翡翠の約束~仙女のように可愛かったあの子は皇帝陛下でした~

 離宮を照らしていた月は雲に隠されている。
 牡丹や蘭の咲き乱れる庭園も、ひっそりと眠ったままだ。
 しっかりと窓の閉められた奥の間——皇后の私室にて、珠鈴と嵐環は静かにその時を待っていた。
 扉が軋む。
 それを追って足音が——ふたつ。
 珠鈴は気を引き締めた。
 飛び出そうとした嵐環の袖を、珠鈴はぐいと引いて押しとどめる。無言で首を振って待つようにと伝えた。
 決して事を荒立てないこと。
 侵入者を傷つけないこと。
 そして、珠鈴の指示に従うこと。それが嵐環も立ち会わせる条件だった。
 皇帝に指図するなど前代未聞だが、嵐環は了承した。相手が珠鈴でなければこうはいかなかっただろう。
 珠鈴は嵐環の袖をきつく握りしめる。すると、彼は珠鈴の手にそっと触れた。それだけで早鐘を打っていた鼓動が凪いでいく。
 自分が相当緊張していたことを自覚する。
 静かに深呼吸をする。
 澄んできた思考で、珠鈴は闇を見据えた。
 視線の先には机がある。明かりのない今は見えないが、嵐環への贈り物である翡翠が置いてあるのだ。
 剥き出しの石ではなく、大きな首飾りにはめ込んである。首飾りを選んだのは、非力な者にはそうたやすく持てない宝飾品だからだ。そして石は翡翠であればよかった。
 皇族はそれを感じ取れるのだから。

 かたんと小さな音がした。ふたりは身を固くする。
 衝立の影から窺うと、首飾りの近くに大小ふたつの人影がある。
 小さい方は首飾りを持ち上げられずに難儀しているようだった。
 珠鈴は衝立から一歩、歩み出た。
「その翡翠は傷つけないでくれませんか」
 つとめて優しく声をかけると、影が大きく息を呑んだ。
 一瞬の後、小さな影が翻る。しかし大きな方がぐんと腕を伸ばして別の衝立を引っ張り出すと、珠鈴の方へと蹴りつけた。
「!」 
 珠鈴めがけて衝立が倒れ込んでくる。女人の細腕には手に余る高さと重量だ。
 しかし——ここにいるのは女ひとりでは、ない。
 珠鈴の眼前で衝立が止まる。それを立て直した背後から、女の衣がひらりと抜け出る。
 力強く床を踏み鳴らした沓が、勢いよく影の脇腹を蹴り上げた。
「っ」
 呻き声。しかし、相手も体勢を立て直す。
 突き出した拳が空を切る。ひらひらと舞う衣の残像が、漏れ出ずる月明かりに焼き付く。
 その優美な輪郭からは想像もできないほどの力強い手が侵入者の手首を捉え、床に組み伏せた。
 倒れ込む音。腕の軋む音。侵入者——男が苦しげに呻く。
「な……んなんだ、女兵なんて、いるはず……っ」
「痴れ者」
 男を組み伏せた声が、ひとことで動きを封じ込めた。
「後宮にはひとりだけ男がいることを忘れたか」
 月を隠していた雲がさあと流れた。窓辺から射し込む月明かりが声の主を照らしだす。
 しなやかな黒髪に、輝かんばかりの白い肌。
 切れ長の瞳は常春を宿す翡翠色だ。
 かぶっていた薄手の布をうっとおしげに振り落とした姿は——嵐環だった。
「へ、へい……!?」
「そうだ、我だ! 見てくれに騙されるとは兵の風上にもおけぬうつけものめ!」
「な、な……っ」
 それ以上言葉を失ったのか、ぱくぱくと口を開け閉めするだけになってしまった男は、この異様な状況に呑まれてしまったらしい。
 嵐環が看破したとおり、侵入者は離宮の警備兵だった。甲冑こそ纏っていないものの、その服装は珠鈴も見覚えがあるものだ。
「ふん、昔取った杵柄というやつだな」
 嵐環は明後日の方向を向いて嘆息した。それを掻き消すように珠鈴がぱちぱちと拍手する。
「ランがあのまま成長していたら、こんな素敵な公主様になったのね……! やっぱり仙女様みたい!」
「そなたの目が節穴だった……と言いたかったが、まさかこの歳になっても通用するとはな……」
 げんなりした嵐環だが、気を取り直すとばかりに咳払いをすると、あえて低い声で兵に呼びかけた。
「おい、二、三聞かせてもらうぞ」
 そう言うなり嵐環は兵の懐に無造作に手を突っ込んだ。目当てのものを見つけ、ぐいと引っ張り出す。
「これを誰から受け取った」
 巾着を逆さに振れば中から小さな欠片が転がり落ちる。兵の腹あたりで月明かりに照らされたそれは、端こそ白く輝いているがその中心にいくにつれてどす黒く染まっている。
「し、知りません、こんなもの、俺は盗んでな……っ」
「盗んだとは言っていない。誰から受け取った」
