あの皇子が本当はどんな顔で笑ったかを覚えているのは、後宮で私くらいのものだ。
蔵書楼の二階は、初夏になっても足もとから冷えてくる。後宮の東の外れに建つこの古い楼には百年分の記録が棚という棚に詰めこまれていて、紙と墨と黴の匂いが年じゅう抜けることがない。私は窓際の文机に十年前の搬入台帳を広げて、ほつれた綴じ糸を一冊ずつ繕っていた。
書類整理係といえば聞こえはいいけれど、要は誰もやりたがらない仕事をまとめて任されているだけだ。毎朝届く今日の台帳を綴じ、古い台帳を虫に食われる前に繕い、どこの宮に何がいつ入ったかを問われれば答える。記録を扱う役目だからと、蔵書楼に詰める者は女官でありながら文官の端に数えられる。母がこの楼の書庫係だったから、私は物心ついたころには棚と棚のあいだを遊び場にしていた。五年前に母が亡くなってからは、その仕事をそのまま継いでいる。派手な刺繍にも化粧にも縁のない身なりで、楼にこもって紙ばかり相手にしている私のことを、女官たちは陰で「蔵書楼の紙魚」と呼んでいる。
階段を駆けあがる足音がして、隣の詰所の明鈴が顔をのぞかせた。
「小夜、助けて! 去年の春に東の宮へ届いた絹って、何反だったっけ? 女官長に聞かれて答えられなかったの」
「三十二反。そのうち紅が八反で、残りは白と浅葱。届いたのは三月の十日よ」
台帳を開くまでもない。一度目を通した記録は、頁の染みの形まで頭に残ってしまうのが私の昔からの癖なのだ。
「さすが歩く台帳! 助かったぁ」
明鈴は大げさに両手を合わせると、文机の端にちゃっかり腰をかけた。噂話に目がない彼女がこの楼まで上がってくるのは、たいてい用事にかこつけておしゃべりをするためだ。ひとしきりまくしたてたところで、詰所のほうから明鈴を呼ぶ声がした。彼女が慌ただしく階段を下りていくと、楼の中にはまた紙の匂いだけが残る。
私は繕いかけの台帳に目を戻した。十年前の、ちょうど今ごろの頁が開いている。日付の並びを目で追ううちに、指が勝手に止まってしまう。
この月の終わりに、あの子は後宮からいなくなったのだ。
蔵書楼の屋根裏には、梯子を上った先に誰にも使われていない小部屋がある。古い巻物や壊れた書見台が押しこまれた埃っぽい場所で、九歳の私にとっては、母の目を盗んで本を読むための秘密の図書室だった。そこへある日、一人の男の子が転がりこんできたのだ。
丸々と太った体を梯子の口に引っかけながら、半べそをかいて這いあがってきたのは第九皇子の煌月様だった。下の庭からは、異母兄の煌輝様たちのはやしたてる声が追いかけてくる。
「ブタ皇子はどこへ逃げた!」
「ブタは鼻がいいんだろう。餌でもまいてやれば出てくるさ!」
煌月様は膝を抱えて体を丸め、声を殺して泣いていた。私は読みかけの本を閉じて、そのそばにしゃがみこむ。
「僕は、ブタだから……みんなに笑われるんだ」
「煌月様はブタなんかじゃありません、丸くて可愛い皇子様です!」
思わず大きな声を出してから、私は慌てて口を押さえた。皇子様に向かって丸いとは何事だと、母に知れたら叱られてしまう。けれど煌月様は涙でぐしゃぐしゃの顔をきょとんとさせたあと、ふにゃりと笑ってくれたのだ。頬の肉に押されて目がなくなってしまう、ひどく不格好で、ひどく優しい笑い方だった。
それからというもの、煌月様は兄たちに追われるたびに屋根裏へ逃げてきた。私は母に教わった胡麻団子を竈でこっそりこしらえては、紙に包んで持っていく。二人で並んで頬張りながら、同じ本を一冊ずつ読み進めるのが何よりの楽しみだった。読めない字に行き当たると煌月様は照れくさそうに私に尋ねてから、人差し指で書見台の縁をとん、とんと二度叩く。緊張したときや言いにくいことを口にしようとするとき、決まってそうするのだ。
