「…俺達だったら、どうよ?」
いつもの、おどけた目とは違った。
雄大先輩は真剣な目を…隆史先輩とあたしを含む部員全員に、向けた。
「足、出してみ」
「…え?」
「いいから」
座っていた机から降りて、真っ先に足を一歩出したのは拓巳だった。
続いてあたし、隆史先輩、渋々真琴先輩…というふうに、言われた動作をぞろぞろと始める。
それを確認してから、雄大先輩はゆっくりと口を開いた。
「その足をよく見つめるんだ」
「…」
「…これが突然無くなったら…突然失われたら…俺達、どうする…?」
…どうする…?
雄大先輩が語り掛けたことは、日向の苦しみの一部に過ぎない。
…だけど、その一部でさえも…あたし達は感じ取ろうとしなくてはいけない。
そうしない限り…日向に会う資格はないんだ。
「なぁ真琴…本気で、そう思うのかよ?」
「っ…」
「日向が…あいつが…"もう走る気はない"って…"もう戻ってくる気はない"って…本気でそう思うのかよ…!?」
雄大先輩に肩を強く掴まれた真琴先輩は、きつく目を閉じた。
…閉じたその目の間から、一筋の涙が零れ落ちた。
「そんなわけ…ないよな?」
「…っ、悪かったよ…」
「…走りたくても、走れない。
戻りたくても、戻れないんだよ…」
日向の…ぶつけようのない苦しみを、悲しみを。
…その時初めて、ちゃんと知ったような気がした。
――――…日向。
聞こえる?
この声を例えあなたが聞いてくれなくても、あたしは語り掛けるよ。
日向だけじゃない。
日向だけ…じゃないよ。
皆傷付いて…受け入れたくなくて、でも折れそうな心を引きずりながら確かに歩きだそうとしている。
"諦めないで"よりも"一人じゃないよ"って、言えたなら良かったね。
あなたにとって、走ることが生きることと同じだったこと…あたしは知っていたつもりで、まだまだ分かっていなかった。
だけどあたし達が日向に光を与えられると思ったことはね、間違いだったとは思わないんだ。
後悔…してないよ。
あたしが陸上に出会ったことも
日向が陸上に出会ったことも
…日向に、出会ったことも。
――――――
――――
「…今でも、そう思う?」
「今でもそう思う」
カラン…とアイスコーヒーの氷が涼しげな音を鳴らした。
…薄い桜色のグロスを軽く塗った、綺麗な唇が静かに開く。
「…日向は、走るためにいなくなったんだ。って」
……アメリカ、カリフォルニア州。
西洋人で埋め尽くされた喫茶店で向かい合って話をする、二人の日本人がいた。
「でも…彼の足は…」
話を聞いていた彼女は、言いにくそうにそう眉をひそめた。
「…そう」
桜色のグロス。
さらさらとした、綺麗な髪。
…清楚な雰囲気を持つ彼女の話は、聞き手をすっかり虜にしていた。
「だけど…あたしは今でも信じてるんだ」
「でもね、柚」
黙って話を聞いていた彼女は、不意に口を出さずにはいられなくなった。
「足を失って…他にどんな道があるって言うのよ」
「道はいくらでもあるよ。…作ろうと思えば、ね。
…one more sugar please,boy?」
通り過ぎたボーイを呼び止めて砂糖を追加すると、"柚"は目を伏せて再びアイスコーヒーをかき混ぜた。
「でもね…確かに、そこが問題なんだ」
「…え?」
「小さい頃に…日向が、もう一つの夢を語っていた気がしたの」
でも、それが何なのか思い出せない。
…柚は目をきつく閉じて、もどかしそうに首を振った。
「もう…忘れなよ、柚」
「…」
「彼はもう…いないんだよ」
"もう、いないんだよ"
その言葉は柚の心に、深く染み付いて離れなかった。
そうだね…
…もう…あなたはいない…
まるで透明な風のように…あなたは去っていったんだ…
「それより、仕事に集中しないとね」
「…うん。そうだね」
「本当に柚の自然で綺麗な英語、羨ましい!昔から得意だったの?」
「ううん。本当に全然…」
…日向に、教えてもらったんだ。
その言葉を飲み込んで、柚は窓からの景色に目を遣った。
…八年前。
不器用ながらも、確かに毎日を精一杯生きていた。
忘れるには思い出があり過ぎる。
――――…君のいた、思い出が。
…昼下がりの、病室。
「体の力を抜いて」
医師がそう言って、俺の足をゆっくりと上下させる。
一種のリハビリらしい。
いきなり歩く練習は無理だから、とりあえず動かす練習だとか何だとか。
「痛みがあったら、すぐに言うように」
「…先生」
痛い訳ではなかった。
ずっと静かに足を見つめていたけど、俺は遂に口を開いた。
「…世界が壊れるくらいに努力しても、走れるようにはなりませんか?」
「…」
答えを知りたい質問は、その一つだけだった。
…他の何もいらなかった。
「日向君」
「教えて…ください」
俺は…何を頑張ればいいですか?
…走れるようになるためだったら、何にでも縋りつく思いだった。
どんな痛みにも耐える。
どんな努力でもする。
そう呟いた俺に、先生は静かに足を下ろすと…視線を合わせた。
「日向君」
「…」
「私達医者はね、君に淡い期待を抱かせることは出来ないんだ」
その目は何の曇りもなく。
…俺に、真剣に向き合ってくれている瞳だった。
「歩ける可能性はある。だけど、必ずしも歩けるようになるという期待は抱かせられない」
「…っ」
「歩けるようになったら、走れるようになるかもしれない。
…でも必ずしもそうだという、期待は抱かせられない」
だけどね、と静かに微笑みを向けた。
…優しい、笑みだった。
「期待は抱かせられなくとも、私達は君に希望を与えたいんだ。
…そのために、いるのだから」
君に。
君の人生に。
君の夢に。
…君を大切に想う人々に。
希望、を。
「っ…」
「だから、日向君も希望を与えて欲しい。
…誰のためでもなく、君自身のために。
そして君の…大切な人のために」
その言葉は、一生忘れられないものだった。
何か…忘れかけていた何か、大切なものを見つけたような気がした。
「先生」
「うん?」
「…ありがとう、ございます」
この人に出会えて良かった。
そう、思った。