「体調はいかがですか?」
「はい、千年ほど変わりありません」
問診票の上で、僕のペンは三秒ほど動きを止めた。
◇
十月の朝、百草記念病院の臨床試験センターは、いつも通り消毒液とコーヒーの匂いがした。
僕、藤代 理人は、ここのCRC――治験コーディネーターだ。新しい薬を人で試す「治験」で、参加者の問診をしたり、記録をつけたり、困りごとを聞いたりする。一応は薬剤師だけれど、ここで薬を処方するのは医師で、投与するのは看護師。僕の道具はペンと聞き取りだけだ。
この秋の担当替えで、僕は健康な人の治験を受け持つことになった。病気に効くかを見る前の、まず安全かどうかを確かめる段階の治験だ。だから今日の参加者とも、これが初対面になる。
問診の前に、登録票に目を通す。慣れきっている、いつもの手順だ。
だというのに、最初の欄で手が止まった。
氏名、蓬 ひめ。
ボールペン用の細い枠に、墨の毛筆で書いてある。とめ、はね、はらい。習字の先生なら花丸をくれそうな、枠からはみ出す寸前の堂々とした「蓬」だった。
まあ、筆ペン派の人もいるか。いる、と思う。
年齢欄は「20」。丸っこい字。
今回の試験の対象は、20歳以上45歳以下の健康な成人。下限ぎりぎりだが、範囲内だ。手元のチェックリストの「年齢」に、レ点をひとつ入れる。
問題は生年月日だった。
元号欄の「昭・平・令」、どれにも丸がない。代わりに余白へ小さく「正暦」と書き足され、続けて「五年六月二十七日」。
正暦。
昭和の前が大正、その前が明治。そのさらに前は江戸時代で、元号は――知らない。
スマホで調べた。正暦五年は、西暦994年。平安時代。
今年から引くと1032。六月の誕生日はもう過ぎているから、満で1032歳。
年齢欄は「20」。
ついでに職業欄を見ると、「疫病除け、ならびに当地の無病息災全般」とあった。
職業欄に、ご利益が書いてある。
お守り売り場の札か、石段の脇に立つ由緒書きでしか見たことのない並びだ。疫病除けは、まだ分かる。感染対策の担当者、と読めなくもない。でも――。
「全般って何だ」
僕は登録票を持って受付へ向かった。
「すみません、この蓬さんの書類なんですけど」
受付の年配の女性は老眼鏡をずらし、待合のほうを見た。
「あら蓬さん、また来たのね」
手を振っている。待合のソファで、若い女性が振り返していた。長い黒髪を低い位置で一つに結い、若草色の着物の上にベージュのカーディガン。ちぐはぐなのに本人はやけに落ち着いていて、受付の人も何も言わない。
「また、って。そんな、常連さんみたいな」
「そうよお。いい子なのよ、いつもにこにこして」
「登録票、生年月日が平安時代なんですけど」
「あら、そう」
それだけだった。受付印がぽんと押され、書類は僕の手に戻ってきた。
センターに戻ると、先輩のCRCがおにぎりをかじりながらモニターを見ていた。声が大きくて、豪快で、面倒見のいい人だ。
新人の頃、僕は被験者の「大丈夫です」をそのまま記録して、腕の発疹を見逃しかけたことがある。拾ってくれたのがこの先輩だった。それ以来、僕は問診で必ず一度聞き返す。
「先輩、この人の職業欄なんですけど」
「蓬さん? 何回も来てくれてる人よ。数値はきれいだし、ドタキャンもしないし」
「『疫病除け、ならびに当地の無病息災全般』って書いてあるんですが」
「まあいいじゃない。うちの病院と同業ってことでしょ」
そういう問題だろうか。
受付の人も先輩も、当たり前のことを聞かれたような顔をする。二人とも、書類の不備には僕よりずっと厳しい人のはずなのに。
「……本人に、確認してきます」
「はいはい。藤代くんは、自分の目で見ないと気が済まないんだから」
先輩は笑って、おにぎりの残りを口に放り込んだ。
そこへ、治験責任医師がのんびり通りかかった。看護師が測ったバイタルの記録を、僕の肩越しにのぞき込む。
「血圧百十二の七十、脈六十二。いいねえ。健康だね」
「先生、この方の登録票を見ていただけますか」
「うん? ああ、達筆だねえ」
先生は満足そうにうなずいて、確認欄にさらさらとサインをした。
こうして推定1032歳の彼女は、すんなり登録に進んだ。僕の手元に残った確認手段は、問診ひとつだけだった。
◇
問診ブースは、カーテンで仕切っただけの小さな部屋だ。
