クラスでひとり、立ち上がったままの嶋田さんの顔は、真っ赤になっていた。
恥ずかしさで、嶋田さんのにぎりこぶしが、すこしふるえていた。
・・・そのときだった。
先生が、嶋田さんのななめ後ろの、女子生徒を当てた。
それが、菜落ミノリだった。
「78です」
菜落ミノリは、じつにアッサリと、答えた。
その答えは、正しかった。先生からさすがだと言われても、菜落ミノリは反応うすく、教科書に視線を戻しただけだった。
きっと、それが、いけなかった。
そこでの正解は、「わかりません」って答えることだった。もしくは、78じゃなくて、せめて「87です」とでも、逆にして言うことだった。
菜落ミノリが、悪いわけじゃない。どちらかと言えば、悪いのは授業中に携帯なんかいじってた、嶋田さんだ。
でも、クラスのてっぺんにいるニンゲンのプライドを傷つけることは、中学生のわたしたちが一番してはいけないこと。それ、暗黙のリョーカイ。
あー、やばいな。そう思っていたけれど、案の定。
その授業が終わったあと、嶋田さんが目を真っ赤にして、派手グループの女子たちに言っていた。
「・・・今度正解しやがったら、コロしてやる」
そのときから、菜落ミノリの命は、先生の「だれを当てるか」という気まぐれにかかっている。
だって、当てられたら正解してしまうから。菜落ミノリは、クラスで一番かしこい。
もちろん、いくら嶋田さんでもコロしたりはしないと思うし、実際、昨日までは、ムシをされていただけだ。
そう、昨日までは。蹴る、みたいな、直接的なことはなかった。
嶋田さんが教室を出て行って、ゆっくり、ゆっくりと音が増えていく教室のなかで、そっと息をはきながら、わたしは思う。
・・・中一のときはこういうの、なかったのになぁ。
わりとみんな、仲が良かった。男子と女子が、今のクラスみたいにパッキリ分かれてしまうことも、なかった。今では男子としゃべっただけで、変な目で見られたり、ウワサされたりする。
中一のクラスのほうが、良かった。好きだった。
わたしのクラス運は、もしかしたら、すべり台方式なのかもしれない。
このまま、どんどん下へ下へ、すべり落ちるみたいに悪くなっていって、そしたら、三年生は最悪最低じゃないか。
下手をしたら、わたしが机を蹴られるかもしれない。
想像したら、無性に帰りたくなった。
帰りたい。布団にもぐって、なにもかも全部シャットダウンして、ラジオを聞きたい。
お兄サンの低い声。低く、低く、低く。地底まで連れてって。わたしを埋めて。光も当たらない、奥底。
そうしたら、もうだれも、わたしに触れられない。
「一緒だね!このクラスで良かった!!」
ポンって。
満面の笑みで、アキに肩をたたかれたのは、新学期。クラスのメンバーを見て、すこしガッカリしていたときだった。
両手をつながれ、アキに見つめられたわたしは、急いで、ものすごくうれしいフリをしたのだ。
うん、良かったねぇって、どの口が言ったんだ。取り外してしまいたい。
パーツを取り外して、付け替えて、そしたら、かわいくていい子の顔の出来上がり。もはやわたしじゃないけれど、それでもいい。
それがいい。
顔を上げたら、アキがこっちを見ていた。
その顔に浮かんでいるのは、新学期のときとはちがう、困った種類の笑いだった。
どうしようねぇ、とでも言いたげなかんじだったから、わたしも苦笑いを返す。
うん、どうしようねぇ。なんか、やだねぇ。
机の横にかけてあるサブバックが、わたしのふくらはぎに触れる。
はげた名前。『ニハシノコ』が、わたしを見上げている。
主犯、被害者につづき、傍観者。三橋八子。
H・M。ペンネーム、ニハシノコ。
ベストオブ・普通の女子。
見た目も、成績も、クラスの位置づけも。
好きなモノは、バスケと味の濃いカラアゲ。それから、晩にラジオをきくこと。
好きな人は、いない。
◇正当不当の、世界◆
(2)
「手、色やばいだろ?」
パッと広げられた両手のひらは、炎みたいに、真っ赤だった。
赤は赤でも、皮膚の血のめぐりとはちがう、赤。
