏斗は時計を見て、申し訳なさそうな顔をする。
「送って行ってやりたいんだけど、ごめん。もうすぐ薬が切れる。俺、透明になっちゃったら紬さんに何もしてやれないから⋯⋯」
「気持ちだけ受け取るよ。ありがとう」
「⋯⋯ごめん」
奏斗は悔しそうな顔をしている。
「そんな顔しないで!今日は助けてくれてありがとう」
「ちゃんと帰ったら無理しないで休めよ?勉強も今日は休みだからな!」
毎日勉強していないと落ち着かないけど、今日は言われた通りにしよう。じゃないと助けてくれた奏斗の顔に泥を塗ってしまうから。私は家に着くと、すぐにベットに横たわりそっと目を閉じた。


***


あの日以来、変わらずに夏帆とも仲良くしているし、改めてちゃんと奏斗を紹介した。3組の噂のイケメンが奏斗だと分かり、それからしつこく夏帆に付き合っているのか?と聞かれた。ただの友達だと言っても信じてくれるまでに数日かかったけど。
放課後に鳴るピアノの噂も跡形もなく消え、旧校舎の音楽室は平穏な時間が流れている。季節は初夏になろうとしていた。夏休みになればこの校舎ともお別れだ。変に愛着を持ってしまった校舎の階段を登っていると、気持ちよさそうに演奏する音が聞こえてくる。この場所が無くなったら、奏斗はどこでピアノを弾くのだろう?
そっと音楽室のドアを開けると、目を閉じたまま奏斗は演奏に没頭している。
「奏斗君!」
名前を呼ぶが気が付かない。すぐ側まで近づいて声を掛けると、奏斗は「わっ!」と驚いて鍵盤から指を離した。
「驚かすなよ⋯⋯」
「何回か声掛けたんだよ?」
「え?嘘!全然聞こえなかった」
「集中してるね」
「夏にはコンクールの予選があるからな」
「へー、初耳!ねぇ見に行ってもいい?」
「別にいいけど⋯⋯あんまり面白くないかもよ?」
「友達の勇姿を見に行かないと」
「じゃあ、しっかり応援してもらおう」
「その前にもうすぐ期末テストがあるからね?先に勉強しちゃお」

今日の分の宿題を終えると、私たちはピアノの前に並んで座り他愛のない会話を始めた。
「ねぇ奏斗君。気になってたこと聞いてもいい?」
「いいけど、何?」
「透明になってよかったって思うこともある?」
「何か悪い答え期待してる?そしたら残念。俺はそんなことする人間じゃないよ」
奏斗は勝ち誇ったように笑う。
確かに奏斗が言うように、透明人間と聞いて想像できるのは悪い行動のイメージが強い。物を盗んだりとか誰かに意地悪したりとか。欲を満たそうと思えば大抵の事は出来そうだ。だけど、私は奏斗がそんなことをする人なんてまったく思っていない。
「違うよ。奏斗君は悪いことする人って思ってないけど、透明な姿でも何か救いがあったらいいなって思って聞いたの」
「あー!そういう事か!」
奏斗は少し考え込んでから、にたりと笑った。
「その顔、やっぱり悪いことだ!」
「透明になると、空を飛べるんだぜ?」
「ほんとに?それは凄いね!」
「ピーターパンみたいにね」
「いいなぁ⋯⋯小さい頃憧れたなー!」
「馬鹿。んなわけないじゃん。俺は人間だぞ?空なんか飛べないよ」
「真剣に聞いたのに!」
「ごめん!」
「せっかく、奏斗君の事を知ろうと思ったのに」
「ちゃんと答えるよ。憧れの場所があるんだ。俺が目指してる日本音楽コンクールの会場。そこにちょっとだけ、ほんのちょっとだぞ?ステージに立って景色を見てきたんだ。すごい景色だった。選ばれた人間しか見れない景色だ。次はちゃんと自分の実力でもう一度立ちたい。演奏したい。つまり、透明だけどマナーを守ればどこにでも行けるってことかな」
「不法侵入?それマナー違反でしょ!」
「お金払って、薬飲んで、ちゃんとクラシックコンサートも聞いたからセーフ!」
「ギリギリだね、グレー寄りの白だね。奏斗君、ステージの上で透明だからって変なポーズしてふざけてそうだし」
「え!なんでわかった?」
私は予想通りとケタケタ笑った。
「そう言えば、もう1つ。ずっと気になってたんだけど。奏斗君さ、初めて会った時から私の名前知ってたよね?どうして?」
これは普通に疑問だった。初めてあった日、私のことを確かに紬と呼んだのだ。
「あー。紬さん入学式の時、新入生代表で挨拶してたろ?それで覚えてたから」
「意外だね。あんな挨拶ちゃんと聞いてる方が少ないでしょ?それに挨拶してる人にそんな興味もないじゃん」
「紬さん堂々と話してて、かっこよかったから」
「そんなに?」
「自信が背中から溢れてた!」
「そう、かな?普通に原稿読んだだけなんだけど⋯⋯」
「うん!紬さんが代表で誇らしかった!」
入学前に成績優秀者として頼まれて、仕方なく挨拶をしたのに。それを奏斗に褒められたことに恥ずかしくなって、目の前の鍵盤に指を置く。早くこの話題をを終わらせたかった。
「見てて、結構上手くなったよ?」
両手で猫踏んじゃったを引いてると、奏斗は「ここ間違ってるよ。ここは指はこっち」と、私の左手にそっと透明な手を重ねた。
「奏斗君⋯⋯?」
奏斗の喉がごくりと空気を飲んだ。
「俺、入学式に紬さん見た時からずっと言いたかったことがある。透明だから無理かもって諦めてたけど、透明な俺が見えるなら⋯⋯言ってもいいよな?」
「言うって、⋯⋯何を?」
初めて見る真剣な顔をした奏斗に、少し緊張する。

