第一貴妃の麗華様が呪いに倒れたと聞いたとき、真っ先に頭に浮かんだのは十年前の初夏の朝だった。
立太子の儀まであと三日に迫った朝のことだ。易術の間で記録の整理をしていると、宦官が血相を変えて廊下を駆けてきて、戸の外から裏返った声を張りあげた。
「易術師殿、第一貴妃様が呪いにお倒れに! ただちに宮へお越しください。帝のお召しでございます!」
月白は黙って仮面の紐を締めなおし、立ちあがった。私も筆を置いて、そのあとを追いかける。
第一貴妃様の宮は、後宮でいちばん日当たりのいい南の一角にある。朱塗りの門をくぐると、庭にまで人があふれ、ひそひそ声が渦を巻いていた。十年前のあの朝も、後宮じゅうがこんなふうにざわめいていたのだ。奥の寝所の前で人垣が割れ、私たちは帳の内へ通される。
寝台の上で、麗華様が細い声でうなされていた。
「来ないで……燃える、燃えてしまう……」
四十を過ぎてもなお美しいと評判のお顔は土気色に沈み、額には脂汗が浮いている。寝衣の袖からのぞく白い腕には、墨をこぼしたような黒い痣がいくつも散っていた。枕もとでは医官たちが額を寄せあい、その脇に煌輝様が沈痛な面持ちで膝をついている。帝は寝台から数歩離れた椅子に腰かけて、じっと目を閉じていらした。
「帝、こちらをご覧くださいませ」
進みでたのは、痩せて頬のこけた初老の宦官だった。第一貴妃様付きの陶全だ。台帳の上では何度も目にしてきた名前だけれど、本人の顔を見るのはこれが初めてだった。陶全は捧げもった盆を、帝の前で恭しく傾ける。
「今朝、貴妃様の御枕の下から見つかったものにございます」
盆の上には、黄ばんだ紙が一枚のっている。朱の線で幾重にも囲まれたその真ん中に大きく書かれていたのは、月白の名だった。
寝所の空気が、一瞬で凍りついた。
「父上!」
煌輝様が勢いよく立ちあがり、月白を指さした。
「儀を前にして母上を呪うなど、あってはならぬことです。この者をすぐに捕らえてください!」
「私が貴妃様を呪って、何の得がございましょう」
月白の声は、驚くほど落ちついていた。
「易者の代わりなどいくらでもいる、と殿下がおっしゃったのは、つい昨日のことと記憶しておりますが」
煌輝様のこめかみに、青筋が浮かぶ。何か言い返そうとしたその口を、帝の低い声がさえぎった。
「……捕らえはせぬ」
帝はゆっくりと目を開き、疲れきった顔で月白を見た。
「儀の卦を立てる者が要る。ただし、儀の日まで見張りをつける。それでよいな」
煌輝様は唇をかんで引きさがり、陶全は盆を捧げもったまま深々と頭を下げた。
その拍子に、盆の上の呪符が燭台の光をまともに受ける。私は思わず目を凝らした。
朱で書かれた「月白」の二文字のうち、「白」の最後の一画だけが、なぜか黒い墨で引かれている。
背筋に冷たいものが走った。私はこれと同じものを、どこかで見たことがある。蔵書楼の奥の棚にしまわれた、十年前の調書の写しだ。母が書き写したその調書には、煌月様の名を記して麗華様の枕の下に置かれていた呪符のありさまが細かく書きとめられていた。囲みも文字も朱で記された中で、名の最後の一画だけが墨で書かれていた、と。
喉もとまで出かかった言葉を、私はどうにか飲みこんだ。ここでそれを口にすれば、呪符を書いた者に、こちらが気づいたと知らせることになる。問われたことにだけ答えよと言った女官長の声が、耳の奥でよみがえる。
西の離れへ戻ると、易術の間の戸の両脇には、帝の衛士が二人立っていた。月白が侍従を下がらせて戸が閉まると、私は声をひそめて呪符の一画のことを話した。
仮面を取った煌月様の頬が、みるみるこわばっていく。
「確かなの?」
「調書の写しは、一字残らず覚えています。名の最後の一画だけを墨で書く呪符は、ほかの記録には一度も出てきません」
「十年前と同じ者が書いた、ということか」
煌月様は膝の上で拳を握りしめた。
「金を突き返した易者は、儀の前に片づけておきたいんだろう。呪いの罪をかぶせてしまえば、卦を立てる者を別に用意できる」
「それだけではないと思います」
口にしてから、自分の考えにぞっとする。それでも、私は続けた。
「呪われて倒れた母君と、その枕もとで嘆く孝行息子。儀の前にそんな姿を見せられたら、帝も百官も、煌輝様に同情を寄せずにはいられません」
煌月様は驚いたように私を見て、それから深くうなずいた。
「……十年前は、どうして煌月様だったのですか」
尋ねてから、私は唇をかんだ。聞いてはいけないことだったのかもしれない。けれど煌月様は、怒りもせずに答えてくれた。
「僕の母の実家は、都の西を守る軍を預かる家だったんだ。母が死んでも、父上がその家の力を頼って僕を立てるかもしれない。兄上たちにとっては、それが目障りだった」
「でも、煌月様は……」
兄たちに追われて泣いてばかりいた、と言いかけて、私は口をつぐんだ。
「落ちこぼれのブタ皇子だよ。笑われていたのも、母の家が強いだけの役立たずだと思われていたからだ」
煌月様は自嘲するように笑った。
「僕が北へ送られた年に、母の実家は辺境の守りに回された。いまの都には、僕の側に立つ者なんて一人も残っていない」
だから十年前は、泣いてばかりいる子どもでも的になったのだ。
「……問題は、貴妃様が本当に呪われているのかどうかだ。確かめるには、この目で検めるしかない」
その日の夕刻、帝のお声がかりで、月白は第一貴妃様の寝所に入ることを許された。呪いの疑いをかけられた者に祓いをさせるとは何事かと陶全は食いさがったけれど、祓えるものなら祓ってみよという帝の仰せには逆らえない。苦い顔で帳を上げるその脇を抜けて、私は記録係として月白の後ろに従った。
麗華様は、あいかわらずうわごとを繰り返していた。月白は寝台のそばに膝をつくと、筮竹を枕もとに並べ、低い声で祝詞を唱えはじめる。それから貴妃様の手首を取り、脈を診るふりをしながら、その指先を燭台の火にかざす。
