かつて「ブタ皇子」と蔑まれた落ちこぼれ幼馴染が、十年後に仮面のスパダリ易術師となって帰ってきました 〜私だけにみせる甘い素顔に翻弄されています〜

 一冊目から二冊目、三冊目へと、焼けてしまった台帳の頁を頭の中でたどっていく。
 どの宮にいつ何がどれだけ届いたのか、記録は一行も欠けずに浮かんでくる。母の角ばった字も、私が綴じ糸を繕った跡も、目を閉じた暗がりに現れては消えていった。十年前の初夏の頁にたどりついて黒蜜草の行をなぞり、その年の最後の頁をめくる。
  控え一冊、内務府北蔵へ納む。
 自分の手で書いたその一行の上で、記憶が止まった。
 続いて浮かんできたのは、紙の上の文字ではない。控えを抱えて北蔵の扉をくぐったときの、乾いた紙と埃の匂いだ。三番目の棚に一年分を納めて振り返ると、隣の棚には縄で綴じた分厚い帳面が、天井近くまで積みあげられていた。
 門の荷改め帳だ。
 私ははっと目を開けた。
「……荷改め帳」
 声が、冷たい石の壁に跳ねかえる。
 後宮の門を通る荷は、門番が一つ残らず書きとめることになっている。品の名も、日付も、受け取りに出た者の名も。それが十日ごとに束ねられて、内務府へ納められるのだ。控えは年の暮れにしか作らないけれど、門の帳面は十日ごとに北蔵へ届く。半月前に安済堂の荷がくぐったのなら、その一行は、もう棚の上にある。
 証拠は、まだ消えていない。
 胸の奥に、ぽっと火がともった。この牢を出られさえすれば、あの方に伝えられさえすれば。
 格子にすがって外へ呼びかけてみたけれど、返事はなかった。いつのまにか、髭面の牢番の姿も見えなくなっている。滴る水の音が、変わらずに暗がりを刻んでいる。
 通路に足音が響いたのは、松明の火がずいぶん短くなったころだった。
 髭面の牢番ではなかった。暗がりから現れたのは、牢番の衣を着た痩せた男だ。顔の下半分を布でおおい、手に縄の束を下げている。男は無言で格子の鍵を開けると、牢の中へ入ってきた。
「交代の方ですか。あの、易術師様から何か……」
 言いかけた私の口を、男の手が乱暴にふさいだ。
 あっというまに石の床へ押し倒され、首に粗い縄が巻きつく。息が詰まり、目の前が白く弾けた。もがく指先が藁をかき、男の腕に爪を立てても、相手はびくともしない。
「騒ぐな。罪を悔いて、自分で首をくくった。明日の朝には、そういう話になる」
 頭の上で、しわがれた声が笑う。縄の端が、梁から下がった鉤へと投げあげられる。
 死ぬのだ、と思った。真相は闇に沈み、私の名には罪だけが残る。十年前の煌月様と同じように。あの方に、荷改め帳のことを伝えることもできないまま。屋根裏の本の続きを、二人で読む約束も果たせないまま。
 縄が、ぐいと引かれた。
 その瞬間、通路の奥で、扉が叩き割られる轟音が響いた。
「そこまでだ!」
 松明の火影の中へ、黒衣の男が飛びこんでくる。高く掲げた手の中で、白玉の牌が光った。帝の玉牌だ。
 男は舌打ちして縄を放し、腰の刀を抜きはなった。床に転がった私の上を、刃の光がよぎっていく。
 けれど、刀が振りおろされることはなかった。
 黒衣の影は、目で追えないほどの速さで男の懐へ踏みこんでいた。刀を握る手首をつかんでひねりあげ、そのまま肘を逆に極める。鈍い音とともに刀が床に落ち、次の瞬間には、男の体が石の壁に叩きつけられていた。
 あとから駆けこんできた近衛の兵たちが、男を縄で縛りあげる。顔の布をはぎ取られた男は、歯をむいて私たちをにらみつけた。
「誰の差し金だ」
 鋭く問われても、男は唇をゆがめて黙りこんだままだった。
「殺すな。大事な生き証人だ」
 兵たちにそう命じてから、黒衣の人は私のそばに膝をついた。首に絡んだ縄を、震える指でほどいていく。
「小夜、小夜……!」
