紗代が扇宮公爵家に嫁いで十日が過ぎた。
結婚当日は冷たい印象を受けた久遠だが、日が経つにつれ、その表情も穏やかになっているような気がする。気がするのは、紗代の中に「久遠と婚約していたときの彼女」の記憶が流れてきたせいだろうか。
奈木の話によれば、久遠は十八年前に婚約者を失っており、その相手の名は風雅紗月、当時十六歳。
紗代と紗月。そして今年十八歳になった紗代に流れ込んできた紗月の記憶。
(私は……風雅紗月の生まれ変わり……?)
紗月として生きてきたときの記憶が少しずつ蘇ってくるのだが、確実にそうだ、と言い切れる自信はなかった。
紗月であれば、侯爵令嬢としての教育を受けていただろうが、紗代はそうでもない。
久遠が手配した家庭教師から、午前中のうちにさまざまな授業を受けているが、午後からは授業の復習をしたり散歩をしたりと、自由に過ごしている。
そんな紗代に対する使用人の反応はまちまちで、冷ややかな態度をとったり悪態をついたりする者もいれば、「奥様、奥様」と好意的に声をかけてくる者もいる。
それは紗代が久遠と夜を共にしていないため「飾りの妻」だと思う者と、初々しい様子を見て夫婦仲に期待する者と、二つに分かれているせいだが、紗代自身もまた結婚当日に彼と初めて顔を合わせ、久遠があの久遠だと思い出してからは、どう接したらいいのかわからず悩んでいた。紗代の気持ちの奥には、久遠に幸せになってほしいという気持ちがあって、彼の幸せを望むのなら、妻が紗代であってはいけないのだ。紗月のように、彼を守れるような強い女性がふさわしい。
とはいえ、紗代としてもここでの生活に不満はない。一部を除けば公爵夫人として扱ってもらえるし、父の実験に付き合わされることもない。
それなのに、心に小さな穴があいたような、満たされない気分になってしまう。
「奥様。旦那様から新しい衣装が届いております」
久遠は、紗代が軽んじられない程度に、妻として扱うつもりなのだ。たまにこうやって社交用の衣装を用意してくれるのだが、今日の衣装は華やかなドレスである。
久遠には夕食で顔を合わせたときに礼を言おうと思いつつも、洋装を着こなせるか不安でもあった。
「奈木、それが終わったら、私のところにきてもらえる?」
「はい、すぐにうかがいます」
ドレスがしわにならないよう丁寧に吊した奈木は、いそいそと紗代の元にやってきた。
「奥様、お待たせしました」
「奈木、よかったらこれを使ってくれない?」
紗代が奈木に差し出したのはハマグリであり、その中には軟膏が入っている。
「これ、私が作ったものなんだけど」
「奥様がお作りになられたのですか?」
父の実験体になっていた紗代だが、その傍らで薬を調合していたのだ。もちろんそれは、父からの命令によるものでもあって、自分で調合した薬もまた、紗代が使って効果を試していた。
そして父の指示で薬を作る合間に、手荒れの軟膏も調合していたのだ。舞良公爵家では使用人以下の扱いを受けていた紗代の手は、あかぎれひび割れていた。それを少しでもやわらげたくて作っていた軟膏だが、扇宮公爵家に来てからは手荒れもよくなっている。
それよりも奈木の手が気になってしまい、紗代は自分が使っていた軟膏を彼女に与えたのだ。
「えぇ、私も手荒れがひどくて……。でも、これを使っていたら、ほら」
今ではすっかりよくなった手を奈木に見せつけると、彼女の顔はぱぁっと輝く。
「奥様の手、きれいだなぁと思っていたんです」
奈木はそう言うが、ここに嫁いできたときはその手はまだ酷いものだった。人前に出るときは、手袋をしてその手を隠すほどに。
紗代は奈木の手を取ると、軟膏をすくって彼女の手の甲や指先に塗り込んでいく。
「私がこちらに来たばかりの頃、とても不安だったけれど、奈木がいてくれたから心強かったの。だからこれはお礼。私の使いかけで悪いけれど、それがなくなったらまた新しいのを作るわ」
「もったいないお話です」
奈木はぶんぶんと大きく首を横に振る。
「でも、奈木に救われたのは本当よ?」
久遠からは奈木が紗代の世話をすると名乗り出てくれたと聞いている。扇宮公爵夫人として受け入れられるかどうかわからない紗代にとって、扇宮家に味方がいるというのがどれだけ頼もしいことか。
そして今、奈木はある種の仲介役で、未だに紗代と気まずい関係しか築けない使用人たちとも仲良くしている。
「奈木、これからもよろしくね」
「はい。まかせてください」
紗代の身近にいる人間が奈木でよかったと、心から思った。
奈木に手荒れに効く軟膏をあげたからといって、奈木を懐柔させたわけではない。彼女は自分の意思で紗代の世話をしているし、仕事に慣れてくれば手際もよくなってくる。
「奥様、今日の衣装はこちらです」