月白の目が、貴妃様の爪の上でわずかに長くとどまったように見えた。
易術の間に戻って人払いをすませるなり、煌月様は仮面をむしり取るように外した。
「呪いじゃない。毒だよ」
「毒……ですか」
「爪の付け根に、紫の筋が浮いていた。夜啼草という草の毒だ。量を加減して口にすれば悪い夢にうなされ、肌に黒い痣が出る。度を越さなければ、命までは取られない」
煌月様は、迷いのない口調で言いきった。
「北の寺で拾ってくれた老師が、易と一緒に本草の書も叩きこんでくれたんだ。あの症状は、書に載っていたものとそっくり同じだった」
「では、すぐに帝にお知らせしないと」
「だめだ。誰の耳に入るかわからない。毒だと気づかれたことが向こうに知れたら、証拠を消される」
煌月様は私の目を見すえた。
「このことは、まだ君にしか話さない。父上にもだ」
その言葉に、胸の奥がざわりと波立った。君にしか話さない。それはうれしいはずの一言なのに、なぜか素直に喜べない。昨日まで、この方は古い記録のことを尋ねても、気の流れだとしか答えてくれなかったのだ。
「……煌月様は、最初から十年前のことを調べるために戻っていらしたのですか」
答えは、すぐには返ってこなかった。
文机の縁に置かれた人差し指が、とん、とんと二度鳴る。それから煌月様は、観念したように息を吐いた。
「そうだよ。僕が戻ってきたのは、十年前の冤罪を晴らすためだ。兄上が立太子してしまえば、もう誰も真相を掘り返せなくなる。その前に、何があったのかを暴かなきゃならない」
ずっと引っかかっていたものが、すとんと腑に落ちた。この方が知りたかったのは、はじめから十年前の真相だったのだ。
それなら、私が呼ばれた理由も同じなのだろうか。
「……私を専属にしたのは、記録のためだったんですか」
煌月様の唇が、何か言いかけて止まった。文机の上で、指先がもう一度だけ縁を叩く。けれど、そこから先の言葉はいつまでたっても出てこなかった。
「失礼いたします。今日の書付は、明日の朝にお持ちします」
私は頭を下げて、易術の間を出た。戸の脇に立つ衛士たちの視線が、背中に痛い。君に会いに来たというあの一言を、私は勝手に、自分の都合のいいように受けとっていただけなのかもしれない。そう思うと、喉の奥がつんと熱くなる。
その夜、私は灯りをともした蔵書楼に一人で残った。
悔しいけれど、手を止める気にはなれなかった。記録を扱う者が、記録から目をそらしてはいけない。母の口癖を、いまになって思い出す。あの方の思惑がどうであれ、十年前に罪を着せられたのが煌月様だったことに変わりはないのだ。
昼間に聞いた夜啼草という名を、私は頭の中で何度も転がしていた。どこかで、この名に出会った覚えがある。
思いあたったのは、十二のときに読んだ古い本草書だった。蔵書楼の最上段の棚に並ぶ、虫食いだらけの『諸草異名考』だ。その巻の七に、たしかこう書かれていた。
夜啼草は一名を黒蜜草といい、干して香に焚けば甘く匂い、口に含めば夢を乱す。
黒蜜草という名を思い浮かべた瞬間、私は文机の脇へ手を伸ばしていた。そこに積んであるのは、繕いかけのままの十年前の搬入台帳だ。初夏の月の半ばの頁を開く。呪いの騒ぎが起こったのは、その月の終わりのことだ。
安済堂より第一貴妃宮へ 香料・黒蜜草 二包 受取 陶全
思ったとおりの場所に、思ったとおりの文字が並んでいた。けれど末尾の名を見た瞬間、指先が冷たくなる。今朝、呪符をのせた盆を帝の前で傾けていた、あの痩せた宦官だ。
次に私は、自分の手で綴じたばかりの今の台帳を開く。半月前の日付の欄にも、同じ薬種商から同じ品が届き、同じ名が受取に記されていた。
安済堂より第一貴妃宮へ 香料・黒蜜草 一包 受取 陶全
十年前も今度も、貴妃様が「呪い」に倒れるちょうど半月前に、同じ毒草が香料の名で麗華様の宮へ届いている。
呪われたのではない。麗華様は、自分で毒を口にしたのだ。十年前も、そして今度も。量を加減して倒れてみせ、枕の下に呪符を仕込み、邪魔な者に罪をかぶせる。それを麗華様一人で思いつき、一人でやってのけたとは思えない。今朝、真っ先に月白を捕らえよと叫んだのが誰だったかを、私は覚えている。
夜が明けるのを待ちかねて、私は西の離れへ走った。二冊の台帳は、蔵書楼に置いたままだ。台帳を持ちだせば、それだけで人目を引いてしまう。
衛士の前を通りすぎ、二人きりになるやいなや、私は一晩で見つけたことを残らず話した。煌月様は一言も口をはさまずに聞き終えると、長い息を吐いた。
「……十年かかって、やっと尻尾をつかんだ」
「すぐに帝へお届けしましょう。台帳の頁を見ていただければ、きっと」
「待って」
立ちあがりかけた私の手首を、煌月様がつかんだ。
「十年前も、調べればわかることはあったはずなんだ。それでも裏で揉み消された。いま父上に差しだしても、同じことになる」
「では、どうなさるのですか」
「立太子の儀で、百官の前で示す。あの場でなら、誰にも揉み消せない」
煌月様の目には、私の見たことのない強い光が宿っていた。
「台帳は、儀の日まで蔵書楼に伏せておこう。いつもの棚の、いつもの場所に。紙魚の巣をわざわざのぞきに来る者はいないからね」
「紙魚の巣で、悪うございました」
思わず言い返して、私は口をつぐんだ。煌月様が、安堵したように目もとをゆるめたからだ。
昼すぎ、使いに出ていた侍従が、麗華様が粥を口にされたという話を持ち帰ってきた。医官たちは易術師の祓いが効いたのだと胸をなでおろしているそうだ。わずかな量の毒なら、日を追って抜けていくのも当然だった。
「祓いなんて、何もしていないんだけどね」
侍従が下がったあと、煌月様は筮竹を指先で回しながら苦笑した。
「毒を見抜いたのは、僕の易と本草だ。けれど、それが十年前と同じ手口だと突きとめたのは、君の記憶だよ。どちらが欠けても、ここまでは来られなかった」
