青年時代の僕は、悲鳴を上げながら、意味深な悪夢から醒める。
そして、頬に手を当てれば、さめざめと涙を流していた。
ふぅっと深呼吸をすると、涙は止まり、おかげで少し気分が落ち着いて、その間に部屋の暗がりに目は慣れる。
そのおかげで、電気の点け忘れられた部屋のカーテンからは、外の夜闇のベールにわずかに残され自室に漏れる街灯の光によって寝台の形を判別することができるまでになった。
まだ少し重たく感じる背中を持ち上げ、よっこらしょと起き上がり、ベットの脇に腰をかける。
そして、ふかふかのマットレスにかかった染みと埃の被ったシーツの上に座り、すっかり真っ暗闇となってしまった殺風景な部屋を見渡す。
わざわざ立ち上がって電気を点けないと見えない不便で無情な時計の針は、いつの間にかせっせと、チクタクチクタク時を刻んでいたようで、夕方になり、日はいつの間にかすっかり沈んでしまっていた。
ふとこの世界に耳を澄ませば、すべてがカオスと化している。
一瞬が、訳もなくとてつもなく長いもののように感じられる一秒だった。
そんなはずはないのにこの世界が終わってしまうんじゃないかという予兆や予感を感じる一秒があった。
悪夢を見て、恐怖で怯えているというのに、その気持ちをきいて、慰めてくれる人は僕にはいない。
こういう時、普通は抱きしめてくれるはずの母親は自分を捨て、家を出たっきり帰ってこない。
『誰か助けてよ!』
精一杯のSOSを発しても、返事など返ってくるわけはない。
大きな声が壁に響いて跳ね返るだけだった。
そうだ。
いつだって、僕の側には誰もいなかった。
僕は、誰にも必要とされなかった。
いつだって、僕は透明人間であった。
その事実確認をしただけなのにその瞬間、僕はあたかも悲劇のヒーローに取り憑かれたみたいにパニック状態に陥る。
ついにずっと我慢してきた哀しみがコップから溢れ湧きあがっていく。
激しい胸の動悸と、体全身の血管の中ををとてつもない速さで駆け巡るドロドロとした血液。
卵の殻はメキメキっと割れて、白身がどろどろと溢れだす。
脳裏に、次々と浮かんでは消えていく、忘れたくても忘れられない、胸を切り裂くようなおびただしい量の記憶たち。
強烈な痛みの走った体の芯は煤色の海に溺れていく。
懸命に手を伸ばし、天空を仰ぐもそれは月も星もない夜。
這いあがろうともがくも、下へ下へと堕ちていく。
僕はもう、息をすることさえ諦め、じわじわと波に呑み込まれるのを待ち焦がれているのだった。
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
何も聴こえない。
何も見えない。
どこに行っても、自分自身の居場所になんかたどり着けやしないのに、僕は今まで無我夢中でそれを探し続けていたのだった。
今にも気が狂ってしまいそうだと思いながらも、永遠に。
僕はその事実に対して鈍感でありたい愚か者であったし、むしろ、そっちの方が幸せだったのだと思う。
でも、知ってしまったんだ。
僕は、きっとあの真っ暗闇の向こうの出口の先に見えるちいさな光を掴みたかったのだと思う。
夜空に瞬く微かな希望の星々。
何かがほしくって、何かをつかみたくて、手にしたくてあがいていた。
不気味な暗がりのトンネルの中を怯えながらも何かを信じて歩いていったんだ。
カツコツと響く自分の足音さえも恐怖を煽る。
それでも、立ち止まることだけはしなかった。
茜色に染まっていく世界の中で、僕は気づく。
何の意味もなかったことに。
どこまでも空気の汚染された壊してしまいたくなるようなこの世界も、結局は永遠に続いていく。
僕はいったい何を、掴めると思っていたのだろう。
どうして今まで、何も気づかなかったのだろう。
昨日までの僕の盲目さを鼻で笑おう。
この世界を自分が変えられる。
綺麗にできる。
そんな理想論を疑うこともなかった。
何かできると思っていた。
これまで、自分のやってきたことはすべて愚かな夢幻のためであったなんて、一度だって考えたことはなかった。
僕の前を横切り、ふっと散っていく薔薇の花弁たちは、もうお前の夢は叶わないのだと、嘲笑するだけ。
ぷつりと色の消えた空白の世界の中を、僕はずっと立ち尽くしている。
すべてが、明白だった。
ねえ。どうして。なんで。
今まで信じてきた、目に見えるものすべてが偽りのように思えてくるんだろう。
何もかも知らなければ、どんなによかったか。
馬鹿げたユートピアを思い描いて無知で、無鉄砲な身の程知らずの方がずっと幸せだったんだ。
いつの間にか僕の目の前には、現実という名の壁が立ちはだかり夢を見るのをやめ、この先安泰と言われるレールを歩くようになるだろう。
僕の抱いていた情熱の終わりは、なんてあっけないものだろうか。
僕という名の人間の愚かさが、どこか腑に落ちると同時に何かとてつもなく大切なものが、嘘のようにすっかり消えてしまったような喪失感を覚えた。
ああ、今にも沈んでしまう、あの燃えるような夕日が最後の力を振り絞って散らせる宝石、ガーネットは僕を優しく包み込んでくれている。
僕らは産声をあげた瞬間から醜さを手にした。
そして、いつの日か青春時代の終わり、手鏡に映った自分がどんなに汚くて不快で穢れた人間なのか知った時、すべて諦めることを知るのだ。
それが、僕に最初から定められた運命だった。
