こんな時、どう言えばいいの?
なんていうか……
自然で、でもちょっとした話題につながりそうな……そんな言葉。
ああ……。
教科書に載っていればいいのに。
“好きな人とすれ違う時にかける、気の利いた言葉”
みたいなものが。
とうとうイッペー君が目の前までやってきた。
だけど、あたしは何も言えず。
結局黙ったままうつむいてしまった。
イッペー君は歩く速度を変えることもなく、
あたしの前を素通りしていく。
――ああ、行っちゃう。
そう思った瞬間。
足音が止まった。
「風邪……」
「へ?」
あたしは慌てて顔を上げた。
3メートルほど先から、こちらを振り返るイッペー君と目が会う。
「風邪、ひいてる?」
「えっ……うん……」
なんでわかったんだろう。
実は今朝から風邪気味だった。
でも、時々咳が出る程度の症状で
誰にも気づかれなかったのに。
「やっぱりなー。今日、出席取った時、声がヘンやったから」
そう言われて泣きそうになった。
なんでそんな小さな変化に気づいてくれるの?
って、ちょっと感動してたのに。
「教室にニューハーフおるー! って、思わず、探してしまったやん」
意地悪っぽい目で、からかうように言うイッペー君。
「そ、そんなにガラガラじゃないよ。コホッ、コホッ」
ムキになって答えながら、はねるようにして、イッペー君の方に近づいた。
なんかうれしい。
久しぶりに話せた……。
「のど飴いる?」
「あ、欲しい!」
カーディガンのポケットを探るイッペー君は、「あ……」と呟く。
「今、持ってへんわ」
「もぉ……なにそれー」
ほんといい加減なんだから……。
イッペー君の、のど飴欲しかったなぁ……。
なんてしょんぼりしていると、頭上から声が降ってきた。
「国語準備室にやったらあるけど。取りに来るかー?」
にんまり笑うイッペー君。
あたしは迷わず「うん」って大きく頷いた。
国語準備室に入るのは、日誌を届けた日以来だった。
イッペー君は机の一番上の引き出しを開けると、そこから袋ごと、のど飴を取り出した。
「はい。好きなだけどーぞ」
「え? たくさんもらってもいいの?」
目を丸くして驚くわたしに、イッペー君はクスクス笑う。
「のど飴ぐらいいくらでもやるって」
「ヤッタぁ……」とあたしは袋の中に手を入れて、のど飴を3つもらった。
そのうちの1つを口に、残りはガムと同様、カーディガンのポケットに入れた。
ああ……ガムに引き続き、またイッペーコレクションができてしまった。
この飴ももったいなくて食べられないよ。
……って、あたし。
何気にストーカー気質なのかな……。
なんて自虐的なことを考えながら口の中の飴を溶かしていく。
イッペー君は机の上を片付け始めた。
山のように積み重なっていた本やプリント類を動かすと、ホコリが舞った。
「うわ。ちょっと寒いかもしれへんけど、窓開けるで」
そう言って、ブラインドを上げて、ほんの少し窓を開ける。
「あ……」
思わず声を上げてしまった。
国語準備室は北校舎の1階にある。
当たり前なことなのに、今まで気づかなかった。
「ここからも中庭見えるんだ……」
窓のすぐそばに大きな桜の木が植えられている。
まだ蕾すらついていない桜の木が。
「なぁ、サクラ」
イッペー君は窓の外をじっと眺めながら言う。
「“桜染め”って知ってる?」
「え? “桜染め”?」
「うん。桜って布を染めるのに使うんやけど……。
あのピンク色はな、“花びら”で染めるんちゃうねん。
花が咲く前の、“枝”を使うねん」
「枝?」
「ああ。桜の木の中には、これから花を咲かせるための『色』が宿ってるんやって。
小学生やったかな。子供の頃、国語の教科書にそんな話が載っててな……」
「うん」
「オレはそれを読んだ時、なんか感動したっていうか、すげーな……って思った。春になって、花をピンク色に染めるために、桜の木は人知れず、その体に『力』を蓄えてんねんで。
なんていうか……オレはあの木に……内に秘めた情熱みたいな? そういうの感じてん」
「うん」
「それ以来……“桜”はオレの一番好きな花になった」
「一番好きな花……桜……」
また泣きそうになった。
イッペー君は花や木の話をしてるだけなのに。
頭が混乱する。
あたしは“桜”じゃない。
だけど、イッペー君がいつもあたしを呼ぶ声と今言った言葉が重なる。
「サクラ」って
頭の中を反響する。
どうしよう……。
喉の奥が痛くて、目が熱くなって……。
この感情をごまかしたくて、風邪を言い訳に、「コホッ」って小さく咳をした。
「あ……ごめん。寒かったか?」
イッペー君はそう言って、窓を閉めた。
そして、机の上に置いてあったライターを手に取ると、蓋をカチカチさせる。
「せんせ……それ、クセ?」
「へ?」
「よく、カチカチさせてる。うちのお兄ちゃんもよくそれやるから……」
「お兄ちゃん?……サクラって兄貴おるん?」
「うん」
「いくつ?」
「4つ上だよ。今大学生」
「そっか」
――カチン
ライターを閉じたイッペー君は
「あ、そうや……」
と、何かを思い出したように呟いてこちらを見た。
「課題出してへんの、サクラだけやで」
「えっ……課題?」
「うん。今からでも間に合うから、出せよ」
「いいよ。もう……」
あたしはイッペー君から目をそらした。
「あたし、ああいうセンスないもん。やっぱ国語力ゼロ。いくら考えても何も思い浮かばないし」
「別に難しく考えんでええねんで」
「でも……」
「とりあえず何でもええから。
あ……今書くか?
ちょっとでも評価に上乗せした方がいいやろ?」
イッペー君はそう言いながら机の中をゴソゴソと探ると、プリントを1枚手にした。
あたしはそれを受け取って、じっと見つめる。
「先生?」
「ん?」