「だから、そんなの俺の方が知りたいくらいで……っ」
 怯えた兵は混乱のままにその石を掴んで投げ捨てた。カンと硬い音の響いた方向に気を取られているうちに、兵の体から力が抜ける。
 どさりと重たげな音がした直後、兵は気絶していた。
「っ、手放した途端にか!」
「ラン、落ち着いて。彼は操られていただけよ。石の本体を持っていたのは——」
 珠鈴は入口へと歩を進める。
 背の低い棚の奥に、不自然な影がひとつ。
「かくれんぼは終わりにしましょう——玲風様」
 用意しておいた手燭をかざす。火灯りに照らされたのは、珠鈴の予想通り、嵐環の妹——幼い玲風の不安げな顔だった。
「……知って、たの」
「ええ。見せて頂きましたからね。玲風様の宝物を」
 玲風は胸の前でしっかりと手を組んでいる。その中に、いつの日か珠鈴が彼女に贈った巾着袋が見えた。
「……どうして」
「あれは、玻璃にしては色が違うと思いました。玻璃は彼方まで見通せるほどの透明な石。けれど、あれはどこかに影があった」
「それが、例のいわく付きの玻璃か」
 嵐環が珠鈴の隣に立った。
「どこで手に入れた」
 妹に対する兄の声にしては硬い問いかけに、玲風はびくりと固まる。
「し……知らないわ」
「知らないわけがないだろう」
「ラン、それじゃ話せるものも話せない」
 珠鈴が嵐環との間に割って入る。だが、嵐環は珠鈴を押しとどめると静かに首を横に振った。
「珠鈴の気遣いはありがたい。優しくあろうとする気持ちも分かる。だが、玲風は皇族だ。何も知らぬ兵をあのように利用しておいて知らぬ存ぜぬで通してはならない」
「そうだけど、まだ十にも満たない子にそんな……」
「なによ!」
 突然響いた甲高い声に、珠鈴は目を丸くした。
 玲風が、巾着を握りしめながらわなわなと震えている。
「玲風?」
「自分が特別な身分だって……そんなのよくわかってるわ。だからおにいさまをお祝いしてさしあげようとしたんじゃない」
 きっと玲風は嵐環を見上げる。そのまなざしは思いのほか強い。
「この玻璃の方からわたくしの元へやってきたの。お庭を歩いていたらお花の間にきらきら光っていたのよ。落し物かもしれないと思って、預かっているつもりだったの。失くしてはいけないとおねえさまに巾着までいただいたわ。だけど、肌身離さず持っていたら、いつのまにか黒くなってきて……」
 そこで玲風は巾着を開き中身を取り出した。
「!」
 そこにあるのは透明にきらめく玻璃ではない。中央から黒い霧が湧き、どす黒く染まっている。
「向こう側が見通せるほどきれいだったのに、どんどん黒くなっていくの。怖くなっておにいさまに相談しようと思ったのに、おにいさまはおねえさまのことばかり。もし悪しきものなら、皆を危険にさらすわけにはいかないと思って、わたくし、わたくし……」
 玲風はかたかたと震えている。その体を包み込むように、珠鈴は薄い肩を抱きしめた。
「がんばりましたね、玲風様」
「おねえさま……」
「怖かったでしょうに……一生懸命、おひとりで耐えていらしたのですね」
 膝をついて目線を合わせる。大きなまなこに涙が溢れて溶けだしそうだ。
 ふたりを見る嵐環は、気まずそうにしている。
「……ひどいことを言ってすまない、玲風。お前も立派な皇族だ。兄は……誇りに思う」
「……おにいさま」
 玲風はぐすんと鼻を鳴らす。しかし石から手は離さない。
「玲風様、それをお預かりしてよろしいですか?」
 珠鈴はそっと手のひらを差し出す。
「珠鈴、それは」
「直接は触らない。どちらにせよ、玲風様に持たせておいてはだめよ」
 ——石は石屋に。まかせて。
 そう返した珠鈴に、嵐環はそれ以上言い募ることもできずに頷く。
 珠鈴はあらためて玲風の目を見た。
「…………いや」
 声色が、変わった。
 得体の知れないものに震えつつも、気丈にふるまっていた幼子の声ではない。
 玲風でないものが彼女の喉を震わせている。
「玲風様?」
 珠鈴は玲風の持つ玻璃を見て息を吞んだ。
 霧が——もはや霧とは呼べないほどに凝固した闇が、玻璃の中央から膨れ上がっている。
「玲風様、ご無礼を」
「いや!」
 力づくで巾着ごと叩き落とそうとした珠鈴だが、手に走った痛みに顔をしかめる。
 手の甲に一筋、赤が走る。
 それが血だと認識するより前に、玲風の手のひらが小さな欠片を握りこんでいるのが見えた。
「珠鈴!」
