桜、ふわふわ ~キミからの I LOVE YOU~

イッペー君と食堂で話してから1ヶ月ほどが過ぎた。

制服は夏服に変わり、じめじめとした湿気の多い季節がやってきていた。


誰が言い出したのか知らないけれど。

その頃には、誰もがイッペー君を「先生」ではなく「イッペー君」って呼ぶようになってた。


だけど、あたしにはどうしてもそれができなかった。


どうして言えないんだろう。

その答えを探そうとするたび、あたしの胸は無意味にドキドキして。

だから気づかないように、触れないようにと心の奥にしまいこむ。


まだこの気持ちに名前をつけたくはなかった。


だって相手は先生だよ?


こんなの……ありえないよ。

その日、あたしは芙美の部活が終わるの待っていた。

帰りに最近できたカフェでワッフルを食べようって約束をしていたから。


実は明日は芙美の誕生日。

当日は彼氏とデートすると言っていた芙美。

だったら、今日、前祝を二人でやろうって、あたしが誘ったんだ。



芙美はテニス部。

一人で待っててもつまんないから、テニスコートの真正面にある、東校舎の廊下で、練習風景をただぼんやり眺めていた。


東校舎は、北校舎と南校舎を繋ぐ形で建っている。

その昔、まだこの学校に生徒がたくさんいた頃に増築されたらしい。

今は生徒数が減ったためほとんど使用されていない。


特に放課後なんてここを通る人すらいない。


窓の外から聞こえてくるテニス部の掛け声だけが、静かな廊下に反響していた。


――と、その時。



――ガチャ、ガチャン!!



すぐ後ろの教室から、大きな物音が聞こえてきた。

まるでイスや机が倒れでもしたような、そんな音。


そこは空き教室。

こんなところに誰かいるの?


ドアに近づいてみるものの、きっちりと鍵がかかっている。

そりゃそうだよね。

空き教室は生徒が勝手に入らないように、いつも閉じられているから。


ドアの小窓から中を覗いてみるものの、誰の姿も見えなかった。


気のせいだったのかな……。

そう思ってドアから離れようとした時……


「――はぁ……」


誰かのため息?


さらには、カサカサと何かが動いているような音がかすかに聞こえる。

やっぱり、誰かいるんだ。


あたしは教室の後ろ側にあるドアの方に向かった。
こちらのドアは内側からねじ式の鍵をかける仕組みになっている。

ひょっとしたら、こっちは開いているのかもしれない。


ドキドキしながら取っ手に手をかける。


一瞬、戸惑って……それからスッとドアを引いた。



「う~…あ……いてぇ……」


床にうずくまって肘のあたりをさすっている人物と目が合う。

見つめあったまましばらくの沈黙。


「え?」
「……え?」

二人の声が同時に響いた。

なんて間抜けな瞬間。



「あー……うー……え? あれ? サクラ……?」


ぼんやりした目であたしを見つめているその人物は……イッペー君だった。



イッペー君がうずくまっていたのは、廊下側、一番後ろの席のあたり。


あたしがさっき覗いた小窓からは、この場所は死角になる。

だから見えなかったんだ。


状況からさっするに……。


きっとイッペー君はこの席に座って居眠りをしていて……


そして寝ぼけて椅子から転がり落ちたんだな、きっと。

――ぷっ。ドジッ子。



「え? サクラ、どうやって開けた?」


相変わらずぼんやりした目であたしを見つめるイッペー君。


「どうやって……って。鍵開いてたし」

「ああ……そっか」


やっぱ寝ぼけてる。

イッペー君だって、ここから入ったんでしょうが。

あたしは教室の中に入って、床にペタンと座ったまんまのイッペー君を見おろす。


――あ、つむじ発見。


こんな角度からイッペー君を見るのは初めてで、なんか新鮮。

というか、無防備。


「……せんせ……髪、跳ねてる」


そう指摘すると


「あー……マジ?」


イッペー君は、手で髪を押さえるしぐさをする。

だけど、跳ねてるところとは反対側の髪を触ってる。


あー、もぉ。

ほんと手が掛かる先生だなぁ。


「違う違う、こっち!」


あたしは座り込んでイッペー君と目線を合わせると、ピョンと跳ねた髪に触れた。


うわ……イッペー君の髪……触っちゃった。



あたしの髪よりも太くて固くて……ほんの少しクセがある。

ワックスつけてるのかな。

ちょっとゴワゴワしてる。



自分から近づいて、髪まで触ったくせに、今さら後悔。


ヤバい……近づきすぎた。


焦ったあたしは、イッペー君の髪からパッと手を離して、会話の糸口を探す。


「先生……寝てたの?」

「はい。……少々」


って、ちょっとは否定しろよ!

なんて突っ込みたくなる。


空き教室で居眠りしてたなんて、他の先生に知られたら大問題だと思うけど。


イッペー君は特に悪びれる様子もなく、腕をうーんと伸ばす。

そして、ふああああと大きなあくび。

さらには首をコキコキと鳴らす。


相変わらず髪は跳ねたまんまだ。


ミスター☆マイペース。

「昨日な……。なんか眠れへんかってん。んで、結局朝まで起きてた」

「え? 全然寝てないの?」

「……うん。まぁな」


そういや、今日はなんだか元気がないような気がしてたんだけど、あれは眠かったからなのかな。


実はイッペー君の授業は居眠りが許されているのだ。

初めての授業でイッペー君はこう言った。


「あー。授業中にしゃべったり、携帯鳴らしたりの迷惑行為はやめてください。
けど、眠いヤツは寝てていいで。我慢して目だけ開けてても、どうせ授業なんか頭に入らへんやろ? 5分でも10分でも寝た方が頭すっきりすることあるしな。
まぁ、できるだけ、眠くならへんような授業を心がけますー。そんな感じでよろしくー」


って。

実際、授業中に眠っている生徒もいる。

もちろん、イッペー君は無理やり起こすようなことはしない。

だけど、イッペー君の授業は漫才でも聞いてるかのように楽しいので、結果的にはみんな起きてしまう。


生徒に居眠りを許可しているからといって、イッペー君自身が眠るわけにはいかない。

昨夜、一睡もしていなかったんなら、今日は一日中、かなり眠かったんだろうな……。

そんなこと考えていたら、イッペー君とパチンと目が合って、また焦るあたし。


思わず立ち上がると、窓辺に向かった。


「あたし、東校舎の教室って入ったの初めて~」


意味もなくハイテンションを演じる。

そして勢いよくカーテンを開けた。


「すごい! ここから見ると中庭ってこんな風に見えるんだぁ~」


いつもの教室から見える角度とは違ってて、なんか違う景色みたい。

中庭には何本か桜の木が植えられている。

今はもちろん花なんて咲いてなくて、葉が青々と茂っている。



「そういや、オレ、ここで初めてサクラを見た」


「え?」


いつの間に近づいていたのか、背後からイッペー君の声がして、あたしはビクンと肩を震わせた。


イッペー君は、あたしの横までやってくると、1本の桜の木を指差す。


「始業式の朝。サクラ、あの木の下に立ってたやろ?」


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