その日の帰り際、猛はこっそり麻里子に連絡先を手渡した。
「辛くなったら連絡して」
不器用な言葉だと思った。
もっともっと言ってやりたい言葉が沢山あるのに、こんな風にしか伝えることができないなんて。
「ありがとう」
そう言って頷いた麻里子から、連絡がきたのは半年もたってからのことだった。
猛は麻里子のことを忘れようとしていた。
麻里子を支えたいという自分勝手な気持ちだけで、表面的には仲の良い夫婦であるふたりを引き離そうとするのはとんだお節介なのかもしれないと思い始めていたからだ。
「相談したいことがあるの」
携帯電話ごしに、いまにも泣き出しそうな声で麻里子は言った。
「いいのか、俺なんかで」
猛は緊張と迷いで声が震えた。
友人である武に黙って麻里子の相談に乗ってやることが何を意味するか、それが解らないほど猛は子どもではなかった。
「…猛さんがいいの」
麻里子の言葉で、今まで感じたことのない、胸が締め付けられるような感覚が押し寄せる。
麻里子に求められること、それはふたりが結婚してから四年以上も自分が望んでいたことだ。
「…今すぐ行くよ」
猛は自分の体の奥底から、黒くて大きな何かが沸き上がるのを感じていた。


