少年は、子供の頃から“アイ”というものに飢えていた。
母親はシングルマザーで、水商売で生計を立てていた。
母親は、少年が赤ん坊のころから、既に彼から興味をなくし、男に走った。言葉通り、代わる代わる知らない男を連れてくるので、少年が物心ついても、一人一人の顔を覚えられなかった。
母親は、男たちのおもちゃとして、少年を与えた。母親か男、もしくはどちらかの機嫌を少しでも損ねると、殴打の雨が降ってくる。満足するまで暴力と罵声を刷り込まれる。そうして、母親と男の興奮が止んだのち、彼は住処へ戻されるのだ。
アパートのベランダが、彼の住処だった。所在が他人にバレないよう、ブルーシートをかけられて、少年は、その中でひっそり暮らした。少しでも動くと音がして叱られる。少年は、ブルーシートの中で体育座りをし、丸くなり、出来るだけ呼吸をせず、頑張って自分を殺した。
食事は、スナック菓子を1週間に1回程度の間隔で渡される。空腹の少年は貪るように食べた。それを四つの目が笑いながら見ている時だけ、少年は部屋の中に入ることを許されていた。
だから、少年は小学校に入学するまで、菓子以外の食べ物を知らなかった。給食を初めて目にしたとき、教師へ「これはたべもの?」だとか「どうやってたべるの?」だとか疑問を投げかけた。きっと、学校から母親へ連絡が入ったのだろう。帰宅後は、母親が飽きるまで暴力を振るわれた。
少年は、春夏秋冬関係なく、長袖長ズボンを着るよう命令をされていた。母親と男が付けた傷が目立たないようにするためである。入学前に「顔はバレるからやめて」と母親は猫撫で声を出していた。
少年は殴打や蹴られることも嫌いだったが、特に彼を苦しめたのは水責めだった。浴槽に顔を押し付けられて溺死寸前まで追い詰められる。意識が朦朧としてきた頃、離されてはまた沈められる。これが原因で今も水に潜れない。
それから、母親はだんだんと家に寄り付かなくなり、少年が中学1年生の時、男と共に出て行ったきり、消息不明である。
その時発した最後の言葉が、どの暴力よりも彼のこころを打ちのめした。
『あーあ、あんたなんて産まなきゃよかった』
今も、耳にこびりついて離れない。こうして、頻繁に夢を見るくらいには──。
——————————
陽が落ち始めた香吹町繁華街には、光る看板がぽつぽつと増え出していた。
これから、この中で遊ぶであろう人間たちの波に逆らいながら、瀬川は最寄り駅まで歩みを進めていた。その足取りは重く、鉛のように感じる。
本日は土曜日、三連休の始まりの日だった。
(自分からやるって決めたのに……)
Gerberaは、2週間毎に希望休を出す仕組みになっている。この三連休は、稼ぎ頭の大学生たちがこぞって希望休を出していて、人手不足になることは事前に分かっていた。その穴埋めをするために、瀬川は休日出勤を希望したのだった。目当ては、休日出勤手当である。
了承を得て、さあ働くぞ!と出勤したものの、勤務中は最悪な事態が続いた。
『お待たせしました、チョコレートケーキです。……え、違う?……チーズケーキ……!申し訳ありません。今お持ちしますのでもうしばらくお待ちください』
注文を聞き間違え、提供する席も間違える。
(おわぁ、パスタが床に……)
出来立ての料理をひっくり返し。
(団体か……お冷作っとこう)
『……わあぁ……!?こぼしたぁ……』
(バッシング(テーブルの食器を片付けること)くらいなら……)
『わっ……!?……まーた割った……』
他にも、普段簡単に出来る作業でさえこなせなかった。
『2名様ご来店です。えーと……。……ごめん、なんだっけ……忘れた……』
インカムで話そうとしても途中で言葉が出なくなったりと、散々だった。結局、何時間も働かないまま、休憩室で休む羽目になった。
こんなに頭も手も回らないのは、朝方、暫く見ていなかった悪夢が襲ってきたことが原因だろう。
(でも……お金欲しかったし……)
少し休んでから事務所に戻った瀬川に、店長・兼村、副店長・九条両名は、帰宅を促した。顔色が酷く悪いと言われ、ぺたと自分の頬を触った瀬川は、その冷たさに少し驚いた。
『スイマセンデシタ……』
『連休にしたからしっかり休め。テストも近いんだろう?』
『アリガトウゴザイマス……』
『送っていこうか?』
『や……だいじょぶ……』
『あ、キッチンの冷蔵庫に賄いあるから、それ持っていきな。付箋ついてるやつ』
『いいの……?』
『うん。それ食べて、元気出しな』
『ありがとう……お疲れ様でした……』
『お疲れ』
『お疲れ様ー』
頭を下げながらキッチンへ向かった。誰もいなかった。一足先に退勤したり、一服したりで出払っているらしい。冷蔵庫を開けると、言われた通り付箋が貼られた皿があった。
中身はサンドイッチで、具材はアボカドとベーコンだった。
(美味しそう……!ラップに移して持って帰……あっ!?)
