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人生なにがどうなるか、本当にわからないものだな……と、いつもより整頓された一人暮らしの狭い部屋を見渡して思った。数分後にこの部屋に彼氏が来る。まさか、彼とこんな関係になるなんて……。
緊張なのか、それとも期待なのか、落ち着かなくてうろうろしていると、チャイムが鳴り響き、心臓を誰かにぎゅっと握りつぶされたような痛みを感じた。
ドアを開けると、二十九歳の章が「よ、沙保」と言って笑いかける。部屋に招いたのは私なのに、今更ながら不安と緊張と後悔が襲ってきた。とはいえ、このまま締め出すことなんてできるはずもない。ドアを大きく開くと、彼は「お邪魔しますー」と私の世界の中にするりと入った。
「はい、どーぞ」
「お、サンキュ」
コーヒーを煎れてテーブルにマグカップをふたつ並べて、章の隣に腰を下ろす。正直、すごく緊張した。彼も多少緊張しているのか、あたりをキョロキョロと見渡していて落ち着かない様子だ。
さて、どうしようか、とマグカップに口を付けながら隣に座る男の顔を横目で見つめる。相変わらずきめ細く艶やかな肌をしていて、睫毛も長い。羨ましいくらいに整った顔立ち。少し釣り上がっている目元はクールな印象がある。桜色の唇は、ほんの少し口角が上がっていて優しい雰囲気を与える。そのアンバランスさが彼の魅力のひとつだろう。あの頃からちっとも変わっていない。
「すげーな、あれ」
章がふと、部屋の隅を指さして言った。
見惚れていた私は、少しだけ肩を震わせてから振り返ってその先を見る。そこには、きらびやかなドレッサー。棚の上には数え切れないほどの化粧品が並べられていて、ウィッグも飾られている。見えないけれど引き出しにもびっしりとマニキュアやアイシャドウ、アイライナーが詰まっている私の特別な場所。
「お前って化粧そんなしてねえよな? あんな本格的なのが部屋にあるとか、なんか意外」
「趣味、みたいなもん、かな。普段はしないよ」
趣味というか、性癖というか。
「ネイルもできるよ、私」
ほら、と右手を見せると「これ自分でやってたんだ」と感心しながら私の手を取った。近くなる彼の顔と触れるぬくもりに、体が硬直してしまう。
俯く彼の下瞼に落ちる睫毛の影。ああ、綺麗だ。美しい。羨ましい。妬ましい。憎らしい。でも足らない、まだ足りない。あなたはもっと、素敵になるのに。
ゾクゾクと全身に欲望が駆け巡る。言葉を発することが出来ないほど見入ってしまった私に章が気がついて、視線を上げた。それでも、視線を逸らすことが出来ない。
私の手を握る彼の手に力が込められた。ゆっくりと、私の様子を伺うように近づいてくる彼の瞳。
「……なに、これ」
あいていた左手を、彼の口に当て、寸でのところで私の唇に触れることのないように、壁を作った。
「今日……呼んだ理由を、言ってなかったなと思って」
そう答えると章は怪訝な顔を作る。あのまま彼のしたいようにされてしまってもよかったけれど、それじゃダメ。そんなの、今までと同じ。勇気を出して家に呼んだ意味がなくなってしまう。なんのために誘ったのか。目的を見失うところだった。
成り行きで付き合うことになったのは一ヶ月前。
その間、私達は毎週末デートをしているし、毎日メールや電話もしている。セックスどころかキスだってまだの、至って健全なお付き合いだ。なんとなく、そういう雰囲気を避けているのは私で、章が少しイライラしているのもわかっている。家に上がったことで、その先を期待していることも。
けれど、ついこの前まで、私は一生独身でも仕方ないか、と腹をくくったところだった。それが、運命だとも言えるタイミングで章とお付き合いが始まった。ならば、もう偽るのは面倒だし、とことん正直になろうと思ったのだ。
「家に呼ぶ理由はひとつだろ」
彼は当然のことながら、納得できない様子だ。期待させたのは申し訳ないけれど、最初から彼の期待する行為に及ぶつもりはなかった。
「まあまあ、おっさんみたいなこと言ってないで」
私を引き寄せようとする手を払い、腰を上げてドレッサーの前に移動する。そこからいくつかのコスメを手にして再び彼の隣に腰を下ろした。にっこりと微笑むと、察しがついたのだろうか、彼の顔がぴくぴくっと痙攣する。引きつった笑みは私の加虐心を揺さぶった。
ずっとずっと憧れていたものがある。一目見たときから忘れられなくて、手を伸ばし続けていたけれど、どうしても手に入れられなかったもの。
「化粧、させて?」