珠鈴の工房から居室までは、少し距離がある。毎日、珠鈴は散歩がてらの気晴らしを楽しんでいた。
嵐環から与えられた部屋は広く、日当たりもいい。
調度品も珠鈴には初めて目にするものばかりで、触れるのも気を使う有様である。
渡り廊下の途中で立ち止まり、その下に広がる池に目を落とす。
澄んだ水面は鏡のようになめらかだ。丁寧に磨いた銀に似ている。
「きれい……」
時折、風でかすかにさざ波が立つのも、銀が息づいているようで目を奪われる。
銀は、魔を見極め祓うとされている。珠鈴の手がける翡翠も、皇家に寄り添い守る石だ。
そうした逸話のおかげで珠鈴が今ここにいられるのだとしたら、翡翠を扱うにふさわしい玉刻師になれるよう腕を磨くことが、嵐環への恩返しになるだろうか。
その時、水面に色が差した。
淡い桃色の花びらがはらりと揺れる。蘭の花だ。
だが、花が水面に触れる直前、水底から湧きあがった風がそれを掬い上げた。
「えっ」
雫を纏った花がふんわりと舞いあがり、珠鈴の眼前へと降ってくる。慌ててそれを両手で受け止めれば、後ろから快活な笑い声が聞こえた。
「大方、水面のなめらかさに見惚れていたな?」
嵐環だ。どうやら珠鈴の後ろから一部始終を見ていたらしい。
「へ……陛下」
「ランでいい。その方が楽だろう」
「い、いえ。そういうわけには」
珠鈴にとって、ランは童女だ。目の前に佇む端正な男性とはまったくの別人である。
そのふたりが同一人物だったとは、いまだに飲み込み切れていない事実だ。
「固いことを言うな。まあ、昔から頑固だったからな。変わっていないのは嬉しいと思うべきか」
首を傾けてうなじをぐいと揉む嵐環の仕草は男性そのものだ。
わかっているはずなのに。
なまじ瞳が同じなぶん、珠鈴の思い出と現実が重なりきらずにぶれてしまう。
しばらく無言で嵐環を見つめていると、その視線をくすぐったそうに笑って嵐環は珠鈴に向き直った。
嵐環は珠鈴の手から蘭の花を受け取ると、そのまま珠鈴の髪に挿す。
「似合うぞ、玉妃殿」
「……」
珠鈴はなんと答えたものかわからない。こういうやりとりなど無縁だったのだ。
そんな珠鈴に、嵐環の手が差し伸べられる。
大きな厚い手のひら。楓のようなランの手のひらとは違う。
「おいで」
しかし、珠鈴は自然とその手を握り返した。その温もりに、手遊びをした思い出が重なって溶ける。
嵐環の後をついて、渡り廊下を抜けて庭に降りる。
優美な曲線を描く太鼓橋のふもとから見える景色は、手入れされた花々が咲き乱れていた。
「わあ……」
「これからは同じ景色を見よう。会えなかった分まで、あの頃の続きのように」
耳に心地よい、弦のような低音。
それは確かに男のものだ。
「ランは……本当に男の子、だったのですか」
正直に戸惑いを話すと、嵐環はぶっと噴き出した。
「俺が女に見えるか?」
「だ、だってランは可愛かったし、おとなしくて、まつげも長くて肌も綺麗でいい香りがして……」
ひとつひとつの賛辞を興味深そうに聞いていた嵐環だが、どうにも納得はいっていないようだ。
「まつげの長さなどみな同じだろう。肌のことなど更にわからん。香りは……男のものだと思うが?」
からかうように鼻をつままれ、珠鈴はむっと押し黙る。ほんのり赤くなった鼻を隠しながら、その美貌を凝視した。
その美貌のひとかけら、否、ひとさじでも欲しいがために、女人はみな血のにじむような努力をして美容に勤しむのだ。
嵐環の兼ね備えたものは決して平凡ではない。広間で会った時も美しかったが、庭に出た今は、陽の光を受けて白い肌がますます輝きを増して眩いくらいだ。
「女の私より綺麗な肌……内側から光が溢れるようですよ!」
「そうか?」
「そうです! きらめきを宿したお肌は、丁寧にやすりをかけた宝玉の断面みたいで……!」
そこで嵐環はまた笑った。
「その褒め方! 覚えているか? 昔、星を見た時もそなたは同じようなことを言っていたぞ」
「星……?」
ぱちくりと目を瞬いた珠鈴のまなこに、幼き日の夜空が浮かぶ。
墨を流したような夜空に、ちかちかと星が瞬く。
——ラン、見て! 夜空に玻璃をちらしたみたいよ!
