翡翠の約束~仙女のように可愛かったあの子は皇帝陛下でした~

「おねえさま、ごきげんいかが?」
 最近、珠鈴の部屋には小さな客人が来る。
 嵐環の妹、玲風(レイフウ)である。
 まだ十にも満たないが、大人顔負けの口をきく。大人に囲まれて育ったからだろうか。
 初対面の時など「玉妃さまといったかしら。わたくしが見極めてさしあげる!」と仁王立ちで宣言されたのだ。
 珠鈴もあれには面食らったが、お近づきの印に加工していた紅玉を差し出してからはすっかり懐かれている。美しいものを愛するのに年齢は関係ないようだ。
 またもや妹ができたようで微笑ましい。今回ばかりは性別に間違いがなく安心である。
 ちょこんと椅子に座った玲風のこぶしが、不自然に膨らんでいるのに気がついた。
「玲風様、お手に何か」
「ふふ、おねえさまにだから見せてさしあげるわ」
 もったいつけた口調もいつものことだ。
 珠鈴も心得たもので「お心遣いに感謝します」と恭しく首を垂れた。自尊心をくすぐる珠鈴のふるまいに玲風はふふんと鼻を鳴らし、そっとこぶしを開く。
「じゃーん!」
 小さな手のひらの中に、透明な玉がころんと揺れる。
「これは……玻璃、に似ていますね」
「そうなの? やっぱり特別なものなのね」
 玻璃は七宝に数えられる宝物だ。仙人が弟子を見極めるために使ったとされる逸話もある。
 珠鈴も直接目にしたことはないが、このきらめきはそうそう目にできるものではない。
 無防備に宝物を見せている幼さに危うさを感じ、玲風の手を握り直させた。
「あのね、お願いがあるの」
 そんな珠鈴の気遣いをよそに、玲風はそれをつまんでかざしてしまう。
 光を受けた玻璃の輪郭が星のようにまたたいた。
 真昼の星は消え入りそうな透明感と、陽の光をふんだんにまとった強いきらめきで珠鈴の目をくらませる。
 その一瞬に駆け抜けた残像に、珠鈴は言い様もなく胸を騒がせた。
「これに穴を開けて紐を通して、首から下げられるようにしたいの」
「穴、を……」
 突飛な発想に珠鈴は目を丸くした。結晶から切り出した玻璃に更に穴を開けるとは。
 透かし彫りは経験がある。硬い結晶を壊さぬように、慎重に上澄みだけを削っていく作業だ。
 しかし、今回求められる技術は異なる。珠鈴は眉間に皺を寄せて手法を吟味した。
「……だめ?」
「……砕けてしまう可能性がありますね」
「そうなのー?」
 ぶう、と口を尖らせた玲風はご機嫌ななめだ。
 急いで代替案を考える。
 玻璃を加工する以上、失敗は許されない。本番一発勝負は危険すぎる。
 顎に手を当てて考え込む珠鈴を見て、玲風は不安げな顔を見せた。
「……ごめんなさい、わがまま言って……」
 小さな手が玻璃を包む。その姿にはたとひらめいた。
「そうだわ!」
 意図せずして声が大きくなってしまった珠鈴は慌てて口を閉じるが、玲風は逆にぽかんと口を開けている。
 珠鈴は抽斗に飛びついた。必ず穴を開ける必要はない。玲風の首から提げられればいいのだ。
「このあたりに……」
 ごそごそと抽斗を探った珠鈴は、ぱっと顔を明るくした。
「玲風様、この巾着に玻璃をお入れなさいませ。首にかければ首飾りのようになりますよ」
 珠鈴が取り出したのは小さな巾着だった。
 嵐環が揃えてくれた小物のひとつだ。蝶々が刺繍された布は特殊な技法で縫われており、入れたものを透かして見ることができる。
「おねえさま、すごい! 天才ね!」
 ぱちぱちと拍手する玲風だが、その勢いは何やら鈍くなっていく。それもそのはず、玲風は神妙な顔をして視線を泳がせていた。
「……あのね。わたくし、おねえさまに内緒にしてたことがあるの」
 そう言うなり、玲風はまっすぐなまなざしで珠鈴を見つめた。
「わたくし、おねえさまが悪女だと思ってたの」