雷の日の煌月様は、もっと情けなかった。明かり取りの窓が白く光るたびに私の袖をつかんで震え、雷鳴がやむまで決して放そうとしない。私より一つ年上の皇子様なのに、そういうときの煌月様は、迷子の子犬よりも頼りなく見えた。
十年前の初夏の朝、後宮じゅうがざわめいていた。第一貴妃の麗華様が呪いに倒れ、その枕の下から、煌月様の名を書いた呪符が見つかったのだという。
そんなこと、あるはずがない。雷にも兄たちにも怯えて屋根裏で泣いていた子に、誰かを呪えるわけがないのだ。けれど、書庫係の娘にすぎない九歳の子どもの言うことに耳を貸す大人など、どこにもいなかった。
その朝も、私は団子を包んで屋根裏へ上がろうとしていた。梯子の下まで来たとき、兵に両腕をつかまれた煌月様が回廊の向こうを引かれていくのが見える。あの子は一度だけこちらを振り返ったけれど、私は団子の包みを胸に抱えたまま一歩も動けなかった。渡せなかった包みが冷めきるまで、私はそれを開けることさえできずにいた。
煌月様が北の辺境の寺で山崩れに遭って亡くなったと聞いたのは、それから一年後のことだ。噂はたった一日で後宮を駆け抜け、次の日にはもう、誰もその名を口にしなくなっていた。
あれから一度も、私はあの小部屋へ足を向けていない。屋根裏には、二人で読みかけたままの本が、いまも埃をかぶって置き去りになっているはずだ。
台帳の頁に、西日が斜めにかかっている。
私は綴じ糸を結び直して、表紙を閉じた。十年たっても、書見台の縁を叩くあの二つの音だけは、台帳の数字と同じくらいはっきりと耳に残っている。それを誰かと分けあう日は、もう二度と来ない。
階段がまたにぎやかに鳴って、明鈴が息を切らして戻ってきた。
「小夜、大変! 明日、北方の易術師様が後宮にいらっしゃるんだって。帝が直々にお招きになったのよ」
「易術師?」
「立太子の儀の卦を立てていただくんですって。まだお若いのに、北方では一度も読み違えたことがないって評判よ。噂じゃ銀の仮面で顔を隠していて、その下はとんでもない美男子だって話よ!」
明鈴は頬を押さえて身をよじっている。顔も見せない男のどこが美男子なのか、私には見当もつかない。どちらにしても、書類の山と向きあうばかりの私には縁のない話だ。私は肩をすくめて、次の台帳の綴じ糸に手を伸ばした。
翌日の昼過ぎ、後宮の中庭は妃たちの衣の色で埋めつくされていた。
帝のお招きとあれば、出迎えないわけにはいかない。そういう建前で、妃も侍女も女官も、手の空いている者は残らず回廊に並んでいる。私も女官長に言いつけられて、記録係として列の端に立たされていた。隣に割りこんできた明鈴は、さっきから背伸びばかりしている。待っているのは、九日後の立太子の儀に向けて、帝がわざわざ北方から呼び寄せた易術師なのだそうだ。卦ひとつで次の帝が決まるわけでもないだろうにと思ってしまうのは、私が政に疎いからなのかもしれない。
正門のほうから鈴の音が近づいてくると、回廊のざわめきがすっと引いていく。
先導の宦官のすぐ後ろを、背の高い男が歩いてくる。黒い衣の裾を風にさばかせ、腰まで流れる黒髪を一つに結わえている。顔の上半分を覆っているのは、月の光をそのまま打ち延ばしたような銀の仮面だ。その下からのぞく唇は薄く、顎の線は刃物で削いだように鋭い。迷いのない歩みで、白砂を踏む足音さえほとんど聞こえなかった。荷を担いだ従者が二人いるきりの、帝の客人にしては驚くほど質素な一行だった。
回廊のあちこちで、誰かが息をのむ音がする。