「俺、紬さんが好き。俺と付き合ってくれない?」

世界から音が消えた。奏斗の顔をじっと見つめたまま、私はどんな顔をしていたんだろう。
『好き』という言葉がリフレインする。
全身に響きわたり、私の思考を止めた。
「ダメ⋯⋯かな?」
奏斗の声で、我に返る。
まさかの告白に驚いた。
人生で初めて言われた告白。急に恥ずかしくなって、つい誤魔化してしまいそうになる。それに、いつもの調子で答えてしまったら、真剣な奏斗に失礼だ。めいっぱいの空気を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。

「ちょっと待って、落ち着きたい」

答えを出すまでにかかった時間は数十秒くらいだろう。
その間、私の頭の中ではこれまでの奏斗との時間が目まぐるしいスピードで映画のフィルムみたいに流れ続けた。奏斗に出会って、私の堅苦しい固定概念に光が刺した。その隙間から見た事のない景色を見せてくれた。不思議な出会いが確かに私を変えていった。まだ恥ずかしくて言えないけど、私は奏斗が透明なピアニストになった時、サポートできる仕事をしたいと思い始めている。芸能事務所に、レコード会社に音楽出版社。自分なりに調べて傍で奏斗を支えたいと思い始めた所だ。つまり、私も奏斗に好意がある。いつの間にか、奏斗の笑顔に、真剣にピアノを演奏する姿にすっかり魅了されている。
決定的なのは、奏斗の告白に私の胸が答えをいちばん知っている。この心音に記号を付けるならcresc.(クレッシェンド)だ。だんだん強く、今気持ちは最高潮に達した。
私は頼まれたら断れない性格⋯⋯だけど、断れないんじゃなくて、この告白は断りたくない。
「ねぇ、私の性格知ってるよね?」
「頼まれたら断れないってやつ?これは真剣に考えて。情じゃなくて、無理だったら断ってくれて構わないよ」
奏斗は目にぐっと力を込め、真剣に私を見つめた。
「違うの。性格じゃなくて、ちゃんと本心で答えるよ。付き合ってって頼まれたからじゃなくて。私が奏斗君の傍にいたい!奏斗君の夢を隣で見ていたい!私も奏斗君が好きみたい!」
私の初めての決断は、好きな人にちゃんと好きって言う決断になった。
後悔はないし、心が晴れたように清々しい。
「本当に?」
「うん。よろしくお願いします」
「やったー!」
奏斗は私の両手を握るとウサギみたいにぴょんぴょんと飛び跳ねて、喜びを爆発させた。そんな子供っぽい仕草に、私もつい可愛いと思ってしまう。

私に初めての彼氏が出来た日。
遅くまで奏斗とチャットをし、気がついたら寝落ちしていた。明け方、ぼんやりと目を覚まし、目覚ましをかけ忘れてたとスマホを手に取りアラームをセットする。指越しに画面が透けて見える。透明な奏斗に見慣れたせいか、開ききっていない目のせいだろうと、なんの疑問も持たずに私はまた布団に潜り込んだ。


***


どこかで聞いた、恋は盲目という言葉。その意味が今ならはっきりと分かる。今、私はその恋ってのに溺れそうになっている。
目覚ましのアラームを奏斗が弾いてくれて気に入った曲に変えたし、奏斗とのチャットに夢中になって私としたことが宿題を疎かにしてしまった。頭の中がお花畑と言うのか、数式も漢字も英単語も入り込む隙がない。

スマホのアラームが、ふわふわとした頭に鳴り響く。
まだ5時。これは私の変な癖で起床する時間の1時間前にアラームを鳴らす。意味が分からないと夏帆に笑われたこの癖。わざと2度寝がしたくて、一度目を覚ます。そこからまた布団に潜るのが私はたまらなく好き。そんな変な癖が今朝は役に立った。最初のアラームを止め、欠伸と一緒に大きく伸びをする。眠い目を擦りながら、宿題をするために仕方なく机に向かった。
やっぱり、仕方なくというのは撤回する。奏斗と一緒に夢を叶える未来のために私は勉強するのだ。
何をするにも、奏斗を理由付けしたくなる。
イヤフォンを耳に装着すると、大半がクラシックで埋まったプレイリストを再生する。奏斗が弾いたピアノの曲名を当てて驚かせてやりたい。体に染み込ませるように、私は音の世界に浸った。

「おはよう!」
廊下で奏斗の背中を見つけ、私は後ろからポンポンと肩を叩いた。
「おはよ!あれ?紬さん目の下のクマひどくない?」
「早起きして宿題したからなぁ⋯⋯」
ふわぁと大きな口を開き、欠伸をしてしまったのが恥ずかしくて、慌てて両手で口を覆った。普段なら平気で欠伸くらいするのに、恋人の前だと妙に恥ずかしい。
「すげぇ。ドーナツとかひとくちでいけそうなくらい大っきい口だな⋯⋯」
奏斗は肩を揺すって笑い出す。
「やめてよー」
私も弾き返すように笑った。そんな私を優しく見つめていた奏斗の顔が少し翳る。
「無理はすんなよ?そうだ体調は平気?どこかおかしいところはない?」
「全然!元気!」
「そっか!ならいい!」
あっという間に奏斗の顔はニカッと太陽みたいに温かくなった。そしてすれ違う友達にも「おっはよー!」と機嫌よく愛想を振りまいている。
「奏斗、朝から彼女とイチャついてんなよ!」
「うるせー!」
そうだ、私は奏斗君の彼女なんだ。ニヤけそうな顔は慌てて隠す。例の噂のイケメンの彼女ってプレッシャーは想像以上だった。なにせ、私の親友は大の噂好きだから。夏帆に「付き合いました」と話した翌日には、もう想像がつくだろう。私達は、あっという間に注目の的になってしまった。最初は恥ずかしかったが、今は寧ろ都合がいい。僅か6時間しかない奏斗の時間に堂々と傍にいれる。これは彼女の特権だ。女子からの反感を買うのも、彼女の責務。