「はあ?」
 幼子から飛び出す「悪女」の響きに珠鈴は目を見開いた。
「おにいさまはわたくしにだって、物は大切に使え、お金の無駄づかいはよくないと、それはもうたいへんな言いようなのよ」
 皇族として、幼い頃から自分を律するようにと心がけさせているということか。
「なのに、おねえさまが後宮に入ると決まったら、お召し物から何から新品のものばかりをあっという間にそろえさせたのよ! お部屋だって、誰も今まで使っていなかったとびっきりの場所を大掃除させて、大さわぎだったんだから。だから、おねえさまはおにいさまをこき使う悪いお妃様だと思っていたの」
 そう語る玲風のまなざしは真剣そのものだ。珠鈴が後宮に入る前の顛末にこんなことがあったのかと、珠鈴は話に聞き入る。
「なのに……おねえさま、わたくしのわがままも一生懸命考えてくれて、こんなにきれいな巾着までくれるんだもの。わたくし、人を見る目がないんだわ」
 一端の大人のような口をきく玲風に、珠鈴は笑いだしたくなるのを必死にこらえつつも、嵐環の心遣いに胸が熱くなった。
 幼い妹にまで自分を律するように言いつける方が、珠鈴ひとりのためにそこまで動いてくれていたとは。
 つんと鼻の奥が熱くなる。だが、玲風の前で涙ぐむわけにもいかず、珠鈴は懸命に瞬きを繰り返しながらこぼれかける涙をどうにかして乾かす。
 そんな最中、玲風はとどめとばかりに口を開いた。
「だからね、おにいさまをたぶらかす悪女はわたくしがぶっとばしてやる! って思ってたの」
「ぶ……!?」
 公主とは思えない語彙が飛び出したことに、期せずして涙は乾いた。
「そうよ。だけど、おねえさまったらいい方なんだもの。嬉しいけどなんだか複雑。わたくしのあふれる正義感はどこへいったらいいのかしら」
「は、はあ……」
 どうやら、間一髪で命拾いしたようである。

 そこへ廊下からの足音が複数近づいてきた。嵐環が側近を伴って来た気配ではない。
 しゃらしゃらと石の触れ合う音がする。
「維珠鈴、どういうことかしら」
「まあ、次は公主様をたぶらかしているの?」
「玉妃なんて呼ばれていい気になっているんだわ」
 一気に部屋が騒がしくなった。
 そしてむせかえる香り。珠鈴は息を止める。
 入口に居並ぶ三人の女人。その中央に立つ顔には見覚えがあった。
「……珊瑚の」
 口をついたのが人の名前ではなくて石なであるところが珠鈴らしい。
 以前、珊瑚の耳飾りを工房に持ち込んだ妃だ。後ろの二人は侍女だろう。彼女たちの黄玉や柘榴石にも触れた覚えがある。
「皆々様にはご機嫌麗しゅう。どのようなご用件でしょうか」
「麗しゅうですって?」
 あたりさわりのない挨拶だが、彼女にはあたりもさわりもあったらしい。
 ずいと前に歩みでて、珠鈴に腕を突き出した。
 一瞬、拳が出てくるのかと身構えたのは、玲風の「ぶっとばしてやる」発言があまりに印象的だったせいだ。
 しかし、突き出されたのは珊瑚の耳飾りだった。珠鈴が直したものである。
 質はさりとて、いとこからの贈り物だ。それならばと、丁寧に細工を施したことは記憶に新しい。
 しかし——その記憶とは裏腹に、珊瑚にはヒビが入っていた。
「この傷、どういうこと?」
「どういうことと申されても……お返しする時に状態を確認されましたでしょう。証文もございますが」
 預かる時と返す時に依頼人と石の状態を確認し、署名したものをそれぞれ持つようにしているのだ。
「わたくしを貶めようと、わざと脆い偽物とすりかえたのね」
「醜いのは顔の傷だけでないのね」
「なんて手癖の悪い職人かしら」
 証拠を持ち出すよりも先に口々に囁かれる、謂れなき中傷に珠鈴はきっと前を見据えて反論した。
「まさか! そんなことをする理由がございません」
