身体が燃えるように熱く、喉はからからに渇いていた。
「み、みず……」
真っ暗な闇の中、手探りで水を探せば、唇に水差しがあてられ、冷たい水が少しずつ口の中へ入ってくる。飲み干せなかった水は口の端からこぼれるが、その冷たさすら心地よいほど身体中が熱かった。
どれくらいの間、暗闇をさまよっていたかわからない。何度、水を求め、痛みに喘いだかもわからない。
その暗闇に一筋の光が射し込んでできて、紗代はゆっくり目を開けた。
「奥様、お目覚めになられましたか?」
奈木の驚く顔が視界に飛び込んできた。
「奈木……?」
「はい。お目覚めになられてよかったです。今、旦那様をお呼びしますね?」
奈木はパタパタと足音を立て、部屋を出ていった。
覚醒したばかりの紗代の頭は、まだ現実を受け止め切れていない。ただ久遠とパーティーへ出席した帰り道、侵入者の襲撃を受けた覚えはある。
(久遠様は、ご無事なのかしら?)
奈木が呼びにいったのだから、近くにいるのだろう。
長い間、眠っていた気がするし、ずっと悪夢を見ていたような気もする。少し身体を起こすと、背中にぴりっとした痛みが走ったが、父に鞭で打たれたときほどではない。
扉の向こうからバタバタと慌ただしい音が聞こえたと思ったら、「紗代! 起きていて大丈夫なのか?」と血相を変えた久遠が部屋に飛び込んできた。
「はい。久遠様のほうこそ、ご無事でしたか?」
「俺はなんともない。それよりも君のほうが心配だ。三日も高熱にうなされていたんだ。あのときのことを、覚えているのか?」
「はい、覚えております。久遠様がご無事であれば何よりです」
そこで久遠は控えていた奈木と迅に目配せをすると、二人は部屋から離れた。
「なぜ、俺を助けた?」
「それは……」
侵入者に気づき、その侵入者が久遠に向かって刃を振り上げたのがわかったからだ。彼の狙いは扇宮公爵。きっと父の差し金にちがいないと思いつつ、気がついたら身体が勝手に動いて久遠を突き放した。結果、代わりに紗代がその刃を受けた。
「わかりません。だけど、久遠様は扇宮公爵家の当主。久遠様が亡くなれば、扇宮家は柱の維持を失い、妖が公爵領を襲撃してくるでしょう。久遠様は、公爵領の皆にとって、いえ、この国にとって必要な存在なのです」
四つの柱はそれぞれの公爵領に結界を張り、四つの結界があることで国全体が結界に覆われる仕組みになっている。ここで柱が一つでもかけると、国全体の結界は解けてしまう。残り三つの柱は、自領と皇城周辺を守るだけ。
「それでも、君が命をかけて俺を助ける理由にはならない」
「申し訳ありません」
紗代は反射的に謝罪を口にした。
「謝るくらいなら……君自身の命も大事にしてくれ」
予想していなかった言葉に、紗代は「え?」と声が漏れ、目をゆっくり瞬いた。
「俺が……十八年前に婚約者を失っているのは知っているな?」
それが理由で姉はこの縁談を断り、紗代に回ってきたのだ。
「彼女もまた、俺をかばってその命を失った……」
姉は久遠を死神公爵と呼んでいた。
「そうだったのですね……」
紗代も答えてみたものの、そのときの記憶がふっと頭に入り込んできた。久遠が過去の話をするたびに、紗代の中の紗月の記憶が刺激される。
「俺はまた、自分のせいで大事な人を失うところだった。君が無事でよかった……」
紗代の手を握りしめる久遠は、心から安堵の声をもらした。
「ご心配をおかけして申し訳ありませんでした。でも、久遠様がすぐに医師を手配してくださったのですよね。あのとき、久遠様の声が聞こえておりました」
彼を不安にさせぬよう、はにかんで答えたときに「失礼します!」と、退室したはずの迅がやってきた。
久遠はあからさまに不機嫌になり、眉根を寄せる。
「なんだ。おまえたちは外に出ていろと伝えたはずだが?」
「申し訳ありません、緊急事態です。扇宮の柱が弱まっているという報告が入りました」
「なんだと? 一週間前に見回ったときは、そんな気配はいっさい感じなかったが?」
「だから、人為的な何かと……」
迅が声色を落とし、久遠の耳元でぼそりと言った。
「ちっ」
軽く舌打ちをした久遠は声を張り上げ奈木を呼ぶ。
「お呼びですか? 旦那様」
