失恋した翌朝、無愛想な後輩が朝ごはんを作りに来た


 失恋した翌朝、玄関の向こうにいた後輩は、卵を十個持っていた。
「食べられますか」
 そう言う黒瀬湊の息が白い。十一月に入ったばかりの朝六時五十八分、俺はまだ、昨夜着ていたシャツのままで立っていた。袖口のボタンが一つ外れ、寝癖を直していない髪が目にかかる。
「卵を?」
「朝飯を」
「……なんで」
「昨日、帰りに何も食べなかったでしょう」
 湊は卵のほかに、豆腐と長葱の入った袋を提げていた。百八十五センチの身体を黒いコートに収めた男が、古いアパートの廊下で特売の赤いシールをつけた卵を抱えている。その取り合わせがおかしくて笑おうとしたら、昨夜と同じ声が出た。

 昨夜、二年好きだった人に告白した。同じ放送研究会の四年生、伊吹悠真。俺の作った差し入れをいつも一番に食べ、編集の終わった音源を聴くと、律がいて助かったと言ってくれる人だった。

 彼女ができた、と聞いた帰り道に伝えた。せめて知っておいてほしかったのだと、帰ってから何度も自分に言い聞かせた。
『瀬尾、ごめん。気づかなくて』
 悠真先輩は誤魔化さなかった。困った顔のまま、俺を恋愛の相手としては見ていないと答えた。その誠実さのせいで、笑って引き下がるほかに、何もできなかった。
「昨日、メッセージしたんですけど」
 湊に言われて、部屋の床に放り出したスマホを振り返る。そういえば帰宅後、明日そっちに寄っていいかと聞かれた。いいよ、と答えた記憶はある。大学に向かう途中で、部室の鍵でも取りに来るのだと思っていた。
「朝飯までとは聞いてない」
「そこまで書くと断る気がして」
「黒瀬」
「嫌なら帰ります」
 湊は敷居の外で袋を持ち替えた。卵のパックが傾き、抱え直すあいだも、こちらを見ている。

 大学二年、二十歳。文学部三年で二十一歳の俺とは、研究会以外では接点がない工学部の後輩だ。顔が整っているせいで新入生歓迎会からよく目立ち、余計なことを言わないせいで、気難しいとも言われている。俺の失恋を知っているのは、たぶんこいつだけだった。

 昨夜、大学近くの歩道橋の下で立ち止まっていたら、収録を終えた湊が通りかかった。事情を聞かずに自販機で水を買ってきて、その親切に耐えられなくなった俺が、勝手に喋った。
「……上がれよ。寒いだろ」
 湊の肩が、ほんの少し下がった。六畳の部屋に入ると、流しに伏せてある二段の弁当箱が目に入った。昨日、部室に持っていったものだ。上段には卵焼き、下段には炊き込みご飯。悠真先輩が彼女と昼を食べると言ったので、俺が全部食べた。湊もそれを見たが、何も言わない。
「包丁、ここでいいですか」
「作るの、お前が?」
「ほかに誰かいますか」
「いや、てっきり、材料持ってきたから作ってくれってことかと」
 湊は長葱を袋から出す手を止めた。台所の窓から入る青い光が、目元の影を深くする。
「今日は座っててください」
 大きな手が、長葱の土のついた端を洗う。俺の狭い台所では、湊は何をするにも少し身体を斜めにしなければならなかった。言われるまま座卓の前に座ったものの、落ち着かない。湊は研究会で録音担当、俺は編集担当で、互いの仕事には口を出す。けれど、自分の寝起きの部屋で背中を眺めるような関係ではなかった。
「味噌、冷蔵庫の上の段。あと、卵焼き器は下」
「はい」
「葱、斜めに切ったほうが火が」
「瀬尾先輩」
 振り返った湊が、片手で小さな皿を持ち上げた。
「これ、欠けてますね」
「使えるよ。それくらい」
「口、切ります」
 それだけ言って、皿を棚の奥へ戻す。代わりに、普段俺が使わない白い深皿を二枚出した。友達が来たときのために買ったもので、悠真先輩をここへ呼べたら使おうと思っていた。

 湯の煮立つ音に、やがて焦げた匂いが混じった。湊が無言で火を弱める。
「お前、料理できるんじゃないの」
「卵焼きは初めてです」
「できるやつから始めろよ」
「先輩がよく作ってたから」
 その言葉のあとに、葱を切る包丁の音が戻った。俺はテーブルの木目を見た。誰に何を作っていたのか、湊は知っている。たった一人のために増やした手間を、俺はみんなの分という顔で部室に持っていっていた。

 運ばれてきた卵焼きは、片側が潰れていた。味噌汁の豆腐は大きすぎる。それでも箸を入れると湯気が上がり、だしの匂いが顔に触れた。
「味、薄いかも」
「うん」
「味噌、足しますか」
「これでいい」
 口に入れた豆腐が、思ったより熱かった。舌を火傷しないようにゆっくり息を吸うと、うまく入らず、鼻の奥へ何かがせり上がってくる。湊が箸を置いた。
「見ないで」
 声が情けなく擦れた。
「今、見ないでくれ」
 湊は横を向いた。すぐ手の届く場所にティッシュの箱だけを置き、自分の味噌汁を飲み始める。それがありがたかった。ティッシュを抜く音に紛らせて鼻をかんだ。湊が何も言わずにいてくれるうちに、冷めかけた味噌汁も飲めた。椀を置くと、湊が台所を見たまま言った。
「明日も来ていいですか」
「……慰めなくていい。そんなに」
「慰めだけだったら、卵、四個入りにしました」
 俺は濡れた顔を上げた。湊の耳が赤い。廊下にいたときにはなかった赤みだった。
「十個、使い切るつもりなので」
 目が合った途端、後輩はもう逸らさなかった。
「先輩の朝、俺に少しください」