「理由ならあるでしょう。質の悪い石でわたくしたちの身なりを貶め、後宮から追い出す口実が欲しかったのでなくて?」
 珠鈴は呆然とした。
 石を使って人を貶めるなど、考えたことがない。
 珠鈴にとって石は心の支えだ。美しい石は前を向くように励ましてくれ、くすんだ石は労る心を教えてくれる。
 石にまつわる伝承に心躍らせるのも、大切なひと時だ。
 しかし——彼女たちには、珠鈴の常識は通用しなかったようだ。
「わたしの黄玉、艷めきが落ちたように見えるけれど」
「この柘榴石だって変な染みがあるのよ」
 次々と出された石には色つきの蝋が施されていたりと、妙な細工の跡がある。しかしそれは珠鈴の手によるものではない。
「陛下の覚えがめでたいからといって、他を蹴落とそうとまがいものを押し付けるなんて!」
 そこで妃は珊瑚の耳飾りを床に投げつけた。もともとヒビが入っていた珊瑚は、衝撃に耐えられず砕けてしまう。
 珠鈴はその音が珊瑚の悲鳴に聞こえて顔を歪めた。
「妃の風上にもおけませんわ」
「ねえ、公主様もそう思われるでしょう?」
 ひとりが猫なで声で玲風にすりよる。
 醜い諍いに幼子を巻き込んではならないと、珠鈴は玲風の壁になって妃との間に割って入った。
「あら、公主様に聞かれちゃまずいことでもしてたの?」
 くすくすと甲高い笑い声が聞き苦しい。
 珠鈴が反論しようと口を開きかけた時。
「珠鈴おねえさまはそんなことしないわ」
 早かったのは玲風だった。
 高く澄んだ声は妃たちの声をぴしゃりと弾き飛ばす。
「こ、公主様? この者を庇い立てする必要など」
「かばってないわ。本当のことを言ってるだけ。あなたたちみたいな嘘つきとはちがってね」
 はっきりとそう言い放った玲風に、妃たちの顔色が変わる。
「お言葉ですが」
 張り詰めた空気を散らすような珠鈴のひと声に、妃たちはそろって珠鈴を見据えた。
「どんな石とて、丹念に磨けば光るものです。玉石混交とも申しますが、玉とみまごうほどに美しい石もございます。それを見分けるのは至難の業。ですがあえて見分けることをせずともよい石もあるのですよ」
 珠鈴は床に膝をつき、傷ついた珊瑚を拾い上げる。ぱくりと割れた断面は、血がにじむような朱色をしていた。
「貴い方の持つ宝物だけが美しいのではありません。川原の石ころとて一級品となるのです」
「はあ? 玉と石ころを同列に扱うつもり?」
 珠鈴は姿勢よく立ち上がると、珊瑚を投げつけた妃に向き直る。
「こちらの珊瑚、ご親族からの激励として頂いたそうですね」
 挑むようなまなざしと口ぶりに妃は鼻白む。その隙を突くように珠鈴は淡々と言葉を重ねる。
「この珊瑚自体は色のムラや大きさから、残念ながら一級品ではございません。しかし、これはご親族があなたさまが宮中で心安くあるようにと願って贈ったもの。その思いだけは替えがきかないのです。一級品自体は、然るべき筋を頼んだり金子を積んだりすれば手に入ります。しかし、この珊瑚に込められた思いはあなたさまにだけに宛てた、かけがえのないもの。ならばその価値は、皇家に伝わる宝物にも及ばぬものなのです」
 きっぱりと言い切った珠鈴は割れた珊瑚に目を落とす。その断面を労るように撫で、決然と顔を上げた。
「それをあなたさまはこのように扱った。この珊瑚の価値を下げたのは傷ではなく、あなたさまのお心そのものでしょう」
 頬の傷すら気にせず背筋をぴんと伸ばす珠鈴に反して、目を泳がせた妃は逃げ腰だ。その見苦しいさまを一喝するように珠鈴は目に力を入れ、真正面から妃を見据えた。
「何が今のご自分にふさわしいのか、胸に手をあててよくお考えくださいませ!」
 誰の目にも勝敗は明らかだった。
