頬杖をついて、窓の外をぼんやりと見つめる。放課後の教室には、あたしと一真、二人だけが居残っていた。
遠くに、人の声がする。部活動に励んでいる生徒たちの声だろう。
風が吹くと、他にもいろんな声や音が聞こえてくる。春の終わり、この季節はちょっと切なくなる。
「桜も、もうすっかり葉桜になっちゃったね」
のほほんとした口調で一真は言う。言いながら、手は休めず、あたしの髪をいじっていた。
一真の器用な手は、あたしのあまり行儀のよろしくない髪の毛を、まるで猛獣使いみたいに手なずけて、見違えるほどきれいに落ち着かせて、まとめてくれる。
「相変わらず器用だね」とあたしが感心して言うと、一真は上機嫌に笑って「練習させてくれる人がいるからね」と返してきた。「ありがと、菜々」
ありがと。それは、あたしの台詞だと思うんだけどな。
あたしはあえてそれを言わず黙り込み、代わりに小さなため息をついた。
一真は小学校の時からの幼馴染みで、小学生の時は三年生と四年生の時に同じクラスになって、中二の時と三年になった今、また同じクラスになった。
思えば長い付き合いだなと思う。一緒にいるのが当たり前みたいになってた。
色白で小柄で、運動神経がちょっぴり鈍くて、おっとりした一真は、見た目が女の子っぽくて可愛かったから、昔っからよくクラスの男子達にからかわれてた。
おとなしい一真をからかって苛めてるやつらを拳で撃退するのは、あたしの役目だ。
もともと喧嘩っ早かったあたしは生傷が絶えず、いつも一真に心配をかけていた。
一真は心配そうな顔をしてあたしの後をついてきて、傷の手当てをしてくれた。それに、ぼさぼさになった髪を梳いて、まとめてくれたりもした。
今は、一真を虐めるようなやつらはいない。
だからって安心ってわけでもない。
だって一真は男子たちのからかいの的にはならなくなったけど、女子たちの視線の的になってる。
一真はそれを知ってか知らずが、いつものほほんとしている。
わたしはため息をつく。
切ない気持ちになるのは、春の終わりだからじゃないのかも。
「ね、菜々? 髪の毛もっと伸ばさない?」
一真はあたしの髪を掴んだまま、腰を屈めてあたしの顔を覗き込んでくる。
一真はさっきから、あたしの髪をブラシで梳き、整え、結ってくれようとしている。一真は昔っから手先が器用で、髪の毛を結ったり縛ったりするのが上手だった。
まとまりの悪いあたしの髪の毛も、一真は難なくまとめてくれる。
「うーん、これ以上伸ばすのはめんどうだなぁ」
あたしはぼんやりと空を眺めたまま答えた。一真に髪を梳かれている今の状態は、まるで手綱を握られてるみたいで、ひどく落ち着かない。だけどその反面、奇妙な安堵感もある。
一真に髪を梳かれるのは、気持ち良くて、好きだ。
昔はもっと短くて、ちんまりとしたおさげくらいしかできなかった。いっそベリーショートにしたかったんだけど、一真に、「短いとかえって手入れが大変なんだよ」と丸めこまれて、結局やめた。
伸ばしてみようと思い立ったのは、去年あたりだったろうか。一真が、あたし以外の……同級生の女の子の髪の毛を整えるのを見たのがきっかけだったかもしれない。
あたしはため息をつき、顔を一真の方に向け直した。
「一真は美容師になるんだよね? 進路、それで確定?」
「うん」
「それってさ、もしかして……」
「うん」
一真はにっこりと明るく笑って答えた。一真は幸せそうに微笑んで、肩甲骨につくかつかないかの長さのあたしの髪を、細い指に絡めている。
「もしかしなくても、菜々が勧めてくれたからだよ? 僕自身興味もあったから、菜々に背を押されたってところかな」
「そっかぁ……」
あたしは項垂れ、それから机に突っ伏した。
情けない顔を一真に見られたくなかった。
「すごいね、一真は」
「菜々?」
一真の声が近い。きっとあたしの隣に腰かけて、腕の隙間からあたしの顔を覗き込もうとしてるに違いない。
「どうしたの、菜々? 僕、何か気に障るようなこと言った?」