 再び振りかざされたそれは玻璃の破片だ。すでに透明な輝きはなく、黒曜石よりも禍々しい黒に染まっている。振り下ろされるその軌跡に目を奪われていた珠鈴は動きが遅れる。
「危ない!」
 間一髪のところで、嵐環が珠鈴を引き寄せる。
 空を掻いた幼い腕が力なくぶらりと揺れる。
「玲風、何を——」
「ラン、あれは玲風様じゃない。玻璃が……いえ、玻璃に巣食うものがそうさせているの」
「なら玻璃を離させればよいだけだな。玲風!」
 きっと妹を見据えた嵐環だが、彼女を制止しようとした腕が止まる。
 玲風は黒い切っ先を自らの首に押し当てていた。
「れ……」
 白い肌に食い込む鋭い黒。少しでも腕を引けばそれが赤に染まることは容易に想像できる。
「やめろ、玲風」
「……オ、にいさマ」
 うすらと玲風が微笑む。
 その表情は、幼子のものではない。
「ふふ、ようやくワタクシを見てくれタ」
 その一言に、珠鈴は玲風の心が求めているものを悟った。ぽっかりと空いた、満たされない穴にあの禍々しい霧がつけこんだのだ。
 すっくと珠鈴は立ち上がった。躊躇せずに玲風へと足を進める。
「な……!」
 刃物を持つ相手に向かって迷わず突き進んでくる珠鈴に、玲風がうろたえる。
「玲風様は、お寂しかったのですね」
「そ……そうよ。オネエサマはやはり悪女よ。ワタクシからオニイサマを取ってしまうのだもノ」
 語るうちに玻璃の闇が色をさらに濃くしていく。
「アナタがここにきてから、ますますオニイサマはアナタにべったリ。どうして? ワタクシじゃだめなの? 妹なのよ」
 かたかたと震える手。珠鈴は距離を測りつつ足を進める。そして玲風の前に跪いた。
「玲風様には、お寂しい思いをさせてしまったこと、深くお詫びします。ですが私も……陛下を、嵐環を、愛しく思っているのです。この想いは——譲れません」
 はっきりとそう言い切った珠鈴に、玲風のみならず嵐環も息を呑む。しかしそれは玻璃の闇を強く刺激した。
「な……によ、オネエサマなんて、……オネエサマなんてッ!」
 頭を垂れた珠鈴に、玲風は鋭利な切っ先を振りかざす。その一瞬、珠鈴は玲風の足元を掬うように抱きついた。
「!」
 突然のことに支えを失った玲風の身体が後ろに倒れ込む。振り上げていた手はその勢いで力を失い、玻璃は宙に放り出された。
「ラン、今よ!」
「わかっている!」
 宙で禍々しく光る玻璃が風の刃で真っ二つに割れる。しかし、渦巻いていた黒い霧は凝縮して真下の珠鈴と玲風に牙を剥いた。
「玲風様っ」
 倒れた玲風を守ろうと、珠鈴は小さな体に覆いかぶさる。無防備な珠鈴の背に黒が迫る。
 その時、珠鈴の頬を風が掠めた。
 翡翠色の風が、ふたりを繭のように包み込んでいる。
 仙女の羽衣のように揺れる幕に隔てられた向こう側で、嵐環の瞳が淡く輝いたのを珠鈴は目の当たりにした。
 ——これが、皇帝陛下の風。
 大きな波のようにうねった翡翠の風が、一瞬にして黒い霧を飲み込んだ。
 風によって巻き上げられていたものが元に戻るのと同じくして、珠鈴たちを取り巻く幕も静かに熄む。
「……消えた、の?」
「ああ、もう大丈夫だ」
 珠鈴は腕の中に抱きかかえていた玲風の様子をみる。玻璃を手放した玲風は気を失っていた。
「……かわいそうな思いをさせた」
「そう思うなら、ちゃんと玲風様を気にかけてあげて。皇族といってもまだ子どもよ」
 嵐環は珠鈴のかたわらに膝をつくと、彼女の腕の中で眠る玲風のまろやかな頬を撫でた。
「……無事でよかった」
 幼い目元はほんのりと赤く染まっている。乱れた前髪を珠鈴は梳いてやった。
 その手の甲には、先程傷つけられた赤い筋が残っている。嵐環は珠鈴の手を掬うように手に取った。
「今、治してやる」
 ふう、と細い吐息が手の甲を撫でる。涼やかなその気配と共に、珠鈴の痛みと傷は消えていった。
「ようやく……風でそなたを守れた。少しは、俺も成長したと……認めてくれるか」
 きゅ、と唇を噛み締める嵐環に、珠鈴は柔らかく微笑む。
「そうしていると、あの日のランみたい」
「なに?」
「はじめて会ったあの日から、ランは変わらないよ」
「……それは、成長していないということか」
 瞳を揺らす嵐環に、珠鈴は首を横に振る。
「優しくて、可愛くて、ほっとけなくて……」
「おい」
「ずっと一緒にいたいって思えるの」
 最後の一言に嵐環は黙り込む。
「ランは? 私のこと、はじめて会った日からどう思ってる?」
 その問に、嵐環はそっと珠鈴の髪を梳いた。
「……そなたと同じだ」