——玻璃?
——向こうが透けて見える、きれいな石のこと。宝物のひとつ。とても貴重なものよ。
——珠鈴、物知り……。
——一流の玉刻師になるには、このくらい当然よ! ねえ、ランのおはだもきらきらしてる。もしかしたら玻璃がまぶしてあるの? みがいていい?
——だ、だめ!
思い出した。幼い時のこととはいえ、皇族に対して許される言動ではない。
珠鈴は俯いて頭を抱えた。
立場の違いを自覚してしまうと、顔を上げていられなくなる。目の前にいるのは、妹とも思っていたランではない。この国を統べる皇帝陛下なのだ。
しかし、嵐環は珠鈴を咎めはしなかった。
「あの頃はそなたと語らうのが安らぎだった。都を追われた俺にとって、あの里でのひとときは本当に……」
「都を、追われた……?」
初めて聞く事実だった。
「聞いて……いないのか」
彼の手が珠鈴の腕に触れる。ゆったりとした袖口から覗くのは切り傷の痕だ。そっと指先が優しく撫でる。
「ここにも……すまない」
押し殺したような声で囁く嵐環は、まるで自分が傷を受けたかのように喉を詰まらせている。
それを少しでも和らげようと、珠鈴は彼の手にそっと自分の手を添えた。
「……珠鈴」
珠鈴はじっと嵐環を見つめる。
「教えてください。あの日のこと、この傷のこと」
嵐環の傷。それは珠鈴のように目に見えるものではない。だからこそ分け合いたいと思う。
珠鈴のまなざしは嵐環に届いたようだ。彼の肩が深い呼吸と共に動く。
珠鈴が見守る中、嵐環は口を開いた。
「伝承では、皇帝は風の力をもって国を治めるとされている」
「風の……」
「ああ。そよかぜで民を安らげ、嵐を起こして外敵を討ち果たす。代々、皇位継承者には風の力が宿るのだ」
嵐環は己の手のひらを見つめる。
「俺の内に宿る風は荒々しく、また使いこなすことにも難儀していた。そうした者に対して、施すまじないがある。それは——力を反転させるために女のなりをすることだ。風は陽の気が強まるために荒ぶる。だから陰の気を纏う女として過ごすことが肝要なのだ」
「だから……仙女のような服装を?」
「ああ。恥ずかしくてすぐにでも脱ぎ捨てたかったが、そうはできない。だからいつも隅でじっとしていた」
「じゃあ、口数が少なかったのも」
「わめき散らしたいのを我慢していた」
「私の後をついて歩いていたのは」
「女の服が歩き辛かった。ひらひらしたものがすぐに引っかかる。だから自然と歩みが遅くなった」
「は……」
一気に押し寄せた答え合わせに、珠鈴はぱちぱちと目を瞬くことしかできない。
「…………言ってくれれば」
どうにかして絞り出したひとり言に、嵐環はゆるゆると首を横に振った。