「ううん。そうじゃないよ。一真はちっとも悪くないし、すごいって言ってるの。それでちょっとへこんじゃっただけ」
「菜々、泣いてるの?」
「泣いてない」
それを証明するために、顔を上げた。思った通り一真はあたしの横に腰をおろして、心配そうな目をしてあたしのことをじっと見つめている。一真のその気遣わしげな目は昔から変わらない。
それなのに、変わってきているんだ。
一真はもう昔のいじめられっこの一真じゃない。あたしの後を仔犬みたいに追いかけてきた一真じゃないんだ。
「一真はもう自分の進路決めてるんだよね。それってすごいなって思って。あたしなんかまだ全然、何にも考えてなくってさ。一真はさ、もうとっくにあたしのことなんて追い抜いちゃってるんだなぁって」
「菜々が僕の手を引っ張ってくれたからなんだよ?」
一真はあたしの腕に、さっきまで器用に動かしていた手を置いた。
一真はあたしを見つめ続けている。真剣なまなざしが、あたしの目を逸らさせない。
「菜々、僕に言ったよね。苛められていじけてばかりいた僕に」
小学四年の春のことだったよ、と一真が言った。
クラスのいじめっこ達にからかわれ、一真は半ベソをかいていた。いつも、そうだった。ひどいよとか、どうしてとか、半泣きになってぐずっていた。
あたしはいじめっこ達を撃退した後、一真の手を引っ張って歩き出した。あたしは擦り傷と打撲を負ったけど、いつものことだったから、別段気にしてなかった。一真の方が痛そうな、苦しそうな顔をしていた。
一真はしょんぼりと項垂れて、弱音を吐いた。今にして思うと、一真の弱音を聞いたのは、あれが最初で最後だったかもしれない。
「僕、菜々ちゃんに助けられてばっかりだね。ダメなやつだって、菜々ちゃんも思ってるよね?」
「何言ってんの? 一真は全然ダメじゃないよ!」
あたしは振り返り、憤然として言い返した。
「誰かを苛めていい気になってるやつらなんかより、一真の方がずっと偉いよ!」
「だけど」
「このまえさ、一真、うちのおねーちゃんの髪をきれいに結んで飾って、きれいにしてくれたよね?」
唐突に話が変わって、一真は赤くなってる目をぱちくりさせた。
「あの時おねーちゃんすっごく喜んで、ほんとに嬉しそうだった。そういう風に、誰かを喜ばせていい気持ちにさせるのって、すっごいことだと思う。簡単そうで簡単じゃないもん。そういうのができる一真はすごいんだよ! あんなやつらより何倍もすごくて、最強なんだよ! だから自分のことダメなんて言わないでさ、一真は一真にできることをやればいいんだよ。一真を苛めるやつはあたしが撃退してやるし! ねっ!?」
「菜々ちゃん……」
そしてあたしは、一真に美容師になったらって勧めたんだっけ。あたしも協力するからって。
一真は、あたしの身勝手ともいえる励ましと要望を、「嬉しかったんだ」と語った。
「僕はいつも菜々に庇われてばかりだったでしょ? 嬉しかったんだけど、情けなくて、自分のそういう弱いところがすごく嫌だったんだ。だけど菜々は、僕を弱虫だとか男のくせにだとか、そういうこと、一度だって言わなくて、それどころか強いって言ってくれた。それがすごく嬉しかったんだ」
「…………」
照れくさくなって、顔を背けた。
一真に見つめられると、どきどきする。なんだか泣きそうになる。
「だからいじめっこなんかに負けないって決めた。もう僕のせいで菜々に怪我させたくなかったから」
それではじめていじめっ子たちに逆らったのだと一真は言った。
いじめっ子たちも、まさか反撃してくるとは思わなかったようですごく驚いたらしい。そもそも、一真をからかってたのは、「可愛い子をついいじめたくなる」心理ってやつだったみたいで、以後、反省したのかどうなのか、からかうようなことはしなくなった。
あたしの知らないところで話がついてたらしくて、ほっとしたけど、すごく拍子抜けした気分だったのを、今でも覚えてる。
「僕はあれからずっと菜々のこと追いかけてるんだ」
「え?」