「そうだ!なぁ、紬さん。日曜日空いてる?」
「うん、塾も休みだし空いてるよ」
「どっか行かない?ふたりで」
「えっ!」
その提案に一瞬顔が綻んだが、私はあることが気になってしまう。
「休みの日は家族と過ごしたら?だってちゃんと見える奏斗君に会える貴重な日でしょ?」
周りに聞こえないように、コソコソと耳打ちをする。
「大丈夫、その日親いないから!」
務めて明るく返事をした奏斗のその台詞に逆に焦った。
周りに聞かれてないか慌てふためく私に「ねぇ、俺とデートしない?」と、奏斗はニカッと笑って言った。

約束の日曜日。
前日からクローゼットの洋服を引っ張り出して、姿見の前でひとりファッションショーを繰り広げた。人生で初めてのデート。テストよりも緊張する。いや、ある意味これはテストだ。どの科目より難しい。自分なりに試行錯誤するが、頭から煙が出そうになって結局スマホに頼った。『初デートはワンピースがオススメ!ベージュや白系でまとめると清楚に見えるし、透明感もUPするよ』なんて書いてあった記事を、ほうほうと鵜呑みにしてコーディネートを完成させた。

ボブの髪を緩く巻いて、イヤリングを付ける。
白いワンピースに着替えて、鏡の前でくるりと回ってみる。
意外といいのでは?と自画自賛して、覚えたばかりのメイクを少しだけ施した。
制服姿以外で会うのは楽しみだけど、小さな胸がザワザワとする。
奏斗にこのコーデは何点と評価されるだろう?
「変じゃないよね⋯⋯って、やばい遅刻しちゃう」

予定より遅れて、待ち合わせをした横浜の駅に着いた。人の多さに圧倒され、私はどこに行けばいいか迷って立ち止まってしまった。
「すみません」と、スーツ姿のサラリーマンに邪魔そうに言われ、端に逃げる。

道中、電車の中であれこれと言い訳を考えた。奏斗のために服を迷ってたら遅くなった?これは本当だけど⋯でも私はそんなキャラか?と、首を横に振る。後日談で夏帆にそんな言い訳をしたと言えば大爆笑も必須だろう。それなら、困った人を助けてて⋯⋯なんてのは私らしいが、嘘っぽさもすごい。こんな風に頭を抱えていると、奏斗からも「遅刻!ごめん!」とメッセージが来たからホッとした。

「もう着いてるのかな?」
キョロキョロ見渡してみるが、この人混みの中で知ってる1人を見つけるのは困難だ。もしかしたら透明かもしれないし、そしたら難易度は倍だ。
「わっ!」
後ろから奏斗が大きな声を出す。私がビクッと大袈裟に体を揺らすと、ケタケタと笑いだした。
「やめてよ!ビックリした」
「この前の仕返し」
「この前は奏斗君が気がつかなかったからじゃん」
「知らない!もう忘れた!」
「うわ、小学生みたい」
「おっ!それ褒め言葉!」
「それで?今日はどこ行くの?公園でブランコに乗るとか、やめてよ?小学生さん」
「着いてからのお楽しみ!」

奏斗がデート場所に選んだのはテレビによく出ている海沿いの水族館だった。チケットを買って、通路を進むとすぐに話題の水深8メートルの大水槽が目に飛び込んでくる。青い世界に入り込んだような幻想的な世界が私を包み込んだ。
「うわぁ、すげぇ!」
奏斗は駆け出して、水槽のガラスにへばりつく魚のように上を見上げている。隣で周りに遠慮することなく無邪気に騒ぐ奏斗を見ていると、やっぱり小学生みたいだなと思った。学校では大人ぶってるくせに、少年みたいな眼差しでサメを追いかけてる。
「サメってカッコイイよな!」
「私は怖いかな、あの目が苦手」
私の答えに難しい顔をして首を傾げたが、すぐに視線をサメに戻すと無邪気な顔に戻る。小学生じゃないな。まるで5歳児だ。自分が夢中になると周りなんて関係ない。ピアノを弾いてる時だって、君は本当にいい顔をする。そんな奏斗を見れる私は特別だ。この笑顔だって、透明になってしまう秘密だって、私しか知らない奏斗なんだから。
私がせっかく幸福感に浸っているのに、「なぁ、あの魚美味しそう!」と雰囲気をぶち壊してくる所も、やっぱり子供。
だけど、愛おしい。そっと右手に触れてみる。
「えっ」
奏斗は驚いたように肩を竦め、私の手だと気がつくと優しく重ねて左手を包んでくれた。