男が中庭の真ん中に差しかかったとき、第五妃の宝琳様が扇で口もとを隠しながら進みでた。後宮でいちばん気位が高いと噂される妃だ。
「易術師どの。せっかくのお顔をそのように隠してしまわれるのは、もったいないこと。わたくしにだけ、そっと見せてはくださらない?」
男は足を止めて、宝琳様を見下ろした。
「顔を見せたところで、あなたの卦が変わるわけではありません。それとも、見せれば運が開けるとでもお思いか」
氷を割ったような声が、中庭に響く。宝琳様の扇がぴたりと止まり、回廊の空気が凍りついた。ところが次の瞬間、扇の陰の頬がみるみる赤く染まり、切れ長の目がうっとりと細められたのだ。
「……まあ、なんて手厳しい方」
両隣の侍女たちまでが、そろってため息をついている。男はそれきり振り返りもせず、宦官に導かれて西の離れのほうへ去っていった。去り際、仮面がほんの一瞬こちらへ向いた気がしたけれど、回廊には何十人もの女たちが並んでいる。その誰を見たのかなど、わかるはずもなかった。
月白というのがその易術師の名だと、隣の明鈴が私の袖を引いて興奮気味に教えてくれる。
「見た? いまの声、聞いた? 氷みたいに冷たいのに、どうしてあんなにいい声なのかしら」
「冷たいだけだったと思うけど」
「小夜はわかってない!」
つれなくあしらわれてうっとりする気持ちは、私にはよくわからない。それなのにあの銀の仮面がなぜか目に焼きついて離れず、列が解かれたあとも、私は西の離れへ続く回廊をぼんやりと見送っていた。
蔵書楼へ戻って一刻もしないうちに、女官長がじきじきに階段を上がってきた。
「小夜。易術師どのが、後宮の古い記録をご所望です。この十年分の、宮ごとの出来事をまとめた書付を西の離れまで届けなさい」
「私が、ですか」
「ここの記録をいちばん知っているのはあなたでしょう。くれぐれも粗相のないように」
女官長の足音が遠ざかるのと入れ違いに、明鈴が階段の下から顔だけを出して「いいなあ、代わりに行きたい!」と身もだえしている。
書付の束を風呂敷に包んで抱えると、ずしりと腕に重みがかかった。西の離れは、日当たりの悪い一角にひっそりと建つ古い客殿だ。磨きあげられた廊下を進むほどに、焚きしめられた香の匂いが濃くなっていく。
なぜ易術師が、十年分もの記録を欲しがるのだろう。卦を立てるのに、後宮の昔話が要るとは思えない。十年前といえば、と考えかけて、私は首を振った。あの年に何があったかを、いまさら蒸し返す者などいないだろう。
易術の間の前で声をかけると、中から低い返事があった。
「入れ」
冷えた指先を袖の中で握りこんでから、戸を引く。窓には厚い帳が下ろされ、昼だというのに燭台に火が入っている。薄暗い部屋の奥に文机が一つ据えられ、使いこまれた銅の羅盤のそばで、乾いた薬草の匂いがかすかに漂っていた。そこに月白が座り、筮竹を指先でもてあそんでいた。部屋の隅には大きな屏風が立てまわされていて、向こうに控えている侍従の影がうっすらと透けて見える。
「蔵書楼の書類整理係、小夜と申します。ご所望の書付をお持ちしました」
私がそう名乗ると、筮竹の擦れる音が一拍だけ乱れた。気のせいだろうかと思ううちに、音はもとの調子に戻っている。
「そこへ置け」
月白は顔も上げない。私は文机の脇に風呂敷包みを置き、固く結んだ結び目をほどいていく。綴りを並べるあいだも、筮竹の擦れあう乾いた音だけが部屋の中に響いていた。
「十年前の初夏の記録は、どこにある」
唐突な問いに、思わず手が止まった。
「下から三冊目の、藍の表紙の綴りです。四十二丁から五十丁までが、その月の分になります」
「聞いたのは場所だけだ」