「いつになったら菜々に手が届くのかなぁって、必死で追いかけてた。引っ張ってもらうんじゃなくて、手を繋いで一緒に歩きたいって思ってた。後ろをついていくんじゃなくて、横に並びたかったんだ。だから菜々が励ましてくれたように、僕は僕のできることをしてそれで頑張って、菜々の傍に行こうって思ったんだ。……ねぇ、菜々? こっち向いてよ」
そんなこと、言われても。
なんだか、泣きそうな気分。
「…………」
「ちゃんと菜々の顔見て、言いたいんだ」
「お礼? それならさっき聞いた」
「そうじゃないよ。ねぇ、もしかして菜々、焦らして楽しんでる?」
「な、なんのこと? 何言ってるの?」
思わず振り返ってしまった。と、それとほぼ同時だった。
一真はいきなり両腕をあたしの背に回し、肩口に額を乗せた。そしてちょっと切なげな声で言ったのだ。
「僕、菜々のことが好きだよ」
「……っ」
あたしは息を詰まらせた。二の句が出ず、体も金縛りにあったみたいに動かない。
一真のあたしを抱きしめる腕は、きつくもなくゆるくもなく、なんとなくぎこちないものだった。
「菜々のこと、大好きだ」
「なっ、なん……っ」
「これからもずっと、菜々の傍にいたいし、こうやって触れていたいって思う」
一真は顔をあたしの肩から離した。だけど腕は解いてくれない。そしてこそばゆいような笑みを浮かべた。あたしの髪に頬ずりして。
あたしは身じろぎもできない。
「菜々の髪、気持ちいい」
「やっ、やらしいよ、その言い方っ! っていうか、急に何? 急にそんなこと言われてもあたし……」
ここでようやく、一真はあたしから少し体を離してくれた。とはいえ、二の腕は掴まれちゃってるから、逃げ出そうにも逃げ出せない。
「急じゃないよ? 遅いくらいだって、菜々も思ってるんじゃない?」
「……そんなこと……」
「だって菜々、はっきり言ってほしそうだったもの。拗ねてるみたいにそっぽ向いてため息ついて、僕が何も言わないからイライラしてるのかなって。だから、菜々」
「……っ」
心臓が破れそう。耐えきれず、あたしはまたそっぽを向いた。
顔だけじゃなく、耳まで赤くなってるの、鏡を見なくたって分かる。きっと目も赤くなってる。鼻の頭まで赤くなってるんじゃないかな。……だって、なんだか泣きそうだ。
「あたし、一真が言うほど、強くないし」
「うん」
「先を歩いてなんて……ないよ」
「うん」
「一真の方がずっと、……っ」
声が詰まってしまう。
こうして一真と向かい合ってるの、すごく緊張する。
胸のどきどきも、一真に聞こえてそうなくらい。
「菜々も言ってくれたらいいのに」
「な、何をっ」
「菜々の気持ち」
「そんなのっ」
あたしはみっともないくらいに狼狽しまくって、泡を食っている。
一方の一真は、憎らしいくらい余裕綽々で、いじめられっこの片鱗はもうどこにもなくなってる。
あたしのほうが、弄られてるみたい。
口惜しくはないけど、やっぱりなんか、……ずるいって思っちゃう。
「うーん、そうだな、言わないなら、……代わりに」
「えっ」
「いいよね? ちょっとだけ」
「……っ!?」
一真はしたりと笑って、あたしの絶句を、諾と勝手に解釈した。そしてあたしの体を引き寄せる。
やわらかく、唇の先を触れさせるだけの、一瞬の軽いキス。あっけないほどの、ファーストキスだった。
一真は照れくさそうに笑って言った。
「ありがと、菜々」
あたしはちょっと、茫然自失としている。
射しこんでくる西陽が一真の白い容貌を照らし、淡い朱の色を浮かせていた。だけど、あたしの顔は一真よりも濃い朱色に染まっているのだろう。
「これからも一緒にいようね」と一真に言われ、笑顔につられるようにこくんと頷いた。
そうしてからやっと、あたしは我に返った。
「後ろじゃなくて、ちゃんと横にいてよねっ」
一真は満面の笑みで「うん」と頷く。
そして「もう一回」と、今度は額に口づけた。
「とっ、とりあえず、髪、ちゃんと結んでよ。ふつーに、みつあみでいいからっ」