手を繋いだまま奥に進むと、イルカの見える水槽の前にグランドピアノが置いてある。『ご自由にどうぞ』と看板が立っているが、日曜日のこの人集りの中、弾いている人は誰もいない。
「ピアノだ!」
奏斗はそれを見つけると、やっぱり目を輝かせた。
「ストリートピアノだって!そう言えばテレビで見たことあるかも!」
「いつか弾いてみたいって思ってたんだよね」
「え?弾くの?」
「1曲だけ!」
「ちょっと待って、デートだよ⋯⋯」
私の声が聞こえていないのか、あっという間に奏斗はピアノ椅子に座ると、少し考えてから鍵盤に指を置いた。
軽やかなメロディーが、後ろの水槽を泳ぐイルカと共鳴するように楽しそうに跳ねる。
「上手いね⋯⋯」
「綺麗な曲だね!」
少しずつ人の足が止まり、次第に小さな人だかりができた。
私は少し離れて、そんな奏斗を見つめていた。
そしてまた決意した。
こんなに人を魅了する奏斗のピアノは世に出るべきだ。まだ知識のない私に、奏斗がどれほどの腕前なのかは分からない。動画サイトでいろんな演奏を聞いてみたが、正直違いが分からない。だけど、奏斗の弾くピアノには心奪われる。この気持ちは、単純に恋に溺れたフィルター越しではなく、出会った頃から変わらない。やっぱり私の進むべき道は君の隣だ。一番近くで君を支えることが、私のやりたいことだ。

奏斗の手が止まり、群衆が湧く。
拍手が起こり、奏斗は照れた顔で頭を下げた。
「楽しかったー!」
「初めて聞いた!なんて曲?」
「海のノクターン。本当に海の中でピアノ弾いてるみたいで気持ちよかった」
「⋯⋯カッコよかったよ」
「え?」
「すごく、カッコよかった!」
「紬さんも。今日すっげー可愛い!」
まさかそんな返事が返ってくると思わなくて、私はドギマギしてしまう。返す言葉も思いつかず口を噤んでいると、奏斗は左手を差し出して「ほら、行くぞ!」と私の右手を掴んだ。
ドキドキと胸の音が身体中に響いている。

「ママ!あの人、透けてるよ?」
すれ違った小さい男の子の声が、私の耳に届く。
焦って奏斗を見るがまだ透けてない。時計を確認しても、薬のリミットまではゆうに2時間はある。
「そんな訳ないでしょ?ほら指ささない!」
注意する母親と目が合って会釈をされる。私も首を傾げるように会釈を返した。
「透けてないのに⋯⋯」

夕日を見に行こうと奏斗の提案で、高台にある公園にやって来た。
ここはドラマのロケ地にもなった公園で、人も沢山いた。確か、ドラマの中で主役のふたりがキスをした場所だ。お母さんが熱心に見ていたから、横で私もなんとなく見ていた。見渡すとカップルが絶妙な距離を保ちながら、等間隔で寄り添っている。奏斗がそれを知っているかはさて置き、高校生の私たちにはずいぶん背伸びをした場違いな場所に来てしまった。
「奏斗君、ここってさ⋯⋯」
「やば、もうすぐ時間だ!」と奏斗は時計を見るや、慌ててトイレに駆け込んだ。
ぽつんと残された私は、仕方なく空いているベンチに座る。しばらくして、透明な姿になって奏斗は現れた。夕日を背に浴びて、オレンジ色に透ける奏斗が眩しくて私は直視出来なかった。

傍から見たら、ベンチにひとりで座る私の隣で「今日は楽しかったなー!」と、奏斗は足をバタバタと動かして機嫌良さそうだ。
「私も、楽しかったよ」
「またデートしような!」
「うん!次は遊園地とか?行きたい!」
「まじか。俺、ジェットコースター苦手なんだけど」
「大丈夫だよ!落ちたりしないって」
「わかる?フワってあの浮遊感。あれが嫌なんだよ」
「あれがいいんじゃん!」
「じゃぁ、乗るよ!乗るからさ。俺におまじないかけてよ。ジェットコースター怖くない!っておまじない」
「え?おまじないって?」
「ほら、ここってあのドラマの場所だろ?」
「だから?」
「えっ⋯⋯だから、俺、紬さんとキスしたい!」
私は驚いて両手で口を隠した。
「知ってたんだ⋯⋯ね」
「⋯⋯ダメ?」
仔犬のような顔で奏斗は私を見つめる。
「待ってよ、こんな人多いし⋯⋯」
「俺透明なんだから、周りから見えてないし。恥ずかしくないだろ?」
「だけど⋯⋯私ひとりで変な人に見られない?」
「はやくー!ほら!」
もうどうにでもなれ!と、私はギュッと目を瞑り、少し背の高い奏斗の唇にそっと重ねた。
初めてのキスは空気に触れたみたいに、軽やかだった。
そして予想どうり、恥ずかしくて奏斗の目も見れず、伏し目がちに植木の方に目をやった。
「やっぱ薬飲んだ時にちゃんとしよ!これノーカウント。初めてのキスがこれじゃ意味ない!」
「それはまだ恥ずかしい!」
やっと顔を上げて視界に入った奏斗は、残念そうな顔で頬を膨らませていた。

思いっきりベットに倒れ込むと、シャンプーの香りがふわっと私を包み込んだ。今日の出来事を思い返し、恥ずかしくなって枕に顔を埋める。初めてのデートに初めてのキス。青春の真ん中みたいな幸せな時間に包まれて私は眠ってしまった。


