ちっぽけな世界の片隅で。



午後十時すぎ。ラジオが放送される、この時間だけ、わたしは肺の奥からすくい上げるように、呼吸ができる気がする。すうっと。

ふわっと。

かみ合わないのに、無理やりはめこんでいるパズルのピースが、やわらかくなって、境目がなくなって、なじみ始める。そんなかんじ。


「本日のオープニング・リクエスト曲は、山口県中学三年生、 スーチャン3号さんより、『つらいつらい・つらくない』です──」


通常運行。心地よく耳を打つ、お兄サンの声。

一番最初に流れる曲は、リクエストされた、最近の曲のなかから選ばれる。あんまりにもメジャーすぎる曲は、かからない。それが、またいい。

「ああ、これ知ってる!わたし好きなんだよね~!」なんて、みんなが騒ぐような曲から、一歩はなれたような曲が、わたしには合っている。


みんなから、はなれた場所。

目を閉じると、入ってくる情報は、音だけになる。わたし自身が、耳そのものになったみたいに。

なじみがない曲は、お兄サンの声は、わたしをどこへでも連れて行ってくれる。



宇宙の海。月の裏側。外国の海底の、さらに奥底。世界の果ての、果て。地平線の、彼方。

全部が、たいくつ。たいくつ。いいなぁ、おいしそうだねぇ、たのしそうだねぇ。

予測変換みたいに、行き先がわかってしまう毎日。

そんな日々 が見えなくなるほど、ずうっと、ずうっと、遠くまで。


曲のあとには、お悩みコーナーがはじまる。

中高生が、レンアイや受験や、家族のこと。いろんなジャンルの相談を、投稿するのだ。


このときくらいから、心地よい眠気が、わたしを迎えに来はじめる。

今日は塾があって疲れたせいか、目の奥が重たくなってくるのが早かった。

眠気は、わたげ。やわらかく、あたたかく、わたしの意識をとばして。


「お次はですね、中学二年生男子!!え~・・・ジュウエンムイチさんからの、お悩みです」


ぼんやりした意識のなかで、思った。


ジュウエンムイチ。

なにそれ。センスないネーミングだなぁ。ビンボーそう。


そう、思って。


次の瞬間、わたしは思わず、跳ね起きていた。



片足をつっこみかけていた宇宙から、自分の部屋のベッドに、わたしは一気に引き戻される。


え?なんて言った?いま。なんて、言った?


ベッドのうえに座り込んだまま、冷たい手に背中をなでられたような、変な寒気におそわれる。


塾でチラリと見た、田岡のサブバック。

その、はげかけた名前が、脳裏をよぎって、つながったのだ。ニハシノコ。


ジュウエン、ムイチ。


「お悩み内容はですね、」


DJのお兄サンの低い声が続けた、次の言葉に、わたしは立ち上がった。寝るどころか、座っていられなかった。


「となりのクラスの女子を、好きになりました。自分とはタイプがぜんぜん違う子で、どう接したらいいか、わかりません───とのこと。おー、なるほど!なんだか読んでいるこっちがソワソワしてしまいますねぇー!」


たいくつ。たいくつ。そんな繰り返しの気持ちが、ぜんぶ、ふっとんで。頭のなかに、巨大な花火が散る。

ソワソワ?ううん、ソワソワどころじゃない。うそ。


うそ。

うそ。こんなことって、ある?



予測変換不能事態。

眠れない。ふぁ~っとした、わたげの眠気は、もうやってこない。


















◇既知未知の、世界◆






(3)


沈没船の謎が知りたいから、海の底にもぐる。

ゾウよりでかいマンモスのことが知りたいから、凍え死にそうな、南極に行く。

人類以外の生命体を知りたいから、真っ黒な宇宙へ飛び立つ。


その大元をたどっていったら、はじまりは全部、好奇心だ。

なんで?どうして?それは、どういうこと?

知りたい、からはじまる。ちいさな好奇心の種は、地球から飛び出して、重力の枷を取り払い、無重力空間を、自由にさまよう。




『四時間目 自習』


黒板に書かれたそれは、右上がりで、とてもあわただしい文字だった。

時間割では、次の授業は国語の予定だったけれど、突然の変更。

先生が急に、体調を崩してしまったらしい。


・・・先生でも、そういうことがあるんだなぁ。

ざわめきがおさまらない教室のなかで、ぼんやりと考える。


そりゃあ、先生だって、わたしと同じニンゲンだし。水?とか、酸素とか。同じ成分でできているのだから、当然なんだけど。

でも、わたしたち生徒と先生って、なぜか、べつの次元にいるような気がする。



先生はわたしたちに勉強を教えて、保健室には行かなくて、ときには怒って、テストの採点をして、わたしたちをランク分けするイキモノ。

じゃあ、わたしたちは?