そう言って筮竹を置くと、煌月様は私のほうへ向きなおった。
「力を貸してほしい。……相棒として」
相棒、という言葉が、耳に妙な響きを残す。昨日の問いの答えは、まだ聞かせてもらっていない。それでも、十年前の真相を暴きたいと願う気持ちだけは、私もこの方と同じだった。
「私は記録係ですから。記録が嘘をつかれたままでいるのは、我慢がなりません」
差しだされた手に、私は自分の手を重ねた。剣だこのある固い手のひらが、一度だけためらうように震えてから、私の指をしっかりと握りかえした。
立太子の儀まであと二日に迫ったその夜、私と煌月様は蔵書楼の二階に残って、台帳の写しを作ることにした。万一に備えて、写しは翌朝、西の離れへ移すことにしたのだ。
見張りの衛士たちは、蔵書楼の戸口の外で足を止めた。紙と黴の匂いがこもる二階まで、上がってくる気配はない。手燭の明かりの下で素顔に戻った煌月様と、私は文机を挟んで向かいあった。
十年前の台帳と今の台帳を開き、黒蜜草の行とその前後の頁を、一字一句たがえずに写していく。筆の音だけが、しんとした楼の中に響いた。十年前の頁に並んでいるのは、几帳面に角ばった母の字だ。黒蜜草の三文字を写しながら、母はこの品の正体を知っていたのだろうかと考えてしまう。
ふと、煌月様が筆を止めて天井を見上げた。
「この上に、あの屋根裏があるんだね」
「ええ。……あれから一度も、上がっていません」
そう答えると、煌月様は何も言わずに目を伏せ、また筆を動かしはじめた。梯子の口でもがいていた丸い背中が、ふいに瞼の裏によみがえる。
遠くで、低い地鳴りのような音がした。
窓の格子が白く浮かびあがり、ひと呼吸おいて、楼の屋根をたたき割るような雷鳴が轟く。大粒の雨が瓦を打ちはじめた音にまじって、向かいでがたりと文机が揺れた。
顔を上げると、煌月様が筆を取り落として、肩をすくめていた。
また窓が光る。雷鳴が楼を揺さぶるたびに、広い肩がびくりと跳ねあがる。名高い易術師で、帝の前でも堂々としていた人が、血の気の失せた顔で唇をかみしめていた。
「……煌月様」
「だ、大丈夫。ちょっと、驚いただけだから」
そう言ったそばから、ひときわ大きな雷が落ちた。煌月様の手が文机越しに伸びてきて、私の袖をぎゅっとつかむ。
十年前と同じ仕草だった。屋根裏で雷が鳴るたびに、あの子はこうして私の袖を握りしめて震えていたのだ。
気づけば、私は袖をつかむその手を、上からそっと包みこんでいた。
「昔と、同じですね」
「……かっこ悪いところを見せたね」
煌月様は情けなさそうに笑って、それでも私の手を放そうとはしなかった。雨音が、楼を包みこむように強くなっていく。
「小夜。昨日の答えを、言ってもいいかな」
つないだ手に、力がこもった。
「記録のためだけなら、君じゃなくてもよかった。記録に通じた古株の女官でも、女官長でも、誰でもね。でも僕は、どうしても君に隣にいてほしかったんだ」
煌月様は、私の手の甲に視線を落としたまま続けた。
「寺に流されて一年後に山崩れに遭って、老師に拾われてから九年、修行ばかりしてた。易も、本草も、剣も。何度も逃げだしたくなったよ。そのたびに思い出したのが、屋根裏で僕をかばってくれた君の顔だった」
雷鳴が、また遠くで轟く。けれど煌月様の手は、もう震えていなかった。
「君を守れる強い男になりたくて、地獄のような鍛錬にも耐えたんだ。冤罪を晴らしたいのは本当だけど、それ以上に、君の隣に胸を張って立ちたかった」
胸の奥で固く結ばれていたものが、音もなくほどけていく。君に会いに来た。あの日の一言は、半分だけの本当ではなかったのだ。
「……ずるいです。そういうことは、最初に言ってください」
「ごめん。危ないことに巻きこむとわかっていて、君の隣にいたいなんて、言えなかった」
私は首を振って、その手を握りなおした。再会してから、ずっと言えずにいた言葉が、ようやく喉の奥からこぼれてくる。
「……おかえりなさい、煌月様」
その人は目を見開き、それから泣き笑いのような顔でうなずいた。
「ただいま、小夜」
涙がこぼれそうになって、私は慌ててうつむいた。つないだ手の上に、ぽたりと一粒しずくが落ちる。煌月様の親指が、それをそっとぬぐった。
「儀が終わったら、屋根裏のあの本の続きを読もう。二人で途中までしか読めなかった、あの本」
「……はい」
雨は夜半すぎまで降りつづいた。写し終えた紙の束は、文机の下の箱にしまっておく。蔵書楼の戸口で衛士に囲まれて西の離れへ戻っていく黒衣の背中を、私は雨上がりの湿った闇の中で、いつまでも見送っていた。
けたたましい鐘の音で目を覚ましたのは、夜が白みはじめたころだった。
「火事だ! 蔵書楼が燃えているぞ!」
女官の宿舎の廊下を、誰かが叫びながら駆け抜けていく。私は寝衣のまま飛びおき、上衣を引っかけて外へ走りでた。
東の空が、朝焼けとは違う色に染まっていた。
雨上がりのぬかるみに足を取られながら、蔵書楼の前までたどりつく。百年分の記録を抱えた古い楼は、すでに屋根まで炎に包まれていた。ひと晩の雨で濡れていたはずの瓦の下から、黒い煙が渦を巻いて噴きだしている。宦官や下働きの者たちが桶を手に列を作っていたけれど、焼け石に水だった。
「中には、まだ台帳が……!」
駆けよろうとした私の腕を、誰かが後ろからつかんだ。振り返ると、女官長が煤だらけの顔で首を振っていた。
「おやめなさい。もう、誰にも近づけません」
「でも、女官長様。ゆうべはあれほど降っていたのに……」
「ええ。火の気など、どこにもなかったはずです。この燃え方は、尋常ではありません」
目の前で、二階の窓が音を立てて崩れ落ちる。十年前の搬入台帳も今の台帳も、母が書き写した調書の写しも、ゆうべ二人で作った写しも燃えていく。屋根裏に置き去りにしてきた読みかけのあの本も、母と私が守ってきたものも、何もかもが炎の中に沈んでいく。