奈木が衣装部屋から持ってきたのは、赤色の艶やかなドレス。
今日はこれから皇城へと向かい、皇族主催のパーティーに出席する。
「これなの?」
てっきり着物で参加するものだと思っていた紗代は、慣れぬドレスを目にして素っ頓狂な声をあげた。
「はい。旦那様からはそううかがっております。わたし、ドレスの着付けも教えてもらったのでできます」
トンと胸を張る奈木は自信に満ちあふれているが、それに引き換え紗代は背中を丸くする。
キラキラした眼差しを向ける奈木に、紗代はとうとう観念した。
「これが体型を整える下着ですので、こちらに着替えてください」
コンコンコンコン――。
着替えている途中に扉を叩かれた。返事をする前にそれはガチャリと開いて、中に人が入ってくる。
「おい、着替えは終わったの――」
「旦那様! 着替えはまだ終わっておりません」
手を止めた奈木は、久遠に向きなおる。
久遠に背中を向ける紗代は、身体を強張らせる。その背に、痛いくらいに視線が突き刺さっている感じがした。
「奈木、悪いが俺に五分だけ時間をくれ」
何か言いたげな奈木だが、この家の主人から言われてしまえば、断ることもできないのだろう。
奈木は渋々といった様子で、隣の部屋へと移動した。
下着を着替えようとしていた紗代は、久遠の前で素肌を晒している。
「……この傷は? いや、痣なのか?」
胸の前できつく両腕を組む紗代は「醜いものをお見せして申し訳ありません」と消え入るような声を出した。
「それよりも教えてほしい。おまえの背にある傷跡は?」
「それは……」
一瞬、適当な嘘をつこうかとも考えたが、適当な嘘が思い浮かばない。心臓が力強く鼓動を打つ。
「君にこの傷をつけたのは誰だ?」
「私には生まれつき、背中に痣があるのです。だから父は……」
痣のことを口にしてしまうと、次から次へと言葉が出てきた。生まれつきの痣のせいで家族からは、使用人以下のように扱われており、虐げられていたこと。さらに父は、調薬した薬の効果を試すために紗代を利用していたこと、その新薬の効果が思ったように出なかったときは、八つ当たりのように鞭で打たれたこと。
「痣があることを黙っていて、申し訳ありませんでした」
いや、と呟いた久遠の手が紗代の痣に触れた。
「これがいい。これもおまえの身体の一部だ」
彼が触れた場所が、燃えるように熱を持っていた。
結婚当日は冷たい印象を受けた久遠だが、日が経つにつれ、その表情も穏やかになっているような気がする。気がするのは、紗代の中に「久遠と婚約していたときの彼女」の記憶が流れてきたせいだろうか。
奈木の話によれば、久遠は十八年前に婚約者を失っており、その相手の名は風雅紗月、当時十六歳。
紗代と紗月。そして今年十八歳になった紗代に流れ込んできた紗月の記憶。
(私は……風雅紗月の生まれ変わり……?)
紗月として生きてきたときの記憶が少しずつ蘇ってくるのだが、確実にそうだ、と言い切れる自信はなかった。
紗月であれば、侯爵令嬢としての教育を受けていただろうが、紗代はそうでもない。
久遠が手配した家庭教師から、午前中のうちにさまざまな授業を受けているが、午後からは授業の復習をしたり散歩をしたりと、自由に過ごしている。
そんな紗代に対する使用人の反応はまちまちで、冷ややかな態度をとったり悪態をついたりする者もいれば、「奥様、奥様」と好意的に声をかけてくる者もいる。
それは紗代が久遠と夜を共にしていないため「飾りの妻」だと思う者と、初々しい様子を見て夫婦仲に期待する者と、二つに分かれているせいだが、紗代自身もまた結婚当日に彼と初めて顔を合わせ、久遠があの久遠だと思い出してからは、どう接したらいいのかわからず悩んでいた。紗代の気持ちの奥には、久遠に幸せになってほしいという気持ちがあって、彼の幸せを望むのなら、妻が紗代であってはいけないのだ。紗月のように、彼を守れるような強い女性がふさわしい。
とはいえ、紗代としてもここでの生活に不満はない。一部を除けば公爵夫人として扱ってもらえるし、父の実験に付き合わされることもない。
それなのに、心に小さな穴があいたような、満たされない気分になってしまう。
「奥様。旦那様から新しい衣装が届いております」
久遠は、紗代が軽んじられない程度に、妻として扱うつもりなのだ。たまにこうやって社交用の衣装を用意してくれるのだが、今日の衣装は華やかなドレスである。
久遠には夕食で顔を合わせたときに礼を言おうと思いつつも、洋装を着こなせるか不安でもあった。
「奈木、それが終わったら、私のところにきてもらえる?」
「はい、すぐにうかがいます」
ドレスがしわにならないよう丁寧に吊した奈木は、いそいそと紗代の元にやってきた。
