あなたの幸せを願っていた、ただそれだけ

「紗代。次はこれを飲むんだ」
 舞良公爵家の次女として生を受けた紗代は、生まれつき背中に大きな痣があった。それは右肩から左わき腹にかけて、まるで何かに斬られたような大きな痣。その痣を見た両親は、ひどくがっかりしたらしい。これでは、政略の駒として使えないというのが理由だ。女として生まれたのであれば、舞良公爵家の名を背負って嫁ぐ。その相手は舞良家の一族が多いが、百年以上も前には皇妃にと望まれたこともあった。
 すでに皇帝が正妃を迎えている今、皇妃は望めないが皇太子妃となる可能性は充分に残されている。いや、側妃という手もある。
 しかし背中に痣がある紗代など、側妃はおろか、まともな縁談がやってくるかどうかもわからない。
「うっ……」
 父親から渡されたお茶を飲み終えた紗代は、すぐに口元を手で押さえた。飲めないものではないが、決して美味しいとはいえないお茶だ。
 政略の駒に使えない娘を、父は薬の実験体として利用している。
 舞良公爵は、生薬や洋薬を使って薬を作っており、それは丸薬だったり粉薬だったりさまざまなもの。これを誰が使うのかはわからないが、その薬の効果を紗代で試していた。今も怪しげな粉薬を混ぜられたお茶を飲むよう、強制されたのだ。
「結婚の道具としても使えないのだから、せめてこれくらいは役に立て」
 紗代が苦い茶を飲み終えたのを確認した父は、皮肉な笑みを口元に浮かべてからその場を去る。
 誰もいなくなったところで、紗代は膝をついて身体を丸めて餌付いた。涙目になりながらも、肩で大きく息を吸って吐いて呼吸を整えてから、離れにある調薬室を出て、母屋に裏口から入る。
 薬の実験体にしかなれない紗代は、父の実の娘であるにもかかわらず、日の当たらぬ場所へと追いやられた。自室は地下。
 貴族の娘であれば十六歳になった年に社交界デビューするはずなのに、紗代にとってそれすら遠い話である。このまま年を重ねたとしても、社交の場に足を運ぶことはないだろう。
 舞良公爵家にとって、紗代は娘でありながら娘でなく、ただの実験体。薬の副作用で苦しもうが、父はそれを冷淡に観察し、効果を確認するだけ。
 ひんやりとした自室は、窓一つなくまるで座敷牢のよう。硬いせんべい布団の上に身体を横たえ、ゆっくり呼吸をしながら目を閉じると、目尻からじわりと涙がこぼれた。

 紗代は普段から公爵令嬢としての扱いは受けていない。それも背中にある痣のせいで、政略に使えないのであれば使用人以下という公爵の考えによるもの。
 いつもは使用人に交じって、掃除や洗濯、食事の用意に畑仕事などをしており、使用人たちもそんな紗代を公爵令嬢として扱うことはない。
 それなのにその日は、「紗代お嬢様、旦那様がお呼びです」と父の侍従が紗代を呼びにきた。記憶のある限り、令嬢らしい扱いを受けたことなどない。
 それでも「はい」と小さく返事をして、侍従の後ろをついていく。
『いやよ、なんで私なの?』
 父の執務室の扉の前に立ったとき、部屋の中から女性の金切り声が聞こえてきた。
『利代、落ち着きなさい』
 どうやら父が姉の利代を宥めているようだが、このとき侍従が扉を叩いた。
「旦那様。紗代お嬢様をおつれしました」
 部屋に入ると、長椅子の上にあるべき座布団が、床の上に散乱している。開国をきっかけに異国の文化の影響を受けた帝国では、屋敷の造りもところどころ異国風だ。
「お父様、いるじゃないの!」
 紗代の姿を見たとたん、利代の目が嬉々として輝いた。
「利代、落ち着きなさい」
 先ほどよりも穏やかな父の声に従い、利代は長椅子にふんぞり返って座ると、手と足を組んだ。
 父の隣には母がいて、母は先ほどから黙って事の成り行きを見守っている。
「当家に扇宮公爵との縁談がきている」
 紗代は座ってもいいと言われていないため、その場に立ったまま話を聞くしかない。
「しかもこれは、皇帝陛下からの命令だ。舞良公爵家の娘を、扇宮公爵に嫁がせろとな」
 利代が不機嫌な色を顔中にまき散らしているというのに、父の表情には喜悦の色が滲む。
「公爵の妻は一族の者からというのが慣例であったが、扇宮公爵は……」
「死神公爵だからでしょ? 婚約者が死んでいるんでしょ? あの人が殺したっていう噂だし」
 父の言葉を遮った利代は不満げに先を続けたが、さらに父が言葉の続きを奪った。
「噂は噂で真実は判明していない。ただその噂のせいで、扇宮の分家は公爵家との縁談に尻込みしている。本来であれば、公爵家に嫁ぐのは名誉なことであるのだがな」
 黙って二人の話に耳を傾けていた紗代だが、自分がこの場に呼ばれた理由が理解できた気がした。
 扇宮公爵との縁談。それを嫌がる利代。呼び出された紗代となれば、答えは自然と見えてくる。
「……紗代、わかっているな?」
 蛇が絡みつくような視線を紗代に向ける父は、ニヤリと口の端を持ち上げた。
「陛下からの命令は、舞良家の娘を扇宮公爵に嫁がせること。どの娘を嫁がせるかまでの指定はない」
「お父様。この娘(こ)の存在なんて、周知されていないでしょう? 他の人が知るはずないじゃないの」
 縁談から逃れた利代は、髪の毛をくるくると指先に絡ませる。
「おまえは、背中に痣さえなければ器量よしの娘だ」
 今まで褒められたことのない紗代だが、表情を変えることはない。どうせ父のことだ。この縁談には必ず裏がある。
「陛下はこれを機に、各公爵家が協力し合って柱を守ることを望まれている」
 結界を維持するための柱は、各公爵家が責任をもって守っているため、他家の力を借りることはなかった。どうやら皇帝はそれを懸念しているらしい。
「そのとっかかりとして、扇宮家と舞良家の縁談だ」
 それでも父の声からは、不満にじみ出ている。
「いくら陛下の命令であっても、利代を扇宮に嫁がせるわけにはいかない。いつ、敵対するかわからないからな」
 そうならないための縁談のはずなのに、父にとっては敵対前提の縁談のようだ。
「だから紗代。おまえが扇宮公爵家に嫁げ。おまえも十八歳になったのだから、何も問題はないだろう」
「はい」
 紗代に拒否権など許されない。 痣のある娘を売りつけることはできないが、相手から求められれば別なのだろう。
「おまえにはちょうどいい縁談だ。あぁ、そうだ」
 父はそこで思い出したように、ポンと手を叩いた。
「慣れないところに嫁ぐのだから、心身共に不安定になるかもしれないな。いくつか薬を持たせよう」
 紗代の鼓動が、少しだけ速くなる。
「私が調合した薬を、扇宮公爵も気に入ってくれるといいんだが……」
 父が紗代を手放すのは、扇宮公爵を殺すためだ。そして扇宮公爵が守る柱を奪おうとしている。
 それでも紗代は、父には逆らえない。
「お父様の寛大な心遣いに感謝いたします」
 紗代は深々と頭を下げた。