 銀の仮面の向こうから、かすれた声が私の名を呼んだ。冷たい易術師の声ではない。屋根裏で泣いていた、あの子の声だった。
「……煌月、様」
 咳きこみながら名を呼ぶと、仮面の下の唇がわなないた。煌月様の指が、私の首に残った縄の痕にそっと触れる。その指先が、怒りをこらえるように強ばっていた。
「遅くなって、ごめん。……本当に、ごめん」
「来てくださるなんて、思っていませんでした。謹慎を命じられたと、明鈴から聞いて……」
「来るよ。君がどこにいたって、何度でも」
 煌月様は私の肩を抱き起こしながら、ここへ来られたわけを手短に話してくれた。
 夕方、衛士の目を盗み、玉牌を使って帝にひそかに目通りしたのだという。夜啼草の見立ても、十年前と同じ黒蜜草の搬入も、何もかも打ち明けたそうだ。帝は相手に気づかれないよう、儀の場で私を放免するおつもりだったという。
「でも、それまで君が無事でいられる保証はなかった。台帳を燃やした連中が、調べていた君を生かしておくはずがない。だから今夜のうちに僕が牢へ行くと申しでて、お許しをもらったんだ」
 あと一歩遅れていたら、と言いかけて、煌月様は唇をかんだ。
 次の瞬間、私の体はふわりと宙に浮いていた。煌月様が、私を両腕に抱きあげたのだ。
「二度と、君を誰にも奪わせない」
 耳もとで、低い声がささやいた。その声が、かすかに震えている。私は煌月様の胸にしがみついて、ただうなずいた。冷えきっていた体に、黒衣越しの温もりがじわじわと伝わってくる。
「お、降ろしてください。自分で歩けます」
「だめ。足が震えてるよ」
 言われて初めて、自分の膝ががくがくと笑っているのに気がついた。まわりの兵たちが、見て見ぬふりをして目をそらしている。頬が燃えるように熱くなって、私は黒衣の胸もとに顔をうずめるしかなかった。
「煌月様、大事なことが。門の荷改め帳が、北蔵にあります」
「荷改め帳?」
「蔵書楼の台帳は、毎年暮れに写しを内務府へ納めています。十年前の分なら、北蔵の三番目の棚、上から二段目です。半月前の荷はまだ控えになっていませんが、門を通った荷は十日ごとに帳面にまとめられて、同じ蔵へ納められているんです」
 煌月様が、はっとしたように私を見下ろした。
「……君って人は」
 煌月様は笑ったのか泣いたのかわからない声でつぶやいて、私を抱く腕に力をこめた。
「このあとの手はずを話しておくね。父上の近衛が、もう牢番と入れかわっている。外へは異状なしとだけ報せて、刺客を捕らえたことも伏せておく。仲間が戻らなければ、向こうは刺客が逃げたと思うだろう。君がまだ牢の中にいると思わせたまま、明日の儀を迎えるんだ」
 抱きかかえられたまま通路を抜けていくと、角ごとに見慣れない兵が立っていた。兵たちは煌月様の姿を見ると、黙って頭を下げた。
 地上に出てようやく降ろしてもらうと、私は煌月様に手を引かれて、人気の絶えた外廷の回廊を走った。近衛が帝のお許しを告げると、内務府の門番は目を丸くして道をあける。北蔵の重い扉を押しあけると、乾いた紙と埃の匂いが鼻をくすぐった。毎年の暮れ、母と二人でこの扉をくぐり、一年分の控えを棚に納めてきたのだ。母が亡くなってからは、私が一人で運んでいる。手燭の明かりを頼りに、私は三番目の棚の前に立った。
 上から二段目には、埃をかぶった綴りの背がずらりと並んでいる。その中の一冊に指をかけ、そっと引きだした。
 表紙には、見慣れた角ばった字で、十年前の年号が記されていた。
 頁を繰る指が震える。初夏の月の半ばの頁に、あの一行が確かにあった。
  安済堂より第一貴妃宮へ 香料・黒蜜草 二包 受取 陶全
 隣の棚に積まれた荷改め帳にも、半月前の日付で、安済堂の荷がはっきりと書きとめられている。
「……見つけたね」
 背後で手燭をかざしていた煌月様が、ほっと息を吐いた。