カーテンを開けると、彼女は丸椅子にきちんと腰かけて待っていた。膝の上で手を重ね、背筋はまっすぐ。着物にカーディガンという取り合わせは、近くで見るといっそう謎だった。
「担当の藤代です。よろしくお願いします」
「はい。よろしくお願いいたします」
声まで行儀がいい。高すぎず、張りすぎず、一語ずつ丁寧に置いていくような話し方だった。疑うということを知らない人の声だ、と思った。根拠はない。僕にしては珍しいことに。
僕は問診票を開いた。
「体調はいかがですか?」
「はい、千年ほど変わりありません」
彼女はにこにこしていた。冗談を言った顔ではない。今日の天気を答えるような顔だった。
「……ここ一週間くらいは、どうですか」
「一週間ですか」
彼女は膝の上で手を重ねたまま、天井の隅をじっと見上げた。数秒。冗談で流す気のない、本気で思い出そうとしている顔だった。それから少しだけ眉を下げて、こちらに目を戻す。
「あっという間でしたので、変わりようがありませんね」
答えになっているような、いないような。僕は「著変なし」と書いた。
「夜は眠れていますか」
「はい。皆さんが眠ってから、眠ります」
「何時ごろですか」
「日によります。夜泣きの赤ちゃんがいる日は、少し遅くなりますね」
ペンが止まる。小さいお子さんがいるなら、入院の日程や授乳の有無も確かめておかなければならない。
「失礼ですが、お子さんはおいくつですか」
「いません」
「……では、どなたの赤ちゃんが」
「この辺りの、皆さんの」
分からないことが、ひとつ増えた。時刻の欄は、空いたままだ。
「食事は、三食とれていますか」
「食べなくても平気なんですけど、いただいたものは、ありがたくいただいています」
「平気じゃないです。最後に食べたのは?」
「お団子です。お月見の」
「ああ、先月の十五夜の。そうじゃなくて――」
「いえ、もっと前の」
「……去年の?」
「もっと前の」
「おいしかったです」
感想は聞いていない。この場合の食事欄の書き方は、薬学部でも教わらなかった。
「頭痛や腹痛で、お薬を飲むことは」
「頭が痛くなったこと、ないんです」
「一度も?」
「はい、一度も」
頭痛を一度も知らない成人。うらやましいのを通り越して、学会に報告したくなる体質だ。
「最近、何か変わったことはありましたか」
「ありました」
彼女は窓の外を見た。
「屋根が、ずいぶん高くなりました」
その目は、窓の外の病棟より、もっと向こうを眺めているように見えた。僕は小さく咳払いをした。
「いえ、蓬さんご自身のことで」
「私は、変わりありません」
一周して戻ってきた。
聞き返せば聞き返すほど、答えは丁寧に、まっすぐ横へずれていく。まるで、目盛りの違う物差しで、同じものを測り合っているような感覚だった。
僕はペンを置いて、本題に入った。
「生年月日の欄の、この『正暦』というのは」
「はい。ご存じですか?」
「……さっき、調べました」
すると彼女は、ぱっと顔を明るくした。
「調べてくださったんですか?」
「確認が仕事なので。……正直、これでどうして通ったのかは、まだ分かっていないんですが」
「皆さん、『あら、そう』で済ませてくださるんです。藤代さんは、ちゃんと聞き返してくれるんですね」
問題は何ひとつ片づいていないのに、彼女があんまり嬉しそうなので、僕の口からはそれ以上の言葉が出てこなかった。
問診票の最後に「特記事項なし」と書く。
特記事項しかない問診だったはずだ。いつもの僕なら、欄が足りなくなるほど書き込んでいる。なのに、何を書けばいいのか、ひとつも浮かんでこない。
「なし」の二文字を、しばらく眺めた。消そうとは、なぜか思わなかった。
◇
昼過ぎ、別件の書類を抱えて正面玄関の前を通りかかると、帰りの手続きを済ませた彼女が、ちょうど外へ出ていくところだった。
正面玄関を出たら、たいていの人は右へ曲がる。バス停も駐車場も、駅へ向かう道も、みんな右にある。
だが、彼女はまっすぐ進んだ。
ガラスのドアの向こう、車寄せを横切って、若草色の背中が遠ざかっていく。病棟の角でふっと左へ折れて、見えなくなった。
あの先には、病院の裏庭しかない。
ロビーには人が行き交っている。見舞い客も、会計待ちの患者も、警備員も、誰ひとりそちらを見ていない。
彼女を目で追っていたのは、僕だけだった。