***


夜中にふと目を覚ました。デートの大役を終え、脱ぎ散らかしてしまったワンピースを拾いあげようと右手を伸ばす。その違和感に気がついて、思考回路は一瞬で固まった。それはまったく予想もしていなかった出来事。
「私の手⋯⋯透けてる?」
胸の前に左手で隠すように右手を抱き抱えると、急いで姿見の前に立って全身を確認する。パジャマは透けてない。見える肌も、顔も透けていない。大丈夫。そう思い込む私の顔からは血の気が引いている。恐る恐る左手を外すが、やっぱり右手だけは変わらずに透けている。
「待って、まって。なんで?嘘だよね」
もう一度、左手で右手を包み込んで視界から消す。ギュッと握り拳を作ってみるが右手の感触はある。私は布団を頭から被り、真っ暗闇の世界に逃げた。見たくない現実から目を背けるように、力いっぱい目を閉じた。
「寝たら大丈夫。寝たら大丈夫。これは夢だよ。起きたら普通だ」
終わりのない穴に落っこちるように、心臓が落ち着かない。全身の力が抜けるようにぐったりと、言いようのない恐怖に震える。
なんてリアルな夢だ。奏斗って言う存在が私の中で当たり前になっていて、透明な彼が私の日常に同化しているから。きっと脳がそのあたりまえに混乱して、こんな夢を見せているんだろう。だって、私は普通に生きている、普通の人間だから。

起きたらきっと明日には普通に戻ってると思い込んで必死に眠ろうとしたが、朝を迎えてしまった。布団から顔を出すと、窓から差し込む朝日が眩しい。左手でごしごしと目を擦って視界を開く。それから、右手をゆっくりと引き抜いてみる。何度見ても、やっぱり右手は透けている。
「どうしよう、これどうしたらいいの⋯」
朝日の光が脳を刺激し、完全に覚醒した思考がこの事実を初めて自分事として認識した。もう夢なんて言い訳はできない。必死に掻きむしってみても無駄。皮膚らしき膜は透明なくせに、痛覚だけがジンジンと残る。

まずは隠さなきゃ。親にバレたら大変なことになる。
動揺した頭で考えて、幼稚にもタンスから手袋を引っ張り出し透けた手につけてみると、手袋は透けずに私の手の形にすっぽりと収まった。全てが解決したわけじゃないけど、これで少しだけ安心した。見なくていい現実から僅かばかりだが目を背けられるし、少なくとも周りにバレることは防げる。確か母親が薄手の日焼け防止用の手袋を持っていたのを思い出し、母親のクローゼットからそれを取ると、自分の毛糸の手袋を脱いで付け替えた。これならまだマシだ。朝ごはんを準備する母に「今日はごはんいらない!」と背中に告げて、外に飛び出した。

なんで学校に行こうと思ったのかも、今となっては謎だ。ただ、普通を装うことが現実逃避の近道と思ったのかもしれない。
奏斗だって、透明な自分を隠しながら登校しているし、それが普通だと錯覚していたとも言える。
月曜日から眠そうな生徒の隙間を縫うように、視線を気にして緊張しながら登校する。初夏の手袋は紫外線対策なんて正当な理由を述べても、高校ではなかなか目立つ。通学路にそんな生徒は私ひとりだ。腕を組んで誤魔化してみるけど、誰かに気づかれるのはきっと時間の問題。
「おはよう、紬!あれ?何その手袋」
案の定、やっぱり夏帆には隠せない。私は歩きながら準備していた台詞を自然に口に出した。
「おはよう夏帆!去年くらいから太陽アレルギーになっちゃって日焼け対策に⋯⋯」
「それは大変だね。ってあれ?去年手袋なんてしてたっけ?」
「手袋は今年から!病院で勧められたの」
「私はもう手遅れだなー」
夏帆は小麦色に日焼けした肌と、私の白い肌をまじまじと見比べて「うーん」と、唸っている。
「ちゃんと部活の時日焼け止め塗らなきゃ。あれ面倒臭いんだよねー。だけど紬の美白は羨ましいなぁ」
「最近だとスプレーのもあるよ。日焼け止め」
「それ楽でいいね!」
そうだ。普通にしてなきゃ。怪しまれたら終わりだ。悟られてもダメだ。いちばんの難敵を上手くやりすごして教室に入り、席に座ってみるが流石に授業中にも手袋はおかしい。ここには居てはいけないと私は席を立った。
「ごめん、夏帆。ちょっと貧血っぽい。私保健室に行くから先生に伝えといて」
「え!大丈夫?一緒に行く?」
「もう授業始まるから。大丈夫、ひとりで行ける」

保健室の前で躊躇して、やっぱり私は旧校舎の音楽室に身を隠すことにした。積まれている机に隙間を作り、そこに収まるように体を縮めた。息を飲んでスマホを取り出し、『透過症 治る』と検索をかけてみる。僅かだかそのワードに引っかかり、数件表示された。

治らない。
不治の奇病。
透明になる病気?