「珠鈴は俺を女だと信じ込んでいたぞ。幼子ゆえに仕方ないと思っていたが、俺がいなくなった後、誰も教えてくれなかったのか?」
その問いに、今度は珠鈴が首を横に振る。
「性別どころか……ランのことすら誰も口にしなくって。この傷を見ると、皆が口を噤んでしまったのです」
珠鈴はそっと頬に触れる。
痛みの記憶はない。何日か発熱して寝込んでいた時のほうが苦しかったことを覚えている。
その手を取った嵐環は、辛そうに眉根を寄せた。
「俺があの里で過ごしていたのは、翡翠の気を馴染ませるためだった。里にある翡翠の原石から風が生まれたと伝承は語っている。その近くにいることで、燻る暴風が平らかに凪ぐのだ。装いのまじないと合わせて行うことでより効果が出るのだと」
「暴風……」
そう口にした珠鈴の胸がざわめく。幼い己と嵐環の声が鼓膜の奥に蘇る。
——翡翠って、都のおひめさまの結婚式にも使われるんだって。ランもおひめさまなんでしょ? ランの結婚式にはわたしが翡翠のついたきれいな冠を作ってあげるね。
——おひめさまじゃないし、いらない。
——もう! ランはいっつもそうなんだから。
幼い珠鈴は野花を摘んで、花冠を編む。それをランの頭に優しく乗せた。
——ふふ、やっぱりかわいい。
——……こういうのは、珠鈴の、ほうが……。
ランはぐいと花冠を取って珠鈴に押しつける。
——翡翠の冠は、自分のために作りなよ。
——でも、私よりランのほうが……。
——じゃあ、作ったらちょうだい。そしたらそれを贈るから。
今にして思えば、結局冠は自分に返ってくるのだけれど、あの時の珠鈴は、ランが自分の作ったものを受け取ってくれると言ってくれただけで嬉しかったのだ。
——うん、とびっきりきれいなの作るね。約束する!
「……そう、約束したの……だから私、ずっと翡翠の扱いを勉強して」
「ああ。その後……ふたりで原石を見に行くことになっただろう」
そうだ。逸る気持ちを抑えきれず駆け出した珠鈴と、それを追ったラン。
珠鈴の記憶の蓋が開く。
ふたりは川沿いの坂道を駆けていた。
降り続いた雨でぬかるむ土。
——珠鈴、あぶない!
ランのために作る冠で頭がいっぱいだった珠鈴は、嵐環の言葉の意味に気づく前にぬかるみに足を取られた。
たっぷりの雨を湛えた川の流れは速くなっている。
そこからはじけた記憶の飛沫が頬を濡らした。
傾く視界。
とっさに伸ばした自分の手が空を切る。
胃の奥がひっくり返る感覚。
そして——水底から湧き上がり、背中を押した風。
だが、岸を掴むより先に、珠鈴の手はその風に阻まれた。
——きゃああっ!
