日吉惣次郎は考えていた。
──春ってもっとこう、爽やかなものじゃなかったっけ?
春──。
それはあたたかな風が冬の終わりを告げるように吹き抜けて、様々な芽吹きを促す季節である。
環境が変わり、様々な緊張、高揚等々が交錯する。四季の中では一番目立つ季節だろう。
日吉惣次郎もその1人だ。
この春、新卒から5年務めてきた公立浅川高等学校から、私立彩都高等学院へと赴任が決まったのだ。
彩都学院は、この国で一番“学び”に特化した学校だ。一流大学TOP3へ入学を目指す生徒は、皆ここへ集結する。
また、非常に身嗜み等の規律が厳しい。少しでも違反すれば長い説教が待っているらしい。
そんな彩都学院である。国内ではとても有名で、知らない人間はほぼいない。
(そんなところになんで呼ばれたんだ?猫かぶってないとすぐ追い出されそう)
赴任先が決まってからずっと疑問に思っていたことだ。日吉は、しっかりとネクタイを締めた。鏡を見て、身嗜みを確認する。
浅川で勤務していた頃とは真逆の格好で、笑ってしまう。
──新卒で浅川高校に入った時のことは、今でも鮮明に思い出せる。
当時の浅川は、世間から不良の行く学校、だなんて酷い印象が付いていた。
実際、暴れん坊は多かった。生徒との対話が上手くいかないことがほとんどで、何事も前向きに考える日吉でも、めげることは多かった。
それでも諦めずに自然体で生徒にぶつかっていった。だんだんと彼を信用した生徒たちは、それぞれの苦悩を吐き出した。日吉は、生徒たちと手を取り合い、解決へと導いた。
結果、笑顔で卒業していく背中を見たとき、やってよかったと涙を流したものだ。
だから、浅川の子らが、色眼鏡で見られるのは非常に遺憾だった。
その後、日吉が提案したボランティア等の課外活動を通じて、今ではその色眼鏡は粉々に近い。喜ばしい限りだ。
(……うん。まだちょっと寂しいな)
男泣きする日吉を笑いながら送り出してくれたのを思い出すと、目尻に涙が浮かんだ。
(なのに、少しワクワクする。複雑だなぁ。でもあの彩都に侵入……違う違う!赴任出来るのは人生の転機かも)
共に働く教師陣とは、事前に顔合わせをした。優しく活気ある人が多い印象で、安心して仕事が出来そうだった。
身支度を整えた日吉は愛車に乗ると、エンジンを吹かした。
(よし!行け日吉惣次郎!お前の天職は“教師”だ!)
新たな生徒たちと過ごせる機会を得た日吉の心には、ますますやる気が灯った。踊るような心持で学院へと足を運んだのだった。
「──今年から赴任した日吉惣次郎といいます。君たちとは2年間、同じ時間を過ごすけど……」
ここまで口にして、日吉は教室の外を見た。誰もいないのを確認してから、小声で生徒たちに言う。
「俺、そのうちネクタイとかしなくなるから、みんなから注意してね!俺の授業のときは好きに過ごしてちょうだいな」
このSHR《ショートホームルーム》が始まる前、教室内は緊張が充満していた。日吉の言葉で、少し風通しが良くなったようで、生徒たちはホッと息をついていた。
続く自己紹介では、少々笑いを取れたりして早速手応えを感じた。
日吉が担当するのは、この2-C組。
この学院では、2年次から3年次まで持ち上がり制度だ。クラスの雰囲気を見るに、今のところ問題なくやっていけそうだ。
話しながら、ふと教室内を見ると、空席が一つあることに気が付いた。日吉は疑問を抱く。
(ん?休みの連絡は聞いてないけど……。ま、自己紹介の時に分かるか)
……等と気楽に考えていた日吉だが、学院で起こっているとある問題が、その空席の人物が起因であることを、日吉はまだ知らない。
入学式が終わり、LHRが始まった。
顔と名前を一致させるため、生徒には自己紹介をしてもらう。日吉は名簿を開いた。このフレッシュな瞬間を、彼は大変好んでいた。
そうしてスムーズに紹介が済んでいく中、とある生徒の名前を読んだ直後、突然静寂が訪れた。
「えーと、次。瀬川なぎ、君でいいのかな?瀬川凪君。……あれ?瀬川君?」
もう一度問い掛けるが、返答は戻ってこない。まさか、と日吉は先程の窓側に目をやった。
(……この名簿も席順もあいうえお順なんだけど……)
本来ならば、教卓にいる日吉の目の前に空席があるはずだ。なんだかおかしい。
先生?と問われて我に返る。
「あ、ごめんごめん!お休みの連絡が来てたんだった!ええと、じゃあ次──」
また自己紹介を聞きながらちら、と室内を見ると、生徒同士で内緒話しているような仕草が多々見受けられた。
席のことと相まり、大きな違和感を抱いたが、今言及すれば雰囲気が悪くなることを肌で感じていた。
表面上は気にしていない体を装って、日吉はLHRを進行させていった。
「……素行不良、ですか?」
日吉が職員室へ戻ってくるなり、教師陣がわらわら集まってきた。
そうして“瀬川凪”という生徒が出席していたかを問うてきた。日吉はまた違和感を抱く。
(なんでいないことを知らないんだ?素行不良……だから連絡もなしってことか……?)
