薬日のよもぎひめ

 二度目の登録票も、毛筆だった。
 十一月も下旬に入り、臨床試験センターの窓の外で、銀杏が半分ほど葉を落としていた。今日から始まる試験の名簿に、蓬(よもぎ) ひめの名前がある。生年月日欄はやはり「正暦(しょうりゃく)」、年齢欄はやはり「20」。職業欄のご利益も、一字一句変わっていない。
 驚かなくなっている自分のほうが、少し怖い。
 前回のことがあったので、今回は登録票を頭から終わりまで読むことにした。いつもなら、目を通すのは問診に関わる欄だけだ。参加歴や連絡先は、受付と事務局が確認を済ませている。その受付が、「あら、そう」の人なのだけれど。
 案の定、ほかにもおかしな欄があった。
 前回の治験参加日、十月十五日。
 僕が初めて彼女を担当した日だ。
 数えるまでもない。6週間。42日前。
 手元の除外基準には、「同意取得前四か月以内に、他の治験に参加した者」とある。健康な人の治験では、前の薬が体から抜けるのを待つため、数か月あけるのが普通だ。薬が残っていると、何か起きたとき、どちらの薬のせいなのか区別がつかなくなる。
 電話番号の並びにも、見覚えがあった。首から下げた職員証の裏に、同じ番号が印刷されている。
 病院の代表番号だった。
 彼女に連絡を取りたければ、病院に電話をかけることになる。病院の中から。
 僕は登録票を持って、先輩の席へ行った。
「先輩。蓬さん、前回からまだ六週間なんですけど」
「あら、もうそんなに経つの。早いわねえ」
「早いのは、参加の間隔のほうです。除外基準は四か月で――」
「まあいいじゃない。前とは違う薬だし、本人はぴんぴんしてるし。来たいって言ってくれるの、ありがたい話よ」
 通りかかった治験責任医師にも、同じことを説明した。先生は日付を眺めて、うん、とうなずいた。
「六週間かあ。まあ、元気な人は、いつ来ても元気だからねえ」
 先生は確認欄にサインをして、のんびり去っていった。蓬さんの二度目の登録は、何事もなく通った。採血の予定が組まれ、薬は看護師が投与する。僕にできるのは、今回も聞くことだけだ。
 なぜ、誰も変だと思わないのか。6週間前と同じ疑問が、今日も答えのないまま、問診ブースまで僕についてきた。

     ◇

 カーテンを開けると、彼女は前回と同じ丸椅子に、前回と同じ姿勢で座っていた。違うのはカーディガンで、ベージュから厚手の焦げ茶に替わっている。着物は若草色のままだった。
「こんにちは、藤代(ふじしろ)さん。またお世話になります」
 彼女は小さく頭を下げた。上げた顔は、もうにこにこしている。
「蓬さん。前回の参加から、六週間しか経っていないのはご存じですか」
「はい。ちゃんと数えてきました」
 数えたうえで来たらしい。
「前の治験のあとは、四か月あけていただく決まりなんです。前のお薬が体に残っていると、今回の結果が分からなくなるので」
 彼女は真剣な顔で聞いていた。聞き終えると目をつぶって、小さく、うん、うん、とうなずいた。
「それでしたら、ご心配なく。前のお薬は、もうどこにも残っていませんから」
「それを確かめるための四か月なんです」
「まあ」
 彼女は目を丸くして、ほう、と感心したように息をもらした。
「四か月も待って確かめるんですね。丁寧なお仕事ですねえ」
 規則違反を指摘したはずが、なぜか仕事ぶりを褒められている。
 僕は気を取り直して、連絡先の確認に移った。
「ご住所は、葉守(はもり)町三丁目二番一号」
「はい」
「これ、この病院の住所ですよね」
「はい。病院さんとは、ずっと同じ所でご一緒させていただいています」
 病院を、ルームメイトのように言う人を初めて見た。
 住所欄の末尾には、ひと回り小さな毛筆で、こう添えてある。
 庭ヨリ小径(こみち)ヲ入リテ奥。
 昔の電報のような書き方だ。この病院で「庭」と呼べる場所は、ひとつしかない。正面玄関からまっすぐ進み、病棟の角を左に折れた先。十月、若草色の背中が消えていった、あの裏庭だ。
 その奥に、何があっただろう。
 夏の終わり、小児病棟に寄った帰りに、裏庭で遊んでいた子のボールが植え込みに飛び込んだことがある。拾い上げたボールの下に、平たい石が埋まっていた。その先にも、もうひとつ。伸び放題のツツジとアオキの下へ、点々と続いていた。
 敷石だ。昔は、ここに道があったらしい。どこへ続いているのかは、子供に呼ばれて確かめずじまいだった。
 ロビーの沿革パネルによれば、この病院は江戸時代の薬草園から始まったという。古い道の先にあるとしたら、その名残だろうか。
「この『奥』って、何があるんですか。昔の薬草園の跡とか」
 何の気なしに聞いて、顔を上げた。
 彼女のにこにこが、止まっていた。
 笑顔が消えたわけではない。口元も目元も笑ったまま、そこだけ時計の針が引っかかったように動かない。十月の問診で、どれだけ聞き返しても一度も崩れなかった顔だった。
 彼女はゆっくりと瞬きをした。次にこちらを見た顔は、さっきよりもっと明るかった。
「薬草園なら、この辺り一帯でしたよ。病院さんの下も、全部」
 見てきたような言い方だった。じゃあ、あの奥には何が――と聞き返すより先に、彼女は続けた。
「昔は院長さんも子供たちも、毎年来てくれたんですよ」
 答えになっていない。なのに、その声は今日いちばん弾んでいた。
「院長さんは、いつもきちんと帽子を取ってくださって。子供たちは走ってくるので、転ぶ子もいて。でも、誰も泣かないんです。えらいでしょう?」
 懐かしそうではあった。でも、寂しそうではなかった。大事にしまっておいた写真を、一枚ずつ見せてくれるような話し方だった。
「昔って、いつ頃ですか」
「ずいぶん長いこと。数えきれないくらいです」
 数えきれないほどの「毎年」。
 問診を終えると、彼女は深く頭を下げて、カーテンの向こうへ出ていった。
 手元に残った登録票の、住所欄の最後の一字に目が留まる。
 小径の奥。
 あの敷石の先には、薬草園とは別の何かがあるらしい。夏に確かめずじまいにした、その何かを、彼女は自分の住所に書いている。
 誰に聞いても、たぶん「あら、そう」で終わる。
 だったら、行くしかない。
 ――確かめに行こう。