ちっぽけな世界の片隅で。


おなじクラスで三カ月間やってきたのに、たった今、自己紹介をうけたかのようだった。

菜落ミノリというひとりのニンゲンに、はじめて触れた気がした。


…はじめまして。

教科書を両手に握りながら、心のなかで話してみる。

はじめまして、三橋八子です。

わたしは、そのあとに、どんな言葉をつづけるだろう。


「……あれ?」


おもわず、口に出ていた。

資料集。国語の便覧。重たいもの数冊のあとに、一冊。

うすい、大学ノートがまじっていた。

表紙には、なんの教科名も書かれていない。

なんだろう。

ロッカーをあけたときよりも、ずっと大きなドキドキが、わたしのなかを駆けめぐる。


なんだろう、このノート。

見ても、いいかな。いや、ダメかな。プライバシーのシンガイ、かな。

でも、もしかしたら、テストの要点をまとめたものかもしれない。

だったらそれは、ものすごく、ものすごくありがたい。

どうしようかな。うーん、でも。


自分一人で会議をくりひろげた結果的、わたしは思いきって、ノートのはしに手をかけてしまっていた。

ごめんね、と心のなかでつぶやいてから、わたしはノートをひらいた。そして。


「……え?」



わたしは、今日一番の大きさで、目を丸くひらいた。

そこに書かれていたのは、テストの要点じゃなかった。

きれいにつづられた、文章。

便覧に書かれていたものよりも、もっとていねいな文字。


『宇宙をはしる』


いちばんはじめの行には、そんな言葉が書かれてあった。


…これ、もしかして、小説?

読書感想文用にしか本なんか読まないわたしは、慣れない文章のかたまりに、首をかたむける。

日記とはちがう。

日常とはまったくちがう世界の、話。ファンタジーって、いうんだろうか。こういうの。


活字は苦手なくせに、読みはじめたら、次々と目が文章を追っていた。


主人公は、男の子。

男の子は、とてもやさしくて、いつも笑顔。みんなから好かれていて、おだやかな日々を送っていた。

なのにある日、村人を助けるために、たおれた木の下敷きになり、自分の足を失ってしまう。

ベッドに寝たきりになってしまう男の子。

ところがある晩、眠ろうとする男の子のもとに、一頭の馬があらわれる。

馬の毛並みはつややかで、やさしい黄色のなかに、金色と銀色。星の色をした馬は、男の子につげる。


「わたしと一緒に、旅に出よう」



ページをめくる。

夢中で、読み進めた。


星の馬は、男の子をのせて、走り出す。

すごい勢いで雲をつきぬけ、かきわけ、地球を飛び立つ。

ふたりが走るのは、とてつもなく広い、宇宙。


ロッカーのまえに突っ立ったまま、わたしは、その話を読んでいた。

窓がしめきられた教室。

背中を、玉の汗がつたう。


何枚もページをめくって、あるページで、文章はとぎれた。

とてもていねいな字でつづられたその話は、完結していなかった。

とても中途半端なところで、尻切れトンボのまま、終わっていた。



『無限に広がる宇宙』



わたしは、すいこまれたようにずっと、その最後の文字を、見つめていた。
















◇末広がりの、世界◆







(8)


ニンゲンは、自分のためにしか、泣けないって本当?

