いくら皇命とはいえ、自分と一回りも年下の妻なんてもらうのではなかったと、結婚して早々、久遠は後悔に襲われる。
「……はぁ」
今日という日まで、久遠は妻となる紗代と顔を合わせたことはなかった。
それは久遠が彼女を避けていたわけでなく、舞良公爵のほうから「どうせ娘との結婚は決まっているのですから、何も今さら顔合わせをする必要はないでしょう」と言われたからだ。
久遠も年若い女性と結婚する後ろめたい気持ちもどこかにあって、舞良公爵の言葉をそのまま受け入れたのだが、そこにカラクリが隠されているとは思ってもいなかった。
舞良公爵に息子と娘がいるのは知っていた。息子は次期公爵であるし、娘もとっくに成人を迎えた年ごろの女性だという話だった。
しかし、今日、久遠の妻となった女性は、成人を迎えたばかりの紗代。しかも社交界デビューはしていないし、まともな令嬢教育も受けていないというのは、紗代の所作を見れば一目瞭然。
一つ一つの動作は丁寧なのに、どこかぎこちなさが残っていた。きっとこの結婚のために、焦って教育を受けさせられたのだろうと推測した。
紗代は舞良公爵の娘に違いはないはずだがその存在は隠されており、そして久遠との縁談のためににわか令嬢に仕立てられたのだ。
それを確認するため彼女の部屋へと向かったのだが、久遠の顔を見たとたん、紗代は泣き出した。
(くそっ……)
わけのわからない怒りが込み上げてくる。
望まぬ結婚なのは、こちらも同じ。だからこそ彼女を気遣おうとしたのに、まさか泣かれるとは。これだから女は面倒くさい。
久遠はグラスに注いだ琥珀色の液体を一気に飲み干した。焼けるような熱さが喉から胃に落ちる。
「大荒れですね、久遠様」
「なんだ、おまえ。いたのか?」
「いたのかって、ひどい」
久遠に対して親しげに声をかけるのは、信頼している部下の一人、二条迅である。
「新婚なのに、寂しく独り寝ですか?」
ニヤニヤする迅を、久遠は鋭く睨みつける。
「お~、こわこわ。でも、久遠様。奥様を放っておかれるのは得策ではありませんからね?」
「なんだと?」
「だって考えてもみてください。奥様は、舞良公爵家のご令嬢でしょう? 今まで公爵夫人が他の一族からやってきただなんて、前代未聞なんですよ。それなのに旦那様が奥様を無視している……という話が屋敷内に広まれば、使用人たちも奥様を見下すでしょう」
迅の言葉はあながち間違いではない。
紗代の世話係を決めるときに、一悶着あったのは記憶に新しい。最終的には、幼い奈木が「私にやらせてください」と手を上げたから彼女に任せただけである。彼女は雇ったばかりだが、その仕事ぶりは目を見張るものがあった。どうやら病気の姉がおり、その薬代を稼ぎたいらしい。守りたい者がいる人間は、久遠も嫌いではない。
「奥様が使用人に見下されぬよう、久遠様も適宜、奥様と愛を深めてください」
「愛を深めるより先に、互いを知るところからだろう?」
「わかっているなら、せめて今夜だけは奥様の部屋へ行ってくださいよぅ」
情けない声を出す迅に、久遠は鋭い眼差しを向けるが「今日は、無理だな」とひらひら手を振って答える。
「無理ってどういうことですか? もしかして男性として反応しないとか? 奥様に女性としての魅力を感じない? っていうか旦那様の好みじゃない?」
「おい。だから互いを知るところからだという話をしただろう?」
「失礼しました。では、せめて奥様と一緒に食事くらいはお願いします。二人の不仲節なんて、もってのほかですからね!」
本当に迅は、母親のようにうるさい。
「俺だって面倒くさいことにはしたくない。それに、この縁談は皇命だからな」
ただでさえ厄介な縁談であるのに、彼女との不仲節が流れ、それが他家の者の耳に届いたらと考えただけでうんざりしてしまう。
互いに望まぬ結婚であったとしても、外では夫婦に見えるよう振る舞う必要がある。
それを紗代に伝えるべきだと思いながらも、彼女の泣き顔が脳裏にちらついていた。
結局、新婚初夜だというのに、久遠は自室で一晩を過ごした。
次の日、朝から奈木を呼びつけると、紗代への伝言を言付けた。久遠が直接、紗代に伝えられればいいのだが、昨夜の件もあり、また紗代が泣くことを懸念したのだ。
「基本的には好きに過ごしてもらってかまわない。だが、食事だけはできるたけ俺と一緒にとるようにと、そう伝えてくれ」」
また、紗代に何かあったらただちに教えるよう言ったので、素直な奈木はそれを守ってくれるはずだ。
奈木はニコニコした様子で部屋を出ていったから、すぐに紗代に伝えるだろう。
食堂を畳み敷きから板張りに変えたのは、久遠の父が現役だったとき。食事の文化も異国のものが入ってきて、会食もナイフとフォークを使う洋食が多くなってきたのが理由である。
紗代は、出された料理を前に身体を硬くしていたが、久遠との食事を嫌がっている様子はなかった。