膝から力が抜けて、私はぬかるみに座りこんだ。
それからどれほどたったのか、わからない。焼け落ちた楼から白い煙だけが立ちのぼるころ、ぬかるみを踏む大勢の足音が近づいてきた。顔を上げると、衛士を引き連れた陶全が、私を見下ろしていた。
「蔵書楼の小夜だな」
陶全は袖の中から、一枚の紙を取りだした。
「女官の宿舎のそなたの部屋から、これが見つかった。易術師より預かった符を、貴妃様の御枕の下へ納めた、と書いてある。末尾には、そなたの名もな」
「そんなもの、書いた覚えはございません! 筆跡を比べていただければ、すぐに……」
突きつけられた紙に目を走らせて、私は息を詰めた。そこに並んでいるのは、私の字によく似せた、けれど私のものではない筆跡だった。
「申し開きは、牢で聞こう」
「お待ちなさい。その子は、呪符などに手を出す子ではありません」
女官長が私の前に立ちはだかったけれど、陶全は薄い唇の端を吊りあげただけだった。
「女官長殿まで、易術師の肩をお持ちになるか。かばいだてなさるなら、そちらにもお話を伺わねばなりませんな」
女官長の肩が、悔しげに震える。陶全が短く命じると、衛士たちが私の両腕をつかんで引きずり立たせた。まわりを囲んでいた女官たちが、さっと道をあける。誰も、何も言わなかった。
焼け跡から連れだされるとき、私は一度だけ振り返った。黒く焼けただれた柱のあいだから、まだ細い煙が立ちのぼっている。十年前、兵に引かれていく煌月様を、私は梯子の下から見送ることしかできなかった。今度は、私が引かれていく番なのだ。
地下牢には、昼も夜もない。
石の壁は湿って冷たく、どこからか水の滴る音が絶え間なく聞こえてくる。明かりといえば、通路の奥の壁にかけられた松明がひとつきりだ。藁を敷いただけの床に膝を抱えて座っていると、指先からじわじわと温もりが抜けていく。
蔵書楼の冷えなら、知りつくしているつもりだった。けれどここの冷たさは、骨の芯まで染みこんでくる種類のものだ。
暗がりの中で、雨音と、つないだ手の温かさがよみがえってくる。儀が終わったら、屋根裏のあの本の続きを読もう。そう約束した屋根裏ごと、蔵書楼は焼け落ちた。あの方はいま、どうしているのだろう。私が捕らえられたことを、もう知っているのだろうか。
格子の向こうで足音がしたのは、昼を過ぎたころだったと思う。
「小夜!」
松明の明かりの中に、明鈴の顔が浮かびあがった。手には湯気の立つ包みを抱えている。後ろでは髭面の牢番が、袖の中の何かをもてあそびながら、そっぽを向いていた。
「心づけを渡したら、ちょっとだけならいいって。ほら、饅頭。まだあったかいから、食べて」
「ありがとう。……蔵書楼は、どうなったの」
「……全部、燃えちゃった。柱しか残ってない」
明鈴は格子をつかんで、唇をかんだ。
「それにね、月白様も謹慎を言いつけられたの。西の離れの前に衛士がずらっと並んで、一歩も外に出られないんだって。小夜が呪符を運んだ手先なら、命じたのは易術師に決まってるって、みんな言ってる」
胸が、きりきりと痛んだ。
「麗華様のほうは、すっかり持ち直されたそうよ。手先が捕まったから呪いが解けたんだって、宮の人たちは大喜びしてる」
明鈴は悔しそうに言って、鼻をすすった。
それから急にうつむいて黙りこみ、やがてその目から、ぽろぽろと涙がこぼれはじめた。
「ごめん……ごめんね、小夜。私のせいかもしれない」
「明鈴の?」
「きのう井戸端で話してたら、麗華様の宮の侍女が寄ってきて、もっと詳しく聞かせてって。だから私、小夜が毎晩遅くまで古い台帳を調べてるって、面白がってしゃべっちゃった……」
明鈴は袖で顔をおおって、幼い子のように泣きじゃくった。
「まさか、こんなことになるなんて思わなかったの。本当に、ごめんなさい」
明鈴の話が、頭の中で夜明けの火事と一本の糸につながっていく。
それでも、明鈴に背負わせていい話ではなかった。
「明鈴のせいじゃないわ。ゆうべは易術師様まで蔵書楼に上がって、戸口には衛士が立っていたのよ。あそこに何かあると、後宮じゅうに知らせて回ったようなものだもの」
格子越しに手を伸ばして、私は明鈴の濡れた指を握った。
「悪いのは、火をつけた人よ」
「おい、もう時間だ」
牢番に急かされて、明鈴は何度も振り返りながら通路の奥へ消えていった。足音が消えると、牢の中にはまた水の滴る音だけが戻ってくる。
蔵書楼は燃えた。記録という記録は、もうこの世のどこにもない。儀は明日だ。百官の前で示すはずだった証拠は、一枚残らず灰になってしまった。煌月様は西の離れに閉じこめられ、私は牢の中にいる。十年前と同じように、真相はまた闇に葬られようとしていた。
膝を抱えたまま、私は暗がりの中で目を開けた。
控えがある。
どの年の台帳も、最後の頁には同じ一行が書き添えられている。
控え一冊、内務府北蔵へ納む。
毎年の暮れに書き写して内務府へ送る、母から受け継いだしきたりだ。焼けたのは原本だけで、十年前の控えはいまも北蔵の棚に眠っている。
そこまで考えて、胸にともりかけた火が、すっと小さくなった。
控えを作るのは年の暮れだ。半月前の荷は、まだ一度も写していない。あるのは十年前の分だけで、今年の分は燃えた原本と一緒に消えてしまった。
十年前の黒蜜草だけを示しても、昔の紙きれが何になると一蹴されて終わりだろう。今度も同じ毒が同じ宮へ届いていたと示せなければ、麗華様の爪の筋も呪符の一画も、ただの言いがかりにしかならない。
それでも、と私は冷えきった両手を握りしめる。
台帳は燃えても、私の頭の中の台帳までは燃やせない。一度目を通した記録は、頁の染みの形まで覚えている。それが、紙魚と笑われてきた私の、たった一つの取り柄なのだから。
