翌朝、湊は七時ちょうどに来た。昨日のうちに俺が指定した時間だ。朝から来るならせめて連絡をしろと言うと、火曜と金曜は一限がないという時間割まで送ってきた。知りたいのはそこまでじゃない、と返信した後で、火曜と金曜は朝食を一緒に取れるのだと覚えてしまった。
「おはようございます」
「……おはよ」
今日は部屋着を着替え、顔も洗ってある。それだけで昨日よりずっとまともな人間に見られたくて、見られたい相手が湊なのが少し変だった。
「買い足したのか」
袋を見れば、また卵がある。
「これは俺の家の分です。帰りに買うと潰すので」
「なるほど」
「明日も十個持ってきたら、怖いでしょう」
「自覚あるんだな」
湊の口元が緩んだ。研究会では人の冗談を聞いても一拍遅れて笑う男なのに、俺の部屋では朝から妙に機嫌がいい。
今日の献立は炒り卵と、昨日の味噌汁の残りだった。何か作ろうと立つたびに湊の視線が飛んでくるので、俺は観念して米をよそう役を引き受けた。
二つの茶碗を並べる。片方は昨日の帰りに湊が百円ショップで買ってきた。黒瀬用、と紙袋に書いて寄越されたとき、俺は笑ってしまった。専用の食器なんて置く気かよ、と言えなかったのは、こいつの前ではまだ、拒まれた側の記憶が生々しかったからかもしれない。
「今日はサークル行きますか」
湊が聞いた。
「行くよ。編集、残ってるし」
「伊吹さんも来ます」
「知ってる」
箸の先で炒り卵を崩す。昨日より焦げていない。油が少し多いせいで、米に載せるとつやが出た。
「別に、避けたりはしない。先輩は何も悪くないから」
「行きたくなければ、素材は俺が届けます」
「俺が気まずいだけで、仕事まで人に押しつけたくない」
「編集は押しつけてません。届けるって言いました」
俺は湊を見た。しばらく黙ってから、黒い頭がわずかに下がる。
「すみません。余計なことでした」
「いや。……ありがとう」
余計なこと、とまで言わせたくはなかった。俺は食べ終わった食器を重ねた。湊が立ち上がりかけたので、今度は先に言う。
「洗うのは俺。人の台所で働きっぱなしになるなよ」
「食べさせたくて来てるんですけど」
「俺にも労働の喜びを分けてくれ」
少し考えたあと、湊は布巾を取った。
「じゃあ、拭きます」
流しに二人で並ぶには狭い。肩がぶつかるたびに湊が半歩後ろへ下がり、俺の右手側に皿を置く。背の高い男の体温が、背中にある。洗剤の泡を落としながら、俺は聞いた。
「一昨日、なんであそこにいた?」
「歩道橋ですか」
「うん。お前の家、逆だろ」
湊の動きが止まる。洗い終わった茶碗を渡しても、受け取る手が出てこなかった。
「収録の帰りなのは、本当です」
「それは疑ってない」
「先輩を見かけたから、追いかけました」
水を止めた。最後の一滴が、ステンレスに小さく当たる。
「伊吹さんと別れたあと、先輩、コンビニの前でずっと立ってたから」
「声かけてくれたらよかったのに」
「かけていい顔かわからなかった」
ようやく湊の手が伸びた。茶碗を受け取り、布巾で包む。その横顔を、日曜の夜にはろくに見ていなかった。
「ありがとな。ほんとに。お前がいてくれて助かった」
照れ隠しに軽くしたつもりだった。その言葉を受け取った湊の顔が、かえって険しくなる。
「先輩」
「何」
「俺のこと、親切な後輩だと思ってますか」
「親切だろ。実際」
「親切は、したいです。でもそれだけじゃない」
乾いた茶碗が棚へ置かれる。湊がこちらを向いた。狭い場所で向かい合うと、視線を合わせるのに顎を上げなければならない。
「好きです」
冷蔵庫のモーター音が、急に大きくなった。
「……何が」
「瀬尾律先輩が、好きです。恋愛で」
俺は手の中のスポンジを握った。泡が一筋、手首を伝って落ちた。
「俺、振られたばっかりだぞ」
「わかってます」
「俺、まだ先輩のこと」
「はい」
「だから、そんな簡単には」
「今、付き合ってくださいとは言ってません」
湊の声が、一度だけ詰まった。
「でも、慰める人になったら、そのまま終わりそうだから」
蛇口へ向き直りかけて、やめた。まだ湊が何か言いそうで、濡れたままのスポンジから、流しへ水が滴っている。
「飯、断りづらくなるだろ。そういうの言われると」
口から出たのは可愛げのない言葉だった。湊は目を伏せた。
「……そうですね」
「違う、嫌だからじゃなくて。断ったらお前を傷つけるとか、そういうの考えるだろ」
「断るときは、断ってください」
「そんな簡単に」
「傷つかないとは言えません。でも、食べた分、俺を好きになれとは言いません」
湊は掛けてあるタオルを取り、俺のほうへ差し出した。受け取ろうと伸ばした手が、その指に触れる。昨日まで何でもなかった、後輩の手だった。今日の俺は、離れるのが遅れた。
「明日は来なくていい」
湊が布巾を置いた。俺は慌てて続けた。
「お前、水曜は一限だろ。朝飯のために講義遅れるとか、なしだから」
それきり湊が黙ったので、顔を覗きこむ。困ったように笑っていた。普段の無愛想な顔より、ずっと年下に見える。
「金曜は」
「……七時」
「はい」
湊が帰ってから、棚に戻した茶碗を見た。金曜まで使わないほうも、伏せてあったのをわざわざ上へ向けた。