「うん」
そしてまた、一真は満足げに笑った。
遠くに、人の声がする。部活動に励んでいる生徒たちの声だろう。
風が吹くと、他にもいろんな声や音が聞こえてくる。春の終わり、この季節はちょっと切なくなる。
「桜も、もうすっかり葉桜になっちゃったね」
のほほんとした口調で一真は言う。言いながら、手は休めず、あたしの髪をいじっていた。
一真の器用な手は、あたしのあまり行儀のよろしくない髪の毛を、まるで猛獣使いみたいに手なずけて、見違えるほどきれいに落ち着かせて、まとめてくれる。
「相変わらず器用だね」とあたしが感心して言うと、一真は上機嫌に笑って「練習させてくれる人がいるからね」と返してきた。「ありがと、菜々」
ありがと。それは、あたしの台詞だと思うんだけどな。
あたしはあえてそれを言わず黙り込み、代わりに小さなため息をついた。
一真は小学校の時からの幼馴染みで、小学生の時は三年生と四年生の時に同じクラスになって、中二の時と三年になった今、また同じクラスになった。
思えば長い付き合いだなと思う。一緒にいるのが当たり前みたいになってた。
色白で小柄で、運動神経がちょっぴり鈍くて、おっとりした一真は、見た目が女の子っぽくて可愛かったから、昔っからよくクラスの男子達にからかわれてた。
おとなしい一真をからかって苛めてるやつらを拳で撃退するのは、あたしの役目だ。
もともと喧嘩っ早かったあたしは生傷が絶えず、いつも一真に心配をかけていた。
一真は心配そうな顔をしてあたしの後をついてきて、傷の手当てをしてくれた。それに、ぼさぼさになった髪を梳いて、まとめてくれたりもした。
今は、一真を虐めるようなやつらはいない。
だからって安心ってわけでもない。
だって一真は男子たちのからかいの的にはならなくなったけど、女子たちの視線の的になってる。
一真はそれを知ってか知らずが、いつものほほんとしている。
わたしはため息をつく。
切ない気持ちになるのは、春の終わりだからじゃないのかも。
「ね、菜々? 髪の毛もっと伸ばさない?」
一真はあたしの髪を掴んだまま、腰を屈めてあたしの顔を覗き込んでくる。
一真はさっきから、あたしの髪をブラシで梳き、整え、結ってくれようとしている。一真は昔っから手先が器用で、髪の毛を結ったり縛ったりするのが上手だった。
まとまりの悪いあたしの髪の毛も、一真は難なくまとめてくれる。
「うーん、これ以上伸ばすのはめんどうだなぁ」
あたしはぼんやりと空を眺めたまま答えた。一真に髪を梳かれている今の状態は、まるで手綱を握られてるみたいで、ひどく落ち着かない。だけどその反面、奇妙な安堵感もある。
一真に髪を梳かれるのは、気持ち良くて、好きだ。
昔はもっと短くて、ちんまりとしたおさげくらいしかできなかった。いっそベリーショートにしたかったんだけど、一真に、「短いとかえって手入れが大変なんだよ」と丸めこまれて、結局やめた。
伸ばしてみようと思い立ったのは、去年あたりだったろうか。一真が、あたし以外の……同級生の女の子の髪の毛を整えるのを見たのがきっかけだったかもしれない。
あたしはため息をつき、顔を一真の方に向け直した。
「一真は美容師になるんだよね? 進路、それで確定?」
「うん」
「それってさ、もしかして……」
「うん」
一真はにっこりと明るく笑って答えた。一真は幸せそうに微笑んで、肩甲骨につくかつかないかの長さのあたしの髪を、細い指に絡めている。
「もしかしなくても、菜々が勧めてくれたからだよ? 僕自身興味もあったから、菜々に背を押されたってところかな」
「そっかぁ……」
あたしは項垂れ、それから机に突っ伏した。
情けない顔を一真に見られたくなかった。
「すごいね、一真は」
「菜々?」
一真の声が近い。きっとあたしの隣に腰かけて、腕の隙間からあたしの顔を覗き込もうとしてるに違いない。
「どうしたの、菜々? 僕、何か気に障るようなこと言った?」
