あなたの幸せを願っていた、ただそれだけ

 断れない縁談は皇命でもあるからだ。父は、紗代が怖じ気づいて逃げるかもしれないと考えたのだろうか。それとも、扇宮公爵のほうから事前の顔合わせは不要と言いだしたのだろうか。
 とにかく紗代は、夫となる扇宮公爵とは結婚式まで顔を合わせることはなく、その顔もよくわかっていなかった。
 政略に使えないと思われていた紗代が、扇宮公爵家に嫁ぐ。まして舞良公爵家のためにというのであれば、父も張り切って婚礼衣装を揃えてくれた。
 朝から金の刺繍の入った黒振り袖に着替えた紗代は、馬車に乗せられ扇宮公爵邸へと向かう。介添えとして年配の次女が付き添い、さらに母と姉が同じ馬車に乗り込んできたが、紗代が逃げないようにと監視するつもりなのか、その視線は鋭いものだ。
 結婚という人生の転機でもあるのに、紗代の心は鉛がくくりつけられたように沈んでいる。
 夫となる人物と顔を合わせたことはない。そして父は、その夫に毒を飲ませて殺せと、紗代に命じているのだ。
 結婚式は扇宮公爵邸に神職が呼ばれ、神前式で執り行われる。これは扇宮公爵からの提案で、近頃流行りの異文化を取り入れた結婚式であり、参列者も必要最小で住むというのが理由らしい。
 扇宮公爵はフロックコート姿で現れ、その姿に紗代は思わず息を止めた。十三歳も年上の彼だが、すらりとした長身に洋装がよく似合い、その年齢を感じさせない。
 緊張していた紗代は、式の間も顔を上げずうつむいたままだったので、夫となる人物の顔すらよく見ていない。
 式が終わると紗代の家族はそそくさと帰っていく。本来であればお披露目をかねての披露宴という流れを取るのだが、それすらない。
 結婚式にかかった時間よりも、着付けに要した時間のほうが長かったのではと思えるほど、式はあっさりしたものであった。
 それもそのはず。公爵に嫁ぐのが他一族の娘という、前代未聞の縁談である。さらに皇帝からの命令による縁とあれば、素直に喜べないのは、扇宮公爵側も同じなのだろう。
 介添えとしてついてきた侍女は、母たちと一緒に舞良家へと戻っていった。
 案内された部屋で、ほぅと息をついた紗代の前には幼い女の子が立っている。
「あなたは?」
「はい、奈木と言います。これから奥様のお世話をさせていただきます。なんなりとお申し付けください」
 子ども特有の高い声で名乗った奈木は、満面の笑みを浮かべて紗代を見つめてくる。どうやら彼女が紗代についてくれる使用人のようだ。
「奈木さん?」
「どうぞ、奈木とお呼びください」
 人を使うことに慣れていない紗代は、使用人の名を呼ぶのも、お願いごとをするのもおどおどしてしまう。
「えっと、奈木。着替えたいのだけれど……」
「はい。おまかせください。こう見えても着物の着付けはひととおりできますから」
「ところで、奈木はいくつなの? 何歳?」
「はい、十歳です」
 年齢のわりにはしっかりしているが、なぜ彼女が紗代付きなのか。その理由をそれとなく尋ねたところ、奈木が言葉を濁した。
 きっと、彼女以外、紗代の世話係になってもいいと言う人がいなかったのだ。
 舞良家の娘が扇宮公爵の夫人になるなど前代未聞であるため、誰もが紗代との距離に戸惑い、探っているようにも見えた。
 奈木の手を借りながら、婚礼用の着物を一枚、一枚脱いだ。父がこれだけ立派な婚礼衣装を用意してくれるとは予想外でもあった。
「こちらは留め袖にお直ししますね」
 さらりと終わった結婚式だったが、それは異文化の影響を強く受けており、紗代が知るものとは異なっていた。気が張っていたため周囲をじっくり見たわけではないので、そう感じたという程度だが。
 木綿のやわらかな着物に着替えると、長椅子に腰を下ろす。
「今日はお疲れでしょうから、食事は部屋に運びますね。それから、旦那様も後でお話があるそうです」
「わかったわ、ありがとう」
「お食事の時間まで、ゆっくりお休みください。では、わたしは一度、下がりますね。何かありましたらそちらのベルでお呼びください」
 丁寧に頭を下げた奈木は、部屋を出ていった。辞する前に、お茶まで淹れてくれた気づかいに、紗代の胸も熱くなる。
 紗代にあてがわれた部屋も、異国文化を取り入れた内装が施されている。冷えた床の上に敷かれた硬いせんべい布団ではなく、天蓋のついたベッドの上に、見るからに肌触りの良さそうな布団が用意されていた。これから寒くなれば、あっちの暖炉に火が入るのだろう。
 長椅子に座り、奈木が淹れてくれたお茶を一口だけ飲んだ。初めて飲むお茶の味に、目を見開く。今までの生活からは想像できない世界に放り出されてしまった。
 このお茶はなんというお茶なのか。知りたいことや聞きたいことはたくさんあるのに、そのためだけに奈木を呼び出すのは気が引けた。
 ゆっくりお茶を味わった紗代だが、あたたかくて静かな空間にいたら瞼が重くなってきて、夕食の時間まで転た寝をしてしまった。
 夕食は自室で一人だったが、給仕のために奈木がいたので、「これは?」「そちらは?」と、並ぶ食事について尋ねた。さらに先ほど飲んだお茶を確認したところ、「紅茶」と呼ばれるもので、やはり異国から入ってきたお茶だった。
 紗代にとって、今日という一日が非常に長く感じられた。扇宮公爵と式を挙げたのが遠い昔のようだ。
 入浴の準備が終わるのを待っていると、部屋の扉が叩かれた。奈木は浴室に行っているから、ノックの相手は奈木ではない。となれば誰だろうか。
「俺だ。入るぞ」
 それは夫となった人物の声。
「は、はい……」
 紗代は慌てて立ち上がり、部屋に入ってきた扇宮公爵を出迎えた。
「今、ちょっといいか?」
「はい」
 緊張をまとわせて返事をした紗代は、扇宮公爵と向かい合う。
「こうやって顔を合わせるのは初めてだな。俺が扇宮久遠だ」
「はい、私が舞良紗代です。お世話になります」
 深々と頭を下げた紗代だが、彼の声と名を聞いたときに心臓がどっどっと大きく震え、懐かしさを覚えた。
「あっ……」
 顔を上げると同時に、一筋の涙が紗代の頬を伝った。と、同時に誰のものかわからぬ記憶が頭の中に大量に入り込んでくる。
(久遠様……? 私は、久遠様を知っている……)
 だけど紗代の記憶にいる久遠の姿は、もっと幼いものだ。
 はらはらと流れる涙は、紗代の意思では止まらない。
(久遠様、立派になられて……)
 懐かしい記憶が蘇り、胸の奥が熱くなってくる。
 しかし久遠は、そんな紗代に冷え冷えとした眼差しを向けた。
「はっ、そんなにこの結婚が嫌か。あぁ、そうだな。俺とおまえでは一回りも年が離れているからな。だが、安心しろ。この結婚は政略だ。愛情なんてものは存在しない」
 そう吐き捨てた久遠は、紗代に背を向けると乱暴に扉を開け、その扉の向こう側に姿を消した。
 ――バタンッ!
 荒々しく閉まった扉を、紗代はぼんやりと見つめる。
(久遠様に嫌われてしまったのかしら……?)
 今度は急に不安に襲われた。
(でも、それでもいい。久遠様のおそばにいられるのであれば……)