瀬川の手から床に滑り落ちていった皿は、カシャーン!と音を立て、粉々になってしまった。
破片にまみれたサンドイッチよりも、周囲に気付かれないかが気になって慌てて隠した。大した音ではなかったようで、数分経っても誰も訪れず、安心した瀬川は破片を払ってから、サンドイッチをラップにくるんだ。
破片は手ですくって、専用のゴミ箱に入れた。
後で天引きしてもらおう、とLiteに下書きを入れて、休憩室へと戻った。
「このあとどーするー?」
「カラオケいかね?」
「いやあ、飲みなんて久々ですね」
「元気だった?結婚式以来だねー」
(人が多すぎる……うっ、ぐるじい……)
やっとの思いで目的の駅へ着いて、電車で岐路を辿る。人々がぎゅうぎゅうに押し込まれた車内から、瀬川はぼうっと景色を見ていた。
(帰れって言われても困るな。役に立たないんだから仕方ないけどさ。今日の分の給料貰えるのかな。いや、賄い貰えただけでもいいか……)
ふと、この電車に乗っている人たちはこれからどこへ行くんだろうか、と考えた。
遊びに行く?学校に行く?仕事に行く?家に帰る?
理由はどうあれ、きっと自分とは別の、あたたかな世界へ行くんだろうな、と感じた。
そうやってぼんやりしている間に、家のある最寄り駅へ到着した。押し出されるようにしてホームに着地する。
改札北口を出てそのまま北上すると、大きな商店街に入る。そこを抜けてまた少し歩けば、瀬川が住むアパートメントがある。
「はいはい!今日は新鮮なカツオがおすすめだよー!」
「メンチカツ一つとー……」
「ファミレス行こー」
「ありがとうございましたー!」
「あら、お久しぶりね~」
相も変わらず、活気のある場所だ。
ここは、テレビで放映されるほど人気の商店街らしい。コロッケが美味しいとか、古着屋が人気だとか、そういった理由だと、大学生たちに教えてもらったことがある。特に、今日のような祝日は、人でごった返すことは珍しくない。観光客向けに、露店もたくさん出ている。そのため、香吹町に劣らず人の行き交いが激しい。
瀬川は、人混みよりも嫌いなものがあって、いつもここを通るのが嫌だった。その嫌いなものを、目と耳から体へ入らないように、常時気を張って歩みを進めることにしている。
(今日は、ちょっと、特に)
「おかあさん!今日ね!カレーがいい!」
(……!)
出会いたくないなと、思った瞬間、すぐ隣を、親子がすれ違った。それをつい、ちら、と見てしまった。
「あらあら、今日はシチューがいいんじゃなかったの?」 「カレーがいい!」
「んもう……じゃあ、お母さんのお手伝いしてくれるかな?」
「うん!やるー!」
「良い子ね。ほら、ちゃんと手掴んでて!危ないからね!」
「はあい!」
カレーを食べたい娘を、母親が大事そうに人混みから守っていた。ぎゅ、と手を繋いで、瀬川と反対方向へ去っていく。
そう、“こういうの”が入ってくるから、嫌なのだ。
下を向いて歯を食いしばる。爆発しそうな気持ちをぐっと抑えて、瀬川は家へと向かった。
門に刻んであるアパート名は欠けて読めず、アパートの壁には蔦がつたっている。手入れがされていないらしいこのボロボロのアパートが、瀬川の住まいだ。
もう壊れそうな音がする階段を上り、ところどころ穴が空いている廊下を通る。206号室、アパートの角部屋が彼の部屋だ。
玄関へ入ると、靴を放るように脱ぎ、床にカバンを叩きつけた。
「いつもなら出来るのに……!バカばっかり……!」
着の身着のまま、敷きっぱなしの布団へ潜り込んだ。まんまるになり、手のひらで口を覆うと、わあーっ!と大きな声が出た。叫びながら、今日の失態を思い出す。
体調不良でアルバイトに臨んだ時点で分かりきっていたことだった。予定調和のようにミスばかりして、挙句、雇い主から帰宅を促された。自分のことが不甲斐なくて、格好悪くて、嫌いで、気持ち悪く感じた。
だから、喉が壊れそうになるくらい、叫ぶ。何度か繰り返したあと、最後にため息が出た。心身ともに酷く疲弊している。