私は目を閉じて、燃えてしまった台帳の一冊目の表紙を、頭の中でそっとめくった。
立太子の儀まであと三日に迫った朝のことだ。易術の間で記録の整理をしていると、宦官が血相を変えて廊下を駆けてきて、戸の外から裏返った声を張りあげた。
「易術師殿、第一貴妃様が呪いにお倒れに! ただちに宮へお越しください。帝のお召しでございます!」
月白は黙って仮面の紐を締めなおし、立ちあがった。私も筆を置いて、そのあとを追いかける。
第一貴妃様の宮は、後宮でいちばん日当たりのいい南の一角にある。朱塗りの門をくぐると、庭にまで人があふれ、ひそひそ声が渦を巻いていた。十年前のあの朝も、後宮じゅうがこんなふうにざわめいていたのだ。奥の寝所の前で人垣が割れ、私たちは帳の内へ通される。
寝台の上で、麗華様が細い声でうなされていた。
「来ないで……燃える、燃えてしまう……」
四十を過ぎてもなお美しいと評判のお顔は土気色に沈み、額には脂汗が浮いている。寝衣の袖からのぞく白い腕には、墨をこぼしたような黒い痣がいくつも散っていた。枕もとでは医官たちが額を寄せあい、その脇に煌輝様が沈痛な面持ちで膝をついている。帝は寝台から数歩離れた椅子に腰かけて、じっと目を閉じていらした。
「帝、こちらをご覧くださいませ」
進みでたのは、痩せて頬のこけた初老の宦官だった。第一貴妃様付きの陶全だ。台帳の上では何度も目にしてきた名前だけれど、本人の顔を見るのはこれが初めてだった。陶全は捧げもった盆を、帝の前で恭しく傾ける。
「今朝、貴妃様の御枕の下から見つかったものにございます」
盆の上には、黄ばんだ紙が一枚のっている。朱の線で幾重にも囲まれたその真ん中に大きく書かれていたのは、月白の名だった。
寝所の空気が、一瞬で凍りついた。
「父上!」
煌輝様が勢いよく立ちあがり、月白を指さした。
「儀を前にして母上を呪うなど、あってはならぬことです。この者をすぐに捕らえてください!」
「私が貴妃様を呪って、何の得がございましょう」
月白の声は、驚くほど落ちついていた。
「易者の代わりなどいくらでもいる、と殿下がおっしゃったのは、つい昨日のことと記憶しておりますが」
煌輝様のこめかみに、青筋が浮かぶ。何か言い返そうとしたその口を、帝の低い声がさえぎった。
「……捕らえはせぬ」
帝はゆっくりと目を開き、疲れきった顔で月白を見た。
「儀の卦を立てる者が要る。ただし、儀の日まで見張りをつける。それでよいな」
煌輝様は唇をかんで引きさがり、陶全は盆を捧げもったまま深々と頭を下げた。
その拍子に、盆の上の呪符が燭台の光をまともに受ける。私は思わず目を凝らした。
朱で書かれた「月白」の二文字のうち、「白」の最後の一画だけが、なぜか黒い墨で引かれている。
背筋に冷たいものが走った。私はこれと同じものを、どこかで見たことがある。蔵書楼の奥の棚にしまわれた、十年前の調書の写しだ。母が書き写したその調書には、煌月様の名を記して麗華様の枕の下に置かれていた呪符のありさまが細かく書きとめられていた。囲みも文字も朱で記された中で、名の最後の一画だけが墨で書かれていた、と。
喉もとまで出かかった言葉を、私はどうにか飲みこんだ。ここでそれを口にすれば、呪符を書いた者に、こちらが気づいたと知らせることになる。問われたことにだけ答えよと言った女官長の声が、耳の奥でよみがえる。
西の離れへ戻ると、易術の間の戸の両脇には、帝の衛士が二人立っていた。月白が侍従を下がらせて戸が閉まると、私は声をひそめて呪符の一画のことを話した。
仮面を取った煌月様の頬が、みるみるこわばっていく。
「確かなの?」
「調書の写しは、一字残らず覚えています。名の最後の一画だけを墨で書く呪符は、ほかの記録には一度も出てきません」
「十年前と同じ者が書いた、ということか」
煌月様は膝の上で拳を握りしめた。
「金を突き返した易者は、儀の前に片づけておきたいんだろう。呪いの罪をかぶせてしまえば、卦を立てる者を別に用意できる」
「それだけではないと思います」
口にしてから、自分の考えにぞっとする。それでも、私は続けた。
「呪われて倒れた母君と、その枕もとで嘆く孝行息子。儀の前にそんな姿を見せられたら、帝も百官も、煌輝様に同情を寄せずにはいられません」
煌月様は驚いたように私を見て、それから深くうなずいた。
「……十年前は、どうして煌月様だったのですか」
尋ねてから、私は唇をかんだ。聞いてはいけないことだったのかもしれない。けれど煌月様は、怒りもせずに答えてくれた。
「僕の母の実家は、都の西を守る軍を預かる家だったんだ。母が死んでも、父上がその家の力を頼って僕を立てるかもしれない。兄上たちにとっては、それが目障りだった」
「でも、煌月様は……」
兄たちに追われて泣いてばかりいた、と言いかけて、私は口をつぐんだ。
「落ちこぼれのブタ皇子だよ。笑われていたのも、母の家が強いだけの役立たずだと思われていたからだ」
煌月様は自嘲するように笑った。
「僕が北へ送られた年に、母の実家は辺境の守りに回された。いまの都には、僕の側に立つ者なんて一人も残っていない」
だから十年前は、泣いてばかりいる子どもでも的になったのだ。
「……問題は、貴妃様が本当に呪われているのかどうかだ。確かめるには、この目で検めるしかない」
その日の夕刻、帝のお声がかりで、月白は第一貴妃様の寝所に入ることを許された。呪いの疑いをかけられた者に祓いをさせるとは何事かと陶全は食いさがったけれど、祓えるものなら祓ってみよという帝の仰せには逆らえない。苦い顔で帳を上げるその脇を抜けて、私は記録係として月白の後ろに従った。
麗華様は、あいかわらずうわごとを繰り返していた。月白は寝台のそばに膝をつくと、筮竹を枕もとに並べ、低い声で祝詞を唱えはじめる。それから貴妃様の手首を取り、脈を診るふりをしながら、その指先を燭台の火にかざす。