「十年前、父上は呪符に書かれた僕の名だけを見て、僕を北へ送った。でも今度は、君の記録がある。記録は嘘をつかない」
 燃えてなどいない。母が残してくれたものは、ここにちゃんと生きていたのだ。
 私は母の字で記された表紙を、両腕で強く胸に抱きしめた。
 立太子の儀の朝、大広間には百官の色とりどりの衣がひしめいていた。
 つややかな石の床に、文官と武官が左右に幾列にも並んでいる。正面の玉座には帝がおつきになり、その一段下には、晴れやかな錦の装束に身を包んだ煌輝様が胸を張って控えていた。やや離れた席には、すっかり血色を取り戻した麗華様の姿もある。その背後に、陶全が影のように寄りそっていた。
 私は大広間の脇に下ろされた御簾の陰で、膝の上の二冊の綴りを握りしめていた。北蔵から持ちだした控えの台帳と、荷改め帳だ。夜明け前に牢を出たあと、帝の近衛にかくまわれて湯を使い、借り物の衣に着替えさせてもらった。首の縄の痕は、高い襟がどうにか隠してくれている。
 御簾の隙間から、煌輝様の横顔が見えた。口もとに、隠しきれない笑みが浮かんでいる。蔵書楼は灰になり、台帳を調べていた紙魚はいまも牢につながれている。そう信じきっている顔だった。
 鐘が三度鳴ると、大広間のざわめきが波の引くように消えていく。
「易術師、月白。天意を問え」
 侍従の呼び声とともに、黒衣の易術師が玉座の前へ進みでた。銀の仮面が、朝の光を白く跳ねかえす。謹慎を解かれたばかりのはずなのに、その背筋には迷いのかけらもない。
 月白は筮竹の束を両手に捧げもち、目を閉じた。乾いた音を立てて竹が分けられ、数えられ、また束ねられていく。百官が息をつめて見守る中、やがて月白はゆっくりと顔を上げた。
「天に、偽りの雲あり」
 大広間に、重い沈黙が落ちた。
「この後宮を、十年にわたって偽りの雲がおおっております。雲を払わぬまま次の帝を定めれば、国は必ず乱れましょう」
「易者め、何を言いだす!」
 煌輝様が声を荒らげて立ちあがった。
「その者は、母上を呪った罪人だぞ。手先の女も、とうに牢につないである。罪人の卦など聞く耳は持たぬ!」
「口を慎め、煌輝」
 帝の声が、低く大広間に響いた。煌輝様の頬がこわばる。帝は玉座の上から、御簾のほうへ目を向けた。
「蔵書楼の小夜を、これへ」
 近衛の兵が御簾を上げる。私は二冊の綴りを胸に抱えて立ちあがり、百官の居並ぶ真ん中へ進みでた。
 煌輝様の顔が、紙のように白くなっていくのが見えた。麗華様の背後で、陶全の細い目が大きく見開かれる。
「朕の命により、蔵書楼の小夜は放免した。この者は罪人ではない。証人である」
 帝の言葉に、大広間がどよめいた。私は床に膝をつき、震える指を組みあわせる。問われたことにだけ答えなさい、という女官長の声が、ふと頭をよぎった。今日だけは、問われたこと以上のことまで、すべて答えてみせる。
「小夜。そなたの知ることを申せ」
「はい」
 私は顔を上げ、目を閉じた。灰になったはずの頁が、暗がりの中に鮮やかに浮かびあがる。
「十年前、初夏の月の十四日。搬入台帳、四十三頁、上から七行目。安済堂より第一貴妃宮へ、香料・黒蜜草、二包。受け取りの印は、第一貴妃様付きの宦官、陶全」
 大広間が、水を打ったようになった。
「続いて、今年の荷改め帳。半月前の日付、東門の欄の三行目。安済堂より第一貴妃宮へ、香料・黒蜜草、一包。受け取りは同じく陶全」
 近衛の兵が私の手から二冊の綴りを受けとり、内務府の役人に渡す。役人はせわしなく頁を繰り、やがて帝を振り仰いだ。
「……一字一句、たがえておりません」
 控えは、原本と頁を一枚ずつ合わせて書き写す。それが、母から教わったしきたりだった。
「黒蜜草とは、夜啼草の別名でございます」
 月白が、落ちついた声で言葉を継いだ。