もぞ、と布団から顔を出すと、部屋はもう薄暗い。仰向けになり、天井を見上げながら、彼は思う。
(完璧じゃないと、帰ってきてくれないのに)
子供の頃、天井とセットで見えていたのは、怒りの形相をする母親と、長い綺麗な金髪だった。ゆるくウェーブのかかった、ふわふわとした綺麗な髪だった。
子供ながらに、褒めたら許してくれるんじゃないか、なんて思って、「きれい」と言った時のことを思い出した。母親はほんの一瞬だけ動きを止めて、言った。
『あんたみたいな出来損ないに言われても、全く嬉しくないんだよ!』
「……!ごめんなさい、ごめんなさい……!」
フラッシュバックを起こした瀬川は、その時と同じように、小さく謝罪を口にした。
兼村と九条に迷惑をかけたこと、春川の思い通りに出来なかったこと、学校にいけないこと、母親に無理をさせていたこと。
(……“ぼく”は、どうしたら──)
どうしたら、のその先が出てこない。自分はどうしたいのか、自分はどうなりたいのかが分からない。
「……おなかすいた……」
瀬川は徐に起き上がると、壁伝いに歩いて玄関に向かった。玄関と部屋とをつなぐ廊下には、床へ叩きつけられたままの鞄が転がっていた。
その中から、ラップにくるまれたサンドイッチが現れた。座る気力もわかなくて、廊下にうずくまりながら、サンドイッチに食いついた。
「……おいしい……」
じゃり、と歯ざわりの悪いものがあったような気がするが、気にせず食べた。
瀬川は、出されたものは何でも食べる。衛生的で美味しいものから、その逆まで、食べられるものならなんでも、だ。明日、食にありつけるかどうか分からないと、体に、心に、叩き込まれているから。
(……テス勉しよ……)
瀬川は、ゆっくり立ち上がると、鞄を引きずって部屋に戻った。扉がぱたんと閉じる。
玄関の小窓から刺す月光が、ぐちゃぐちゃになった靴を照らしていた。
母親はシングルマザーで、水商売で生計を立てていた。
母親は、少年が赤ん坊のころから、既に彼から興味をなくし、男に走った。言葉通り、代わる代わる知らない男を連れてくるので、少年が物心ついても、一人一人の顔を覚えられなかった。
母親は、男たちのおもちゃとして、少年を与えた。母親か男、もしくはどちらかの機嫌を少しでも損ねると、殴打の雨が降ってくる。満足するまで暴力と罵声を刷り込まれる。そうして、母親と男の興奮が止んだのち、彼は住処へ戻されるのだ。
アパートのベランダが、彼の住処だった。所在が他人にバレないよう、ブルーシートをかけられて、少年は、その中でひっそり暮らした。少しでも動くと音がして叱られる。少年は、ブルーシートの中で体育座りをし、丸くなり、出来るだけ呼吸をせず、頑張って自分を殺した。
食事は、スナック菓子を1週間に1回程度の間隔で渡される。空腹の少年は貪るように食べた。それを四つの目が笑いながら見ている時だけ、少年は部屋の中に入ることを許されていた。
だから、少年は小学校に入学するまで、菓子以外の食べ物を知らなかった。給食を初めて目にしたとき、教師へ「これはたべもの?」だとか「どうやってたべるの?」だとか疑問を投げかけた。きっと、学校から母親へ連絡が入ったのだろう。帰宅後は、母親が飽きるまで暴力を振るわれた。
少年は、春夏秋冬関係なく、長袖長ズボンを着るよう命令をされていた。母親と男が付けた傷が目立たないようにするためである。入学前に「顔はバレるからやめて」と母親は猫撫で声を出していた。
少年は殴打や蹴られることも嫌いだったが、特に彼を苦しめたのは水責めだった。浴槽に顔を押し付けられて溺死寸前まで追い詰められる。意識が朦朧としてきた頃、離されてはまた沈められる。これが原因で今も水に潜れない。
それから、母親はだんだんと家に寄り付かなくなり、少年が中学1年生の時、男と共に出て行ったきり、消息不明である。
