薬日のよもぎひめ

 一月の終わりのホームセンターは、ひと足早く春の匂いがした。入口には球根の袋と培養土が積み上がり、自動ドアの外では、北風がのぼり旗をばたつかせている。
 軍手、ゴミ袋、刈り込みばさみ、バケツ。柄の長いブラシと、毛先の細いブラシ。かごの中身は、すぐに休日の庭仕事らしくなった。
 苔取り剤の棚で、足が止まった。目の高さに並んだボトルに、「コケトリン」とある。風邪薬の棚に紛れていても、誰も気づかなそうな名前だ。一本手に取って、裏の注意書きを最後まで読む。成分、使い方、使用上の注意。石にかけたらどうなるのかは、どこにも書いていない。
 棚に戻した。何の祠かも分からない相手に、いきなり薬は使えない。人で試す新薬だって、最初はほんの少しの量から始めるのが決まりだ。苔の相手は、まずブラシと水で十分だろう。
 蝶番(ちょうつがい)の売り場では、もっと迷った。十二月に見たあの扉の蝶番が、どのくらいの大きさだったのか。僕は測っていない。触ってもいないのだから、当然だ。結局、大きさの違うものを二種類と、それぞれに合う木ねじを買った。
 レジの手前に、神棚用品の小さな棚があった。細い注連縄(しめなわ)が、透明な袋に入って吊るしてある。
 少し眺めて、手に取らずに通り過ぎた。祀られているものの名前も知らないのに、縄だけ新しくするのは、なんだか順番が違う気がした。

     ◇

 二月最初の休日、裏庭の花壇には霜柱が立っていた。踏むと、さくりと崩れる。
 施設管理の担当には、先週のうちに電話で断りを入れた。休みの日に、裏庭のツツジとアオキを刈らせてほしい。「ずっと後回しになっていたので助かります。切った枝は裏の集積所へ」と拍子抜けするほどあっさり許可が下りた。
 夏にボールを拾ったあたりから、枝の壁に刈り込みばさみを入れた。ツツジの細い枝は面白いように落ちるけれど、アオキは幹が太くて、刃のほうが負けそうになる。三十分で、腕がだるくなった。
「藤代(ふじしろ)さん」
 枝の隙間の向こうに、若草色が見えた。蓬(よもぎ)さんが、植え込みの内側からこちらをのぞいている。
「お掃除ですか?」
「……植え込みの手入れです。施設管理の許可は取りました」
「では、私もお手伝いします」
 被験者さんにそんなことは、と言いかけて、やめた。今日の蓬さんは、被験者ではない。
 予備の軍手を渡すと、蓬さんはそれを両手にはめて、しげしげと眺めた。若草色の袖口から、白い軍手がのぞいている。ちぐはぐなものが、また一つ増えた。
 刈った枝は、蓬さんがゴミ袋に詰めてくれた。一本ずつ、向きをそろえて。袋の中が、生け花の稽古の材料置き場のようになっていく。
 敷石は、刈り進めるたびに一枚ずつ顔を出した。ところが四枚目の先で、ぷつりと途切れた。土と落ち葉に埋もれて、どこにも見当たらない。
「次は、少し右です」
 蓬さんが、植え込みの内側から指さした。半信半疑で枝を払い、落ち葉をどけると、平たい石が出てきた。
「その次は、まっすぐ。その次は、右に、こぶし一つ分」
 言われたとおりの場所に、石はあった。教わった石が三枚目になるころには、落ち葉を払って確かめる手間を省いて、言われた場所をいきなり掘るようになった。効率の問題だ。
 大きなツツジの株に刃を入れかけたときだけ、蓬さんが声を上げた。
「あ、その子は残してあげてください。五月に、いちばんきれいに咲くので」
 はさみを止めた。その株を残すと、道幅は少し足りない。それでも、人が一人通るには十分だった。
 二月の休日は、三回とも植え込みに消えた。枝を詰めたゴミ袋は十いくつになり、集積所に並べるたび、施設管理の人に礼を言われた。
 そのあいだに、四回目の治験もあり、そこにも当然の顔をした蓬さんがいた。
 前回の退院前に、次は四か月あけてくださいと頼んだとき、蓬さんは素直に「はい」と答えたはずだ。ただ、そのすぐあとに、「でも、ここは楽しいので」と付け足してもいた。参加間隔の約束は、あの「でも」に、あっさり負けたらしい。
 帰りの書類には今回も「徒歩」「三分」とあって、そのうちの十数秒くらいは、僕が刈った道だった。