「奥様、お待たせしました」
「奈木、よかったらこれを使ってくれない?」
紗代が奈木に差し出したのはハマグリであり、その中には軟膏が入っている。
「これ、私が作ったものなんだけど」
「奥様がお作りになられたのですか?」
父の実験体になっていた紗代だが、その傍らで薬を調合していたのだ。もちろんそれは、父からの命令によるものでもあって、自分で調合した薬もまた、紗代が使って効果を試していた。
そして父の指示で薬を作る合間に、手荒れの軟膏も調合していたのだ。舞良公爵家では使用人以下の扱いを受けていた紗代の手は、あかぎれひび割れていた。それを少しでもやわらげたくて作っていた軟膏だが、扇宮公爵家に来てからは手荒れもよくなっている。
それよりも奈木の手が気になってしまい、紗代は自分が使っていた軟膏を彼女に与えたのだ。
「えぇ、私も手荒れがひどくて……。でも、これを使っていたら、ほら」
今ではすっかりよくなった手を奈木に見せつけると、彼女の顔はぱぁっと輝く。
「奥様の手、きれいだなぁと思っていたんです」
奈木はそう言うが、ここに嫁いできたときはその手はまだ酷いものだった。人前に出るときは、手袋をしてその手を隠すほどに。
紗代は奈木の手を取ると、軟膏をすくって彼女の手の甲や指先に塗り込んでいく。
「私がこちらに来たばかりの頃、とても不安だったけれど、奈木がいてくれたから心強かったの。だからこれはお礼。私の使いかけで悪いけれど、それがなくなったらまた新しいのを作るわ」
「もったいないお話です」
奈木はぶんぶんと大きく首を横に振る。
「でも、奈木に救われたのは本当よ?」
久遠からは奈木が紗代の世話をすると名乗り出てくれたと聞いている。扇宮公爵夫人として受け入れられるかどうかわからない紗代にとって、扇宮家に味方がいるというのがどれだけ頼もしいことか。
そして今、奈木はある種の仲介役で、未だに紗代と気まずい関係しか築けない使用人たちとも仲良くしている。
「奈木、これからもよろしくね」
「はい。まかせてください」
紗代の身近にいる人間が奈木でよかったと、心から思った。
奈木に手荒れに効く軟膏をあげたからといって、奈木を懐柔させたわけではない。彼女は自分の意思で紗代の世話をしているし、仕事に慣れてくれば手際もよくなってくる。
「奥様、今日の衣装はこちらです」
奈木が衣装部屋から持ってきたのは、赤色の艶やかなドレス。
今日はこれから皇城へと向かい、皇族主催のパーティーに出席する。
「これなの?」
てっきり着物で参加するものだと思っていた紗代は、慣れぬドレスを目にして素っ頓狂な声をあげた。
「はい。旦那様からはそううかがっております。わたし、ドレスの着付けも教えてもらったのでできます」
トンと胸を張る奈木は自信に満ちあふれているが、それに引き換え紗代は背中を丸くする。
キラキラした眼差しを向ける奈木に、紗代はとうとう観念した。
「これが体型を整える下着ですので、こちらに着替えてください」
コンコンコンコン――。
着替えている途中に扉を叩かれた。返事をする前にそれはガチャリと開いて、中に人が入ってくる。
「おい、着替えは終わったの――」
「旦那様! 着替えはまだ終わっておりません」
手を止めた奈木は、久遠に向きなおる。
久遠に背中を向ける紗代は、身体を強張らせる。その背に、痛いくらいに視線が突き刺さっている感じがした。
「奈木、悪いが俺に五分だけ時間をくれ」
何か言いたげな奈木だが、この家の主人から言われてしまえば、断ることもできないのだろう。
奈木は渋々といった様子で、隣の部屋へと移動した。
下着を着替えようとしていた紗代は、久遠の前で素肌を晒している。
「……この傷は? いや、痣なのか?」
胸の前できつく両腕を組む紗代は「醜いものをお見せして申し訳ありません」と消え入るような声を出した。
「それよりも教えてほしい。おまえの背にある傷跡は?」
「それは……」
一瞬、適当な嘘をつこうかとも考えたが、適当な嘘が思い浮かばない。心臓が力強く鼓動を打つ。
「君にこの傷をつけたのは誰だ?」
「私には生まれつき、背中に痣があるのです。だから父は……」
痣のことを口にしてしまうと、次から次へと言葉が出てきた。生まれつきの痣のせいで家族からは、使用人以下のように扱われており、虐げられていたこと。さらに父は、調薬した薬の効果を試すために紗代を利用していたこと、その新薬の効果が思ったように出なかったときは、八つ当たりのように鞭で打たれたこと。
「痣があることを黙っていて、申し訳ありませんでした」
いや、と呟いた久遠の手が紗代の痣に触れた。
「これがいい。これもおまえの身体の一部だ」
彼が触れた場所が、燃えるように熱を持っていた。