下から浮かび上がってくるのではなく、表面にはりつけられたような原色の赤が、数メートル向こうで披露されている。
「まだまだだけど、今から球技大会の応援幕作ろうってなってさ、クラス全員で、絵の具塗って手形押したんだけど、ポスターカラー塗って放置してたら、やばい。ぜんっぜん取れねー!!」
「うっそ、お前、ちゃんと洗ってねーだけだろ!!」
「洗ったって!かなり真剣に水と向き合ったって!!」
お笑いの会場みたいに、ゲラゲラ、ハッハッハ、ヒャッヒャッヒャア、とにぎやかだ。
でも、ここは、お笑い会場じゃなくて、『松尾塾』っていう学習塾。
当然、そんな話ばかりしていれば、松尾先生からお怒りの声が飛ぶ。
「田岡くん!だまってプリントやる!!」
先生に怒鳴られた田岡は、含み笑いではぁい、と言うと、プリントに視線を戻した。
赤い手のひらが、シャーペンを包み込む。
それを一通り見届けると、わたしは自分のプリントの続きを解きはじめた。
木曜日。
学校と部活が終わって、今は、塾。
午後六時開始、九時終わりで、月・木の週二回、実施される。
松尾塾は少人数制だから、長机は三つだけだ。
それを、タテ・ヨコ・タテ、にくっつけて、コの字型を作っている。
コの字の真ん中が、松尾先生の居場所。ホワイトボードを使って、わたしたちに勉強を教えてくれる。
まず最初は、先生がつくった、復習のプリントから。おわったあとに先生が解説をする。
質問も、いつだって受付中。最後の三十分は、授業でまだ習っていない部分の、予習に使われる。
「学校の授業が本分」
これが、松尾先生の主義。だから、復習にたっぷり、時間を当てたいらしい。
みんなの頭のなかは、網の目だからね。先生は言う。
「網の目が大きい子と、小さい子がいるけど、どんなに賢い子でも、穴があるの。その穴から、大事な知識をポロっと、落としてしまうの。そのまま歩いて行っちゃうと、拾えないところまで来ちゃうから、この塾は、それをちゃんと拾えるように、助ける役割なのよ」
ほうほう、なるほどね、先生。
・・・わかるような、わからないような。
男子たちが静かになったあと。カリカリ、とシャーペンが紙をひっかく音だけになって、そうしたら、カエルか虫かの鳴き声が、じわじわと耳に入ってくる。
音は、すきまを見つけると、すぐに入り込もうとしてくるから。それはきっと、田舎でも都会でも、一緒だ。
本当に音のない世界って、じつはけっこう、なかったりする。
プリントの終盤になったとき。
グッと力を入れると、シャーペンの芯が引っ込んで、「3」がミミズみたいな字になってしまった。
ノックしても、出てこない。HBの芯。もう、芯の長さがないのだろう。入れ替えないと。
細長いケースのフタをあける。
一本だけ出そうと、そうっと振ったつもりだったのに、まっくろの雪崩みたいに、全部手のひらに出てきた。
・・・そういうの。
そういうことだけで、わたしの集中力はポッキリ、まっぷたつに折れてしまう。
集中力なんて、シャーペンの芯みたいなものだ。細い。心はせめて、もうすこし太いといい。
ゆううつな気分になって、ふと視線を、床に落とす。
クシャクシャに置かれた、学校のサブバックが見えた。
田岡のだ。すぐにわかる。
だって、なんでそれを選んだのってかんじの、変な缶バッチがついているから。
棒人間が、ベッドから跳ね起きる絵が描いてあって、その上に、文字。
『趣味は早起きです』
・・・ああ、そう。そりゃすばらしいね。
女子は家で、塾用のカバンに変えてくるけれど、田岡を含め、男子は、わざわざそういうことはしない。
そのまま、学校のサブバックを持ってくるのだ。
マジックで書かれた田岡の名前は、わたしと一緒で、はげていた。
『田岡広大』が、うすくなって、『十円ム一』みたいになっている。
ジュウエンムイチ。
十円もない、無一文の人みたい。
貧乏そうな名前だ。ニハシノコのほうが、まだマシ。
「フィニーッシュ!!」
大きな声でそう言って、田岡がシャーペンを置いた。
ハッと、カバンから目線をはがす。わたしのプリントは、まだ、あと二問残っている。