あたしが放したばあちゃんの手から、おはじきが床に落ちた。
弾けるように音を立てて落下すると、
ピーーーー…
という終わりを告げるかのような機械音が病室に鳴り響いた。
その瞬間、頭が真っ白になる。
「…ばあ…ちゃ…。」
医師が、ばあちゃんに触れる。
あたしは電池が切れた玩具みたいに立ち尽くしていた。
呆然と眺めていると、医師が首を横に振った。
「お母さん…。」
そう呟いて涙を流すお母さん。
お父さんも、叔母さんたちも泣いていた。
あたしの頭に、心に、空白が広がっていく。
あたしは泣かなかった。
ずっと、ずっと泣き続けて涙が枯れてしまったのか。
それとも、まだこの現実を受け入れられないのか、自分でも分からない。
あたしは、ばあちゃんの亡骸を見つめている。
俯くと、ひび割れたおはじきが床に散らばっていた。
【青い空】
8月の青空が広がる。
蒸し暑い日だった、蝉が鳴いている。
黒い服に身を包んだあたしは、棺の中にそっとばあちゃんの宝物たちを忍ばせた。
ばあちゃんは、とても優しい顔をしていた。
始めは、目を覚ましていつもみたいに「ふふふっ」って笑ってくれるんじゃないか、なんて思った。
でも、時間が経つにつれて、ばあちゃんの身体は固く冷たくなっていった。
動くことも、話すことも、笑うこともない。
ばあちゃんの身体は抜け殻になってしまった。
そして、その身体も今、燃え尽きようとしている。
あたしは、青く澄んだ空に白い煙が上っていく様子を見上げていた。
白煙は空の青さに溶けだすみたいに消えていった。
一つ一つ、ばあちゃんが失われていく。
「ちづ、ありがとう。」
あたしの横でお母さんが言った。
「ばあちゃん、安らかな最期だった。ちづがタイムカプセルを見つけてくれたから思い残すこともなかったのかもね。」
お母さんも空を見上げる。
目元は赤く腫れていて、今日までさんざん泣いたことが窺えた。
「…お母さん。」
「ん?」
「あたしを生んでくれてありがとう。」
「え?」
お母さんはすごく驚いているようだ。
瞬きを繰り返しながら、あたしを見つめる。
「あとね、あたしに『千鶴』って名前をつけてくれてありがとう。」
「な、何よ、突然!」
戸惑うお母さんに笑いかける。
「あたし、『千鶴』って名前に恥ずかしくないように、生きていくから。」
そう言うと、お母さんは呆然としてしまう。
でも、それから泣きっ面になって、あたしから顔を背けた。
「もう!急に何言いだすかと思ったらっ!突然どうしたの!?」
「言いたくなったから言っただけ。」
すると、お母さんは涙を拭いながらお父さんのもとへ駆け寄る。
早速、あたしの報告を始めるお母さん。
最初は仏頂面で聞いていたお父さんが小さな笑みを零した瞬間を、あたしは見逃さなかった。
何か、こういうの、照れ臭い…。
空を見つめて、語りかけてみる。
幸生。
あたしね、思うんだ。
森の中でハナミズキを見つけられないかもって諦めかけた時。
ずっと眠り続けたばあちゃんが最期に微笑んだ時も…。
風が吹いた。
あの風は、幸生なんでしょう?
空は何も言わない。
ただ、当たり前にそこにある。
空は何も言わない。
でも、それでいい。
それから、あたしはばあちゃんと対面した。
ばあちゃんの抜け殻は、骨になってあたしたちの目の前に現れた。
かつてばあちゃんだったものを、あたしはばあちゃんとは思えなかった。
小さな小さな白い骨を、お母さんと拾う。
箸を通して伝わってくる感触はあまりにも無機的だった。
その時、あたしはばあちゃんが死んでから初めて泣いた。
死ぬということ、死んでしまうということの意味が分かった。
もっと、ばあちゃんに会いに行けばよかった。
もっと、たくさん話をすればよかった。
会いたいと思っても、もう会えない。
話したいと思っても、もう出来ない。
ばあちゃんがいた日々、ばあちゃんと過ごした時間たちが脳裏を駆け巡る。
どれもこれも愛しかった。
愛しくてたまらない。
泣きじゃくるあたしを、お母さんが支えてくれた。
お母さんも、泣いていた。
愛煙家で読書家だったばあちゃん。
おっとりゆったりマイペースなばあちゃん。
からあげが大好きだったばあちゃん。
「ちづは健やかだねぇ」が口癖で、「ふふふっ」と可愛らしく笑うばあちゃん。
あたしを励ましてくれて、たくさんの愛情を降り注いでくれたばあちゃん。
あたしの偉大すぎるばあちゃんは、
青空の向こうへ旅立っていった。
ばあちゃん。
あたし、生きるよ。
生きていくよ。
ばあちゃんの分まで。
幸生の分まで。
あたし、頑張ってみるよ。
頑張ってみる。
夏が終わり、外はもう秋の匂いがしていた。
でも、まだまだ残暑厳しく、テレビのニュース番組じゃ「猛暑、猛暑」と騒いでいる。
「悠っ!ゴメン、寝坊したっ!」
「またかよ!」
うんざりした様子で待っていた悠。
やれやれ、とでも言いたげな顔をしてる。
「大体!ちゃんと試験勉強してんのか?ただでさえ、一ヶ月も学校来てなかったんだから!」
「あ…。」
「…忘れてただろ?」
そう言われて、笑って誤魔化してみる。
悠は、溜め息を吐いた。
「ったく、しょうがねぇな。今日の放課後、教えてやるよ。」
「あっ無理!今日、愛美と買い物行く約束してんの。」
「…お前なぁ。」
悠はすっかり呆れているようだ。
あたしは苦笑するしかない。