冷ややかに言われて、私は首をすくめた。聞かれてもいない丁数まで添えたのが、余計だったのだ。月白は黙って藍の綴りを抜きだし、ぱらぱらと紙をめくった。その指が、四十九丁で動きを止める。その丁に何が書かれているかを、私は知っていた。月の終わりの夜半に、第一貴妃様の宮へ医官が呼ばれた日の記録だ。
月白は顔を上げないまま、その丁に指を置いていた。
「四十二丁から五十丁、と言ったな。綴りも開かずに」
「……はい」
褒められたのか、咎められたのかがわからない。私は綴りの山に目を落としたまま答えた。
「昔から、そうなのか」
「え?」
「一度見たものを、忘れない」
「はい。母譲りなんです」
「血筋というわけか。その母御も、記録を扱う人か」
「母も、この楼の書庫係でした。五年前に、亡くなりました」
答えると、綴りの上に置かれた月白の手がかすかに強ばった。
「……そうか」
月白が、初めて顔を上げた。仮面の奥の目が、ほんのわずかに伏せられる。そのまま綴りを閉じると、文机の向こうから私に向かって手を差しだした。
「手を出せ。手相を見てやろう」
「い、いえ、私などの手を見ていただくわけには……」
手相など、これまで一度も見てもらったことがない。紙魚と陰口をたたかれる地味な娘の手に、いったい何が書いてあるというのだろう。
「易術師に二度言わせるな」
有無を言わせぬ声だった。屏風に映る影が身じろぎするのを横目に、私はおそるおそる右手を預ける。
月白の手は、思っていたよりずっと大きかった。剣でも握ってきたのか手のひらの皮は固く、指の付け根にはたこまである。易術師というのは、筮竹と書物だけを相手にする人なのだとばかり考えていた。その手が私の手首を軽く返して、手のひらを上に向けさせた。
月白は私の手のひらを見つめたまま、声だけをすっと低くする。屏風の外までは届かない、低く甘いささやきだった。
「ずいぶん冷たい指だ。蔵書楼は、いまも冷えるのか」
背筋がぞくりと粟立つ。まるで昔の蔵書楼を知っているような口ぶりだ。冬になると、屋根裏の板の間は氷のように冷えた。あの子はいつも、かじかんだ私の指を自分の丸い手で包んで温めてくれたのだ。
その瞬間、手のひらの真ん中を人差し指がとん、とんと二度叩いた。
息が止まる。
あの指だ。屋根裏の埃っぽい光の中で、私は何度も見てきた。その二つの拍が、腕を伝って胸の奥まで響いてくる。
弾かれたように顔を上げると、銀の仮面の奥から黒い目がまっすぐに私を見ていた。頬の肉に埋もれていたあの目とは、形も鋭さもまるで違う。それなのに、瞳に灯っている光だけは十年前と何ひとつ変わっていない。
そんなはずはない。あの方は北の山で死んだのだ。噂を聞いた日の夜、私は母の膝で一晩じゅう泣いて、もう誰のためにも団子は作らないと決めた。
梯子を上るのにも手こずっていたあの子は私より背が低く、走ればすぐに肩で息をしていた。目の前の男は座っていても私を見下ろすほど背が高く、あの柔らかかった手とは似ても似つかない固い手をしている。同じ人のわけがないと、頭ではわかっている。それでも、さっき受けとめた合図だけは、どうしても打ち消すことができなかった。もしもこの人が本当にあの子なら、十年ものあいだ、どこで何をしていたのだろう。どうして顔を隠し、名前まで変えて、ここへ戻ってきたのだろう。
気づけば、唇が勝手に動いていた。
「……こう……」
名を呼びかけた瞬間、月白はちらりと屏風のほうへ目をやり、空いているほうの手の人差し指をそっと自分の唇の前に立てた。
「その名は、二人きりのときだけにしてくれ」
ささやきが耳朶をかすめていく。屏風の陰から軽い咳払いが聞こえると、月白は何事もなかったように私の手を放して、藍の綴りの頁をめくりはじめた。