「ジッシューウ!!」


鉄砲玉みたいなかけ声とともに、ポーンと頭上を通過したのは、丸められたゾウキンだった。

どうやら、男子たち数人が、野球の まねごとを始めたらしい。


思わず、まゆを寄せる。うるさい。それに、きたない。

目を細めたら、ゾウキンから舞い落ちる深緑色のバイキンが見えそうで、わたしはため息をつく。


先生の体調不良のため、自習。

という事象に、ガッツポーズするのが、わたしたち生徒というイキモノ。

自主学習にはげむなんて、ごく少数だ。もうあと一週間もして、期末テストが近づいてくれば、みんな必死にノートを借りたり、写したりするのだけれど。


わたしも、ノートを広げるのはカタチだけ。


真っ白いノートを前に、わたしは、昨晩のことを思い出していた。






「お次はですね、中学二年生男子!!えー・・・ジュウエンムイチさんからの、お悩みです──」


昨晩は、ろくに眠れなかった。

真夜中手前の、まさか、の出来事。ベッドの上で、体も心臓もはねてしまって。

一度はね上がってしまったドキドキは、トランポリンの上に置かれたように、ずっと小刻みに、はずみ続けていて。

ラジオを聴いたあの瞬間に比べれば、ドキドキはずいぶんおさまっていたけれど、それでもわたしの中身は、すっかりジュウエンムイチ、一色だ。


ジュウエンムイチ。


ずっと推理をめぐらせていたけれど、考えれば考えるほど、わたしの思いは確信に近づいていった。


やっぱり、あれは、田岡だ。

田岡が投稿したものだ。そうとしか、思えなかった。


だって、ジュウエンムイチなんて、ヘンテコリンなペンネーム、考える人、ほかにいる?

十円無一文、を由来にしたとしたら、よっぽど貧乏になりたい人だ。変人奇人でないかぎり、お金はあるほうがいい。

白いノートをにらみつけるように見つめながら、ラジオの放送を、一字一句思い返す。




「となりのクラスの女子を、好きになりました。自分とはタイプがぜんぜん違う子で──」


田岡は一組だ。だから、となりのクラスといったら、必然的に、わたしたちの二組に なる。

コクリ、と小さく息をのむ。


このクラスに、いるんだ。

あの、田岡の、すきなひとが。


教室の下に広がるグラウンドから、ワアキャアと盛り上がっている声がする。体育の授業でも、しているのだろうか。

わたしのなかも、一緒だ。

植え付けられた好奇心の種が、むくむくと盛り上がって、芽を出して、その葉を広げ始める。


べつに、アキが言うみたいに、田岡にとくべつ興味があるとか、そういうわけじゃない。

でも、わたし以外はだれも知らない。わたしだけ。わたし、ひとり。田岡すら、わたしが知っていることを知らないんだ。

その状況は、好奇心を発芽させるのには、十分すぎる環境だった。


・・・田岡のすきな女子って、いったいだれなんだろう。


ノートから目線をはがして、教室のなかを見渡す。

うしろの方の席は、たくさんの頭を一望するのに、格好の場所だった。



中川さん、とか。

ありえるな。野球部のマネージャーだし。田岡、野球部だったはずだし。

部員と、 それを支えるマネージャー、みたいな。だとしたら、マンガみたいだなぁ。

それとも、竹森さんだろうか。美人だし。目はパッチリしていて、鼻筋が通っている。わたしの鼻とは、大ちがい。


自分の鼻先を、人差し指でひとなでしてみる。

わたしのまるい鼻は、お母さん似だ。

お母さんは目もまるくて、輪郭もまるいから似合っているけれど、わたしは輪郭と目がお父さんゆずりだから、鼻だけ変に目立つ。・・・しにたい。


つぎに目に入ったのは、まあるく切りそろえられたボブ。

小牧さんも、ありえるな。明るいから、田岡と合いそうだし。

それか、平田さん。色白で女の子らしい。そうでもないとしたら、ええと。


まさか、嶋田さん。


その名前が浮かんだとき、わたしの目線は、ある一点に移動していた。

ピッカピカに塗り固められた嶋田さんとは、間反対の存在に、ポーンと、ワープ。


──死ねよ。


机に置かれた教科書には、クッキリとした黒で、その三文字が落書きされていた。