ああ、自分はとんだ馬鹿野郎なのだ。
今まで、僕の正しいと思ってしてきたことすべてが間違いかもしれない。
自分の正しさを絶対的に証明できるものは、この世には存在なんてしない。
僕たちは産まれ出た時から違う。
何もかも。
その真実を知りたくはなかった。
何もかも気づかなければよかったんだ。
みんなが馬鹿で愚かだったならこの世界は幸せになれるだろう。
野望も、願いも、欲望も抱くことのない、生きる意味を考えることもできない。
そんな脳なしが人間だったなら、この世界に勝手に期待して、希望や夢を抱いた途端にそれが破れることもない。
夢を見ていたのだ。
僕らは必死で道を駆け抜けていた。
何かとてつもなく大切なものが今にも壊れてしまいそうで、その何かを必死で守ろうとあがき、もがいている。
何かのために。
その「何か」が何なのかも分からないのに。
意味なんてないかもしれないのに。
本当は「何か」なんて存在しない。
結末は分かりきっていたのに。
だけど、どうしてもピリオドなんて打てなかったんだ。
ただ儚く散ってしまう脆い夢のため、革靴が擦り切れようと、転んで膝小僧に真っ赤な花が咲こうと脇目も振らずただ前だけを見て風となっていたかった。
目の前の無情な現実を、ただひたすらに突きつける凶器。
どろどろと血が溢れだす傷口にとどめが刺された時、僕は思い知った。
ああ、これが現実なのだ。
愚かな僕は、シャツの胸元に咲いた真紅の花を見て、やっと悟った。
人の残酷さを。
逃れられない宿命を。
頬に流れ、やっと乾きかけた涙の上にまた涙が何度も上書きされていく。
僕は、何かどうしようもなく足りないものの隙間を埋めるみたいに、何かが僕の腕に存在していることを確かめるように、馬鹿みたく必死になって、テディベアをぎゅっと強く抱きしめた。
彼のお腹は潰れ、顔をうずめるとそれは液体でしっとりと湿る。
しばらく僕は誰にも気づかれないよう静かに独りで泣いていた。
天涯孤独の僕に、気がついてくれる人なんているはずはないのに、なぜだか嗚咽の漏れる息を押し殺していた。
『もう、いいや。』
我らを忘れ見捨てし、神よ。アーメン。
この道の先の行く末なんて、僕はもうどうでもいいのです。
結局は今にも壊してしまいたくなる、この混沌とした世界の中を、生きる屍のように歩いていくしかないのでしょう?
ほら、見てくださいよ。
また、明日が始まっていくじゃないですか。
そう悲嘆に暮れ、諦め、自暴自棄になったある日。
僕は誰にも何も告げずに、とは言ってもその相手さえいないのだけれど、殻という名の安全基地、避難所である大好きな自分だけの部屋に入ってドアの鍵を閉め、閉じ籠ってしまう。
その瞬間、今まで僕を取り巻き、囲んできたすべての音が消え、遮断された。
僕はその扉の前に腰掛ける。
僕が感じられるのは自分が息を吸い吐き出す、すーはーという呼吸の音だけ。
部屋にあるものはすべて自分が価値を認めたものばかりだった。
決して自分が誰かを傷付けることも、誰かに傷つけられることもない。
自分の好きなものだけに囲まれていられる。
僕は、透明人間として生まれたかった。
その方がずっと幸せになれたと思う。
昔は、僕にだって確かに人に認めてもらいたい瞬間はあった。
ずっと僕は、僕という存在に気づき、わざわざ鍵を探してきて僕の扉にノックをしてくれる人を待っていただけだったのかもしれない。
今だって本当は、
“お前は無価値な人間だ”
と言われ、貶されることが怖くて怯えているだけなのかもしれない。
僕はありもしない自嘲的な夢想に浸る。
いつの日か、背後のドアから「コンコン」というノック音が聞こえる。
その人はなぜかこの牢獄の鍵を持っていて、ドアを開いてくれる。
僕の部屋にも、眩しい光が漏れる。
そう、ついに待ち続けた彼女は救いの手を差し伸べてくれるんだ。
ああ…ありえない。ありえない…。ありえない…!
それから何世紀も経った。
僕の感情は枯れ果て、もう溢れることは無いと思っていた。
しかし、カーテンを閉め切ったはずの部屋にどこからか差し込む、この世のものとは思えないほど鮮烈で優しく、美しく、暖かい朝日は天使の歌声を僕に囁く。
救い主の表れを暗示してくれているのかもしれないと愚かにも僕は思った。
決して抗うことはできない衝動的な希望を胸に、意を決してやっと立ち上がり、ドアの鍵を
『カチャリ』
と開け、わずかな隙間をつくって外の様子を伺う。
未だ、僕が部屋から出てきていることになんて誰も気づいてくれる人はいないのだ。
一抹の虚しさ覚え、何を思ったか僕は玄関のドアを開けて、光の楽園を散歩をすることにした。
目の前の世界は痛いほどに眩しい。
七色の虹のドレスを纏わせ透明な魔法の羽を持つ光の妖精たちは、葉っぱの上できらめき、水面のステージで飛び跳ね踊ったりして遊んでいる。
僕がその美しさにふっと柔らかく微笑んだ瞬間、目の前には闇が広がり出す。
星の欠片がはらりと桜の花弁のように空中に浮遊する。
それは長い間、待ち焦がれた来るにはもう遅すぎる天啓の奇跡。
この世の誰も抗える者はいないであろう。
それが持つ人を惹きつけてやまない引力に僕は吸収されていく。
長い長い夢から醒め、再び時計の針が動き出すその刹那、涙はゆっくりと頬に染み込み、やがて乾いていくのだった。