その時発した最後の言葉が、どの暴力よりも彼のこころを打ちのめした。
『あーあ、あんたなんて産まなきゃよかった』
今も、耳にこびりついて離れない。こうして、頻繁に夢を見るくらいには──。
——————————
陽が落ち始めた香吹町繁華街には、光る看板がぽつぽつと増え出していた。
これから、この中で遊ぶであろう人間たちの波に逆らいながら、瀬川は最寄り駅まで歩みを進めていた。その足取りは重く、鉛のように感じる。
本日は土曜日、三連休の始まりの日だった。
(自分からやるって決めたのに……)
Gerberaは、2週間毎に希望休を出す仕組みになっている。この三連休は、稼ぎ頭の大学生たちがこぞって希望休を出していて、人手不足になることは事前に分かっていた。その穴埋めをするために、瀬川は休日出勤を希望したのだった。目当ては、休日出勤手当である。
了承を得て、さあ働くぞ!と出勤したものの、勤務中は最悪な事態が続いた。
『お待たせしました、チョコレートケーキです。……え、違う?……チーズケーキ……!申し訳ありません。今お持ちしますのでもうしばらくお待ちください』
注文を聞き間違え、提供する席も間違える。
(おわぁ、パスタが床に……)
出来立ての料理をひっくり返し。
(団体か……お冷作っとこう)
『……わあぁ……!?こぼしたぁ……』
(バッシング(テーブルの食器を片付けること)くらいなら……)
『わっ……!?……まーた割った……』
他にも、普段簡単に出来る作業でさえこなせなかった。
『2名様ご来店です。えーと……。……ごめん、なんだっけ……忘れた……』
インカムで話そうとしても途中で言葉が出なくなったりと、散々だった。結局、何時間も働かないまま、休憩室で休む羽目になった。
こんなに頭も手も回らないのは、朝方、暫く見ていなかった悪夢が襲ってきたことが原因だろう。
(でも……お金欲しかったし……)
少し休んでから事務所に戻った瀬川に、店長・兼村、副店長・九条両名は、帰宅を促した。顔色が酷く悪いと言われ、ぺたと自分の頬を触った瀬川は、その冷たさに少し驚いた。
『スイマセンデシタ……』
『連休にしたからしっかり休め。テストも近いんだろう?』
『アリガトウゴザイマス……』
『送っていこうか?』
『や……だいじょぶ……』
『あ、キッチンの冷蔵庫に賄いあるから、それ持っていきな。付箋ついてるやつ』
『いいの……?』
『うん。それ食べて、元気出しな』
『ありがとう……お疲れ様でした……』
『お疲れ』
『お疲れ様ー』
頭を下げながらキッチンへ向かった。誰もいなかった。一足先に退勤したり、一服したりで出払っているらしい。冷蔵庫を開けると、言われた通り付箋が貼られた皿があった。
中身はサンドイッチで、具材はアボカドとベーコンだった。
(美味しそう……!ラップに移して持って帰……あっ!?)
瀬川の手から床に滑り落ちていった皿は、カシャーン!と音を立て、粉々になってしまった。
破片にまみれたサンドイッチよりも、周囲に気付かれないかが気になって慌てて隠した。大した音ではなかったようで、数分経っても誰も訪れず、安心した瀬川は破片を払ってから、サンドイッチをラップにくるんだ。
破片は手ですくって、専用のゴミ箱に入れた。
後で天引きしてもらおう、とLiteに下書きを入れて、休憩室へと戻った。
「このあとどーするー?」
「カラオケいかね?」
「いやあ、飲みなんて久々ですね」
「元気だった?結婚式以来だねー」
(人が多すぎる……うっ、ぐるじい……)
やっとの思いで目的の駅へ着いて、電車で岐路を辿る。人々がぎゅうぎゅうに押し込まれた車内から、瀬川はぼうっと景色を見ていた。
(帰れって言われても困るな。役に立たないんだから仕方ないけどさ。今日の分の給料貰えるのかな。いや、賄い貰えただけでもいいか……)
ふと、この電車に乗っている人たちはこれからどこへ行くんだろうか、と考えた。
遊びに行く?学校に行く?仕事に行く?家に帰る?
