今日もさっさと帰ろう。


 まだチャイムは鳴っていないけれど、担任が用事があると言ってホームルームをさっさと切り上げた。まだいつもよりも十分早い。今日はもう、耐えきれない――早く……いつもの場所に……そう思って席と立つと同時に、傍にやってきた人影に顔を上げる。

「真白」
「……な、に?」

 隣に立って私よりもやや高い位置から見下ろしてくる涼太の視線に、思わず身構えながら返事をした。

「今日、ふたりでどっか行かないか?」
「は? なんで……?」

 別れてから、二人きりで出かけることはもちろん一度だってなかったし、誘われることだってなかったのに。なんで突然……。疑問と同じくらい胸のざわつきを感じながら、なるべく平常心を装って「今日は無理」とだけ返してそそくさと教室を出ようと鞄を肩にかけた。

 けれど、それも涼太によって遮られる。がしっと掴まれた肩をちらりと見てから、涼太の顔に視線を向けた。

「久々に、いいだろ? お互い別にふたりで出かけて問題になる相手もいないことだし」

 なんて、軽々しい言葉だろうかと、嫌悪感が募る。お互い彼氏彼女と別れたから、たとえ昔恋人同士という関係でも、ふたりでいることには何の問題もないことはわかる。だけど、なんて、自分勝手な。

 にこりと微笑む涼太の顔を見て、あからさまに呆れた顔を作ってみせた。

「彼女と別れて寂しいなら、元カノなんてメンドクサイ私じゃなくて別の女の子にしたら?」

 中学時代の元カノなんて、元カノ、とも認識してないのかもしれないけど、と言葉を付け足してから引き止める彼の手をぐいっとひっぺがして背を向ける。そのまま振り返りもせずに、逃げるように教室を出た。

 ――むかつく……!

 私がなにを思っているか、今なおなにに捕らわれているかなんてことは、きっと想像もしていない。そんなことをひとり考えてしまう自分にも苛立ちが止まらない。

 イライラした気持ちで廊下を一人歩いて、校門をひたすら目指した。さっさとここから、彼のいるこの校舎から逃げ出したい。バタバタを大きな足音を出して止まることなく、振り返ることもしないで白い景色を求めて歩く。こんな時にまで……。

 ぴたりと、ふと脚を止めて耳を澄ますと、まだ他の生徒は教室でホームルームの最中なのだろう。廊下は人がほとんど見えず、一人で歩く廊下はいつも以上に冷たく、静かだった。



 いつものようにひとり無言でひたすら雪の中を歩き、公園にたどり着く。

 今日も公園は静寂に包まれていて、やっと心を落ち着かせながらベンチに腰を下ろした。雪は昨日よりも勢いがない。この調子だと明日には晴れて、この目に見える白い景色もなくなってゆくのだろう。このまま一生冬なんてこなければいいのに……。

 ぱらぱらと舞落ちる雪は、徐々に私の足跡を隠していって、足もとには真っ白の地が出来上がる。こんな風に全てを隠して、私の目にも映らなくしてくれればいいのに。雪が降って隠すようなことがなければ、そもそもこんな思いに支配されないのに……。

 しばらく目を閉じて、意を決したように瞳を開き鞄の中の筆箱を探った。常に入れている百円のカッターナイフを探し出し、チキチキチキ、と静かな公園内に不釣り合いな刃を出す音が響き渡る。右手にそれをしっかりと握りしめ、傷だらけの左手を広げた。

「っつ……」

 小さな小さなうめき声をだし、眉間にしわを寄せながら左手の人差し指を軽く、カッターで切る。

 すうっと、微かに線が残され、じわりと赤い血が浮かび上がる。それを止めることもなくただ眺めた。暖かい血が、じわじわと、そしてぷっくりと盛り上がり、ゆっくりと広がっていく。大きくなって、重力に耐えきれなくなったそれは、ポツっと一滴雪の上に落ちた。

 相変わらず音は雪に吸収されて、世界は無音のまま。

 清潔さを表すようなわざとらしいほどの白い雪の上に、赤い赤い液体が、じわじわと広がっていった。


 ――まるで、あの日のシーツみたい。

 二年前、涼太に別れを告げた日のシーツのよう。