翡翠の約束~仙女のように可愛かったあの子は皇帝陛下でした~

「……なかなかうまくいかぬものだな」
「初めてなんだから当たり前よ。でもここをおろそかにしては次に進めないからね」
 嘆息する嵐環を、珠鈴は腰に手を当てて激励している。
 事の発端は、嵐環が自分の手で石細工を作ってみたいと言い出したことだ。珠鈴にできた初めての弟子が皇帝たる嵐環というのも畏れ多いが、石への情熱が身分によって左右される珠鈴ではない。
 千里の道も一歩から。まずは石に彫るための図案の写し方や、刃の握り方などを教えている最中なのである。
「まずは木の板で練習ね」
 珠鈴は翡翠を彫るための小弓を握ってみせた。手のひらにおさまるほどの大きさだ。ここに張られた弦を翡翠に押し当て、左右に動かして削るのだ。
「こうして板を押さえながら……」
 珠鈴の手つきを真似た嵐環は、木の板に描いた図案に沿って小弓を乗せる。
「あ、もう少し持ち手を寝かせて……こう」
 珠鈴は嵐環の手を上から包むようにして手を添えた。
「手首を固定して、人差し指は柄に寄せるの」
 口で伝えるよりもこのほうが確実だ。
 嵐環は飲み込みが早く、木目に沿って弦を滑らせていく。その手の甲に浮き出た骨や血管に男性特有のものを感じて、珠鈴は胸を高鳴らせた。
 中性的な美しさを持つ嵐環だが、その骨格はまぎれもなく男性だ。当たり前すぎるその事実に、自分からその手を握ったことを自覚して今更ながらどきりとした。
「珠鈴?」
 珠鈴が動揺したわずかな気配を悟ったのか、嵐環は手を止めて珠鈴を見上げた。
 赤くなった頬を見られてしまう。
「……あ」
 手で顔を覆うも時既に遅し。
 むしろその仕草に、嵐環はにんまりと唇を緩めた。
「どうした?」
「……別に、何も」
「大方、男の手だと意識したところだろう」
「それ、はっ」
 否定できない。だが肯定するのも恥ずかしい。
 そんな珠鈴に追い打ちをかけるように、嵐環はにこやかに笑ってみせる。
「ようやく男だと意識してくれたか。嬉しいものだな」
「……っ、もう! あ、ほら、線からはみ出てる。まずは私がお手本を見せますからね!」
 こほんと咳払いをした珠鈴は練習用の木の板に小弓を合わせる。
「弦の頂点と線を合わせて、少しずつ滑らせるようにして——」
 弦が墨を削っていく。
「ほう、これが音に名高い玉刻師の手つきか」
 ふむ、と顎に手を添えた嵐環が、隣から覗き込むようにして珠鈴の手際を注視してくる。
 かすかにただよう香が鼻腔をくすぐる。
 彼自身の体温であたためられた香りが珠鈴に寄り添うようで、呼吸の乱れた指が目測を見誤って刃に触れた。
「いっ」
 やってしまった。とっさに指を離したものの、指の腹からぷくりとまあるい血の球が膨れる。
「大丈夫か」
「うん。舐めておけば治るから」
 この程度の傷は日常茶飯事だ。笑って指先を口に含もうとした珠鈴だが、その手を取った嵐環のほうが早かった。
 ぱくり。
 一切の躊躇なく、嵐環は珠鈴の指先を口に入れた。舌を押しつけて圧迫しながら血を短く吸う音が、殊の外大きく響く。
「ラ、ランっ」
 一瞬で身体中の熱が傷口に集中したかのように指先が熱い。嵐環はそっと指を離すと、傷口に息を吹きかけた。
「……?」
 傷口の熱が、吐息にさらわれる。
 珠鈴の目の前で——傷口が消え去っていた。
「えっ!?」
 確かに指先から出血したはずなのに。何より特有のじくじくとした痛みを感じていたのだ。
(ランが息を吹きかけた瞬間、その痛みも熱も、傷口ごと消えてしまうなんて)
「これも俺の——皇帝に伝わる風の力だ」
 民を癒すそよ風。その力をもって、珠鈴の傷を癒してくれたというのか。
「あの時も……こうして助けてやりたかった」
 嵐環は珠鈴の腕に目をやる。袖の下に残る傷跡。それは嵐環の心にも傷を残している。
「この力も万能ではない。古傷は治せないのだ……」
「ラン……泣かないで」
 珠鈴は治ったばかりの指で嵐環の頬に触れる。
「……泣いてはいない。だが……珠鈴に触れられていると、重くなった心も羽を得たように軽くなる気持ちだ。そなたも治癒の力を持っているのかもしれんな」
「私には不思議な力なんてないけれど……ランの心が軽くなるなら、いくらでもこうしているから」
「……珠鈴」
 頬に触れる珠鈴の手が、嵐環の大きな手で包まれる。
「……覚えておいてくれ。もう、そなたを傷つけるばかりの俺ではないのだと」
「もちろん。ランはあの時からずっと大人になって……私のほうが置いてけぼりになったようで、もどかしいわ」
 そう漏らすと、嵐環はきょとんとした顔をみせた。昔には見た事のない顔だ。増えていく思い出が好ましい。
「俺が珠鈴を置いてけぼりに? まさか。俺はずっと珠鈴を追いかけていたのだ。対等に接してくれるそなたの優しさに触れて、甘えて、一度は失った。だから、なんとしてでももう一度会いたくて……」
 嵐環の腕が珠鈴を抱きしめる。
「ようやくつかまえた」
「……私たち、ずっと追いかけっこしながらすれ違っていたのね」
「そうだな。だが、今はそなたが隣にいてくれる。それが何より愛おしい」
 ひとつひとつの言葉を選んで語りかけてくる嵐環を受け止め、珠鈴は頷く。
 この真心に、応えたい。
 そのためには、何ができるだろうか。
 その時、ふと、 窓辺からの風に何かが揺れた。
 机に置いていた翡翠だ。
 ふたりを巡り会わせた思い出の品。
「……ランのために翡翠細工を作りたい」
「ここにあるものではなく?」
「もう一度、ひとつひとつの工程に今の私の心をこめて作りたいの。その時は……身につけてくれる?」
「……ああ。どちらが先に作れるか、競うとするか?」
「あら、私に勝つつもり?」
「こいつめ」
 直接言葉にせずとも、石が想いを伝えてくれる。
 自分と嵐環の間に確かなものを感じて、珠鈴は彼を見上げて柔らかく微笑んだ。