あなたの幸せを願っていた、ただそれだけ

 柱の確認を終えた久遠が帰ってきた。
「おかえりなさいませ」
 紗代が出迎えると、彼は真っすぐ紗代に向かってきて「ただいまかえった」と軽く抱擁を交わす。
「怪我のほうは治ったのか?」
「はい、おかげさまで」
「そうか……」
 はにかむように笑う久遠に、幼き彼の姿が重なり、紗代ははっとする。
 久遠を守り、彼の幸せを願うのは誰なのか。紗代であって紗代ではない。でも、ここにいるのは紗代で、この気持ちは紗代のもの。
「……久遠様、お話があります」
 紗代があまりにも緊張していたせいか、久遠も不思議に思ったにちがいない。
「わかった。着替えたら、君の部屋に向かおう」
 紗代は、久遠が着替えをしている間に、奈木に頼んでお茶の用意をしてもらっていた。
「旦那様も奥様の元気な姿を見て、喜んでおりましたね」
 それは紗代も感じたが、改めて他から指摘されると恥ずかしいものでもある。
「では、私は下がりますので、何かありましたらベルでお呼びください」
 子どもながらも、奈木は夫婦が二人きりで話ができるようにと、気を使っているのだ。
「ありがとう」
 奈木が控えの間に下がり、しばらく経ってから久遠がやってきた。
 ほのかに石けんの香りがするのは、着替えの前に湯を浴びたためか。
「待たせてすまない」
「いえ。今、お茶を淹れますね」
 湯気の立つ白磁のカップを二つ、テーブルの上に並べた。
「それで、俺に話というのは?」
「はい、父のことです」
 紗代がそう話を切り出したところで、久遠の顔色もさっと変わった。
「正直にお話します。父は、私に久遠様を殺すよう命じてきました。それもあって、姉ではなく、私を扇宮公爵家に嫁がせたのです」
「なんだって、唐突だな。非力な君が、どうやって俺を殺す?」
 ソファの肘掛けに肘を置き、手の甲で頬杖をついた久遠は、呆れた声を出した。
「それは、もちろん……毒です。先日の侵入者も、舞良公爵の息のかかった者ではありませんでしたか?」
 久遠が大きく息を吐いたのは、紗代の言葉が図星だからだ。
「重ね重ね……父が申し訳ありません」
「いや。俺にその話を伝えたというのは、君は舞良公爵の指示には従わないと?」
「はい。父はどうして素直に私が言うことを聞くと思ったのでしょうね? だって私は、こちらの家に嫁げて幸せだと思っているんですよ? 舞良の家では、背に痣があって、政略結婚の駒として使えないからって、使用人以下の扱いでしたし」
 喉の渇いた紗代がカップに手を伸ばすと、久遠も同じようにお茶を飲もうとする。
 だが、紗代はすぐに気づいた。このお茶には毒が入っている。
 久遠が間違えて飲まないようにと、彼のカップを奪った紗代は、少し冷めたお茶を一気に飲み干し、さらに自分の分のお茶までをも飲んだ。
「紗代!」
 ごほっと咳き込む紗代は、口からわずかに血を吐いた。
「久遠様、申し訳ありません。こちらのお茶にすでに毒が……」
「しゃべるな」
「私は、大丈夫です。それよりも久遠様、犯人をあぶり出すため一芝居打ちませんか?」
 紗代は奈木が用意したティーセットを確認する。毒は茶葉に混ぜられていた。だから、お湯だけ飲めば問題ない。
 呼吸を整えた紗代は、「こちらの毒は、私には効かないのです」と白湯を口に含むと、手巾にぷっとそれを吐き出した。
「どういうことだ?」
「私が父からされていた仕打ちを伝えましたよね?」
「あぁ……薬の実験体になっていたという……」
「はい。正確にいえば、薬ではなく毒薬です。定期的に毒薬を服用していた私は、毒に対して耐性がついたのです」