「ちなみに、工房にはあなたさまが署名なされた証文の控えがございます。この珊瑚にはじめは傷がついていなかったことを共に確認いたしましょう」
 ——ご足労、願えますか。
 とどめとばかりに低い声でそう申し出れば、妃たちは哀れなほどに取り乱す。
「結構よ! わたくし忙しいの。これ以上あなたに用はないわ」
「こんな侮辱を受けたのは初めてよ。覚えてらっしゃいな」
「こんなところ、二度と来るものですか!」
 三者三様に捨て台詞を残して、妃たちは部屋を出ていった。
 嵐のあとのように静まり返った部屋に、玲風の拍手が鳴り響く。
「すごい、すごいわ、おねえさま! わたくしのこぶしが必要なかったわね」
「玲風様、どうしてそうも拳で解決したがるのですか……」
 玲風は紅潮した頬で勢いよく抱きついてくる。珠鈴はその背をぽんぽんと撫でて宥めてやった。
「あの者たちがおねえさまに一喝されたときのうろたえっぷり、おとぎばなしの悪者そっくりだったわ!」
「まったくだな」
 玲風の高い笑い声とは異なる、芯の通った柔らかい声。
 はっと珠鈴が顔を上げれば、入口の柱に嵐環が寄りかかっていた。
「ラン……陛下」
「おにいさま!」
 ゆったりとした足取りで部屋に入ってきた嵐環は、今のやりとりをすべて見ていたらしい。
 玲風は兄の姿を見るなり飛びついた。嵐環も無邪気に甘えてくる妹の頭を撫でる。
「お……恥ずかしいところをお見せしました」
 石への仕打ちが腹に据えかねて、妃たちに啖呵を切り、叱りつけてしまった。
 今になって自分のしでかしたことの重大さが、じわじわと足元から迫ってくる。
 しかし、そんな後悔すら吹き飛ばすように嵐環は豪快に笑って見せた。
「いや、懐かしかった! 昔も物怖じせずに己の言葉で語っていたな」
「昔……も?」
「ああ。珠鈴のことならば、なんだって覚えている」
 そう優しく微笑んでみせた嵐環の表情に、救われた心持ちになる。珠鈴の一挙手一投足は、本人よりも嵐環のほうがしっかり覚えているようだ。
「……私、昔も何かやらかしたことが?」
「いや、意思が強かったということだ。石に関しては、大人がいくら説き伏せようとしても頑として譲らなかったぞ」
「……あ」
 その言葉に思い起こしたことがあった。
 美しく傷ひとつない逸品だと、村の外からとある翡翠が持ち込まれた。里の大人たちはここ以外にも採れる場所があるのかと浮き足立ったが、珠鈴だけは違うと譲らなかった。
「……そう、あの輝きは石本来の持つものではなく……油に浸しただけのまがいもので」
「そうそう。やはり石に関することだと覚えているな」
 くすくすと笑う嵐環に、珠鈴は頬を染める。
「私のことなのに、陛下のほうが覚えているなんて」
「離れている間、珠鈴との日々を絵の具を塗り重ねるように思い出していたからな。それだけくっきりと胸に焼き付いているのだろう」
「……他に何か、塗り重ねるようなものが?」
「そうだな……石以外だと、夕餉に魚が出たら骨が上手く取れず、俺に取るように押しつけてきたこともあるぞ」
「うそっ……」
 思いもよらぬ事実が明かされて珠鈴は絶句した。知らぬこととはいえ、未来の皇帝陛下に何をさせていたのだ。
「おねえさまったらお小さい子みたい! 次はわたくしがとって差し上げるわね?」
「そ、それは遠慮します……」
 思わぬ珠鈴の弱点に、玲風はここぞとばかりに姉ぶってみせる。
 しゅんと小さく萎れる珠鈴を見て、嵐環はたしなめるように妹の背に手を添えた。
「こら、あまり珠鈴をいじめてやるな。よしよし珠鈴、俺が慰めてやろう」
 嵐環は空いている手で珠鈴を抱き寄せる。
「へ、陛下……」
「その堅苦しい呼び名はよせと申しただろう」
「で、ですが……」
 珠鈴はちらりと玲風を見やる。その視線を受けて嵐環は妹に目を落とす。