     ◇

 三月の二度目の休日は、朝から日差しがやわらかかった。
 病棟の角を曲がるとき、裏庭の銀杏を見上げた。冬のあいだ枝だけだった梢の先で、小さな芽がふくらんでいる。
 植え込みの切れ目から、敷石が一本の道になって奥へ続いていた。庭の端に立つと、その突き当たりに、苔をかぶった祠の屋根が見える。
 祠の前では、蓬さんがもう軍手をはめていた。カーディガンは、ベージュに戻っている。
 祠の周りでは、冬のあいだ地面に張りついていた白っぽいよもぎが、葉の真ん中から、柔らかい新芽を立ち上げていた。
 今日は祠の掃除だ。
 右の扉は、相変わらず傾いていた。今度は、しゃがんで手に取る。上の蝶番は無事だったが、下のほうは、釘が二本とも錆びて抜けていた。木に残った釘穴のまわりが、錆で茶色くにじんでいる。
 二種類買った蝶番は、小さいほうが合った。
 古い蝶番を外し、新しいものを当てて、位置に鉛筆で印をつける。木ねじを取ろうと手を伸ばすと、手のひらに一本、そっと置かれた。
「木ねじです」
「……ありがとうございます」
 一本締めると、すかさず次が差し出される。蓬さんは軍手の指で木ねじを一本ずつつまんで、僕の手元を真剣に見つめていた。ねじの頭が木に沈みきるのを待って、次の一本を出す。早すぎも、遅すぎもしなかった。
 四本締めて手を離すと、扉はもう垂れなかった。二枚の扉がきちんと並んで、小さく木の合わさる音を立てて閉じた。
 次は苔だった。
 バケツに水をくんで戻ると、蓬さんが祠の横にしゃがんで、ゴミ袋の口を広げていた。はがした苔は、ここへ、ということらしい。
 屋根から扉の下の台石まで、順にブラシを当てていく。厚い苔は、水を含むとスポンジのようにずれて、ひと塊ずつはがれた。その下から、灰色の石肌が出てくる。
 扉の真下、台石の正面の真ん中に、溝があった。しゃがみこんで、ようやく目の高さに来る位置だ。
 ブラシを細いほうに持ち替えて、溝に詰まった土をかき出していく。縦に、三つの字が並んでいた。一字が、ちょうど親指の先ほどの大きさだ。
 一字目は、草冠の下に「逢」。登録票の氏名欄、毛筆で、四回見てきた字だ。
 蓬比売(よもぎひめ)。
 しばらく、ブラシが動かなかった。軍手の中で、手のひらがじっとりと汗ばんでいる。日陰の空気は、まだ冬のように冷たいのに。
 祠の後ろに回る。背面の苔は、正面より薄かった。何度かブラシを往復させると、さっきより細い字が現れた。真ん中に一行、左下の隅に、ひと回り小さくもう一行。
 正暦(しょうりゃく)五年六月廿七日。文政(ぶんせい)三年再建。
 「廿」は、二十を一字で書く、昔の書き方だ。
「……正暦、五年」
「はい。書類には正直に書きましたよ」
 ゴミ袋を抱えたまま、蓬さんが答えた。少しだけ、得意そうだった。
 ブラシの先から、泥水が一滴、スニーカーの爪先に落ちた。
「……年齢欄は、正直じゃなかったですけどね」
「あれは、皆さんそう書くので」
 隅の一行には、再建、とある。平安時代の字そのものではなく、いつかの誰かが、新しい石に刻み直したのだろう。
 祠の本体が片づくと、残るは花立(はなたて)だけになった。のぞきこむと、二つとも落ち葉が底までぎっしり詰まっている。指を入れてかき出すと、湿った葉が重なったまま、ひと塊ずつ出てきた。蓬さんがそれを受け取って、袋に入れていく。
 空になった花立の側面を、軍手でぬぐう。片方にだけ、字が刻まれていた。
 昭和十六年 奉納 百草(ももくさ)醫院(いいん)。
 僕が字を読んでいるあいだも、蓬さんの手は止まらなかった。足元に散った葉を一枚ずつ拾って袋に入れながら、何でもないことのように言う。
「人の入れ替わりがあったみたいで。それきり、すっかり」
 僕は細いブラシを取って、その文字の溝を、一つずつきれいにした。
 昼を過ぎるころには、やることがなくなっていた。
 扉はぴたりと閉じている。色のあせた木の扉に、新しい蝶番の金具だけが光っていた。苔を払った屋根には雨の筋が黒く染みついたままで、石の角はところどころ丸く欠けている。花立は二つとも空になり、台石の溝には、まだ湿った土の色が残っていた。屋根の下では、ちぎれた注連縄の切れ端が、元のまま揺れている。
 新品には、ほど遠い。それでも、ちゃんと人の手が入った場所の顔にはなっていると思う。
 振り返ると、敷石の道が、裏庭の陽だまりまで一本につながっている。
 蓬さんは、祠の横の苔の石に腰かけて、膝の上で手を重ねていた。十二月と同じ場所で、同じ姿勢で、にこにこしている。
 僕は軍手を外して、ポケットにしまった。
 祠の前に立つと、両手が、自然に胸の前で合わさった。