「ううん。そうじゃないよ。一真はちっとも悪くないし、すごいって言ってるの。それでちょっとへこんじゃっただけ」
「菜々、泣いてるの?」
「泣いてない」
それを証明するために、顔を上げた。思った通り一真はあたしの横に腰をおろして、心配そうな目をしてあたしのことをじっと見つめている。一真のその気遣わしげな目は昔から変わらない。
それなのに、変わってきているんだ。
一真はもう昔のいじめられっこの一真じゃない。あたしの後を仔犬みたいに追いかけてきた一真じゃないんだ。
「一真はもう自分の進路決めてるんだよね。それってすごいなって思って。あたしなんかまだ全然、何にも考えてなくってさ。一真はさ、もうとっくにあたしのことなんて追い抜いちゃってるんだなぁって」
「菜々が僕の手を引っ張ってくれたからなんだよ?」
一真はあたしの腕に、さっきまで器用に動かしていた手を置いた。
一真はあたしを見つめ続けている。真剣なまなざしが、あたしの目を逸らさせない。
「菜々、僕に言ったよね。苛められていじけてばかりいた僕に」
小学四年の春のことだったよ、と一真が言った。
クラスのいじめっこ達にからかわれ、一真は半ベソをかいていた。いつも、そうだった。ひどいよとか、どうしてとか、半泣きになってぐずっていた。
あたしはいじめっこ達を撃退した後、一真の手を引っ張って歩き出した。あたしは擦り傷と打撲を負ったけど、いつものことだったから、別段気にしてなかった。一真の方が痛そうな、苦しそうな顔をしていた。
一真はしょんぼりと項垂れて、弱音を吐いた。今にして思うと、一真の弱音を聞いたのは、あれが最初で最後だったかもしれない。
「僕、菜々ちゃんに助けられてばっかりだね。ダメなやつだって、菜々ちゃんも思ってるよね?」
「何言ってんの? 一真は全然ダメじゃないよ!」
あたしは振り返り、憤然として言い返した。
「誰かを苛めていい気になってるやつらなんかより、一真の方がずっと偉いよ!」
「だけど」
「このまえさ、一真、うちのおねーちゃんの髪をきれいに結んで飾って、きれいにしてくれたよね?」
唐突に話が変わって、一真は赤くなってる目をぱちくりさせた。
「あの時おねーちゃんすっごく喜んで、ほんとに嬉しそうだった。そういう風に、誰かを喜ばせていい気持ちにさせるのって、すっごいことだと思う。簡単そうで簡単じゃないもん。そういうのができる一真はすごいんだよ! あんなやつらより何倍もすごくて、最強なんだよ! だから自分のことダメなんて言わないでさ、一真は一真にできることをやればいいんだよ。一真を苛めるやつはあたしが撃退してやるし! ねっ!?」
「菜々ちゃん……」
そしてあたしは、一真に美容師になったらって勧めたんだっけ。あたしも協力するからって。
一真は、あたしの身勝手ともいえる励ましと要望を、「嬉しかったんだ」と語った。
「僕はいつも菜々に庇われてばかりだったでしょ? 嬉しかったんだけど、情けなくて、自分のそういう弱いところがすごく嫌だったんだ。だけど菜々は、僕を弱虫だとか男のくせにだとか、そういうこと、一度だって言わなくて、それどころか強いって言ってくれた。それがすごく嬉しかったんだ」
「…………」
照れくさくなって、顔を背けた。
一真に見つめられると、どきどきする。なんだか泣きそうになる。
「だからいじめっこなんかに負けないって決めた。もう僕のせいで菜々に怪我させたくなかったから」
それではじめていじめっ子たちに逆らったのだと一真は言った。
いじめっ子たちも、まさか反撃してくるとは思わなかったようですごく驚いたらしい。そもそも、一真をからかってたのは、「可愛い子をついいじめたくなる」心理ってやつだったみたいで、以後、反省したのかどうなのか、からかうようなことはしなくなった。
あたしの知らないところで話がついてたらしくて、ほっとしたけど、すごく拍子抜けした気分だったのを、今でも覚えてる。
「僕はあれからずっと菜々のこと追いかけてるんだ」
「え?」