蔵書楼の二階は、初夏になっても足もとから冷えてくる。後宮の東の外れに建つこの古い楼には百年分の記録が棚という棚に詰めこまれていて、紙と墨と黴の匂いが年じゅう抜けることがない。私は窓際の文机に十年前の搬入台帳を広げて、ほつれた綴じ糸を一冊ずつ繕っていた。
書類整理係といえば聞こえはいいけれど、要は誰もやりたがらない仕事をまとめて任されているだけだ。毎朝届く今日の台帳を綴じ、古い台帳を虫に食われる前に繕い、どこの宮に何がいつ入ったかを問われれば答える。記録を扱う役目だからと、蔵書楼に詰める者は女官でありながら文官の端に数えられる。母がこの楼の書庫係だったから、私は物心ついたころには棚と棚のあいだを遊び場にしていた。五年前に母が亡くなってからは、その仕事をそのまま継いでいる。派手な刺繍にも化粧にも縁のない身なりで、楼にこもって紙ばかり相手にしている私のことを、女官たちは陰で「蔵書楼の紙魚」と呼んでいる。
階段を駆けあがる足音がして、隣の詰所の明鈴が顔をのぞかせた。
「小夜、助けて! 去年の春に東の宮へ届いた絹って、何反だったっけ? 女官長に聞かれて答えられなかったの」
「三十二反。そのうち紅が八反で、残りは白と浅葱。届いたのは三月の十日よ」
台帳を開くまでもない。一度目を通した記録は、頁の染みの形まで頭に残ってしまうのが私の昔からの癖なのだ。
「さすが歩く台帳! 助かったぁ」
明鈴は大げさに両手を合わせると、文机の端にちゃっかり腰をかけた。噂話に目がない彼女がこの楼まで上がってくるのは、たいてい用事にかこつけておしゃべりをするためだ。ひとしきりまくしたてたところで、詰所のほうから明鈴を呼ぶ声がした。彼女が慌ただしく階段を下りていくと、楼の中にはまた紙の匂いだけが残る。
私は繕いかけの台帳に目を戻した。十年前の、ちょうど今ごろの頁が開いている。日付の並びを目で追ううちに、指が勝手に止まってしまう。
この月の終わりに、あの子は後宮からいなくなったのだ。
蔵書楼の屋根裏には、梯子を上った先に誰にも使われていない小部屋がある。古い巻物や壊れた書見台が押しこまれた埃っぽい場所で、九歳の私にとっては、母の目を盗んで本を読むための秘密の図書室だった。そこへある日、一人の男の子が転がりこんできたのだ。
丸々と太った体を梯子の口に引っかけながら、半べそをかいて這いあがってきたのは第九皇子の煌月様だった。下の庭からは、異母兄の煌輝様たちのはやしたてる声が追いかけてくる。
「ブタ皇子はどこへ逃げた!」
「ブタは鼻がいいんだろう。餌でもまいてやれば出てくるさ!」
煌月様は膝を抱えて体を丸め、声を殺して泣いていた。私は読みかけの本を閉じて、そのそばにしゃがみこむ。
「僕は、ブタだから……みんなに笑われるんだ」
「煌月様はブタなんかじゃありません、丸くて可愛い皇子様です!」
思わず大きな声を出してから、私は慌てて口を押さえた。皇子様に向かって丸いとは何事だと、母に知れたら叱られてしまう。けれど煌月様は涙でぐしゃぐしゃの顔をきょとんとさせたあと、ふにゃりと笑ってくれたのだ。頬の肉に押されて目がなくなってしまう、ひどく不格好で、ひどく優しい笑い方だった。
それからというもの、煌月様は兄たちに追われるたびに屋根裏へ逃げてきた。私は母に教わった胡麻団子を竈でこっそりこしらえては、紙に包んで持っていく。二人で並んで頬張りながら、同じ本を一冊ずつ読み進めるのが何よりの楽しみだった。読めない字に行き当たると煌月様は照れくさそうに私に尋ねてから、人差し指で書見台の縁をとん、とんと二度叩く。緊張したときや言いにくいことを口にしようとするとき、決まってそうするのだ。