風の刃が皮膚を断つ。
頬に、足に、赤が走る。
その感覚が痛みだと気づくより先に、珠鈴は気を失った。
「あの時……俺は助けようとした。でも、突然のことで風をうまく操れなかった。どうにかして風で押し上げようと思ったのに、逆に珠鈴を傷つけてしまった」
嵐環の手が傷をなぞる。
「私……こんな大切なこと、どうして、忘れて」
「怪我による発熱のせいだろう。見舞いにも行けないまま、俺はあの里から出ることになった。守るべき民を傷つけたのだから当然だ」
「そんな! ランのせいじゃない……むしろ、私のせいで」
「違う。俺が風を操れていれば珠鈴は傷つかずに済んだ」
嵐環は記憶の奔流に震える珠鈴の髪を撫でる。
「里の者が何も語らなかったのは、忘れたままがよいと判断したからだろう。となると……俺が明かしたことも、良かったものか……」
珠鈴は髪を撫でる手に触れる。その手のひらの冷たさに、嵐環こそが辛い思いをし続けてきたことを悟った。
「自分のことなのに忘れているほうが嫌よ。教えてくれてありがとう」
はっきりと言い放った珠鈴に、ランカンは目を見張る。その口調が昔に戻っていた。
「怒って……いないのか」
「怒るわけがないでしょう。むしろ嵐環ばかりに背負わせてしまうなんて、私こそ謝るべき。姉を気取っていたんだから、こういう時こそしっかりしないと。それにね」
珠鈴は袖を捲り、傷跡の残る腕を見せた。そして、ぐっと拳を握ったり開いたりを繰り返す。
「傷があっても、石は彫れてる! 私にとって一番大事なことは無事よ。だから安心して」
にっこりと笑顔を見せた珠鈴に、嵐環はくしゃりと顔を歪ませた。
「……何も知らないそなたを守ってやるつもりだったのに、そなたはいつも俺の想像の上を行くな」
「だって、私はあの頃と何も変わってないもの。石が好きでランが好き。それが私の土台なの」
ね、私の可愛いラン。
弾むような声色で励ませば、嵐環は噛み締めるように頷いた。
「その響き……昔は童女のようで嫌だったが」
「だが?」
「今は……悪くない」
嵐環は珠鈴の肩を抱く。
互いが瞳に映る距離に珠鈴は頬を染めたが、嵐環の唇は珠鈴の額に寄せられた。
嵐環から与えられた部屋は広く、日当たりもいい。
調度品も珠鈴には初めて目にするものばかりで、触れるのも気を使う有様である。
渡り廊下の途中で立ち止まり、その下に広がる池に目を落とす。
澄んだ水面は鏡のようになめらかだ。丁寧に磨いた銀に似ている。
「きれい……」
時折、風でかすかにさざ波が立つのも、銀が息づいているようで目を奪われる。
銀は、魔を見極め祓うとされている。珠鈴の手がける翡翠も、皇家に寄り添い守る石だ。
そうした逸話のおかげで珠鈴が今ここにいられるのだとしたら、翡翠を扱うにふさわしい玉刻師になれるよう腕を磨くことが、嵐環への恩返しになるだろうか。
その時、水面に色が差した。
淡い桃色の花びらがはらりと揺れる。蘭の花だ。
だが、花が水面に触れる直前、水底から湧きあがった風がそれを掬い上げた。
「えっ」
雫を纏った花がふんわりと舞いあがり、珠鈴の眼前へと降ってくる。慌ててそれを両手で受け止めれば、後ろから快活な笑い声が聞こえた。
「大方、水面のなめらかさに見惚れていたな?」
嵐環だ。どうやら珠鈴の後ろから一部始終を見ていたらしい。
「へ……陛下」
「ランでいい。その方が楽だろう」
「い、いえ。そういうわけには」
珠鈴にとって、ランは童女だ。目の前に佇む端正な男性とはまったくの別人である。
そのふたりが同一人物だったとは、いまだに飲み込み切れていない事実だ。
「固いことを言うな。まあ、昔から頑固だったからな。変わっていないのは嬉しいと思うべきか」
首を傾けてうなじをぐいと揉む嵐環の仕草は男性そのものだ。
わかっているはずなのに。