「どうした? 食べないのか?」
久遠の勘が正しければ、彼女はカトラリーの使い方をわからないはず。
「……お箸ではないのですね」
「あぁ。せっかくだから、洋食を用意した。近頃、会食もこういった形式が多い。練習だと思え」
練習と言われ、紗代も幾分か力が抜けたのか、自嘲気味な笑みを浮かべる。
「私、こういった食事をいただくのが初めてでして……」
「俺の真似をすればいい」
「はい」
紗代の顔が少しだけ明るくなった気がした。
昨日は紗代に泣かれ、望まぬ結婚はこちらも同じだと、意地になっていた面もあったのかもしれない。
久遠はこの場で、紗代について探りを入れることにした。
「結婚前に顔合わせをしなかった理由を、聞いているか?」
「いえ、特には……。ただ、この結婚は決まったものだからとしか……」
「なるほどな。一応、こちらからは顔合わせの申し入れはしていたのだが?」
「そうだったのですね。父が、失礼いたしました」
そこで久遠は、違和感を覚えた。昨日の紗代と雰囲気が異なる気がしたのだ。だがその違和感を呑み込み、言葉を続ける。
「君が社交の場に出てこなかったのは?」
「それは……」
どうやら彼女は、嘘をつけない性格らしい。一瞬、表情が曇ったのを見逃さない。
「まぁ、いい。昨夜、君に伝えようと思っていたことがある」
「あっ……昨日は申し訳ありませんでした。式直後というのもあり、気持ちが昂ぶっていたようでして……」
「つまり、この結婚が嫌で泣いたのではないと言いたいのだな?」
「はい。むしろ私にとって、この結婚は幸運なものだと思っています」
「なるほど、幸運か……それは、君のその手に関係するのか?」
紗代は、手にしていたカトラリーを握りしめる。できるだけ荒れた手を隠そうとしているのだろう。
所作や知識は詰め込まれたとしても、荒れた手は数日で治らなかったらしい。手を見れば、その者がどんな生活をしてきたかすぐにわかるというのに、舞良公爵家は彼女を虐げるのに忙しくて、そこまで頭が回らなかったにちがいない。
「君には家庭教師をつける。にわか令嬢では公爵夫人が務まるわけがない」
「申し訳……ありません……」
そこから会話はまともに続かなかった。久遠が何か言えば、紗代は謝罪の言葉を口にする。これでは話にならない。
「あまり自分を卑下するな。この結婚は俺にとっても都合がいいもの。どうせなら、お互い利用し合おうじゃないか」
彼女が紗月の代わりにならないことくらい、久遠だって痛いくらいにわかっている。
「……はぁ」
今日という日まで、久遠は妻となる紗代と顔を合わせたことはなかった。
それは久遠が彼女を避けていたわけでなく、舞良公爵のほうから「どうせ娘との結婚は決まっているのですから、何も今さら顔合わせをする必要はないでしょう」と言われたからだ。
久遠も年若い女性と結婚する後ろめたい気持ちもどこかにあって、舞良公爵の言葉をそのまま受け入れたのだが、そこにカラクリが隠されているとは思ってもいなかった。
舞良公爵に息子と娘がいるのは知っていた。息子は次期公爵であるし、娘もとっくに成人を迎えた年ごろの女性だという話だった。
しかし、今日、久遠の妻となった女性は、成人を迎えたばかりの紗代。しかも社交界デビューはしていないし、まともな令嬢教育も受けていないというのは、紗代の所作を見れば一目瞭然。
一つ一つの動作は丁寧なのに、どこかぎこちなさが残っていた。きっとこの結婚のために、焦って教育を受けさせられたのだろうと推測した。
紗代は舞良公爵の娘に違いはないはずだがその存在は隠されており、そして久遠との縁談のためににわか令嬢に仕立てられたのだ。
それを確認するため彼女の部屋へと向かったのだが、久遠の顔を見たとたん、紗代は泣き出した。
(くそっ……)
わけのわからない怒りが込み上げてくる。
望まぬ結婚なのは、こちらも同じ。だからこそ彼女を気遣おうとしたのに、まさか泣かれるとは。これだから女は面倒くさい。
久遠はグラスに注いだ琥珀色の液体を一気に飲み干した。焼けるような熱さが喉から胃に落ちる。
「大荒れですね、久遠様」
「なんだ、おまえ。いたのか?」
「いたのかって、ひどい」
久遠に対して親しげに声をかけるのは、信頼している部下の一人、二条迅である。
「新婚なのに、寂しく独り寝ですか?」
ニヤニヤする迅を、久遠は鋭く睨みつける。
「お~、こわこわ。でも、久遠様。奥様を放っておかれるのは得策ではありませんからね?」
「なんだと?」
「だって考えてもみてください。奥様は、舞良公爵家のご令嬢でしょう? 今まで公爵夫人が他の一族からやってきただなんて、前代未聞なんですよ。それなのに旦那様が奥様を無視している……という話が屋敷内に広まれば、使用人たちも奥様を見下すでしょう」
迅の言葉はあながち間違いではない。