「はい、千年ほど変わりありません」
問診票の上で、僕のペンは三秒ほど動きを止めた。
◇
十月の朝、百草記念病院の臨床試験センターは、いつも通り消毒液とコーヒーの匂いがした。
僕、藤代 理人は、ここのCRC――治験コーディネーターだ。新しい薬を人で試す「治験」で、参加者の問診をしたり、記録をつけたり、困りごとを聞いたりする。一応は薬剤師だけれど、ここで薬を処方するのは医師で、投与するのは看護師。僕の道具はペンと聞き取りだけだ。
この秋の担当替えで、僕は健康な人の治験を受け持つことになった。病気に効くかを見る前の、まず安全かどうかを確かめる段階の治験だ。だから今日の参加者とも、これが初対面になる。
問診の前に、登録票に目を通す。慣れきっている、いつもの手順だ。
だというのに、最初の欄で手が止まった。
氏名、蓬 ひめ。
ボールペン用の細い枠に、墨の毛筆で書いてある。とめ、はね、はらい。習字の先生なら花丸をくれそうな、枠からはみ出す寸前の堂々とした「蓬」だった。
まあ、筆ペン派の人もいるか。いる、と思う。
年齢欄は「20」。丸っこい字。
今回の試験の対象は、20歳以上45歳以下の健康な成人。下限ぎりぎりだが、範囲内だ。手元のチェックリストの「年齢」に、レ点をひとつ入れる。
問題は生年月日だった。
元号欄の「昭・平・令」、どれにも丸がない。代わりに余白へ小さく「正暦」と書き足され、続けて「五年六月二十七日」。
正暦。
昭和の前が大正、その前が明治。そのさらに前は江戸時代で、元号は――知らない。
スマホで調べた。正暦五年は、西暦994年。平安時代。
今年から引くと1032。六月の誕生日はもう過ぎているから、満で1032歳。
年齢欄は「20」。
ついでに職業欄を見ると、「疫病除け、ならびに当地の無病息災全般」とあった。
職業欄に、ご利益が書いてある。
お守り売り場の札か、石段の脇に立つ由緒書きでしか見たことのない並びだ。疫病除けは、まだ分かる。感染対策の担当者、と読めなくもない。でも――。
「全般って何だ」
僕は登録票を持って受付へ向かった。
「すみません、この蓬さんの書類なんですけど」
受付の年配の女性は老眼鏡をずらし、待合のほうを見た。
「あら蓬さん、また来たのね」
手を振っている。待合のソファで、若い女性が振り返していた。長い黒髪を低い位置で一つに結い、若草色の着物の上にベージュのカーディガン。ちぐはぐなのに本人はやけに落ち着いていて、受付の人も何も言わない。
「また、って。そんな、常連さんみたいな」
「そうよお。いい子なのよ、いつもにこにこして」
「登録票、生年月日が平安時代なんですけど」
「あら、そう」
それだけだった。受付印がぽんと押され、書類は僕の手に戻ってきた。
センターに戻ると、先輩のCRCがおにぎりをかじりながらモニターを見ていた。声が大きくて、豪快で、面倒見のいい人だ。
新人の頃、僕は被験者の「大丈夫です」をそのまま記録して、腕の発疹を見逃しかけたことがある。拾ってくれたのがこの先輩だった。それ以来、僕は問診で必ず一度聞き返す。
「先輩、この人の職業欄なんですけど」
「蓬さん? 何回も来てくれてる人よ。数値はきれいだし、ドタキャンもしないし」
「『疫病除け、ならびに当地の無病息災全般』って書いてあるんですが」
「まあいいじゃない。うちの病院と同業ってことでしょ」
そういう問題だろうか。
受付の人も先輩も、当たり前のことを聞かれたような顔をする。二人とも、書類の不備には僕よりずっと厳しい人のはずなのに。
「……本人に、確認してきます」
「はいはい。藤代くんは、自分の目で見ないと気が済まないんだから」
先輩は笑って、おにぎりの残りを口に放り込んだ。
そこへ、治験責任医師がのんびり通りかかった。看護師が測ったバイタルの記録を、僕の肩越しにのぞき込む。
「血圧百十二の七十、脈六十二。いいねえ。健康だね」
「先生、この方の登録票を見ていただけますか」
「うん? ああ、達筆だねえ」
先生は満足そうにうなずいて、確認欄にさらさらとサインをした。
こうして推定1032歳の彼女は、すんなり登録に進んだ。僕の手元に残った確認手段は、問診ひとつだけだった。
◇
問診ブースは、カーテンで仕切っただけの小さな部屋だ。
