「……久美さん。」
「はい?」
「…結婚線の見方が分かりません。」
「……迷ってるのね。」
「…………。」
「それとも、もうマリッジブルーですか?」
黙り込む私に、久美は溜め息を吐いた。
「もっと幸せオーラ出してくれなくちゃ。私は羨ましいけど?
こっちは就活で、もう死にたくなるわ。」
上手く行かない人生が転がっている。
私も時々死にたくなるんだ、
そう思うけれど勿論口にはしない。
安曇 遊は、遠い存在だった。
若くして成功した美容師は、あの頃すでに何店舗も自分のヘアサロンを持っていた。
甘いマスクに柔らかい物腰、優しさが滲む笑顔。
王子様という言葉がぴったりと当てはまる大人の男は、どこを取っても完璧だった。
美しい人気のモデル達を相手に仕事をする彼、
一部の華やかな世界。
同じ場所にいても、成功しなかったモデルの私は蚊帳の外。
でも、そんな事は疾うに慣れっこになっていたから、微塵の羨望も持ってはいなかった。
最初に声をかけてきたのは、遊のほうだ。
「炭酸好き?」
遊は困ったように笑った。
その手には炭酸の缶ジュース。
「間違えて押しちゃってさ。俺、甘いのダメなんだ。」
「……炭酸嫌い。」
「…そっか。」
遊は、やっぱり困ったように笑った。
そんな些細な事がきっかけで、付き合って四年。
同棲三年。
私たちは十六歳も年齢が離れていたけれど、問題ではなかった。
遊の話は楽しいし、いつも優しいし、何も問題はなかった。
まるで嘘みたいに、上手く行っていた。
幸せに埋もれてしまいそうになる程だ。
遊は真っすぐに誠実に私を愛してくれた。
私もまた遊を愛した。
この唇も、この身体も、私は遊に捧げたのだ。
それは、完璧な恋だった。
「ただいま」と遊が言って、
私は「おかえり」と言う。
パサパサの卵のオムライスも、
「美味いよ」と言ってくれる。
一雫、一雫、と落ちる幸せ、
完璧すぎる恋だった。
そんな事、分かっている。
分かっているのだ。
視界の片隅で揺れる、遊の前髪。
焦りにも似た遊の呼吸、体温。
遊は切なそうな表情で私を見下ろす。
それは、憂いを帯びていて美しいと思った。
私の身体は、酷く遊に馴染んでいる。
今夜も熱帯夜。
汗ばんだ肌が触れ合う。
遊の身体も、酷く私に馴染んでいる。
唇を塞がれると、涙が滑り落ちた。
何の不安も不満もない。
私は確かに幸福だ。
重い瞼を開けると、
隣にはいつも通り遊が眠っている。
美しい男は寝顔まで美しい。
甦る残像、 ここが現実だと言い聞かせる。
遊がそこにいても、一人で先に目覚めてしまう朝は苦手だった。
どうしていいか、分からなくなる。
私は、再び瞼を閉じた。
もう少し眠りたい、もう少しだけ。
でも、そんなのは、ただの言い訳なんだ。
あの夢の続きを、
もう一度見たいと願っていた。
しかし、私は知っている。
夢の続きは、もう見れない。
大嫌い、大嫌い、大嫌い、
でも。大好きだった人―……。
私に花のかんむりを作ってくれた人。
二人だけの原っぱは、
二人だけの秘密基地。
白詰草に囲まれて、
たくさん笑って、
たくさん泣いた。
数えきれない程の喧嘩もした。
それでも、
いつも一緒で、
ずっと一緒だと信じていた。
私の記憶に残る甘酸っぱい残像。
今でも時々夢を見る。
けれど、いつだって夢の続きは見れない。