十年前、母親が死んだ。




母との別れはあまりにもあっけなく、高校生だった真希は突然すぎる出来事に、悲しいという感情すら沸き上がることがなかった。



不倫の恋の末に、ひとりきりで自分を産んだ不幸な母。



そんな母のようにだけはなりたくないと、真希は小さな頃からそう心に誓って生きてきた。



幸いなことに、働き詰めの母親に変わって今までずっと真希の世話をしてきた祖母は健在であったから、真希の日々の生活にはとくに大きな変化はないはずだった。



母親の遺品は少なかった。

祖母とふたりで母の使っていた鏡台を片付けた。ダンボール箱に入ったビデオテープの中身はオーケストラやオペラだった。

真希がまだ小さかった頃、母が好きだったクラシック。三大テノールのパヴァロッティ、ドミンゴ、カレーラス。言葉の意味は解らなくても彼等の歌声だけは真希の心にも響いた。

死ぬ前に、一度ウイーンに連れて行ってあげたかったわねと祖母が言った。


真希は黙って、母が大切にしていた小さな箪笥の引き出しを開けた。



箪笥の引き出しからは、日に焼けて色褪せた封筒だけが見つかった。

母の文字で『真希へ』と書かれたその手紙はずいぶん昔に書かれたもののように見えたけれど、読んで良いものなのかはわからなかった。

「真希に宛てて書かれたもんだから、ひとりで読みなさい」と祖母が言い、真希はうんと頷いた。