部室で湊が笑うと珍しい、というのは、俺以外の人間にも共通する認識らしかった。
「黒瀬、何かいいことあった?」
現代表の佐伯真帆が聞いた。三年の彼女は台本の束で顎を支え、湊と、その隣の俺を交互に見ている。
「別に」
「今、すごい嬉しそうだったけど」
「先輩の編集が上がったので」
「それなら私も嬉しい。瀬尾、聴かせて」
共有のスピーカーへ音源を出す。十月に収録した商店街の特集で、焼き鳥屋の親父さんの笑い声が、狭い部室に広がった。大学放送研究会と言っても、電波を飛ばすわけではない。学生会から場所を借りて、学内向けの音声番組を作り、大学祭で公開収録をする。
機材は古いが、湊が入ってから音がずいぶん変わった。収録先の風や椅子の軋みまで拾ってくるので、整理する俺の仕事も増えた。
「ここ、切らなかったんですね」
湊が画面の一点を示した。取材相手が答えを探し、二秒ほど黙った部分だった。
「切ると、後の言葉が軽くなるから」
「うん」
相槌が近い。椅子を寄せられたわけでもないのに、朝の台所の記憶が戻ってくる。イヤホンの片方を渡そうとして、俺は一瞬ためらった。
「瀬尾、あれどう? 冬の番組の企画」
真帆が聞いた。俺は引き出しから企画書を出す。
『朝の音を集める』。そう仮題をつけた十五分の音声ドキュメントだった。パン屋の仕込み、始発を待つ駅前、大学の清掃。人が起きて動き始める時間を、その場の音と短い話で繋ぐ。
去年思いついて、代表だった悠真先輩の番組を手伝ううちに、結局出せずにいた。
「今月の大学祭、土曜の昼に一枠空いた。十二月の配信版に先駆けて、試聴やらない? 完成させられるならだけど」
「十五分、全部?」
「公開版は八分。取材許可は今週中にもらいたい。機材予約もあるし」
企画書の端が折れていた。一度も会議に出さないまま、鞄と引き出しを何度も往復した紙だった。
「やりたい」
言ってから、思ったより大きな声だったと気づいた。真帆が笑う。
「じゃ、担当決めよう」
「録りは俺がやります」
湊がすぐに口を開いた。
「黒瀬、今月、外部のワークショップの選考もあるんじゃなかった?」
「提出用の音はもう録ってます。日程も重なってません」
「ならお願い。瀬尾も、ほかの編集引き受けすぎないように」
言い終えたところで、部室の扉が開いた。
「お疲れ。あ、全員いた」
悠真先輩が入ってきた。肩にいつもの帆布のバッグをかけ、手にコンビニのコーヒーを二本持っている。俺を見たときだけ、ほんのわずかに歩調が変わった。
「瀬尾、この前は」
「先輩、音源、共有フォルダに上げてます。確認お願いします」
自分の声がよそよそしい。先輩は頷き、ありがとう、とコーヒーを一本差し出した。
「ブラックでよかったよな」
「はい」
本当は甘いほうが好きだった。二年前、一緒に買いに行って、先輩が選んだものと同じものを手に取った。それから俺は、ブラックを飲む人になった。受け取った缶が冷たかった。そうだ、先輩は冷たいコーヒーを好む。俺までそうだと思っている。
「律、今回メインで作るんだろ。楽しみだな」
久しぶりに名前を呼ばれた。先輩は時々そうする。それだけで喜んでしまうのを、今もやめられない。
「ありがとうございます」
湊が立ち上がった。
「取材先に電話してきます」
俺の企画書を一枚取る。その手が缶に触れかけて、やめた。外へ出ていく背中を、俺は必要以上に見送ってしまった。
帰りに真帆が、学食の券売機の前で俺を捕まえた。
「昼まだなら食べて。顔色悪い」
「いつもこんなもんだろ」
「いつもより、誤魔化す顔をしてる」
俺は観念して、うどんの食券を買った。失恋したことを話すと、真帆は大袈裟には驚かなかった。ずっと片思いしていたことは、去年の夏に知られている。
「言えたんだね」
「うん」
「そっか」
隣の席で、真帆が割り箸を割る。聞かれなかったので、湊のことは話さなかった。
「瀬尾の番組、私、出してほしかったんだよ」
「そんな大したものじゃ」
「それ、出す前に言うの禁止」
真帆はうどんに七味をかけた。
「お前の作ったやつが好きだから、代表として枠を渡した。伊吹さんの補佐としてじゃなくて」
俺は返事の代わりに、熱い汁を飲んだ。スマホが震える。湊からだった。
『藤田ベーカリー、明日の十八時なら話を聞けるそうです』
続けてもう一通。
『コーヒー、無理に飲まなくていいです』
俺は机の端に置いた缶を見た。表面の水滴が、企画書の下へ滲みかけていた。
『なんで無理だと思うんだよ』
返事は早かった。
『苦いとき、眉間が寄るので』
画面を見ていたら、今度は湯気で、顔が熱くなった。