月白の目が、貴妃様の爪の上でわずかに長くとどまったように見えた。
易術の間に戻って人払いをすませるなり、煌月様は仮面をむしり取るように外した。
「呪いじゃない。毒だよ」
「毒……ですか」
「爪の付け根に、紫の筋が浮いていた。夜啼草という草の毒だ。量を加減して口にすれば悪い夢にうなされ、肌に黒い痣が出る。度を越さなければ、命までは取られない」
煌月様は、迷いのない口調で言いきった。
「北の寺で拾ってくれた老師が、易と一緒に本草の書も叩きこんでくれたんだ。あの症状は、書に載っていたものとそっくり同じだった」
「では、すぐに帝にお知らせしないと」
「だめだ。誰の耳に入るかわからない。毒だと気づかれたことが向こうに知れたら、証拠を消される」
煌月様は私の目を見すえた。
「このことは、まだ君にしか話さない。父上にもだ」
その言葉に、胸の奥がざわりと波立った。君にしか話さない。それはうれしいはずの一言なのに、なぜか素直に喜べない。昨日まで、この方は古い記録のことを尋ねても、気の流れだとしか答えてくれなかったのだ。
「……煌月様は、最初から十年前のことを調べるために戻っていらしたのですか」
答えは、すぐには返ってこなかった。
文机の縁に置かれた人差し指が、とん、とんと二度鳴る。それから煌月様は、観念したように息を吐いた。
「そうだよ。僕が戻ってきたのは、十年前の冤罪を晴らすためだ。兄上が立太子してしまえば、もう誰も真相を掘り返せなくなる。その前に、何があったのかを暴かなきゃならない」
ずっと引っかかっていたものが、すとんと腑に落ちた。この方が知りたかったのは、はじめから十年前の真相だったのだ。
それなら、私が呼ばれた理由も同じなのだろうか。
「……私を専属にしたのは、記録のためだったんですか」
煌月様の唇が、何か言いかけて止まった。文机の上で、指先がもう一度だけ縁を叩く。けれど、そこから先の言葉はいつまでたっても出てこなかった。
「失礼いたします。今日の書付は、明日の朝にお持ちします」
私は頭を下げて、易術の間を出た。戸の脇に立つ衛士たちの視線が、背中に痛い。君に会いに来たというあの一言を、私は勝手に、自分の都合のいいように受けとっていただけなのかもしれない。そう思うと、喉の奥がつんと熱くなる。
その夜、私は灯りをともした蔵書楼に一人で残った。
悔しいけれど、手を止める気にはなれなかった。記録を扱う者が、記録から目をそらしてはいけない。母の口癖を、いまになって思い出す。あの方の思惑がどうであれ、十年前に罪を着せられたのが煌月様だったことに変わりはないのだ。
昼間に聞いた夜啼草という名を、私は頭の中で何度も転がしていた。どこかで、この名に出会った覚えがある。
思いあたったのは、十二のときに読んだ古い本草書だった。蔵書楼の最上段の棚に並ぶ、虫食いだらけの『諸草異名考』だ。その巻の七に、たしかこう書かれていた。
夜啼草は一名を黒蜜草といい、干して香に焚けば甘く匂い、口に含めば夢を乱す。
黒蜜草という名を思い浮かべた瞬間、私は文机の脇へ手を伸ばしていた。そこに積んであるのは、繕いかけのままの十年前の搬入台帳だ。初夏の月の半ばの頁を開く。呪いの騒ぎが起こったのは、その月の終わりのことだ。
安済堂より第一貴妃宮へ 香料・黒蜜草 二包 受取 陶全
思ったとおりの場所に、思ったとおりの文字が並んでいた。けれど末尾の名を見た瞬間、指先が冷たくなる。今朝、呪符をのせた盆を帝の前で傾けていた、あの痩せた宦官だ。
次に私は、自分の手で綴じたばかりの今の台帳を開く。半月前の日付の欄にも、同じ薬種商から同じ品が届き、同じ名が受取に記されていた。
安済堂より第一貴妃宮へ 香料・黒蜜草 一包 受取 陶全
十年前も今度も、貴妃様が「呪い」に倒れるちょうど半月前に、同じ毒草が香料の名で麗華様の宮へ届いている。
呪われたのではない。麗華様は、自分で毒を口にしたのだ。十年前も、そして今度も。量を加減して倒れてみせ、枕の下に呪符を仕込み、邪魔な者に罪をかぶせる。それを麗華様一人で思いつき、一人でやってのけたとは思えない。今朝、真っ先に月白を捕らえよと叫んだのが誰だったかを、私は覚えている。
夜が明けるのを待ちかねて、私は西の離れへ走った。二冊の台帳は、蔵書楼に置いたままだ。台帳を持ちだせば、それだけで人目を引いてしまう。
衛士の前を通りすぎ、二人きりになるやいなや、私は一晩で見つけたことを残らず話した。煌月様は一言も口をはさまずに聞き終えると、長い息を吐いた。
「……十年かかって、やっと尻尾をつかんだ」
「すぐに帝へお届けしましょう。台帳の頁を見ていただければ、きっと」
「待って」
立ちあがりかけた私の手首を、煌月様がつかんだ。
「十年前も、調べればわかることはあったはずなんだ。それでも裏で揉み消された。いま父上に差しだしても、同じことになる」
「では、どうなさるのですか」
「立太子の儀で、百官の前で示す。あの場でなら、誰にも揉み消せない」
煌月様の目には、私の見たことのない強い光が宿っていた。
「台帳は、儀の日まで蔵書楼に伏せておこう。いつもの棚の、いつもの場所に。紙魚の巣をわざわざのぞきに来る者はいないからね」
「紙魚の巣で、悪うございました」
思わず言い返して、私は口をつぐんだ。煌月様が、安堵したように目もとをゆるめたからだ。
昼すぎ、使いに出ていた侍従が、麗華様が粥を口にされたという話を持ち帰ってきた。医官たちは易術師の祓いが効いたのだと胸をなでおろしているそうだ。わずかな量の毒なら、日を追って抜けていくのも当然だった。
「祓いなんて、何もしていないんだけどね」
侍従が下がったあと、煌月様は筮竹を指先で回しながら苦笑した。
「毒を見抜いたのは、僕の易と本草だ。けれど、それが十年前と同じ手口だと突きとめたのは、君の記憶だよ。どちらが欠けても、ここまでは来られなかった」