 口の中にはまだ微かに血の味が残るが、今度は白湯を一口だけ飲む。
「幸いにも、父はそれに気づいておりません。毒薬を飲まされたときは、苦しむ振りをしておりましたから」
 いつの頃からだったろう。父の毒薬を飲んでも少し胸が苦しくなるだけで、痛みが訪れなくなったのは。
「ありがたいことに、毒の味とにおいを嗅ぎ取ることはできます。ただ今回は、茶葉に混ぜられていたため、飲むまでは気づきませんでした」
「だからって、何も俺の分まで飲む必要はないだろう?」
「久遠様が間違って飲んではいけないと思いまして」
「俺は、君に助けられてばかりだな。どうして君は、そこまでして俺を助ける?」
 久遠が紗代の右手を両手で包み込んできた。答えるまで逃がすつもりはないと、言うかのように。
「それは……久遠様には幸せになってもらいたいから……」
 紗代の中の紗月が訴える。
(あなたがいいの……)
 久遠と幸せになりたかった。それが叶わないのであれば、彼だけでも幸せになってもらいたい。
「君がいないのに、俺が幸せになれるとでも思ったのか?」
 真剣な眼差しで見つめられ、紗代の心臓はドキリと跳ね、力強く拍動する。
「紗代……君は、紗月なのか?」
「あっ……」
 その問いに対する答えは「はい」でもあって「いいえ」でもある。
 はくはくと口を開け閉めする紗代の様子を見て、久遠はくすりと笑みをこぼした。
「いや、今の質問は意地悪すぎたな。君は、君だ」
 ところでと、久遠は話題を変える。
「紗代には、このお茶に毒を盛った犯人に心当たりがあるんだな?」
「……はい」
 認めたくはないが、犯人は一人しかいない。

 紗代がソファに寄りかかって倒れた振りをしたところで、久遠はベルを鳴らす。やってきたのはもちろん奈木だが、彼女はぴんぴんしている久遠の姿を見て呆然とする。
「旦那様、ご無事なのですか?」
「それは、何に対して無事だという意味だ?」
 冷え冷えとした声を響かせる久遠から逃れるように、奈木は倒れている紗代へと近づいてきた。
「奥様……?」
「奈木、俺の質問に答えろ。何に対して無事だと、おまえは言いたいんだ?」
「もしかして、旦那様はお茶を飲まなかったのですか?」
「そうだと言ったらどうする?」
「どうして……。奥様との仲がよろしかったから、二人であれば警戒せずにお茶を飲むと思ったのに……」
 そこで毒によって倒れたはずの紗代がむくりと身体を起こせば、奈木も顔色を青くする。
「奈木。ここから逃げられると思うなよ? 正直に話をすれば、それなりに便宜を図ってやる」
 たった十歳の奈木が、久遠から逃れることなどできるはずがない。
 観念したように、奈木はぽつぽつと話を始めた。
 奈木は舞良公爵の命令で、扇宮公爵家で使用人として働き始めたのは、紗代と久遠の縁談が決まってすぐ。理由は、子どもであれば相手も油断するからと。
「病気の姉がいるんです。姉の薬を舞良公爵から融通してもらっていて……」
 紗代も実の父でありながら、そのやり口に怒りしか覚えない。
「でも、わたしがお茶に混ぜた毒は、命を奪うようなものじゃなくて、何日か苦しんで寝込むだけだから大丈夫だと言われて……」
 毒を飲んだ紗代だからわかる。あれは確実に人の命を奪うものだった。
 嘘までついて幼い奈木を利用するなんて、卑怯者のやることだ。
「奈木。おまえはクビだ」
 久遠が冷たく言い放つと、奈木は静かに涙を流して項垂れる。
「おまえは扇宮の修道院に送る。そしておまえの姉は、俺が預かろう」
 その言葉に奈木の顔はぱっと輝いた。
「これ以上、舞良公爵の好きにはさせない」