「香に焚けば甘く匂い、口に含めば悪い夢を見せ、肌に黒い痣を浮かせます。量を加減すれば、命までは奪いません。医官殿、貴妃様の爪をお検めください。付け根に、紫の筋が残っているはずです」
 帝が目で合図をすると、医官たちが麗華様のもとへ進みでた。貴妃様は扇をかざしたまま身を引こうとしたけれど、帝の前でそれ以上拒むことはできない。差しだされた白い指先を検めた医官の一人が、声を震わせた。
「……ございます。十の爪すべてに、紫の筋が」
「ほかにも、お目にかけたいものがございます」
 月白の言葉を受けて、刑部の役人が二枚の紙を捧げもって進みでた。一枚は、先日麗華様の枕の下から見つかった呪符だ。もう一枚は、刑部の証拠蔵から運ばれてきた、十年前の呪符だった。黄ばみ方こそ違うものの、朱の囲みの描き方も名の最後の一画だけを墨で書く癖も、筆の運びまでが寸分たがわなかった。
「同じ者の筆にございます」
 刑部の役人が言いきった、そのときだった。大広間の奥の扉が開き、縄を打たれた男が近衛の兵に引きたてられてきた。ゆうべ、牢で私の首に縄をかけた男だ。
 男は帝の前に突きだされると、がくりと膝をついた。
「申しあげます。私は、陶全様に命じられて、牢の女の口を封じに参りました。呪符を書いたのも、蔵書楼に火を放ったのも、陶全様ご自身でございます。その女の部屋に偽の書き付けを忍ばせたのも、陶全様の言いつけにございます」
 百官の目が、いっせいに一人の宦官へ注がれた。陶全の痩せた顔が、みるみるゆがんでいく。
「で、でたらめを申すな! 私は、私はただ、殿下のお指図に……」
 言いかけて、陶全ははっと口をつぐんだ。けれど、こぼれた言葉はもう取り消せない。
「殿下、とは誰のことか」
 帝の問いに、陶全は答えなかった。答えるまでもなく、大広間じゅうの視線が、玉座の一段下に立つ人へ向けられていた。
「ち、違う、父上! 私は何も知らぬ。すべて陶全が勝手に……」
 煌輝様の叫びをさえぎるように、甲高い泣き声が上がった。
 麗華様だった。扇が手から滑り落ち、床に転がる。麗華様は椅子から崩れるように床へ伏し、両手で顔をおおった。
「お許しくださいませ、帝……! 十年前も今度も、毒はわたくしが自分で……煌輝を帝にしたい一心で、わたくしが……」
 途切れ途切れの声が、高い天井に吸いこまれていく。煌輝様はその場に立ちつくしたまま、何か言おうとして唇を震わせ、それきり言葉を失った。
 十年前、満足に調べられもしないまま罪を着せられ、北へ送られた皇子がいた。その罪が、いま、百官の前で晴れたのだ。
 月白が、ゆっくりと仮面の紐に手をかけた。
 紐がはらりとほどけ、銀の仮面が外される。燭台の火ではなく、高窓から降りそそぐ朝の光の中に、その素顔がさらされた。居並ぶ者たちの目が、その顔に吸いよせられた。
「第九皇子、煌月。十年ぶりに、父上の前へ参りました」
 澄んだ声が、大広間の隅々まで響きわたった。
 誰ひとり、すぐには動けなかった。やがて百官の列のあちこちから、押し殺したような声がもれはじめる。煌月様、まさか、あのブタ皇子が。かつて煌月様を笑いものにしていた異母兄や貴族たちが、一人、また一人と青ざめた顔で床に額をすりつけていく。凛とした美貌と、帝にも似た威厳を前にして、顔を上げていられる者は一人もいなかった。
 帝が、玉座からゆっくりと立ちあがった。
「……煌月」
 帝の声は、ひどくかすれている。父君は一段、また一段と玉座の階を下り、息子の前に立った。
「朕は、十年前、周りの声に押されてそなたを北へ送った。ろくに調べさせもせずに。……許せとは言わぬ。だが、詫びさせてくれ」
 帝が頭を下げると、居並ぶ百官が驚いたように顔を見あわせた。煌月様は黙ってその前に膝をつき、深く頭を垂れる。その肩が、小刻みに震えていた。
