翡翠の約束~仙女のように可愛かったあの子は皇帝陛下でした~

「申し上げます」
 嵐環に跪いたのは、信頼のおける側近だ。ささいな問題事ならば嵐環の耳に入る前に処理してのける彼が、口を真一文字に引き締めている。
「歴代の皇后陛下が過ごされる離宮で妙な影が」
「……なに」
 自然と低くなる声に側近は言葉を続ける。
「陛下に正妃がおらぬ今、あの離宮の主も不在のまま。そこに漬け込む不届き者がいるようなのです」
 皇后の離宮は、皇帝すらも入れぬ女人の宮だ。歴代の皇后のために用意された小さな花園。立場の重さをひととき忘れて心安く過ごすようにと設えられた宮である。
 正妃不在の現状に釘を刺され、嵐環は歯噛みしつつ側近に向き直る。
「警備の兵は何をしていた」
「……それが、口を揃えて申すには、光る石を見てより先の記憶がない、と」
「……石?」
 嵐環の眉がぴくりと動く。
「兵は皆、人品骨柄卑しからぬ者ばかり。示し合わせて嘘を申しているとも思えませぬ。それを証拠に、正気づいてからは何としてでも侵入者を捉えると息巻いておりますが、調べてみても盗まれたものもなく、証言もあやふやでどうしたものかと……」

「……荒唐無稽だが、石にまつわる話だ。そなたの知恵を借りたい」
 嵐環の話を聞いて、珠鈴は顎に手を当てて考え込んだ。
「……ひとつ、心当たりが」
 俯いて眉間のしわを揉んでいた嵐環がはたと手を止めて珠鈴を見た。
「人の心に作用……いいえ、感応する石がある、と」
「感応?」
 嵐環が身を乗り出す。珠鈴は膝を彼に向けて座り直すと、考えをまとめながら口を開いた。
「持ち主の心によって色が変わる石があるの」
「心によって?」
「たとえば——」
 珠鈴は懐から白い手巾を取り出す。そして机上から飲みさしの碗を手に取ると、手巾に傾けた。中身が布を濡らし、色を変える。
「白かった部分が、水を吸ったことにより濃い灰色に染まったわよね。水を心に、布を石に置き換えてみて」
「つまり——ある種の試金石なのか?」
 珠鈴は頷く。
「一説には、仙人が己の弟子を試すために使ったとされているの。人の心に振り回されていては導くことはできぬと。澄んだ心であれば石は透明に輝くまま。手にしている間のことは覚えていて、そうでない場合は何らかの色に染まって、手放したら忘れてしまう。修行を一からやり直せということね」
「御伽話のようだが……しかし実害が出ている。その石が仙人のものかはさておき、似た効果を持つもの、もしくはそう仕向けられるもの——と見なして考えよう。で、その石はどのような見た目だ? 大きさや形はどうなっている」
「それが……」
 珠鈴はきゅっと眉間に皺を寄せた。
「心に応じて色が変わるから、本当の姿は誰も知らない。だから仙人のものなんて話がついたのだけれど……」
「……っ、そうか」
 手がかりを得たと思いきや、肝心な情報は霞の中だ。小さく歯噛みする嵐環に、珠鈴は「だけど」と力強く続けた。
「仙人が持つと噂される石がそうそう市井に出回っているはずがないわ。相当身分の高い官僚や妃くらいしかふさわしくないでしょう。だから」
 珠鈴はそこで目を見開いた。
 ——透明な石。
「どうした?」
「……ラン。この話、私に預けてくれない?」
「思い当たる節があるのか」
 息せききって尋ねる嵐環に、珠鈴は目だけで頷く。
「これは……悪意というには違う気がするの。だから、いわゆる犯人を捕らえたとしても大事にしないほうが」
「それは無理だ。皇后の離宮を侵したのだぞ。いずれそなたのものとなる宮だ。せめて誰に疑いをかけているのか話してくれねば対処のしようがない」
 嵐環の言葉に、珠鈴は憶測が確かな色を帯びていくのを感じる。
(ランは私を皇后にするつもりで……?)
 嵐環が慈しんでくれていることは本当に嬉しく、有難く思う。珠鈴もそれに応えたい。
 けれど、それをよく思わない者がいるのなら——。
 珠鈴は静かに息を整えた。嵐環をまっすぐ見つめる。
「……今は言えない。我儘を承知で、もうひとつお願いがあるの」
 そう告げた珠鈴のまなざしは揺らがない。嵐環はしばらく黙って見つめ返していた視線を、ゆっくりと外して小さく息をついた。
「そなたと再会した時から、どんな願いでも叶えてやろうと決めているさ」
「ありがとう。では、その離宮の警備をすべて外して。そして私にその部屋を与えたという話を流してほしいの。私がそこでひとり待つから」
「待て」
 嵐環が手を突き出した。
「叶えてやるとは言ったが、そなたを危険に晒すような願いは無理だ。何を考えている?」
「そりゃあ事件の解決よ。石にまつわる話なんて、真相を見届けたくて仕方ないもの」
 深刻に詰めよってきた嵐環の緊張をほぐそうと、珠鈴はあえて声色を弾ませた。
 それを受けて、嵐環は身を引く。しかし——言い出した言葉に珠鈴は目を見張った。
「俺も離宮で待つ」
「だ、だめよ。女人の宮には皇帝陛下すら入れないんでしょう?」
 なおも言い募る珠鈴の唇を、嵐環はぴんと立てた小指で遮る。
「一晩だけ——昔に戻ろうではないか」
 嵐環は、その小指を珠鈴の唇に滑らせた。