ネガティブな言葉がずらりと並ぶ。
「透過症は治りますか?」
そんな誰かの問いかけた質問に答えている人を見つけた。
「特発性透過症は一時的に起きることがあります」
慌ててスクロールすると、稀に身体の一部分にだけ症状が現れるケースがある。透過症の患者を見える人が触発されて起きる、所謂ショック症状のようなケースも確認されている。脳が錯覚して自分にだけ透明に見える場合がある。と説明が書かれていた。

僅かな希望が見えた。
私のこれも一時的な可能性がでてきた。
透過症の奏斗を見える私なら、あれほど一緒にいた彼から脳が触発される可能性は高い。ごしごしと目を擦ったりしてみるが、右手は変わらず透けてるけど、今日よく寝て明日の朝起きたら元に戻ってるかもしれない。
「私は大丈夫、きっと他の人からは普通に見えてるよ」
誰かに確かめてもらいたいけど、私が頼れるのはひとりだけ。
そのままスマホで奏斗にメッセージを送った。
「話したいことがある。音楽室にいるよ」
直ぐに既読が付いた。

バタバタと急かしい足音と一緒に、奏斗は慌てて楽室にやってくると「紬さん?どうした?なんかあったの?」と声を荒げた。
私が隠れていた机の隙間から顔を出すと、見つけた奏斗は直ぐに近寄って目線を合わせてくれた。
「どうした?話したいことって、別れ話じゃないよな」
「違う。違うんだけど⋯⋯」
「どうした?何があった?」
奏斗の顔が悲しく陰った。
「奏斗君、私⋯⋯もしかしたら右手が透けてるかも」
震えながら薄らと涙を浮かべる私の、季節外れの手袋に奏斗は気がつくと、そっと外した。
ふたりの間に、やっぱり透明な手が出てきた。
「⋯⋯紬さん、ちょっと待っててね」
奏斗は急いで鞄を持ってくると、「大丈夫。落ち着いて。ほら、これ飲んで」とカプセルに入った薬とペットボトルの水を差し出す。気が動転していたのか、私は疑いもせずにカプセルを一口でごくりと飲み込む。すると、私の透明だった手は次第に血色を取り戻した。
「落ち着いた?」
「うん。私ね、さっき調べたの。特発性透過症。一時的なショック状態で自分にだけ透けて見える場合があるって⋯⋯私きっとそれだと思うの」
「紬さん⋯⋯」
「だってさ、奏斗君には私の手見えたでしょ?」
奏斗は小さく首を横に振った。
「僕にも透けて見えた」
「嘘だよ。だって、ちゃんと手だもん。ほら見て?」
私はもう透けていない手を、握ったり開いたりしてみせる。
「薬が効いてきたんだ」
「えっ。薬って、まさか⋯⋯」
「落ち着いて聞いてくれ。紬さんが僕を見えるってことは⋯⋯って嫌な予感はしてた。だけどそうじゃないようにって願ってた。紬さんが僕とおなじ体質じゃないようにって」
「それって⋯⋯」
「紬さんも、透過症の可能性がある」
「それ、なんで黙ってたの?」
「怖がらせたくなかったんだ」
私の頭を触ろうとする奏斗に「触らないで!」と叫ぶ。
急に嫌悪感が頭を支配した。あんなに好きだった奏斗に私はキッパリと境界線を引く。奏斗と私は違う。同じじゃない。じゃあ何で私は透明に?ふつふつと、思ってもないことが口を衝く。
「昨日、奏斗君と手を繋いだから透明になったんだ!もうこれ以上透明になりたくない!触らないで!」
私はわんわんと泣きながら、理性では抑えられない気持ちを吐き出した。
「そんな。こうやって伝染る病気じゃないよ」
「奏斗君に出会ってから変になったんだよ。変な病気なんて知らないままで。奏斗君に出会わなきゃ私も病気にならなくてすんだ!普通に生きて、大人になって。私は普通でよかったんだ」
「ごめん。でも今は、すぐに病院に行こう。早く診てもらった方がいい。一緒に付き添うから」
「嫌だ。奏斗君のこと、信じられない!」
ボロボロな泣き顔で、奏斗を突き放した。
「紬さん、俺のことは悪く言ってもいい。だけど病院には⋯⋯」
「行かないって言ってるじゃん!」
「紬さんのために言ってるんだ。お願いだから」
「私のため?そう思うなら最初に言ってよ!私が奏斗君を見つけた時に言ってよ!私も病気かもって。付き合ってから言うの卑怯だ。私も病気って知ってたら付き合わなかった!」
ギュッと拳を握り、奏斗は真っ直ぐ下を向いた。

「透明になるんなら、このまま消えちゃいたい」

奏斗はハッと顔を上げる。
「消えるなんて、悲しいこと言うなよ!」
「もう終わりだよ。せっかく見つけた夢だって⋯もう叶わないんだ」
「そんなことない!終わりじゃないよ。俺だって、俺だって初めは受け入れられなかった。でも今は未来を見れるようになった⋯⋯。紬さんにも、前を向いて生きてて欲しい。こんな運命だけど、恨まないで。ただ、前を向いて欲しいんだ」

「ごめん。私にはもう無理だ」

立ち尽くす奏斗の横をすり抜けて、そのまま学校を飛び出すと真っ直ぐに家に帰った。部屋に閉じこもり、また布団の中に潜り込んだ。体を丸めて何度も消えないでと心の中で叫んだ。
心配した母がドアを開けて顔を覗かせる。
「紬?早退したの?⋯⋯何かあった?」
「大丈夫。お母さん。ちょっと貧血。少し寝るね」
「病院に行こうか?」
「行かない!大丈夫だから。ほっといてよ⋯⋯」

次の日も、その次の日も学校を休んだ。
薬の効果が切れてきたんだろう。
指先から、ゆっくりと。右手は透明に侵食されている。

『紬、大丈夫なの?明日は学校来る?』
夏帆からメッセージに「ごめんね」とだけ返す。奏斗からもメッセージが届いていたが、見たくなくて未読のまま非表示にした。
『何がごめんねなの?ねぇ、何かあったの?』
また、嘘ついてごめんね。本当の事言えなくてごめん。