「玲風、おねえさまとして、少し席を外してくれぬか」
「……しょうがないですわね」
 玲風は、くりくりとしたまなこでふたりを見上げた。
「邪魔者はおいとまします。おねえさま、今度お魚がでたらわたくしを呼んでね。必ずよ!」
 人さし指をぴんと立てて念押しした玲風は、珠鈴が苦笑いしながらも頷いたのを確認してから、部屋を出ていった。
 途端にしんと静まり返った部屋で、珠鈴はもぞりと体を揺らす。
「……私、きょうだいの邪魔じゃない?」
「まさか。あれも懐いている。今はそなたと過ごしたいのだ」
 嵐環はひょいと珠鈴を横抱きにして抱えあげる。
 急に視界が上がったことに戸惑う珠鈴に微笑みだけを返し、嵐環は窓辺に設えてある長椅子にそっと珠鈴を下ろした。自分もその隣に寄り添う。
「覚えていること、いないこと……互いに語り合ってはみぬか」
「……思い出を?」
「そうだ。そなたと昔を懐かしみたい」
 嵐環は風にそよぐ珠鈴の後れ毛を指先で撫でる。それだけで珠鈴の鼓動はとくんと跳ねた。
 妃としての身分を与えられても、互いに政務や工房のことに手を取られてばかりで、夜を共に過ごしたことはない。それでいいと思っているのだが、こうして触れられることで意識してしまう自分がいる。
 そうした気持ちをごまかすように、珠鈴はわざと明るい声を出した。
「わかったわ。まず、ひらひらした布を踏んづけたランが、花畑で転んだ時のことにしようかな」
「……珠鈴、お前な……」
 散々からかわれた意趣返しとばかりに切り出せば、嵐環はげんなりした顔をしつつも耳を傾けてくれるようだった。
「お団子頭がほどけてしまって、癇癪を起こしていたっけね……」
「こら」
 くすくすと笑いながら交わすやりとりが心地よい。
 ふと、嵐環の手が珠鈴の頬を包む。
 間近で見つめる翡翠色の瞳はあの頃と変わらない。
 だが、もうふたりは大人なのだ。
 女の子だと思っていたランが男で、しかも最高権力者たる皇帝陛下。
 それだけでも仰天するのに、彼は幼いころのよすがから珠鈴を妃にまで召し上げてくれた。
 その瞳の奥に宿るのは旧交を温めるだけの和やかさだけではないことも、珠鈴は今までの日々から感じ取っている。
 珠鈴も、嵐環を憎からず思っている。彼の気持ちに応えたいという思いもある。
 しかし、自分の身分は皇帝陛下をひとりじめしてよいものではないことも理解している。
 嵐環を見つめていたはずの珠鈴の視線は、伏せ目がちにおずおずと下がってしまう。
 それを見越したとでもいうのだろうか——嵐環は、頬を包む手のひらはそのままに、更にそっと顔を寄せた。
 ふと影の落ちた視界、そして肌で感じる温もりの気配に、珠鈴が顔を上げようとした時——。
 ちゅ、と頬に灯ったぬくもり。くちづけが落とされたのだとわかった珠鈴の頬に朱が差す。
 頬の傷跡を労るようなぬくもり。嵐環の優しさが直に伝わってくる。
 嵐環と、こうしていたい。誰はばかることなく、ふたりでずっと——。
 分不相応な望みを抱くほどに、ますます珠鈴の心は千々に乱れてしまう。
「そのような顔をしていたら、今度は唇を奪ってしまうぞ」
「ラ、ラン!」
「はは、それもいいが、たまには名前を呼んでくれ」
 思わぬおねだりに、珠鈴はおずおずと口を開く。
「……嵐環、様」
「様はいらぬ」
「……嵐環…………」
「ああ、そなたに名前を呼ばれる響きは、心地よい……」
 嵐環は珠鈴の肩にもたれるようにして頭を寄せる。甘えるさまが昔よりも素直な気がして、珠鈴も昔そうしたように、その頭を撫でてやった。

 ふたりが心を交わすやりとりを、扉の外で佇む玲風が聞いていた。
 胸の前で組んだ指が、物苦しげに巾着を掴む。
「わたくしがいなくても、おにいさま、笑うのね……」
 玻璃の光が、幼い声に同調した。