“いじめ”は、なくならなかった。
そして日向兄さんの死後、それはエスカレートしていき、ぼくは“学校”を、諦めた。
ここはあれから約10年も経った別の学校の“教室”だ。
だけど、不思議に思う。
変わらないんだ、この場所は。
人も、痛みも、変わらずそこに在る。
学校という箱庭の中に、オプションみたいに付いてくる。
昔も、今も、そしてこれからも。
この教室でぼくを置いて授業は滞りなく進んだ。
右手を使えないぼくは、シャープペンすら持てなくて。
だけど持てたとしても、ムダだった。
広げたノートは真っ黒で、文字を書くスペースなんて残されていなかったのだから。
きっと他の教科のノートもおんなじ。
確かめなくたってわかる。
だってぼくも、そうだったから。
“ぼく”が触れるものすべて壊されて、ボロボロにされて、なくなった。
…そうか。
だから月子ちゃんはこんなに視力が悪くても、メガネをかけないのかな。
もしくは最初は、していたのかもしれない。
だけどきっと全部奪われたんだ。壊されてしまったんだ。
“いじめ”にもテキストがあるみたいだ。
巡り廻ってこの儀式は、いつかの誰かに引き継がれる。
きっとそこには命が在った。
痛みや苦しみや哀しみが。
誰にも気づかれずに失くなっていった、命がきっと。