左手も、右足も、左足も。
ゆっくり、ゆっくりと、心も。

また月曜日がやってきた。
私の体は、とうとう全部透明になってしまった。
「紬?寝てるの?ご飯、置いとくからね」
「ありがとう、お母さん」
「紬、聞こえてる?」
「聞こえてるよ⋯⋯?」
昨日まで母親の問いかけに答えていた私の声も、まるで聞こえていないようで、とうとう声までも透明になってしまった。

「私、本当に消えちゃったよ⋯⋯」

昂った感情は波が引くように、冷静を取り戻す。
冷静になった所で、なんの取り返しもつかない。
すっかり透けてしまった体を撫でながら、ひとり虚無感に浸る。
私という人間は世界から消えてしまった。
死んだわけじゃないのに、世界から消えたんだ。
誰も私に気が付かないで、きっと目の前を通り過ぎる。
そうだ薬があるんだ。薬さえ飲めば数時間は⋯。
なんて、今更だ。病院に行ったってもう手遅れだろう。診察を受けるにも透明な体じゃ無理だ。だから奏斗はあの日、私を急かしたのかな。
服を着替えて、リビングに降りてみても母は気が付かない。ダイニングテーブルに置いてあったリモコンを床に落としてみる。ガシャンと音を立てたリモコンを拾おうと、やって来る母と目が合っているはずなのに、母は私の横をするりと通り抜けた。

「奏斗君⋯⋯君はこんな世界にいたのか」

ふらふらと街を彷徨うように歩いた。
信号機のない横断歩道を渡ろうとしても、車は猛スピードで突っ込んでくる。歩道で自転車を私が避ける。自動改札も後ろからぶつかられるし、やっぱり電車の中でも私のいる場所に体をねじ込まれてしまう。足を踏まれて「痛い!」と騒いでも、無視。
だって私は見えないもんね。買い物もできない。助けも呼べない。何もできない。

薬で病気の症状を抑えた6時間を普通でいたいと言ってた奏斗の気持ちがよく分かる。当たり前が当たり前じゃなくて、目の前にあるのに掴めなくて。怖いという感情よりも、虚しさが心を締め付ける。

1人だけ。すれ違った人と目が合って、その人は驚いた顔で私を一瞥した。
「あの!私が見えるんですか?」
その人は答えることも無く、私の前から逃げるように走り去っていく。
「待って!お願い、待って⋯⋯」

同じ境遇になって初めて気がついた。
奏斗がどれだけ孤独の世界にいたのか。
ピアノは奏斗の生きる意味だと言っていたのが今ハッキリと分かる。きっと奏斗は「俺はここにいるよ」ってSOSを出してたんだ。ピアノを奏でて叫んでたんだ。そして、いつも独りで戦っていたんだ。

そして、そんな奏斗を私が見つけた。
それがどれだけ奏斗にとって嬉しかったことか。
この透明な世界で、誰かと巡り会えたことが。

「私は、奏斗君になんて酷いことを言ったんだろう」

奏斗君は、私を助けてくれようとしたのに。
そんなことを思っても、もう遅いよね。
どうせ透明になるなら、皆の記憶も消して欲しい。
私がいた事実も、私がいた記憶も。
全部、ぜんぶ透明になればいい。
私のことは忘れてくれても構わない。
だから私の頭の中の記憶も消しゴムみたいに消してよ。
好きな人の記憶も、覚えたクラシックの曲名も。
だってもう誰も私を⋯。
誰も私を見つけてくれないでしょ?
奏斗の頭からも私を消してくれないかな?
君を傷つけた私の言葉も、表情も。全部、ぜんぶを。
私に言ってくれた好きも、私に教えてくれた曲も。
私と出会ってしまったあの日からの思い出を。
私たちが出会う前に戻れたらさ、そしたら⋯君だけは楽になれる?
なれないよね。ひとりは寂しいよね。
私も寂しいよ。
このまま消えてしまうのが。
消えたくない。
消えたくないよ。
ひとりぼっちは嫌だよ。


─ごめん、奏斗君。私、やっぱり君に会いたい。


あの日、開けなかった奏斗からのメッセージを開く。

「俺、あの場所で待ってるから」

もうすっかり外は夜になろうとしている。
私は、なりふり構わず夜に駆け出した。衝動的に、それが答えだと思って全速力で。
私にはまだ希望が残っている。
きっと、君なら私を見つけてくれる。
そう信じて、一心不乱に走り続けた。

校門の柵を乗り越えて、旧校舎を目指す。
見回りの警備員を見つけて、慌てて校舎に入り込んだ。久しぶりの旧校舎は相変わらず、静かな空気に包まれていた。薄暗い旧校舎は初めてだ。自分が透明になったからか、心霊的な怖さは無い。階段を駆け上がり、音楽室に急いだ。ピアノの音は聞こえない。