カーテンを開けると、彼女は丸椅子にきちんと腰かけて待っていた。膝の上で手を重ね、背筋はまっすぐ。着物にカーディガンという取り合わせは、近くで見るといっそう謎だった。
「担当の藤代です。よろしくお願いします」
「はい。よろしくお願いいたします」
声まで行儀がいい。高すぎず、張りすぎず、一語ずつ丁寧に置いていくような話し方だった。疑うということを知らない人の声だ、と思った。根拠はない。僕にしては珍しいことに。
僕は問診票を開いた。
「体調はいかがですか?」
「はい、千年ほど変わりありません」
彼女はにこにこしていた。冗談を言った顔ではない。今日の天気を答えるような顔だった。
「……ここ一週間くらいは、どうですか」
「一週間ですか」
彼女は膝の上で手を重ねたまま、天井の隅をじっと見上げた。数秒。冗談で流す気のない、本気で思い出そうとしている顔だった。それから少しだけ眉を下げて、こちらに目を戻す。
「あっという間でしたので、変わりようがありませんね」
答えになっているような、いないような。僕は「著変なし」と書いた。
「夜は眠れていますか」
「はい。皆さんが眠ってから、眠ります」
「何時ごろですか」
「日によります。夜泣きの赤ちゃんがいる日は、少し遅くなりますね」
ペンが止まる。小さいお子さんがいるなら、入院の日程や授乳の有無も確かめておかなければならない。
「失礼ですが、お子さんはおいくつですか」
「いません」
「……では、どなたの赤ちゃんが」
「この辺りの、皆さんの」
分からないことが、ひとつ増えた。時刻の欄は、空いたままだ。
「食事は、三食とれていますか」
「食べなくても平気なんですけど、いただいたものは、ありがたくいただいています」
「平気じゃないです。最後に食べたのは?」
「お団子です。お月見の」
「ああ、先月の十五夜の。そうじゃなくて――」
「いえ、もっと前の」
「……去年の?」
「もっと前の」
「おいしかったです」
感想は聞いていない。この場合の食事欄の書き方は、薬学部でも教わらなかった。
「頭痛や腹痛で、お薬を飲むことは」
「頭が痛くなったこと、ないんです」
「一度も?」
「はい、一度も」
頭痛を一度も知らない成人。うらやましいのを通り越して、学会に報告したくなる体質だ。
「最近、何か変わったことはありましたか」
「ありました」
彼女は窓の外を見た。
「屋根が、ずいぶん高くなりました」
その目は、窓の外の病棟より、もっと向こうを眺めているように見えた。僕は小さく咳払いをした。
「いえ、蓬さんご自身のことで」
「私は、変わりありません」
一周して戻ってきた。
聞き返せば聞き返すほど、答えは丁寧に、まっすぐ横へずれていく。まるで、目盛りの違う物差しで、同じものを測り合っているような感覚だった。
僕はペンを置いて、本題に入った。
「生年月日の欄の、この『正暦』というのは」
「はい。ご存じですか?」
「……さっき、調べました」
すると彼女は、ぱっと顔を明るくした。
「調べてくださったんですか?」
「確認が仕事なので。……正直、これでどうして通ったのかは、まだ分かっていないんですが」
「皆さん、『あら、そう』で済ませてくださるんです。藤代さんは、ちゃんと聞き返してくれるんですね」
問題は何ひとつ片づいていないのに、彼女があんまり嬉しそうなので、僕の口からはそれ以上の言葉が出てこなかった。
問診票の最後に「特記事項なし」と書く。
特記事項しかない問診だったはずだ。いつもの僕なら、欄が足りなくなるほど書き込んでいる。なのに、何を書けばいいのか、ひとつも浮かんでこない。
「なし」の二文字を、しばらく眺めた。消そうとは、なぜか思わなかった。
◇
昼過ぎ、別件の書類を抱えて正面玄関の前を通りかかると、帰りの手続きを済ませた彼女が、ちょうど外へ出ていくところだった。
正面玄関を出たら、たいていの人は右へ曲がる。バス停も駐車場も、駅へ向かう道も、みんな右にある。
だが、彼女はまっすぐ進んだ。
ガラスのドアの向こう、車寄せを横切って、若草色の背中が遠ざかっていく。病棟の角でふっと左へ折れて、見えなくなった。
あの先には、病院の裏庭しかない。
ロビーには人が行き交っている。見舞い客も、会計待ちの患者も、警備員も、誰ひとりそちらを見ていない。
彼女を目で追っていたのは、僕だけだった。