雷の日の煌月様は、もっと情けなかった。明かり取りの窓が白く光るたびに私の袖をつかんで震え、雷鳴がやむまで決して放そうとしない。私より一つ年上の皇子様なのに、そういうときの煌月様は、迷子の子犬よりも頼りなく見えた。
十年前の初夏の朝、後宮じゅうがざわめいていた。第一貴妃の麗華様が呪いに倒れ、その枕の下から、煌月様の名を書いた呪符が見つかったのだという。
そんなこと、あるはずがない。雷にも兄たちにも怯えて屋根裏で泣いていた子に、誰かを呪えるわけがないのだ。けれど、書庫係の娘にすぎない九歳の子どもの言うことに耳を貸す大人など、どこにもいなかった。
その朝も、私は団子を包んで屋根裏へ上がろうとしていた。梯子の下まで来たとき、兵に両腕をつかまれた煌月様が回廊の向こうを引かれていくのが見える。あの子は一度だけこちらを振り返ったけれど、私は団子の包みを胸に抱えたまま一歩も動けなかった。渡せなかった包みが冷めきるまで、私はそれを開けることさえできずにいた。
煌月様が北の辺境の寺で山崩れに遭って亡くなったと聞いたのは、それから一年後のことだ。噂はたった一日で後宮を駆け抜け、次の日にはもう、誰もその名を口にしなくなっていた。
あれから一度も、私はあの小部屋へ足を向けていない。屋根裏には、二人で読みかけたままの本が、いまも埃をかぶって置き去りになっているはずだ。
台帳の頁に、西日が斜めにかかっている。
私は綴じ糸を結び直して、表紙を閉じた。十年たっても、書見台の縁を叩くあの二つの音だけは、台帳の数字と同じくらいはっきりと耳に残っている。それを誰かと分けあう日は、もう二度と来ない。
階段がまたにぎやかに鳴って、明鈴が息を切らして戻ってきた。
「小夜、大変! 明日、北方の易術師様が後宮にいらっしゃるんだって。帝が直々にお招きになったのよ」
「易術師?」
「立太子の儀の卦を立てていただくんですって。まだお若いのに、北方では一度も読み違えたことがないって評判よ。噂じゃ銀の仮面で顔を隠していて、その下はとんでもない美男子だって話よ!」
明鈴は頬を押さえて身をよじっている。顔も見せない男のどこが美男子なのか、私には見当もつかない。どちらにしても、書類の山と向きあうばかりの私には縁のない話だ。私は肩をすくめて、次の台帳の綴じ糸に手を伸ばした。
翌日の昼過ぎ、後宮の中庭は妃たちの衣の色で埋めつくされていた。
帝のお招きとあれば、出迎えないわけにはいかない。そういう建前で、妃も侍女も女官も、手の空いている者は残らず回廊に並んでいる。私も女官長に言いつけられて、記録係として列の端に立たされていた。隣に割りこんできた明鈴は、さっきから背伸びばかりしている。待っているのは、九日後の立太子の儀に向けて、帝がわざわざ北方から呼び寄せた易術師なのだそうだ。卦ひとつで次の帝が決まるわけでもないだろうにと思ってしまうのは、私が政に疎いからなのかもしれない。
正門のほうから鈴の音が近づいてくると、回廊のざわめきがすっと引いていく。
先導の宦官のすぐ後ろを、背の高い男が歩いてくる。黒い衣の裾を風にさばかせ、腰まで流れる黒髪を一つに結わえている。顔の上半分を覆っているのは、月の光をそのまま打ち延ばしたような銀の仮面だ。その下からのぞく唇は薄く、顎の線は刃物で削いだように鋭い。迷いのない歩みで、白砂を踏む足音さえほとんど聞こえなかった。荷を担いだ従者が二人いるきりの、帝の客人にしては驚くほど質素な一行だった。
回廊のあちこちで、誰かが息をのむ音がする。
男が中庭の真ん中に差しかかったとき、第五妃の宝琳様が扇で口もとを隠しながら進みでた。後宮でいちばん気位が高いと噂される妃だ。