なまじ瞳が同じなぶん、珠鈴の思い出と現実が重なりきらずにぶれてしまう。
しばらく無言で嵐環を見つめていると、その視線をくすぐったそうに笑って嵐環は珠鈴に向き直った。
嵐環は珠鈴の手から蘭の花を受け取ると、そのまま珠鈴の髪に挿す。
「似合うぞ、玉妃殿」
「……」
珠鈴はなんと答えたものかわからない。こういうやりとりなど無縁だったのだ。
そんな珠鈴に、嵐環の手が差し伸べられる。
大きな厚い手のひら。楓のようなランの手のひらとは違う。
「おいで」
しかし、珠鈴は自然とその手を握り返した。その温もりに、手遊びをした思い出が重なって溶ける。
嵐環の後をついて、渡り廊下を抜けて庭に降りる。
優美な曲線を描く太鼓橋のふもとから見える景色は、手入れされた花々が咲き乱れていた。
「わあ……」
「これからは同じ景色を見よう。会えなかった分まで、あの頃の続きのように」
耳に心地よい、弦のような低音。
それは確かに男のものだ。
「ランは……本当に男の子、だったのですか」
正直に戸惑いを話すと、嵐環はぶっと噴き出した。
「俺が女に見えるか?」
「だ、だってランは可愛かったし、おとなしくて、まつげも長くて肌も綺麗でいい香りがして……」
ひとつひとつの賛辞を興味深そうに聞いていた嵐環だが、どうにも納得はいっていないようだ。
「まつげの長さなどみな同じだろう。肌のことなど更にわからん。香りは……男のものだと思うが?」
からかうように鼻をつままれ、珠鈴はむっと押し黙る。ほんのり赤くなった鼻を隠しながら、その美貌を凝視した。
その美貌のひとかけら、否、ひとさじでも欲しいがために、女人はみな血のにじむような努力をして美容に勤しむのだ。
嵐環の兼ね備えたものは決して平凡ではない。広間で会った時も美しかったが、庭に出た今は、陽の光を受けて白い肌がますます輝きを増して眩いくらいだ。
「女の私より綺麗な肌……内側から光が溢れるようですよ!」
「そうか?」
「そうです! きらめきを宿したお肌は、丁寧にやすりをかけた宝玉の断面みたいで……!」
そこで嵐環はまた笑った。
「その褒め方! 覚えているか? 昔、星を見た時もそなたは同じようなことを言っていたぞ」
「星……?」
ぱちくりと目を瞬いた珠鈴のまなこに、幼き日の夜空が浮かぶ。
墨を流したような夜空に、ちかちかと星が瞬く。
——ラン、見て! 夜空に玻璃をちらしたみたいよ!
——玻璃?
——向こうが透けて見える、きれいな石のこと。宝物のひとつ。とても貴重なものよ。
——珠鈴、物知り……。
——一流の玉刻師になるには、このくらい当然よ! ねえ、ランのおはだもきらきらしてる。もしかしたら玻璃がまぶしてあるの? みがいていい?
——だ、だめ!
思い出した。幼い時のこととはいえ、皇族に対して許される言動ではない。
珠鈴は俯いて頭を抱えた。
立場の違いを自覚してしまうと、顔を上げていられなくなる。目の前にいるのは、妹とも思っていたランではない。この国を統べる皇帝陛下なのだ。
しかし、嵐環は珠鈴を咎めはしなかった。
「あの頃はそなたと語らうのが安らぎだった。都を追われた俺にとって、あの里でのひとときは本当に……」
「都を、追われた……?」
初めて聞く事実だった。
「聞いて……いないのか」
彼の手が珠鈴の腕に触れる。ゆったりとした袖口から覗くのは切り傷の痕だ。そっと指先が優しく撫でる。
「ここにも……すまない」
押し殺したような声で囁く嵐環は、まるで自分が傷を受けたかのように喉を詰まらせている。
それを少しでも和らげようと、珠鈴は彼の手にそっと自分の手を添えた。
「……珠鈴」
珠鈴はじっと嵐環を見つめる。
「教えてください。あの日のこと、この傷のこと」
嵐環の傷。それは珠鈴のように目に見えるものではない。だからこそ分け合いたいと思う。
珠鈴のまなざしは嵐環に届いたようだ。彼の肩が深い呼吸と共に動く。
