薬日のよもぎひめ

 目を閉じる。
 二礼二拍手一礼。神社の参拝作法は知っている。けれど、それを膝ほどの高さのこの祠に、そのまま当てはめていいのかが分からなかった。祀られている名前を知ったのも、ついさっきのことだ。よくわからないまま、手を合わせたまま、頭だけを下げた。
 何をお願いするかも、考えてこなかった。だから頭の中で、やったことだけを順に並べた。下の蝶番(ちょうつがい)を、新しいものに替えました。苔は、水とブラシで落としました。薬は使っていません。
 治験の経過報告と、たいして変わらない文面になった。
 まぶたの裏が、ほんのり明るい。昼を過ぎて日が回り、刈り込んだ植え込みの切れ目から、祠の前まで光が差しこんでいるらしい。濡れた石と、はがした苔の匂いがする。朝のうちは冬のようだった日陰の空気が、首筋のあたりから、ゆっくり緩んでいく。
 目を開けた。
 陽だまりは、祠の横の苔の石まで伸びていた。
 蓬(よもぎ)さんは、その光の中に座っていた。膝の上で手を重ねた、さっきと同じ姿勢のまま。
 その膝の向こうに、苔の緑が見えた。
 若草色の着物を透かして、石を覆う苔の、細かな葉先の一本一本まで見えている。ベージュのカーディガンの袖口は、どこまでが毛糸で、どこからが日差しなのか、境目がはっきりしなかった。
 瞬きをしても、見え方は変わらなかった。
 合わせた指先に力がこもった。手をほどきかけて、やめる。ほどいて何をするつもりだったのか、自分でもよく分からなかった。
 蓬さんが、僕の手を見た。それから、僕の顔を見た。
 先に口を開いたのは蓬さんのほうだった。いつか、昔の院長さんの帽子の話をしてくれたときと同じ、弾むような声で。
「大丈夫ですよ。皆さん、私のことが見えなくても毎年来てくれましたし」
 口を開きかけて、閉じた。
 植え込みの向こうで、院内放送のチャイムが鳴った。続く呼び出しの声は、ずっと遠くの建物から風に乗ってくるようで、言葉の形にならない。それでも、聞き慣れたその抑揚を聞くと、足の裏に敷石の硬さが戻ってきた。
「……見えなくても、ですか」
 やっと出てきたのは、ただの聞き返しだった。
「はい。院長さんは、いつも私の少し右のほうに向かって、帽子を取ってくださいました。薬日(くすりび)には子供たちも一緒で、そっちじゃないよって教えてあげても、やっぱり少し右なんです」
 蓬さんは、膝の上の手を重ね直した。
「それでも、毎年。ありがたいことです」
 僕は、花立(はなたて)に目をやった。さっき溝をきれいにした一行が、日を受けて白く浮いている。中は、二つとも空のままだ。
 ここに花が入ったら、どんなふうに見えるだろう。売店の隣の花屋なら、見舞い用の小さな花束を毎日並べている。苔を落としたばかりの灰色の石に、黄色やピンクが一本ずつ。この祠には、少し派手かもしれない。
 蓬さんは、喜ぶだろうか。
 たぶん、喜ぶ。住所を訪ねてきただけの僕を、来てくださったんですね、と迎えた人だ。
 それなら、その花を買って、ここまで運んで、水を替えに来るのは。
「僕も、来ます」
 思っていたより、まっすぐな声が出た。
「毎年じゃなくて、来られる日は、全部。……ここ、職場なので」
 蓬さんが、ふふ、と小さく笑った。
 それから目をつぶって、うん、と一回だけうなずいた。
「はい。信じてます」
 蓬さんが、にこっと小さく首をかしげた。
「お掃除、ありがとうございました」
 その笑顔のまま、少しずつ淡くなっていった。
 陽だまりの中で、着物の若草色が、苔の緑にほどけていく。重ねた手。カーディガンの肩。低く結った黒髪の先。どこが最後まで見えていたのかは、分からない。
 苔の石の上には、陽だまりだけが残っていた。
 合わせていた手を、下ろした。
 祠の裏は、のぞかなかった。
 足元に目を落とすと、立っている敷石の真ん中が、浅くすり減っていた。道のほかの石より、ひと回りなめらかだ。そのくぼみに、僕のスニーカーがちょうど収まっている。
 バケツの残り水を、植え込みの根元にあけた。ブラシを二本、空のバケツに立てる。苔と落ち葉で膨らんだゴミ袋の口を、固く結んだ。
 植え込みの切れ目から、風が抜けてきた。
 新しい蝶番の金具に日が当たり、台石は溝の奥まで乾きはじめていた。
 祠の周りで、よもぎの新芽が揺れた。柔らかい葉が、そろって白い裏を見せて、また戻った。