理由はどうあれ、きっと自分とは別の、あたたかな世界へ行くんだろうな、と感じた。
そうやってぼんやりしている間に、家のある最寄り駅へ到着した。押し出されるようにしてホームに着地する。
改札北口を出てそのまま北上すると、大きな商店街に入る。そこを抜けてまた少し歩けば、瀬川が住むアパートメントがある。
「はいはい!今日は新鮮なカツオがおすすめだよー!」
「メンチカツ一つとー……」
「ファミレス行こー」
「ありがとうございましたー!」
「あら、お久しぶりね~」
相も変わらず、活気のある場所だ。
ここは、テレビで放映されるほど人気の商店街らしい。コロッケが美味しいとか、古着屋が人気だとか、そういった理由だと、大学生たちに教えてもらったことがある。特に、今日のような祝日は、人でごった返すことは珍しくない。観光客向けに、露店もたくさん出ている。そのため、香吹町に劣らず人の行き交いが激しい。
瀬川は、人混みよりも嫌いなものがあって、いつもここを通るのが嫌だった。その嫌いなものを、目と耳から体へ入らないように、常時気を張って歩みを進めることにしている。
(今日は、ちょっと、特に)
「おかあさん!今日ね!カレーがいい!」
(……!)
出会いたくないなと、思った瞬間、すぐ隣を、親子がすれ違った。それをつい、ちら、と見てしまった。
「あらあら、今日はシチューがいいんじゃなかったの?」 「カレーがいい!」
「んもう……じゃあ、お母さんのお手伝いしてくれるかな?」
「うん!やるー!」
「良い子ね。ほら、ちゃんと手掴んでて!危ないからね!」
「はあい!」
カレーを食べたい娘を、母親が大事そうに人混みから守っていた。ぎゅ、と手を繋いで、瀬川と反対方向へ去っていく。
そう、“こういうの”が入ってくるから、嫌なのだ。
下を向いて歯を食いしばる。爆発しそうな気持ちをぐっと抑えて、瀬川は家へと向かった。
門に刻んであるアパート名は欠けて読めず、アパートの壁には蔦がつたっている。手入れがされていないらしいこのボロボロのアパートが、瀬川の住まいだ。
もう壊れそうな音がする階段を上り、ところどころ穴が空いている廊下を通る。206号室、アパートの角部屋が彼の部屋だ。
玄関へ入ると、靴を放るように脱ぎ、床にカバンを叩きつけた。
「いつもなら出来るのに……!バカばっかり……!」
着の身着のまま、敷きっぱなしの布団へ潜り込んだ。まんまるになり、手のひらで口を覆うと、わあーっ!と大きな声が出た。叫びながら、今日の失態を思い出す。
体調不良でアルバイトに臨んだ時点で分かりきっていたことだった。予定調和のようにミスばかりして、挙句、雇い主から帰宅を促された。自分のことが不甲斐なくて、格好悪くて、嫌いで、気持ち悪く感じた。
だから、喉が壊れそうになるくらい、叫ぶ。何度か繰り返したあと、最後にため息が出た。心身ともに酷く疲弊している。
もぞ、と布団から顔を出すと、部屋はもう薄暗い。仰向けになり、天井を見上げながら、彼は思う。
(完璧じゃないと、帰ってきてくれないのに)
子供の頃、天井とセットで見えていたのは、怒りの形相をする母親と、長い綺麗な金髪だった。ゆるくウェーブのかかった、ふわふわとした綺麗な髪だった。
子供ながらに、褒めたら許してくれるんじゃないか、なんて思って、「きれい」と言った時のことを思い出した。母親はほんの一瞬だけ動きを止めて、言った。
『あんたみたいな出来損ないに言われても、全く嬉しくないんだよ!』
「……!ごめんなさい、ごめんなさい……!」
フラッシュバックを起こした瀬川は、その時と同じように、小さく謝罪を口にした。
兼村と九条に迷惑をかけたこと、春川の思い通りに出来なかったこと、学校にいけないこと、母親に無理をさせていたこと。
(……“ぼく”は、どうしたら──)
どうしたら、のその先が出てこない。自分はどうしたいのか、自分はどうなりたいのかが分からない。
「……おなかすいた……」
瀬川は徐に起き上がると、壁伝いに歩いて玄関に向かった。玄関と部屋とをつなぐ廊下には、床へ叩きつけられたままの鞄が転がっていた。
その中から、ラップにくるまれたサンドイッチが現れた。座る気力もわかなくて、廊下にうずくまりながら、サンドイッチに食いついた。
「……おいしい……」
じゃり、と歯ざわりの悪いものがあったような気がするが、気にせず食べた。
瀬川は、出されたものは何でも食べる。衛生的で美味しいものから、その逆まで、食べられるものならなんでも、だ。明日、食にありつけるかどうか分からないと、体に、心に、叩き込まれているから。
(……テス勉しよ……)
瀬川は、ゆっくり立ち上がると、鞄を引きずって部屋に戻った。扉がぱたんと閉じる。
玄関の小窓から刺す月光が、ぐちゃぐちゃになった靴を照らしていた。