日吉がありのままを伝えたところ、皆一斉に溜息をつく。
LHRの時点で抱いていた違和感を話すと、教師の一人である春川浩二が、興奮した様子で日吉へ話し出した。
春川は一つ上の7年目で、去年、瀬川凪の担任だったという。その春川の口から出てきた言葉が、素行不良、というものであった。
「そうなんですよ!校則は守らない、僕らの言う事は聞かない。口調も態度も最悪で!」
「へえ……」
それを皮切りにしたのか、教師陣は件の生徒の情報を次々と共有してくれた。
登校拒否をしていること、保護者へ連絡も取れないこと。また、教師への暴力や暴言が目立つそうだ。校則違反も目立つらしく、染髪、ピアス、制服改造など日吉にとっては聞き慣れた言葉が次々飛び交っている。
(机蹴り飛ばす!?へえ、やるじゃん!……待て待て違う違うここは彩都だぞ、俺)
日吉は話を聞きながら、少しウキウキした自分を叱咤した。
(それにしても……溜まってんだな、愚痴が)
気持ちは分かるが、ヒートアップしていくそれに、だんだんと辟易してきた。だが、自分の受け持ち生徒である。聞き逃すわけにはいかない。教師陣が大盛り上がりする中、日吉はハッキリと提案を口にした。
「あのう、どうして停学か退学処分にしないんですか?彼も悪いことをしている自覚はあるはずです。それくらい強気に出てもいいんじゃないですか?」
あれだけお喋りだった教師陣が一斉に黙る。その中でも、ええと、と春川が少し言い淀んでから話し出す。
「彼、首席で入学してるんです」
──春ってもっとこう、爽やかなものじゃなかったっけ?
春──。
それはあたたかな風が冬の終わりを告げるように吹き抜けて、様々な芽吹きを促す季節である。
環境が変わり、様々な緊張、高揚等々が交錯する。四季の中では一番目立つ季節だろう。
日吉惣次郎もその1人だ。
この春、新卒から5年務めてきた公立浅川高等学校から、私立彩都高等学院へと赴任が決まったのだ。
彩都学院は、この国で一番“学び”に特化した学校だ。一流大学TOP3へ入学を目指す生徒は、皆ここへ集結する。
また、非常に身嗜み等の規律が厳しい。少しでも違反すれば長い説教が待っているらしい。
そんな彩都学院である。国内ではとても有名で、知らない人間はほぼいない。
(そんなところになんで呼ばれたんだ?猫かぶってないとすぐ追い出されそう)
赴任先が決まってからずっと疑問に思っていたことだ。日吉は、しっかりとネクタイを締めた。鏡を見て、身嗜みを確認する。
浅川で勤務していた頃とは真逆の格好で、笑ってしまう。
──新卒で浅川高校に入った時のことは、今でも鮮明に思い出せる。
当時の浅川は、世間から不良の行く学校、だなんて酷い印象が付いていた。
実際、暴れん坊は多かった。生徒との対話が上手くいかないことがほとんどで、何事も前向きに考える日吉でも、めげることは多かった。
それでも諦めずに自然体で生徒にぶつかっていった。だんだんと彼を信用した生徒たちは、それぞれの苦悩を吐き出した。日吉は、生徒たちと手を取り合い、解決へと導いた。
結果、笑顔で卒業していく背中を見たとき、やってよかったと涙を流したものだ。
だから、浅川の子らが、色眼鏡で見られるのは非常に遺憾だった。
その後、日吉が提案したボランティア等の課外活動を通じて、今ではその色眼鏡は粉々に近い。喜ばしい限りだ。
(……うん。まだちょっと寂しいな)
男泣きする日吉を笑いながら送り出してくれたのを思い出すと、目尻に涙が浮かんだ。
(なのに、少しワクワクする。複雑だなぁ。でもあの彩都に侵入……違う違う!赴任出来るのは人生の転機かも)
共に働く教師陣とは、事前に顔合わせをした。優しく活気ある人が多い印象で、安心して仕事が出来そうだった。
身支度を整えた日吉は愛車に乗ると、エンジンを吹かした。
(よし!行け日吉惣次郎!お前の天職は“教師”だ!)
