「はーい、じゃあ今日もよろしくお願いしまーす!マイペースで楽しく動きましょう!」
枝先生の元気な声でビクスが始まる。
事件は開始20分後に起こった。
ウォーミングアップも筋トレも終わり、歩くエアロビクスをしていた時だ。
斜め前で踊っていた妊婦さんが動きを止めた。
あれは確か土橋(どばし)さんって方。
何度か話したことがあるけど、運動が得意で元気なお姉さん。
もうお腹は随分大きくて、臨月だと思う。
マイペースがモットーのビクスで、動きを緩めたり、端で休憩する妊婦さんは割といる。
でも、ピタッと動きを止めるのは珍しい。
「いたぁ……」
土橋さんが座り込み、呻いた。
スタジオに軽快なミュージックに似つかわしくない空気が流れた。
「はい、皆さん歩いてましょうね~」
明るく言うと、枝先生が土橋さんに近付く。
「土橋さんは確か39週だったね。入院は決まってるかな?」
「あ、……明日です」
「そっか、そっか。今急に痛くなったのかな?」
「今朝から、ちょっと、……張るかなぁとは思ってたんですけど……」
枝先生は彼女のお腹を触り、痛みが周期的に来ていることを確認すると、スタジオスタッフさんを呼んだ。
スタッフさんが産院に連絡を入れる。
「痛い……先生痛いよぉ……」
土橋さんはお腹を押さえて苦しそうな息。
固唾を飲む私たち。
枝先生が落ち着いた声で彼女に語りかける。
「土橋さんね、たぶんこのままお産が始まると思います。今、スタッフが来るので、産院に移動しましょうね」
「でも、……痛い。動けない……」
「大丈夫。痛みの間を縫って移動するから。赤ちゃんともう少しで逢えるからね。安心していいよ」
子どもをあやすように言う枝先生。
泣きそうな土橋さん。
痛みに耐える彼女は、一度唇をぎゅっと結んで、それでも力強く頷いた。
彼女はこれからママになりに行くのだ。
「頑張って!」
「行ってらっしゃい!」
「元気な赤ちゃん産んでね!」
産院の看護師さんや助産師さんに支えられて、土橋さんが退場していく。
スタジオに参加していた妊婦さんたちが口々に激励の言葉をかける。
みんな、これから通る道。
私たちは同志。
この大きな連帯感は母性なのかもしれない。
土橋さんたちが降りていくと、枝先生がニコッと笑った。
「さー、運動を続けますよー」
あ、やっぱり、続きするんだね。
無事ビクスが終わり、着替えてカウンターで会員カードを受けとる。
「お疲れ様でしたぁ」
受付スタッフの山田さんはいつもの笑顔。
枝先生にしろ、さっきのことなんて、この人たちにしたら日常茶飯事なのね。
「いやぁ、驚きましたよねぇ」
山田さんの問いかけに私も美保子さんも苦笑い。
「あはは、よくあるんですかね。こういうこと」
「イエー、私長らく勤めてますけど初めてです」
山田さんがあっさり答えた。
ええっ!?
初?
横からやってきた枝先生も言う。
「私もビクス教えだして初ー。いやはや、焦りました」
全然焦ってなかったですけど?
「この産院は計画分娩ですけど、やっぱり入院前に陣痛が始まってしまう人はいるみたいですね。スタジオでも、昔は何件かあったみたいですけど、近年では久しぶりの事例でしたね」
山田さんがからっと言った。
そうなんだ。
レアケースに立ち会ってしまった。
その衝撃たるや……。
「痛そうでしたね、陣痛」
私の代わりに美保子さんが言った。
口調がおっとりなのでわからないけど、彼女だって陣痛を目の当たりにして衝撃は感じてるだろう。
「最初から歩けない程の人は少ないけど、途中からは痛いですねぇ。
この産院は、どっちみち子宮口が開いてこないと麻酔もしないみたいです。だから、無痛でも最初はある程度頑張らなきゃいけない。
でも土橋さんも、クライマックスの一番痛いあたりは痛くなく産めると思いますよ」
枝先生もからから笑う。
よ、余裕あるな、この人たち。
そっか、二人とも出産経験者か。
無痛でも痛い目にあうなんて……。
普通分娩の私たち、どれほどの痛みと闘わなくちゃならんのかしら……。
凍りつく私と美保子さんの肩を、枝先生がバシバシ叩いた。
「心配しなくても大丈夫!痛くても苦しくても、必ず産まれますから!」
うーん、陣痛の苦痛に関してはイマイチ救いがない感じ?
あとは安産を願って、運動を続けるだけ……。
うん、できることはそのくらい。
土橋さんは、その日の夕方、女の子を出産されたそうだ。
陣痛を目の当たりにした翌週、オフィスに新しいメンバーが加わった。
日笠庄司(ひがさしょうじ)さん35歳。
物静かで背が高いこの人、
私の仕事を引き継いでくれるグラフィックデザイナーなのだ。
現在、妊娠33週の私。
予定では34週から産休の予定だったんだけど、
この日笠さんが前職から転職してくる時期の兼ね合いで、
産休は35週からになった。
妊娠経過は順調だし、こちらとしては全然構わない。
しかし、私と夢子ちゃん二人でお菓子食べながらやってたスーパー能天気島に、
日笠さんみたいな寡黙で年上な男性が入ってくると、妙な緊張感を感じずにはいられない。
たとえるなら、お花畑に野武士が舞い降りちゃった感じよ。
「ウメさぁん、なんかあの人怖い~」
夢子ちゃんが人見知り全開なのは、日笠さんがあまりに喋らないのと、
あまりに仕事ができすぎるからだろう。
指示した内容は、そつなく素早くこなし、空いた時間は自ら仕事を見つけサクサク進めてくれる。
「すごいですね」
私も褒めてみたけれど、どうも彼の心には響かないらしい。
聞こえるか聞こえないかの声で
「どうも」
と返ってきただけだ。
こりゃ、仕事だけなら引継ぎに2週間はいらないぞ。
不安材料があるとしたら、私がいなくなった後、
チャラチャラゆるふわ夢子とフジヤマハラキリ武士・日笠さんがうまくやれる保障がないってこと。
初日は何事もなくお仕事終了。
翌日だ。
私たちに降ってきたのは、あの丸友不動産の案件!
何を隠そう、私と部長が『こう』なってしまった原因だ!
約半年ぶりの物件丸ごと依頼は、私と日笠さんにすべてが託されることとなった。
「頼むから、おまえは無理しないでくれ」
今回もこの案件の中心を勤める部長は、家では私にそう言う。
でも、職場で同じ態度はできない。
妊婦で徹夜はさすがにマズイし、体調的に安定してるとは言っても9ヶ月のお腹は大きい。
大丈夫!
ひとりの身体じゃないのはわかってるし、
今の私には強~い味方・日笠さんがいるんだぜ!
引継ぎも兼ねつつ、私と日笠氏はパソコンにくっつきっぱなしになったのだった。