「易術師どの。せっかくのお顔をそのように隠してしまわれるのは、もったいないこと。わたくしにだけ、そっと見せてはくださらない?」
男は足を止めて、宝琳様を見下ろした。
「顔を見せたところで、あなたの卦が変わるわけではありません。それとも、見せれば運が開けるとでもお思いか」
氷を割ったような声が、中庭に響く。宝琳様の扇がぴたりと止まり、回廊の空気が凍りついた。ところが次の瞬間、扇の陰の頬がみるみる赤く染まり、切れ長の目がうっとりと細められたのだ。
「……まあ、なんて手厳しい方」
両隣の侍女たちまでが、そろってため息をついている。男はそれきり振り返りもせず、宦官に導かれて西の離れのほうへ去っていった。去り際、仮面がほんの一瞬こちらへ向いた気がしたけれど、回廊には何十人もの女たちが並んでいる。その誰を見たのかなど、わかるはずもなかった。
月白というのがその易術師の名だと、隣の明鈴が私の袖を引いて興奮気味に教えてくれる。
「見た? いまの声、聞いた? 氷みたいに冷たいのに、どうしてあんなにいい声なのかしら」
「冷たいだけだったと思うけど」
「小夜はわかってない!」
つれなくあしらわれてうっとりする気持ちは、私にはよくわからない。それなのにあの銀の仮面がなぜか目に焼きついて離れず、列が解かれたあとも、私は西の離れへ続く回廊をぼんやりと見送っていた。
蔵書楼へ戻って一刻もしないうちに、女官長がじきじきに階段を上がってきた。
「小夜。易術師どのが、後宮の古い記録をご所望です。この十年分の、宮ごとの出来事をまとめた書付を西の離れまで届けなさい」
「私が、ですか」
「ここの記録をいちばん知っているのはあなたでしょう。くれぐれも粗相のないように」
女官長の足音が遠ざかるのと入れ違いに、明鈴が階段の下から顔だけを出して「いいなあ、代わりに行きたい!」と身もだえしている。
書付の束を風呂敷に包んで抱えると、ずしりと腕に重みがかかった。西の離れは、日当たりの悪い一角にひっそりと建つ古い客殿だ。磨きあげられた廊下を進むほどに、焚きしめられた香の匂いが濃くなっていく。
なぜ易術師が、十年分もの記録を欲しがるのだろう。卦を立てるのに、後宮の昔話が要るとは思えない。十年前といえば、と考えかけて、私は首を振った。あの年に何があったかを、いまさら蒸し返す者などいないだろう。
易術の間の前で声をかけると、中から低い返事があった。
「入れ」
冷えた指先を袖の中で握りこんでから、戸を引く。窓には厚い帳が下ろされ、昼だというのに燭台に火が入っている。薄暗い部屋の奥に文机が一つ据えられ、使いこまれた銅の羅盤のそばで、乾いた薬草の匂いがかすかに漂っていた。そこに月白が座り、筮竹を指先でもてあそんでいた。部屋の隅には大きな屏風が立てまわされていて、向こうに控えている侍従の影がうっすらと透けて見える。
「蔵書楼の書類整理係、小夜と申します。ご所望の書付をお持ちしました」
私がそう名乗ると、筮竹の擦れる音が一拍だけ乱れた。気のせいだろうかと思ううちに、音はもとの調子に戻っている。
「そこへ置け」
月白は顔も上げない。私は文机の脇に風呂敷包みを置き、固く結んだ結び目をほどいていく。綴りを並べるあいだも、筮竹の擦れあう乾いた音だけが部屋の中に響いていた。
「十年前の初夏の記録は、どこにある」
唐突な問いに、思わず手が止まった。
「下から三冊目の、藍の表紙の綴りです。四十二丁から五十丁までが、その月の分になります」
「聞いたのは場所だけだ」