だれかがつらい思いをして、一緒に泣くのは、つらいのを自分に置き換えるから。

だれかが亡くなって、涙をながすのは、おいていかれた自分がかわいそうだから。自分が死ぬのが、こわくなるから。


そうだね。ひとは、自分のために、生きなきゃいけない。

ひとりぼっちはいやだから、手をのばす。自分のために、他人をもとめる。


それで、いいんじゃない。

手をのばして、つないで。


笑いあったとき、『だれかのため』は、生まれるから。











「どしたの、三橋」


月曜日。

塾の終わりに呼び出したのは、今度はわたしのほうだった。

花火の公園。

ブランコをゆらして待っていたわたしのところに、息を切らして、田岡がやってくる。


「・・・よお、田岡」

「よっ、三橋。てかおまえ、こわいぞ。外から見たら、一瞬オバケがいるのかと思った」

「失礼な」

「ははっ、だって三橋、今日白いから」


田岡が笑って、となりのブランコにすわる。

この前の夜とは、位置が逆だ。

オバケあつかいされた白いワンピースのすそを、パタパタとあおる。

なまぬるい風が、太ももにまとわりついた。


「・・・元気に、してた?」

「あー・・・うーん。三橋は?」

「ヒマすぎて死にそう」

「ははっ、たしかにヒマだよなぁ!あ、そうそう!ずっと聴いてた、夜のラジオ放送も、なくなっちまってさー」


田岡の明るい声。きゅっと、ブランコの鎖をにぎる。


「そう・・・なんだ」


なにげない会話をしながら、わたしは、心の準備をしていた。




すこし、緊張していた。

今日田岡を呼んだのは、伝えたいことがあったから。

鎖のさびた匂いと、花火の火薬の匂いが、同時に鼻に吸い込まれた気がした。

それは、あのときの花火の記憶がよみがえったのか、だれかがここで新しく花火をしたなごりなのか、わからないけれど。


砂の上に置いた、サブバックをみつめる。

塾用のカバンじゃない。決心をして、学校のサブバックを持ってきた。


なにから話そう。

田岡に、どうやって伝えよう。


「夏休み、もうすぐだな」


だまっているわたしに、田岡が言った。

鼻の奥のこげた匂いが、よりいっそう強くなる。


「そうだね」

「まあ、夏休み入ったら、毎日顔合わせることになるな。塾の夏期講習、午前中ずっとあるだろ」

「うん」

「ヒマが減るから、いいんだけどな」


靴の先で、田岡が土の上に、円をえがく。

ちょっといびつな円をかいて、そのなかにまた、いくつか丸をかいて。テレビで見たことのある、キャラクターができあがる。



だまって、見ていた。

田岡が、できたばかりの顔に、線を引く。そして、その中身を、残すところなく塗りつぶしていく。

もうすぐで、白丸が黒丸になる。


全部塗り終えてしまう前に、言おう。

わたしは、大きく息をすった。


「・・・田岡、あの」


たくさんためてから、やっと吐きだした言葉は、思ったより、わたしの心をゆさぶった。


「うん?」

「あの・・・うまく言えないかもしれないけど、聞いてくれる?」


思っているだけなら平気なのに、言葉にして出すと、気持ちがこみあげて、泣いてしまいそうになる。


だめだ。ふるえるな。

足下の、しおれたサブバック。ニハシノコが、心配そうに、わたしを見つめている。

言うって、決めたんだ。これは、ただのわたしの自己満足かもしれないけれど。


「・・・わたし、も」

「え?」

「わたしも・・・その、田岡が聴いてたっていうラジオ、聴いてたの。中一のころから、ずっと」


田岡の顔を、見ることができない。

視界にうつる、田岡の足が、動きを止めている。



「そしたら、ある晩ね。お悩みコーナーのところで、一枚のハガキが読まれたのね。ジュ・・・ジュウエンムイチ、って、ペンネームだった。そのときわたし、すごくおどろいたんだ」


言葉が、のどにつまる。

がんばれ。がんばれ。ニハシノコが、わたしをはげましている。


「田岡の、サブバックの名前だって、思ったの。そんな名前、考えつく人ほかにいないって、そう思った。だから、だから、わたし・・・知ってた。田岡に聞くまえから、田岡に好きな子がいること。田岡が・・・菜落さんを好きなんじゃないかってこと」


足下には、白いところをのこしたままの、円のなかみ。

顔を上げる。目があった。

田岡は、あっけにとられたような顔をしていた。

でも、だんだん、なにかがつながったような顔に、変わっていって。


「・・・・・・そっか」


田岡は、ちいさな声で、つぶやいた。


「・・・すごいな。すごい偶然っつか、よく気づいたな、それ」

「・・・・・・うん」

「・・・そっか。そうだったんだ」


田岡は、そっか、と繰り返して言った。