「俺が留守の間、紗代を頼む」
慌ただしく部屋を後にしようとする久遠を見送るために、紗代が寝台から下りようとしたところで止められた。
「紗代。俺が不在の間、君は怪我を治すことだけを考えてくれ」
「お見送りを……」
「そのままでいい。では、いってくる」
「ご武運を」
扉の向こうに消える背に、無事で戻ってくるよう祈りを捧げた。
久遠が柱の様子をみにいってから三日が経った。扇宮公爵領も広いが、柱はここから車で半日走った場所にある。とうてい日帰りで行き来できる距離ではない。
「奥様。お薬の時間です」
相変わらず奈木は、かいがいしく紗代の世話を焼いてくる。幸いにも刃でつけられた傷は浅く、受けた毒による後遺症もない。むしろ、生家でつけられた傷跡のほうがひどいと、東雲医師が薬をくれたのだ。
紗代も毒や解毒についてはそれなりに知識があると自負しているが、それでも本職には敵わない。
さらに背中は自分で薬が塗れない。だからいつも、奈木に頼んでいた。
「東雲先生も、そろそろ動いて問題ないとおっしゃっていたので、庭を歩きませんか?」
「そうね。じっと部屋にこもってばかりいても、気が滅入ってしまうわね」
久遠がどうしているか、気になって仕方ない。奈木がいておしゃべりをしている間はいいが、部屋で一人になると急に不安に襲われてしまうのだ。
そうやって、一日、また一日と久遠の帰りを待つ日々。
だが、まるで久遠の不在を狙ったかのようにして、舞良公爵が「娘を見舞いたい」と使いを寄越してきた。
断る理由も思い浮かばなかった紗代は、侍従長にも相談して、父の見舞いを受け入れることにした。
「紗代。怪我をしたと聞いたが……元気そうで安心したよ」
客室で父と顔を合わせると、わざとらしいくらいのにこやかな笑みに、紗代も作り笑いで返す。
「ところで、紗代が嫁ぐときに渡した薬は足りているかい?」
父は、早速、確信をついてきた。久遠と結婚するときに父から渡されたのは毒。それが足りているかと尋ねているのだ。つまり、紗代がなかなか結果を出さないことに苛立っており、そのための見舞いなのだろう。
「はい。こちらではよくしてもらっているので、薬がなくても、こうして元気に過ごしております」
「そうか、それはよかった」
娘を気遣うはずの言葉なのに、父の目は針のように鋭い。
「ところで、紗代は扇宮公爵をかばって怪我をしたと聞いたのだが?」
やはりあの侵入者は父が仕向けたものだった。捕らえられた侵入者には尋問をかけたと聞いていたが、その結果までは確認していない。
「かばったわけではありません。私がたまたまそこにいただけです」
父はそれ以上何も言わず、黙ってお茶を飲んでいおり、カップの中が空になったところで席を立つ。
「おまえの元気な姿が見られてよかったよ。薬は遠慮なく使いなさい。足りなくなったら、また用意しよう。おまえは私のかわいい娘なのだから」
ありがとうございます、とは言いたくなかった。
紗代は静かに頭を下げた。
(お父様は、久遠様に早く毒を飲ませろと言っているし、効かないのであれば、他の毒まで利用すると……)
久遠とは離れているからこそ、彼の無事を祈るしかない。
(あの人を守りたいのに……)
何もできない自分に、もどかしさだけが募る。
(あの人がいいの……)
「み、みず……」
真っ暗な闇の中、手探りで水を探せば、唇に水差しがあてられ、冷たい水が少しずつ口の中へ入ってくる。飲み干せなかった水は口の端からこぼれるが、その冷たさすら心地よいほど身体中が熱かった。
どれくらいの間、暗闇をさまよっていたかわからない。何度、水を求め、痛みに喘いだかもわからない。
その暗闇に一筋の光が射し込んでできて、紗代はゆっくり目を開けた。
「奥様、お目覚めになられましたか?」
奈木の驚く顔が視界に飛び込んできた。
「奈木……?」
「はい。お目覚めになられてよかったです。今、旦那様をお呼びしますね?」
奈木はパタパタと足音を立て、部屋を出ていった。
覚醒したばかりの紗代の頭は、まだ現実を受け止め切れていない。ただ久遠とパーティーへ出席した帰り道、侵入者の襲撃を受けた覚えはある。
(久遠様は、ご無事なのかしら?)