冷ややかに言われて、私は首をすくめた。聞かれてもいない丁数まで添えたのが、余計だったのだ。月白は黙って藍の綴りを抜きだし、ぱらぱらと紙をめくった。その指が、四十九丁で動きを止める。その丁に何が書かれているかを、私は知っていた。月の終わりの夜半に、第一貴妃様の宮へ医官が呼ばれた日の記録だ。
月白は顔を上げないまま、その丁に指を置いていた。
「四十二丁から五十丁、と言ったな。綴りも開かずに」
「……はい」
褒められたのか、咎められたのかがわからない。私は綴りの山に目を落としたまま答えた。
「昔から、そうなのか」
「え?」
「一度見たものを、忘れない」
「はい。母譲りなんです」
「血筋というわけか。その母御も、記録を扱う人か」
「母も、この楼の書庫係でした。五年前に、亡くなりました」
答えると、綴りの上に置かれた月白の手がかすかに強ばった。
「……そうか」
月白が、初めて顔を上げた。仮面の奥の目が、ほんのわずかに伏せられる。そのまま綴りを閉じると、文机の向こうから私に向かって手を差しだした。
「手を出せ。手相を見てやろう」
「い、いえ、私などの手を見ていただくわけには……」
手相など、これまで一度も見てもらったことがない。紙魚と陰口をたたかれる地味な娘の手に、いったい何が書いてあるというのだろう。
「易術師に二度言わせるな」
有無を言わせぬ声だった。屏風に映る影が身じろぎするのを横目に、私はおそるおそる右手を預ける。
月白の手は、思っていたよりずっと大きかった。剣でも握ってきたのか手のひらの皮は固く、指の付け根にはたこまである。易術師というのは、筮竹と書物だけを相手にする人なのだとばかり考えていた。その手が私の手首を軽く返して、手のひらを上に向けさせた。
月白は私の手のひらを見つめたまま、声だけをすっと低くする。屏風の外までは届かない、低く甘いささやきだった。
「ずいぶん冷たい指だ。蔵書楼は、いまも冷えるのか」
背筋がぞくりと粟立つ。まるで昔の蔵書楼を知っているような口ぶりだ。冬になると、屋根裏の板の間は氷のように冷えた。あの子はいつも、かじかんだ私の指を自分の丸い手で包んで温めてくれたのだ。
その瞬間、手のひらの真ん中を人差し指がとん、とんと二度叩いた。
息が止まる。
あの指だ。屋根裏の埃っぽい光の中で、私は何度も見てきた。その二つの拍が、腕を伝って胸の奥まで響いてくる。
弾かれたように顔を上げると、銀の仮面の奥から黒い目がまっすぐに私を見ていた。頬の肉に埋もれていたあの目とは、形も鋭さもまるで違う。それなのに、瞳に灯っている光だけは十年前と何ひとつ変わっていない。
そんなはずはない。あの方は北の山で死んだのだ。噂を聞いた日の夜、私は母の膝で一晩じゅう泣いて、もう誰のためにも団子は作らないと決めた。
梯子を上るのにも手こずっていたあの子は私より背が低く、走ればすぐに肩で息をしていた。目の前の男は座っていても私を見下ろすほど背が高く、あの柔らかかった手とは似ても似つかない固い手をしている。同じ人のわけがないと、頭ではわかっている。それでも、さっき受けとめた合図だけは、どうしても打ち消すことができなかった。もしもこの人が本当にあの子なら、十年ものあいだ、どこで何をしていたのだろう。どうして顔を隠し、名前まで変えて、ここへ戻ってきたのだろう。
気づけば、唇が勝手に動いていた。
「……こう……」
名を呼びかけた瞬間、月白はちらりと屏風のほうへ目をやり、空いているほうの手の人差し指をそっと自分の唇の前に立てた。
「その名は、二人きりのときだけにしてくれ」
ささやきが耳朶をかすめていく。屏風の陰から軽い咳払いが聞こえると、月白は何事もなかったように私の手を放して、藍の綴りの頁をめくりはじめた。