そう言って筮竹を置くと、煌月様は私のほうへ向きなおった。
「力を貸してほしい。……相棒として」
相棒、という言葉が、耳に妙な響きを残す。昨日の問いの答えは、まだ聞かせてもらっていない。それでも、十年前の真相を暴きたいと願う気持ちだけは、私もこの方と同じだった。
「私は記録係ですから。記録が嘘をつかれたままでいるのは、我慢がなりません」
差しだされた手に、私は自分の手を重ねた。剣だこのある固い手のひらが、一度だけためらうように震えてから、私の指をしっかりと握りかえした。
立太子の儀まであと二日に迫ったその夜、私と煌月様は蔵書楼の二階に残って、台帳の写しを作ることにした。万一に備えて、写しは翌朝、西の離れへ移すことにしたのだ。
見張りの衛士たちは、蔵書楼の戸口の外で足を止めた。紙と黴の匂いがこもる二階まで、上がってくる気配はない。手燭の明かりの下で素顔に戻った煌月様と、私は文机を挟んで向かいあった。
十年前の台帳と今の台帳を開き、黒蜜草の行とその前後の頁を、一字一句たがえずに写していく。筆の音だけが、しんとした楼の中に響いた。十年前の頁に並んでいるのは、几帳面に角ばった母の字だ。黒蜜草の三文字を写しながら、母はこの品の正体を知っていたのだろうかと考えてしまう。
ふと、煌月様が筆を止めて天井を見上げた。
「この上に、あの屋根裏があるんだね」
「ええ。……あれから一度も、上がっていません」
そう答えると、煌月様は何も言わずに目を伏せ、また筆を動かしはじめた。梯子の口でもがいていた丸い背中が、ふいに瞼の裏によみがえる。
遠くで、低い地鳴りのような音がした。
窓の格子が白く浮かびあがり、ひと呼吸おいて、楼の屋根をたたき割るような雷鳴が轟く。大粒の雨が瓦を打ちはじめた音にまじって、向かいでがたりと文机が揺れた。
顔を上げると、煌月様が筆を取り落として、肩をすくめていた。
また窓が光る。雷鳴が楼を揺さぶるたびに、広い肩がびくりと跳ねあがる。名高い易術師で、帝の前でも堂々としていた人が、血の気の失せた顔で唇をかみしめていた。
「……煌月様」
「だ、大丈夫。ちょっと、驚いただけだから」
そう言ったそばから、ひときわ大きな雷が落ちた。煌月様の手が文机越しに伸びてきて、私の袖をぎゅっとつかむ。
十年前と同じ仕草だった。屋根裏で雷が鳴るたびに、あの子はこうして私の袖を握りしめて震えていたのだ。
気づけば、私は袖をつかむその手を、上からそっと包みこんでいた。
「昔と、同じですね」
「……かっこ悪いところを見せたね」
煌月様は情けなさそうに笑って、それでも私の手を放そうとはしなかった。雨音が、楼を包みこむように強くなっていく。
「小夜。昨日の答えを、言ってもいいかな」
つないだ手に、力がこもった。
「記録のためだけなら、君じゃなくてもよかった。記録に通じた古株の女官でも、女官長でも、誰でもね。でも僕は、どうしても君に隣にいてほしかったんだ」
煌月様は、私の手の甲に視線を落としたまま続けた。
「寺に流されて一年後に山崩れに遭って、老師に拾われてから九年、修行ばかりしてた。易も、本草も、剣も。何度も逃げだしたくなったよ。そのたびに思い出したのが、屋根裏で僕をかばってくれた君の顔だった」
雷鳴が、また遠くで轟く。けれど煌月様の手は、もう震えていなかった。
「君を守れる強い男になりたくて、地獄のような鍛錬にも耐えたんだ。冤罪を晴らしたいのは本当だけど、それ以上に、君の隣に胸を張って立ちたかった」
胸の奥で固く結ばれていたものが、音もなくほどけていく。君に会いに来た。あの日の一言は、半分だけの本当ではなかったのだ。
「……ずるいです。そういうことは、最初に言ってください」
「ごめん。危ないことに巻きこむとわかっていて、君の隣にいたいなんて、言えなかった」
私は首を振って、その手を握りなおした。再会してから、ずっと言えずにいた言葉が、ようやく喉の奥からこぼれてくる。
「……おかえりなさい、煌月様」
その人は目を見開き、それから泣き笑いのような顔でうなずいた。
「ただいま、小夜」
涙がこぼれそうになって、私は慌ててうつむいた。つないだ手の上に、ぽたりと一粒しずくが落ちる。煌月様の親指が、それをそっとぬぐった。
「儀が終わったら、屋根裏のあの本の続きを読もう。二人で途中までしか読めなかった、あの本」
「……はい」
雨は夜半すぎまで降りつづいた。写し終えた紙の束は、文机の下の箱にしまっておく。蔵書楼の戸口で衛士に囲まれて西の離れへ戻っていく黒衣の背中を、私は雨上がりの湿った闇の中で、いつまでも見送っていた。
けたたましい鐘の音で目を覚ましたのは、夜が白みはじめたころだった。
「火事だ! 蔵書楼が燃えているぞ!」
女官の宿舎の廊下を、誰かが叫びながら駆け抜けていく。私は寝衣のまま飛びおき、上衣を引っかけて外へ走りでた。
東の空が、朝焼けとは違う色に染まっていた。
雨上がりのぬかるみに足を取られながら、蔵書楼の前までたどりつく。百年分の記録を抱えた古い楼は、すでに屋根まで炎に包まれていた。ひと晩の雨で濡れていたはずの瓦の下から、黒い煙が渦を巻いて噴きだしている。宦官や下働きの者たちが桶を手に列を作っていたけれど、焼け石に水だった。
「中には、まだ台帳が……!」
駆けよろうとした私の腕を、誰かが後ろからつかんだ。振り返ると、女官長が煤だらけの顔で首を振っていた。
「おやめなさい。もう、誰にも近づけません」
「でも、女官長様。ゆうべはあれほど降っていたのに……」
「ええ。火の気など、どこにもなかったはずです。この燃え方は、尋常ではありません」
目の前で、二階の窓が音を立てて崩れ落ちる。十年前の搬入台帳も今の台帳も、母が書き写した調書の写しも、ゆうべ二人で作った写しも燃えていく。屋根裏に置き去りにしてきた読みかけのあの本も、母と私が守ってきたものも、何もかもが炎の中に沈んでいく。