奈木が呼びにいったのだから、近くにいるのだろう。
長い間、眠っていた気がするし、ずっと悪夢を見ていたような気もする。少し身体を起こすと、背中にぴりっとした痛みが走ったが、父に鞭で打たれたときほどではない。
扉の向こうからバタバタと慌ただしい音が聞こえたと思ったら、「紗代! 起きていて大丈夫なのか?」と血相を変えた久遠が部屋に飛び込んできた。
「はい。久遠様のほうこそ、ご無事でしたか?」
「俺はなんともない。それよりも君のほうが心配だ。三日も高熱にうなされていたんだ。あのときのことを、覚えているのか?」
「はい、覚えております。久遠様がご無事であれば何よりです」
そこで久遠は控えていた奈木と迅に目配せをすると、二人は部屋から離れた。
「なぜ、俺を助けた?」
「それは……」
侵入者に気づき、その侵入者が久遠に向かって刃を振り上げたのがわかったからだ。彼の狙いは扇宮公爵。きっと父の差し金にちがいないと思いつつ、気がついたら身体が勝手に動いて久遠を突き放した。結果、代わりに紗代がその刃を受けた。
「わかりません。だけど、久遠様は扇宮公爵家の当主。久遠様が亡くなれば、扇宮家は柱の維持を失い、妖が公爵領を襲撃してくるでしょう。久遠様は、公爵領の皆にとって、いえ、この国にとって必要な存在なのです」
四つの柱はそれぞれの公爵領に結界を張り、四つの結界があることで国全体が結界に覆われる仕組みになっている。ここで柱が一つでもかけると、国全体の結界は解けてしまう。残り三つの柱は、自領と皇城周辺を守るだけ。
「それでも、君が命をかけて俺を助ける理由にはならない」
「申し訳ありません」
紗代は反射的に謝罪を口にした。
「謝るくらいなら……君自身の命も大事にしてくれ」
予想していなかった言葉に、紗代は「え?」と声が漏れ、目をゆっくり瞬いた。
「俺が……十八年前に婚約者を失っているのは知っているな?」
それが理由で姉はこの縁談を断り、紗代に回ってきたのだ。
「彼女もまた、俺をかばってその命を失った……」
姉は久遠を死神公爵と呼んでいた。
「そうだったのですね……」
紗代も答えてみたものの、そのときの記憶がふっと頭に入り込んできた。久遠が過去の話をするたびに、紗代の中の紗月の記憶が刺激される。
「俺はまた、自分のせいで大事な人を失うところだった。君が無事でよかった……」
紗代の手を握りしめる久遠は、心から安堵の声をもらした。
「ご心配をおかけして申し訳ありませんでした。でも、久遠様がすぐに医師を手配してくださったのですよね。あのとき、久遠様の声が聞こえておりました」
彼を不安にさせぬよう、はにかんで答えたときに「失礼します!」と、退室したはずの迅がやってきた。
久遠はあからさまに不機嫌になり、眉根を寄せる。
「なんだ。おまえたちは外に出ていろと伝えたはずだが?」
「申し訳ありません、緊急事態です。扇宮の柱が弱まっているという報告が入りました」
「なんだと? 一週間前に見回ったときは、そんな気配はいっさい感じなかったが?」
「だから、人為的な何かと……」
迅が声色を落とし、久遠の耳元でぼそりと言った。
「ちっ」
軽く舌打ちをした久遠は声を張り上げ奈木を呼ぶ。
「お呼びですか? 旦那様」
「俺が留守の間、紗代を頼む」
