薬日のよもぎひめ

 一月。年が明けて、新薬の治験準備が始まった。
 毛筆の登録票を手に席を立ちかけたところで、先輩がモニターから顔も上げずに言った。
「まあいいじゃない」
「……まだ何も言っていませんが」
「顔に書いてあるのよ。蓬(よもぎ)さんでしょ。今回は泊まりだから、説明よろしくね」
 言う前に押し切られるようになった。会話の効率だけは上がっている。
 新しい睡眠導入剤の試験。夕方に入院して、夜に薬を飲み、病院に一泊する。翌朝の採血と評価を終えたら、いったん退院。一週間の休薬期間をはさんで、もう一度同じことを繰り返す。
 今回もすんなり登録を通った蓬さんに、いつもの問診ブースで説明をした。前回の参加日は、十一月二十六日。四か月には、今回も遠く届かない。
「今回は、あわせて二晩泊まっていただきます。一晩目と二晩目、どちらかが本物のお薬で、もう片方は、見た目がそっくりの、お薬の成分が入っていない錠剤です」
「はい」
「どちらが本物で、どちらが偽物なのかは、蓬さんにも、僕にも、先生にも分からないようになっています。試験がすべて終わって、封を開けるまでは」
 蓬さんは真剣な顔で聞いていた。聞き終えると、目をつぶって、小さく、うん、うん、とうなずいた。見覚えのあるうなずき方だ。
「皆さんで、分からないままにしておくんですね」
「分かっていると、思い込みで効き方が変わってしまうことがあるので」
「では、私も、どちらも本物だと思って飲みます」
 被験者の鑑のような心構えだった。

     ◇

 一晩目の治験病棟は静かだった。
 暖房の乾いた空気で、喉が少しいがらっぽい。窓の外では、葉を落としきった銀杏が、街灯の光の中に枝だけを広げていた。廊下の先で、ナースステーションのモニターが小さく電子音を鳴らす。
 夜の十時。看護師が、小さな紙コップに白い錠剤を一つ入れて、ベッドサイドに来た。蓬さんは、ベッドの上でも若草色の着物に焦げ茶のカーディガンのままだった。誰もそこには触れない。僕も、もう触れない。
 左の手首には、腕時計のような活動量計を巻いてもらっている。眠っているあいだの体の動きを、朝まで記録する機器だ。
 蓬さんは紙コップを両手で受け取り、「いただきます」と言ってから、水と一緒に錠剤を飲んだ。
「おやすみなさい、蓬さん」
「はい。おやすみなさい」
 看護師が明かりを落として出ていく。蓬さんは、その背中をずいぶん嬉しそうに見送っていた。
 投与後一時間の眠気の評価までが、今夜の僕の担当だ。時間になって病室をのぞくと、蓬さんはもう眠っていた。
 仰向けで、布団の上に手をそろえて、小さな寝息を立てている。眠気の評価票は、今の眠気を線の上の印で示してもらう紙だ。眠っている人には、書いてもらいようがない。看護師が声を落として「寝てますね」と言い、観察記録に「入眠」と書き込んだ。
 翌朝出勤すると、病棟は配膳車の音で目を覚ましたところだった。
 朝の採血で、看護師は蓬さんの腕に駆血帯(くけつたい)を巻きながら、顔をのぞき込んだ。
「よく眠れた?」
「はい、ぐっすりと。看護師さんが、おやすみなさいって言ってくださいましたので」
「言うわよお、毎晩」
 看護師は笑って、針を刺した。
 看護記録にも治験の記録にも、「おやすみなさいと言ってもらえた」を書き込む欄はない。記録は一言。睡眠良好。

     ◇

 一週間の休薬期間をあけて、蓬さんは約束の時間どおりに、また入院してきた。
 二晩目も、夜の十時に、同じ白い錠剤が配られた。大きさも色も、一晩目の薬と見分けがつかない。そう作ってあるのだから、当然だ。蓬さんは今夜も「いただきます」と言ってから飲み、看護師の「おやすみなさい」に、嬉しそうに同じ言葉を返した。
 一時間後に病室をのぞくと、今夜も、もう眠っていた。
 翌朝、病室の戸を開けるより早く、声が飛んできた。
「藤代(ふじしろ)さん、昨夜もぐっすりでした!」
 血色のいい、よく眠った人の顔で、蓬さんはいつも以上ににこにこしていた。
 採血を見届けてセンターに戻ると、先生と先輩が、二晩分の記録をのぞき込んでいた。
 夜間の巡回記録には、二晩とも、一時間おきに「入眠」が並んでいる。看護師のペンライトが顔の近くをかすめても、まぶたひとつ動かなかったらしい。活動量計のグラフは、投与の二十分後から朝の六時まで、ほとんど平らだった。
 目をつぶって横になっているだけでは、こうはならない。眠れない夜の線は、もっとざわつく。つまるところ、蓬さんは二晩とも本当に眠っていた。
 慣れない病室の最初の夜は、健康な人でもなかなか寝つけない。だからこそ、薬と偽薬を比べる意味がある。
「どっちの夜もぐっすりかあ。どっちかは偽薬なんだけどねえ」
「じゃあ、思い込み(プラセボ)強めの人なんですね」
「蓬さん、素直そうだもんねえ」
 二人は笑って、それぞれの仕事に戻っていった。
 実薬の夜と偽薬の夜で差が出ないのは、治験ではいちばん困る結果だ。薬の効き目が、どこにも見えなくなる。被験者一人分なら、誤差で済むけれど。
 本物だと思って飲めば、偽物でも効くことがある。そう説明したのは僕だ。ただ、ここまで律儀に実演されるとは思っていなかった。