膝から力が抜けて、私はぬかるみに座りこんだ。
それからどれほどたったのか、わからない。焼け落ちた楼から白い煙だけが立ちのぼるころ、ぬかるみを踏む大勢の足音が近づいてきた。顔を上げると、衛士を引き連れた陶全が、私を見下ろしていた。
「蔵書楼の小夜だな」
陶全は袖の中から、一枚の紙を取りだした。
「女官の宿舎のそなたの部屋から、これが見つかった。易術師より預かった符を、貴妃様の御枕の下へ納めた、と書いてある。末尾には、そなたの名もな」
「そんなもの、書いた覚えはございません! 筆跡を比べていただければ、すぐに……」
突きつけられた紙に目を走らせて、私は息を詰めた。そこに並んでいるのは、私の字によく似せた、けれど私のものではない筆跡だった。
「申し開きは、牢で聞こう」
「お待ちなさい。その子は、呪符などに手を出す子ではありません」
女官長が私の前に立ちはだかったけれど、陶全は薄い唇の端を吊りあげただけだった。
「女官長殿まで、易術師の肩をお持ちになるか。かばいだてなさるなら、そちらにもお話を伺わねばなりませんな」
女官長の肩が、悔しげに震える。陶全が短く命じると、衛士たちが私の両腕をつかんで引きずり立たせた。まわりを囲んでいた女官たちが、さっと道をあける。誰も、何も言わなかった。
焼け跡から連れだされるとき、私は一度だけ振り返った。黒く焼けただれた柱のあいだから、まだ細い煙が立ちのぼっている。十年前、兵に引かれていく煌月様を、私は梯子の下から見送ることしかできなかった。今度は、私が引かれていく番なのだ。
地下牢には、昼も夜もない。
石の壁は湿って冷たく、どこからか水の滴る音が絶え間なく聞こえてくる。明かりといえば、通路の奥の壁にかけられた松明がひとつきりだ。藁を敷いただけの床に膝を抱えて座っていると、指先からじわじわと温もりが抜けていく。
蔵書楼の冷えなら、知りつくしているつもりだった。けれどここの冷たさは、骨の芯まで染みこんでくる種類のものだ。
暗がりの中で、雨音と、つないだ手の温かさがよみがえってくる。儀が終わったら、屋根裏のあの本の続きを読もう。そう約束した屋根裏ごと、蔵書楼は焼け落ちた。あの方はいま、どうしているのだろう。私が捕らえられたことを、もう知っているのだろうか。
格子の向こうで足音がしたのは、昼を過ぎたころだったと思う。
「小夜!」
松明の明かりの中に、明鈴の顔が浮かびあがった。手には湯気の立つ包みを抱えている。後ろでは髭面の牢番が、袖の中の何かをもてあそびながら、そっぽを向いていた。
「心づけを渡したら、ちょっとだけならいいって。ほら、饅頭。まだあったかいから、食べて」
「ありがとう。……蔵書楼は、どうなったの」
「……全部、燃えちゃった。柱しか残ってない」
明鈴は格子をつかんで、唇をかんだ。
「それにね、月白様も謹慎を言いつけられたの。西の離れの前に衛士がずらっと並んで、一歩も外に出られないんだって。小夜が呪符を運んだ手先なら、命じたのは易術師に決まってるって、みんな言ってる」
胸が、きりきりと痛んだ。
「麗華様のほうは、すっかり持ち直されたそうよ。手先が捕まったから呪いが解けたんだって、宮の人たちは大喜びしてる」
明鈴は悔しそうに言って、鼻をすすった。
それから急にうつむいて黙りこみ、やがてその目から、ぽろぽろと涙がこぼれはじめた。
「ごめん……ごめんね、小夜。私のせいかもしれない」
「明鈴の?」
「きのう井戸端で話してたら、麗華様の宮の侍女が寄ってきて、もっと詳しく聞かせてって。だから私、小夜が毎晩遅くまで古い台帳を調べてるって、面白がってしゃべっちゃった……」
明鈴は袖で顔をおおって、幼い子のように泣きじゃくった。
「まさか、こんなことになるなんて思わなかったの。本当に、ごめんなさい」
明鈴の話が、頭の中で夜明けの火事と一本の糸につながっていく。
それでも、明鈴に背負わせていい話ではなかった。
「明鈴のせいじゃないわ。ゆうべは易術師様まで蔵書楼に上がって、戸口には衛士が立っていたのよ。あそこに何かあると、後宮じゅうに知らせて回ったようなものだもの」
格子越しに手を伸ばして、私は明鈴の濡れた指を握った。
「悪いのは、火をつけた人よ」
「おい、もう時間だ」
牢番に急かされて、明鈴は何度も振り返りながら通路の奥へ消えていった。足音が消えると、牢の中にはまた水の滴る音だけが戻ってくる。
蔵書楼は燃えた。記録という記録は、もうこの世のどこにもない。儀は明日だ。百官の前で示すはずだった証拠は、一枚残らず灰になってしまった。煌月様は西の離れに閉じこめられ、私は牢の中にいる。十年前と同じように、真相はまた闇に葬られようとしていた。
膝を抱えたまま、私は暗がりの中で目を開けた。
控えがある。
どの年の台帳も、最後の頁には同じ一行が書き添えられている。
控え一冊、内務府北蔵へ納む。
毎年の暮れに書き写して内務府へ送る、母から受け継いだしきたりだ。焼けたのは原本だけで、十年前の控えはいまも北蔵の棚に眠っている。
そこまで考えて、胸にともりかけた火が、すっと小さくなった。
控えを作るのは年の暮れだ。半月前の荷は、まだ一度も写していない。あるのは十年前の分だけで、今年の分は燃えた原本と一緒に消えてしまった。
十年前の黒蜜草だけを示しても、昔の紙きれが何になると一蹴されて終わりだろう。今度も同じ毒が同じ宮へ届いていたと示せなければ、麗華様の爪の筋も呪符の一画も、ただの言いがかりにしかならない。
それでも、と私は冷えきった両手を握りしめる。
台帳は燃えても、私の頭の中の台帳までは燃やせない。一度目を通した記録は、頁の染みの形まで覚えている。それが、紙魚と笑われてきた私の、たった一つの取り柄なのだから。
私は目を閉じて、燃えてしまった台帳の一冊目の表紙を、頭の中でそっとめくった。