 帝はその場で、煌月様の皇子の位を元に戻すと告げた。煌輝様と麗華様は離宮に幽閉され、陶全は刑部で裁かれることになる。近衛に両腕を取られて引かれていく煌輝様は、最後まで一度も、異母弟のほうを振り返らなかった。
「蔵書楼の小夜」
 ふいに名を呼ばれて、私は慌てて額を床につけた。
「十年分の記録を守り、偽りの雲を払った功は大きい。焼けた蔵書楼は、朕が新しく建て直させよう。その楼を、そなたに任せる」
「わ、私に、でございますか」
 思わず聞きかえしてしまってから、私は慌てて唇を引きむすんだ。百官の列の端で、女官長が扇の陰からこちらを見ている。その目もとが、かすかにやわらいだ気がする。
 そのとき、目の前に影が差す。
 目を戻すと、煌月様が私の前に立っていた。そして百官の見守る中、迷うそぶりも見せずに私の前に片膝をつく。
「小夜」
 まっすぐに私を見上げる目は、屋根裏で一緒に本を読んだあの日と、何も変わっていなかった。
「『丸くて可愛い』と言ってくれた君に、生涯を捧げたい」
 百官の列が、さざ波のように揺れた。紙魚と呼ばれてきた女官が、皇子の隣に並べるはずがない。胸をかすめたその思いをさえぎるように、玉座から声が落ちた。
「新しい楼を預かる者だ。位に不足はあるまい」
 涙があふれて、目の前の顔がにじんでいく。言葉にしようとしても、嗚咽がこみあげて声にならない。私はただ煌月様の手を握りしめて、何度も何度もうなずいた。
 その瞬間、大広間の入り口のほうで、こらえきれないような歓声が上がった。振り返ると、開け放たれた扉の陰で、明鈴が両手で口をおおって泣き笑いしている。いつのまにもぐりこんだのか、その後ろからは見知った女官たちも何人か、目を輝かせてこちらをのぞいていた。
 その夜、私たちは月見台にいた。
 後宮の北の高台に設けられた古い月見台は、宴のとき以外はめったに人の来ない場所だ。昼間の騒ぎが嘘のように、あたりには虫の声だけが満ちている。欄干の向こうには、焼け落ちた蔵書楼の跡が、月明かりに黒く沈んで見えた。
 隣に立つ煌月様は、もう仮面をつけていない。皇子の位を戻されたばかりの人は、昼間とは打って変わって、どこか落ちつかなげに欄干を指でなぞっていた。
「屋根裏の本、燃えちゃったね」
「はい。……でも、あの本なら、外廷の書庫にも同じものがあるはずです。新しい蔵書楼ができたら、真っ先に棚に入れます」
「じゃあ、続きはそこで読もう。二人で」
「……母にも、見せてあげたかったです。新しい蔵書楼も、今日のことも」
「見ているよ、きっと。あれだけ丁寧に記録を残してくれた人なんだから。君の母上の字がなければ、僕は今日、父上の前に立てなかった」
 煌月様はそう言って、はにかむように笑った。それから急に口ごもり、月を見上げたり、足もとを見下ろしたりしはじめる。大広間で百官を黙らせた人と同じとは、とても思えない落ちつかなさだった。
「どうなさったのですか」
「いや、その……ひとつ、お願いがあって」
 月明かりの下でもわかるほど、煌月様の耳が赤く染まっていく。
「団子、また作ってくれる?」
 あまりにも昔のままの声に、私は思わず笑ってしまった。丸い頬いっぱいに団子を詰めこんでいた男の子が、いまはこんなにも大きくなって、私の前で耳の先まで染めている。
「はい。何度でも」
 私がうなずくと、煌月様の肩からふっと力が抜けた。そして、欄干に置いた私の手に、そっと自分の手を重ねる。
 その人差し指が、私の手の甲をとん、とんと二度叩いた。
 緊張したときや、言いにくいことを打ち明けようとするときの、あの癖だ。見上げると、煌月様の顔がすぐそこにあった。月の光を宿した瞳に、私だけが映っている。
 私はそっと目を閉じて、重ねられた手を握りかえした。
 唇に、温かいものが触れた。