     ◇

 退院前の問診のため、同じブースに向かう。
 カーテンを開けると、蓬さんはいつもの丸椅子で待っていた。
「蓬さん。寝つくまでに、どのくらいかかったと思いますか」
「分かりません。気がついたら、朝でした」
 十月から問診をしていて、初めて質問票の選択肢にそのまま当てはまる答えが返ってきた。「すぐに眠った」に丸をつける。
「今朝、ふらつきや、頭が重い感じはありますか」
「ありません。体が軽いです」
 問診票の質問は、それで終わりだった。僕はペンを置いた。蓬さんは立ち上がらず、逆に僕に向かって問いを投げかけてきた。
「藤代さんは、昨夜はよく眠れましたか?」
「……普通です」
「普通というと、何時間くらいですか?」
 曖昧な回答には、追加の質問で深掘りを。僕がいつも被験者にする聞き方、そのままだった。
「五時間くらいです」
「それは、普通ではないのでは?」
 にこにこしたまま、首をかしげられた。
「この仕事をしてると、だいたいこんなものです」
「では、今夜は藤代さんが、ぐっすりの番です」
 被験者から睡眠指導を受けたのは、CRCになって初めてだった。
 それから蓬さんは、何時に起きるのか、朝ご飯は食べるのか、通勤は電車なのかと、次々に聞いてきた。僕が答えるたびに、感心したり、心配したりする。
 登録票の応募動機の欄には、毛筆で「人が何で元気なのか知りたくて」とある。人の元気の秘訣を探すなら、五時間しか寝ていない僕は、いちばん参考にならない個別事例のはずだ。
 ふと時計を見ると、ブースに入ってから三十分が経とうとしていた。退院前の問診は、いつもなら十分で終わる。
 僕は咳払いをして、言うべきことを言った。
「蓬さん。次は、本当に四か月あけてくださいね」
「はい」
 素直な返事だった。
「でも、ここは楽しいので」
 蓬さんは、本当に楽しそうに言った。
「ここに来ると、皆さんちゃんと私を見てくれるので。お話もしてくれますし」
 とっておきのいい話を、こっそり教えてくれるときの声。
 ――ここに来ると、と彼女は言った。
 じゃあ、ここ以外では?
 先月、十二月の庭に居合わせた看護師の視線は、彼女のいる辺りを素通りした。おじいさんが会釈したのも、僕にだけだった。
 聞き返せば、たぶん答えてくれる。でも、僕はペンを持ち直そうとして、やめた。
 退院の手続きは、いつも通りすんなり済んだ。退院時の確認票には、帰宅手段を書く欄がある。蓬さんは「徒歩」に丸をつけ、所要時間の欄に「三分」と書いた。
 ここから三分で帰れる住所(ばしょ)を、僕はもう知っている。

     ◇

 ――今夜は藤代さんが、ぐっすりの番です。
 その夜、僕は我ながら律儀だと思いつつ、蓬さんに言われた通り早めに布団に入った。
 目を閉じると、浮かんでくるのは、草木で覆われた小径(こみち)の奥の暗がりだった。
 蝶番(ちょうつがい)が外れかけて、斜めに垂れた扉。落ち葉の詰まった花立(はなたて)。屋根の下にぶら下がった、ちぎれた注連縄(しめなわ)。その横の苔の石に、蓬さんが座っていた。
 今夜も彼女は、あそこへ帰っているのだろうか。
 苔は湿ったまま、落ち葉は花立に詰まったままだろう。長いあいだ誰も手を入れていない植え込みの奥で、蓬さんはきっと、今日の問診ブースと同じ顔で笑っている。
 あの祠に何が祀られているのかは、知らないままだ。それでも、あのにこにこに、あの場所は釣り合っていない気がした。
 いつでもどうぞ、と蓬さんは言っていた。
 十二月の僕は、職場の庭を散歩しているだけだった。少なくとも、自分にはそう言い聞かせていた。
 次は、そうはいかない。被験者の住所を、用事があって訪ねる。どう言い繕っても、それは散歩ではない。
 でも。
 次の休みに、ホームセンターへ寄る用事ができた。