新たな生徒たちと過ごせる機会を得た日吉の心には、ますますやる気が灯った。踊るような心持で学院へと足を運んだのだった。
「──今年から赴任した日吉惣次郎といいます。君たちとは2年間、同じ時間を過ごすけど……」
ここまで口にして、日吉は教室の外を見た。誰もいないのを確認してから、小声で生徒たちに言う。
「俺、そのうちネクタイとかしなくなるから、みんなから注意してね!俺の授業のときは好きに過ごしてちょうだいな」
このSHR《ショートホームルーム》が始まる前、教室内は緊張が充満していた。日吉の言葉で、少し風通しが良くなったようで、生徒たちはホッと息をついていた。
続く自己紹介では、少々笑いを取れたりして早速手応えを感じた。
日吉が担当するのは、この2-C組。
この学院では、2年次から3年次まで持ち上がり制度だ。クラスの雰囲気を見るに、今のところ問題なくやっていけそうだ。
話しながら、ふと教室内を見ると、空席が一つあることに気が付いた。日吉は疑問を抱く。
(ん?休みの連絡は聞いてないけど……。ま、自己紹介の時に分かるか)
……等と気楽に考えていた日吉だが、学院で起こっているとある問題が、その空席の人物が起因であることを、日吉はまだ知らない。
入学式が終わり、LHRが始まった。
顔と名前を一致させるため、生徒には自己紹介をしてもらう。日吉は名簿を開いた。このフレッシュな瞬間を、彼は大変好んでいた。
そうしてスムーズに紹介が済んでいく中、とある生徒の名前を読んだ直後、突然静寂が訪れた。
「えーと、次。瀬川なぎ、君でいいのかな?瀬川凪君。……あれ?瀬川君?」
もう一度問い掛けるが、返答は戻ってこない。まさか、と日吉は先程の窓側に目をやった。
(……この名簿も席順もあいうえお順なんだけど……)
本来ならば、教卓にいる日吉の目の前に空席があるはずだ。なんだかおかしい。
先生?と問われて我に返る。
「あ、ごめんごめん!お休みの連絡が来てたんだった!ええと、じゃあ次──」
また自己紹介を聞きながらちら、と室内を見ると、生徒同士で内緒話しているような仕草が多々見受けられた。
席のことと相まり、大きな違和感を抱いたが、今言及すれば雰囲気が悪くなることを肌で感じていた。
表面上は気にしていない体を装って、日吉はLHRを進行させていった。
「……素行不良、ですか?」
日吉が職員室へ戻ってくるなり、教師陣がわらわら集まってきた。
そうして“瀬川凪”という生徒が出席していたかを問うてきた。日吉はまた違和感を抱く。
(なんでいないことを知らないんだ?素行不良……だから連絡もなしってことか……?)
日吉がありのままを伝えたところ、皆一斉に溜息をつく。
LHRの時点で抱いていた違和感を話すと、教師の一人である春川浩二が、興奮した様子で日吉へ話し出した。
春川は一つ上の7年目で、去年、瀬川凪の担任だったという。その春川の口から出てきた言葉が、素行不良、というものであった。
「そうなんですよ!校則は守らない、僕らの言う事は聞かない。口調も態度も最悪で!」
「へえ……」
それを皮切りにしたのか、教師陣は件の生徒の情報を次々と共有してくれた。
登校拒否をしていること、保護者へ連絡も取れないこと。また、教師への暴力や暴言が目立つそうだ。校則違反も目立つらしく、染髪、ピアス、制服改造など日吉にとっては聞き慣れた言葉が次々飛び交っている。
(机蹴り飛ばす!?へえ、やるじゃん!……待て待て違う違うここは彩都だぞ、俺)
日吉は話を聞きながら、少しウキウキした自分を叱咤した。
(それにしても……溜まってんだな、愚痴が)
気持ちは分かるが、ヒートアップしていくそれに、だんだんと辟易してきた。だが、自分の受け持ち生徒である。聞き逃すわけにはいかない。教師陣が大盛り上がりする中、日吉はハッキリと提案を口にした。
「あのう、どうして停学か退学処分にしないんですか?彼も悪いことをしている自覚はあるはずです。それくらい強気に出てもいいんじゃないですか?」
あれだけお喋りだった教師陣が一斉に黙る。その中でも、ええと、と春川が少し言い淀んでから話し出す。
「彼、首席で入学してるんです」