紗代の世話係を決めるときに、一悶着あったのは記憶に新しい。最終的には、幼い奈木が「私にやらせてください」と手を上げたから彼女に任せただけである。彼女は雇ったばかりだが、その仕事ぶりは目を見張るものがあった。どうやら病気の姉がおり、その薬代を稼ぎたいらしい。守りたい者がいる人間は、久遠も嫌いではない。
「奥様が使用人に見下されぬよう、久遠様も適宜、奥様と愛を深めてください」
「愛を深めるより先に、互いを知るところからだろう?」
「わかっているなら、せめて今夜だけは奥様の部屋へ行ってくださいよぅ」
情けない声を出す迅に、久遠は鋭い眼差しを向けるが「今日は、無理だな」とひらひら手を振って答える。
「無理ってどういうことですか? もしかして男性として反応しないとか? 奥様に女性としての魅力を感じない? っていうか旦那様の好みじゃない?」
「おい。だから互いを知るところからだという話をしただろう?」
「失礼しました。では、せめて奥様と一緒に食事くらいはお願いします。二人の不仲節なんて、もってのほかですからね!」
本当に迅は、母親のようにうるさい。
「俺だって面倒くさいことにはしたくない。それに、この縁談は皇命だからな」
ただでさえ厄介な縁談であるのに、彼女との不仲節が流れ、それが他家の者の耳に届いたらと考えただけでうんざりしてしまう。
互いに望まぬ結婚であったとしても、外では夫婦に見えるよう振る舞う必要がある。
それを紗代に伝えるべきだと思いながらも、彼女の泣き顔が脳裏にちらついていた。
結局、新婚初夜だというのに、久遠は自室で一晩を過ごした。
次の日、朝から奈木を呼びつけると、紗代への伝言を言付けた。久遠が直接、紗代に伝えられればいいのだが、昨夜の件もあり、また紗代が泣くことを懸念したのだ。
「基本的には好きに過ごしてもらってかまわない。だが、食事だけはできるたけ俺と一緒にとるようにと、そう伝えてくれ」」
また、紗代に何かあったらただちに教えるよう言ったので、素直な奈木はそれを守ってくれるはずだ。
奈木はニコニコした様子で部屋を出ていったから、すぐに紗代に伝えるだろう。
食堂を畳み敷きから板張りに変えたのは、久遠の父が現役だったとき。食事の文化も異国のものが入ってきて、会食もナイフとフォークを使う洋食が多くなってきたのが理由である。
紗代は、出された料理を前に身体を硬くしていたが、久遠との食事を嫌がっている様子はなかった。
「どうした? 食べないのか?」
久遠の勘が正しければ、彼女はカトラリーの使い方をわからないはず。
「……お箸ではないのですね」
「あぁ。せっかくだから、洋食を用意した。近頃、会食もこういった形式が多い。練習だと思え」
練習と言われ、紗代も幾分か力が抜けたのか、自嘲気味な笑みを浮かべる。
「私、こういった食事をいただくのが初めてでして……」
「俺の真似をすればいい」
「はい」
紗代の顔が少しだけ明るくなった気がした。
昨日は紗代に泣かれ、望まぬ結婚はこちらも同じだと、意地になっていた面もあったのかもしれない。
久遠はこの場で、紗代について探りを入れることにした。
「結婚前に顔合わせをしなかった理由を、聞いているか?」
「いえ、特には……。ただ、この結婚は決まったものだからとしか……」
「なるほどな。一応、こちらからは顔合わせの申し入れはしていたのだが?」
「そうだったのですね。父が、失礼いたしました」
そこで久遠は、違和感を覚えた。昨日の紗代と雰囲気が異なる気がしたのだ。だがその違和感を呑み込み、言葉を続ける。
「君が社交の場に出てこなかったのは?」
「それは……」
どうやら彼女は、嘘をつけない性格らしい。一瞬、表情が曇ったのを見逃さない。
「まぁ、いい。昨夜、君に伝えようと思っていたことがある」
「あっ……昨日は申し訳ありませんでした。式直後というのもあり、気持ちが昂ぶっていたようでして……」
「つまり、この結婚が嫌で泣いたのではないと言いたいのだな?」
「はい。むしろ私にとって、この結婚は幸運なものだと思っています」
「なるほど、幸運か……それは、君のその手に関係するのか?」
紗代は、手にしていたカトラリーを握りしめる。できるだけ荒れた手を隠そうとしているのだろう。
所作や知識は詰め込まれたとしても、荒れた手は数日で治らなかったらしい。手を見れば、その者がどんな生活をしてきたかすぐにわかるというのに、舞良公爵家は彼女を虐げるのに忙しくて、そこまで頭が回らなかったにちがいない。
「君には家庭教師をつける。にわか令嬢では公爵夫人が務まるわけがない」
「申し訳……ありません……」
そこから会話はまともに続かなかった。久遠が何か言えば、紗代は謝罪の言葉を口にする。これでは話にならない。
「あまり自分を卑下するな。この結婚は俺にとっても都合がいいもの。どうせなら、お互い利用し合おうじゃないか」
彼女が紗月の代わりにならないことくらい、久遠だって痛いくらいにわかっている。