慌ただしく部屋を後にしようとする久遠を見送るために、紗代が寝台から下りようとしたところで止められた。
「紗代。俺が不在の間、君は怪我を治すことだけを考えてくれ」
「お見送りを……」
「そのままでいい。では、いってくる」
「ご武運を」
扉の向こうに消える背に、無事で戻ってくるよう祈りを捧げた。
久遠が柱の様子をみにいってから三日が経った。扇宮公爵領も広いが、柱はここから車で半日走った場所にある。とうてい日帰りで行き来できる距離ではない。
「奥様。お薬の時間です」
相変わらず奈木は、かいがいしく紗代の世話を焼いてくる。幸いにも刃でつけられた傷は浅く、受けた毒による後遺症もない。むしろ、生家でつけられた傷跡のほうがひどいと、東雲医師が薬をくれたのだ。
紗代も毒や解毒についてはそれなりに知識があると自負しているが、それでも本職には敵わない。
さらに背中は自分で薬が塗れない。だからいつも、奈木に頼んでいた。
「東雲先生も、そろそろ動いて問題ないとおっしゃっていたので、庭を歩きませんか?」
「そうね。じっと部屋にこもってばかりいても、気が滅入ってしまうわね」
久遠がどうしているか、気になって仕方ない。奈木がいておしゃべりをしている間はいいが、部屋で一人になると急に不安に襲われてしまうのだ。
そうやって、一日、また一日と久遠の帰りを待つ日々。
だが、まるで久遠の不在を狙ったかのようにして、舞良公爵が「娘を見舞いたい」と使いを寄越してきた。
断る理由も思い浮かばなかった紗代は、侍従長にも相談して、父の見舞いを受け入れることにした。
「紗代。怪我をしたと聞いたが……元気そうで安心したよ」
客室で父と顔を合わせると、わざとらしいくらいのにこやかな笑みに、紗代も作り笑いで返す。
「ところで、紗代が嫁ぐときに渡した薬は足りているかい?」
父は、早速、確信をついてきた。久遠と結婚するときに父から渡されたのは毒。それが足りているかと尋ねているのだ。つまり、紗代がなかなか結果を出さないことに苛立っており、そのための見舞いなのだろう。
「はい。こちらではよくしてもらっているので、薬がなくても、こうして元気に過ごしております」
「そうか、それはよかった」
娘を気遣うはずの言葉なのに、父の目は針のように鋭い。
「ところで、紗代は扇宮公爵をかばって怪我をしたと聞いたのだが?」
やはりあの侵入者は父が仕向けたものだった。捕らえられた侵入者には尋問をかけたと聞いていたが、その結果までは確認していない。
「かばったわけではありません。私がたまたまそこにいただけです」
父はそれ以上何も言わず、黙ってお茶を飲んでいおり、カップの中が空になったところで席を立つ。
「おまえの元気な姿が見られてよかったよ。薬は遠慮なく使いなさい。足りなくなったら、また用意しよう。おまえは私のかわいい娘なのだから」
ありがとうございます、とは言いたくなかった。
紗代は静かに頭を下げた。
(お父様は、久遠様に早く毒を飲ませろと言っているし、効かないのであれば、他の毒まで利用すると……)
久遠とは離れているからこそ、彼の無事を祈るしかない。
(あの人を守りたいのに……)
何もできない自分に、もどかしさだけが募る。
(あの人がいいの……)