「いつになったら菜々に手が届くのかなぁって、必死で追いかけてた。引っ張ってもらうんじゃなくて、手を繋いで一緒に歩きたいって思ってた。後ろをついていくんじゃなくて、横に並びたかったんだ。だから菜々が励ましてくれたように、僕は僕のできることをしてそれで頑張って、菜々の傍に行こうって思ったんだ。……ねぇ、菜々? こっち向いてよ」
そんなこと、言われても。
なんだか、泣きそうな気分。
「…………」
「ちゃんと菜々の顔見て、言いたいんだ」
「お礼? それならさっき聞いた」
「そうじゃないよ。ねぇ、もしかして菜々、焦らして楽しんでる?」
「な、なんのこと? 何言ってるの?」
思わず振り返ってしまった。と、それとほぼ同時だった。
一真はいきなり両腕をあたしの背に回し、肩口に額を乗せた。そしてちょっと切なげな声で言ったのだ。
「僕、菜々のことが好きだよ」
「……っ」
あたしは息を詰まらせた。二の句が出ず、体も金縛りにあったみたいに動かない。
一真のあたしを抱きしめる腕は、きつくもなくゆるくもなく、なんとなくぎこちないものだった。
「菜々のこと、大好きだ」
「なっ、なん……っ」
「これからもずっと、菜々の傍にいたいし、こうやって触れていたいって思う」
一真は顔をあたしの肩から離した。だけど腕は解いてくれない。そしてこそばゆいような笑みを浮かべた。あたしの髪に頬ずりして。
あたしは身じろぎもできない。
「菜々の髪、気持ちいい」
「やっ、やらしいよ、その言い方っ! っていうか、急に何? 急にそんなこと言われてもあたし……」
ここでようやく、一真はあたしから少し体を離してくれた。とはいえ、二の腕は掴まれちゃってるから、逃げ出そうにも逃げ出せない。
「急じゃないよ? 遅いくらいだって、菜々も思ってるんじゃない?」
「……そんなこと……」
「だって菜々、はっきり言ってほしそうだったもの。拗ねてるみたいにそっぽ向いてため息ついて、僕が何も言わないからイライラしてるのかなって。だから、菜々」
「……っ」
心臓が破れそう。耐えきれず、あたしはまたそっぽを向いた。
顔だけじゃなく、耳まで赤くなってるの、鏡を見なくたって分かる。きっと目も赤くなってる。鼻の頭まで赤くなってるんじゃないかな。……だって、なんだか泣きそうだ。
「あたし、一真が言うほど、強くないし」
「うん」
「先を歩いてなんて……ないよ」
「うん」
「一真の方がずっと、……っ」
声が詰まってしまう。
こうして一真と向かい合ってるの、すごく緊張する。
胸のどきどきも、一真に聞こえてそうなくらい。
「菜々も言ってくれたらいいのに」
「な、何をっ」
「菜々の気持ち」
「そんなのっ」
あたしはみっともないくらいに狼狽しまくって、泡を食っている。
一方の一真は、憎らしいくらい余裕綽々で、いじめられっこの片鱗はもうどこにもなくなってる。
あたしのほうが、弄られてるみたい。
口惜しくはないけど、やっぱりなんか、……ずるいって思っちゃう。
「うーん、そうだな、言わないなら、……代わりに」
「えっ」
「いいよね? ちょっとだけ」
「……っ!?」
一真はしたりと笑って、あたしの絶句を、諾と勝手に解釈した。そしてあたしの体を引き寄せる。
やわらかく、唇の先を触れさせるだけの、一瞬の軽いキス。あっけないほどの、ファーストキスだった。
一真は照れくさそうに笑って言った。
「ありがと、菜々」
あたしはちょっと、茫然自失としている。
射しこんでくる西陽が一真の白い容貌を照らし、淡い朱の色を浮かせていた。だけど、あたしの顔は一真よりも濃い朱色に染まっているのだろう。
「これからも一緒にいようね」と一真に言われ、笑顔につられるようにこくんと頷いた。
そうしてからやっと、あたしは我に返った。
「後ろじゃなくて、ちゃんと横にいてよねっ」
一真は満面の笑みで「うん」と頷く。
そして「もう一回」と、今度は額に口づけた。
「とっ、とりあえず、髪、ちゃんと結んでよ。ふつーに、みつあみでいいからっ」
「うん」
そしてまた、一真は満足げに笑った。