「奏斗君!」
私の声が、空気に消える。

「奏斗君⋯⋯!」
また、消える。

「ねぇ、奏斗君⋯⋯お願い。いるなら出てきて⋯⋯」

ピアノの前にふらふらと歩き、ストンと座る。
それからゆっくり鍵盤をなぞった。
猫踏んじゃった。
猫踏んじゃった⋯⋯。

もう一度、もう一度。
私は、何度もピアノを弾く。

─私はここにいるよ。

涙が鍵盤にポツリポツリと落ちる。
悲しくて、寂しくて、不安で心細くて。
私はピアノに突っ伏すように倒れ込んだ。
ジャーンと鳴った大きな音は、スーッと闇に消える。

「もう本当に消えちゃいたい⋯⋯」
そう思った私の耳に。

レ、ド、ファ、ファ、ファ
レ、ド、ファ、ファ、ファ
レ、ド、ファ、ファ、レ、ファ、ド、ミ、ミ⋯⋯

優しい音が私を包む。
世界で一番優しい猫踏んじゃった。
私と君の合言葉。

─僕もここにいるよ。

「奏斗君⋯⋯?」
顔を上げると、優しい笑顔で奏斗は私を見つめた。
「紬さん、見つけた」
「奏斗君」
私は奏斗の胸に飛び込んで子供みたいに泣いた。
きつく抱きしめた奏斗の背中は少し震えている。
「ごめん、俺と出会ったせいで。辛い思いさせた」
「違うの⋯⋯」
「怖かったよな、ごめん」
「わたしも、ごめん。奏斗君のせいじゃない。奏斗君の気持ちも知らずに酷いこと言ってごめん」
透明な涙が頬を伝う。
奏斗はそっと涙を指で拭ってくれた。
「安心して。俺は、紬さんがどこにいても必ず見つけるよ。紬さんが透明になったって必ず見つける」
「うん⋯⋯」
「紬さん、この透明な世界は俺達ふたりだけのものだ。誰にも邪魔されない特別な世界。俺の前ではいくらでも泣いていいよ。その姿は俺にしか見えないんだから。気持ち、我慢するなよ。俺が紬さんを守るから。だって俺、紬さんが大好きなんだ。だからさ、ずっとそばに居てくれる?もう離れるの怖いんだ」
泣きそうな顔をこらえて、奏斗は精一杯笑ってみせる。
私も、袖で涙を拭い奏斗と同じ顔をする。
「私も奏斗君のそばにいたい。ずっと」
「ありがとう」
「それから。私ね、夢ができたんだ」
「どんな夢?」
「私ね、ピアニストになった奏斗君を傍で支える仕事がしたいの」
「本当に?」
「うん。それから奏斗君みたいに、私も自由に生きてみたい!」
「紬さんなら叶えられるよ!ってか俺が叶えさせてあげるから」
「だからね、これからも奏斗君と一緒にいたいです」
両目から好きが溢れて、赤らむ頬に線を描く。
「うん。この透明な世界の真ん中で、ふたりでいよう。そして、どこまでも一緒に行こう」
奏斗は私の手を取り、優しく握った。
それから少し背をかがめて、私の唇にキスをする。
「えっ⋯⋯」
「未来が怖くないように、おまじない!」
奏斗はニカッと笑う。
私は恥ずかしくなって、ピアノの方に目を伏せた。

「ねぇ一緒に弾こうよ」

奏斗に誘われ、指が踊るように鍵盤の上を跳ねる。
透明な音が、色づいていく。
桜のような、淡い淡い恋の色。

「うわぁぁぁ」と言う叫び声の後に、懐中電灯が床に転がった。驚いて顔を上げると、さっきの警備員が腰を抜かしている。
「ゆ、幽霊か?誰もいないのに!だ、誰かいるのか」
床を這いながら、まるでコントみたいに警備員は慌ただしく音楽室を出ていく。
私と奏斗は顔を見合せて、クスッと笑った。

それからすぐ、夏休みに予定していた旧校舎の取り壊しの話は延期になった。夏帆の噂話によると警備員が音楽室を壊すと祟りが起きる!と、騒ぎ立てた事が発端らしい。


また、誰もいない音楽室のピアノが鳴った。


だけどその噂はすぐに消えてなくなった。
それは私のせい。
こんな話を夏帆にしたからだ。
「ねぇ、夏帆!こんな話もあるんだけど。あのピアノの音色を聞けたら恋が成就するって話。知ってる?」
「何その噂!初めて聞いた」
「噂っていうか⋯⋯私?の話なんだけど」
「なにそれ、さては彼氏自慢でしょ?惚気はやめてよ。だって弾いてるの紬の彼氏じゃん」
「違うの。夏帆を怖がらせたくなくて言わなかったんだけどさ、1回だけ奏斗君待ってる時に聞いたことあるんだ。誰もいないのに、ピアノの音がして」
「⋯⋯ほんとに?」
「本当だよ。そしたら、その日に告白された!」
「って事は⋯⋯もしもピアノの音を聞いたら」
「恋が成就する!」
「えー!私も聞きたい!ねぇまた行こうよ!音楽室。紬の彼氏がいない時に!」


学校に新しい都市伝説ができた。
旧校舎の音楽室で起きる小さな奇蹟。
誰もいない音楽室でピアノの音色を聞いた生徒は恋が成就する。


ある朝の音楽室。真新しい制服に身を包んだ女の子が恐る恐る入ってくる。春の風に揺れるカーテンと、ギシッと軋む床に驚きながらピアノの周りを一周する。
「やっぱり噂だよね⋯⋯」
可愛い便箋を胸に抱き抱えながら、女の子は悲しい顔でピアノに触れた。
「頑張って勉強して、一緒の高校に入れたのに」
寂しそうにピアノから手を離し、女の子は後退る。

奏斗は鍵盤に指を置いて、目を瞑った。
ブラームス、ワルツ15番。愛のワルツ。
優しく演奏を始める奏斗を私は隣で見つめている。
美しい旋律の中で、私は幸せを噛み締めた。
「きっと、あなたの恋も叶うよ」

「うそ!ピアノの音だ⋯⋯」
女の子は晴れやかな顔で、音楽室から駆け出した。

私たちは顔を見合せて、フフッと笑った。
「紬、俺達もそろそろ行こうか」
「うん」
ふたりで薬をゴクリと飲み込んで、私達は教室に戻った。