珠鈴が見守る中、嵐環は口を開いた。
「伝承では、皇帝は風の力をもって国を治めるとされている」
「風の……」
「ああ。そよかぜで民を安らげ、嵐を起こして外敵を討ち果たす。代々、皇位継承者には風の力が宿るのだ」
嵐環は己の手のひらを見つめる。
「俺の内に宿る風は荒々しく、また使いこなすことにも難儀していた。そうした者に対して、施すまじないがある。それは——力を反転させるために女のなりをすることだ。風は陽の気が強まるために荒ぶる。だから陰の気を纏う女として過ごすことが肝要なのだ」
「だから……仙女のような服装を?」
「ああ。恥ずかしくてすぐにでも脱ぎ捨てたかったが、そうはできない。だからいつも隅でじっとしていた」
「じゃあ、口数が少なかったのも」
「わめき散らしたいのを我慢していた」
「私の後をついて歩いていたのは」
「女の服が歩き辛かった。ひらひらしたものがすぐに引っかかる。だから自然と歩みが遅くなった」
「は……」
一気に押し寄せた答え合わせに、珠鈴はぱちぱちと目を瞬くことしかできない。
「…………言ってくれれば」
どうにかして絞り出したひとり言に、嵐環はゆるゆると首を横に振った。
「珠鈴は俺を女だと信じ込んでいたぞ。幼子ゆえに仕方ないと思っていたが、俺がいなくなった後、誰も教えてくれなかったのか?」
その問いに、今度は珠鈴が首を横に振る。
「性別どころか……ランのことすら誰も口にしなくって。この傷を見ると、皆が口を噤んでしまったのです」
珠鈴はそっと頬に触れる。
痛みの記憶はない。何日か発熱して寝込んでいた時のほうが苦しかったことを覚えている。
その手を取った嵐環は、辛そうに眉根を寄せた。
「俺があの里で過ごしていたのは、翡翠の気を馴染ませるためだった。里にある翡翠の原石から風が生まれたと伝承は語っている。その近くにいることで、燻る暴風が平らかに凪ぐのだ。装いのまじないと合わせて行うことでより効果が出るのだと」
「暴風……」
そう口にした珠鈴の胸がざわめく。幼い己と嵐環の声が鼓膜の奥に蘇る。
——翡翠って、都のおひめさまの結婚式にも使われるんだって。ランもおひめさまなんでしょ? ランの結婚式にはわたしが翡翠のついたきれいな冠を作ってあげるね。
——おひめさまじゃないし、いらない。
——もう! ランはいっつもそうなんだから。
幼い珠鈴は野花を摘んで、花冠を編む。それをランの頭に優しく乗せた。
——ふふ、やっぱりかわいい。
——……こういうのは、珠鈴の、ほうが……。
ランはぐいと花冠を取って珠鈴に押しつける。
——翡翠の冠は、自分のために作りなよ。
——でも、私よりランのほうが……。
——じゃあ、作ったらちょうだい。そしたらそれを贈るから。
今にして思えば、結局冠は自分に返ってくるのだけれど、あの時の珠鈴は、ランが自分の作ったものを受け取ってくれると言ってくれただけで嬉しかったのだ。
——うん、とびっきりきれいなの作るね。約束する!
「……そう、約束したの……だから私、ずっと翡翠の扱いを勉強して」
「ああ。その後……ふたりで原石を見に行くことになっただろう」
そうだ。逸る気持ちを抑えきれず駆け出した珠鈴と、それを追ったラン。
珠鈴の記憶の蓋が開く。
ふたりは川沿いの坂道を駆けていた。
降り続いた雨でぬかるむ土。
——珠鈴、あぶない!
ランのために作る冠で頭がいっぱいだった珠鈴は、嵐環の言葉の意味に気づく前にぬかるみに足を取られた。
たっぷりの雨を湛えた川の流れは速くなっている。
そこからはじけた記憶の飛沫が頬を濡らした。
傾く視界。
とっさに伸ばした自分の手が空を切る。
胃の奥がひっくり返る感覚。
そして——水底から湧き上がり、背中を押した風。
だが、岸を掴むより先に、珠鈴の手はその風に阻まれた。
——きゃああっ!
風の刃が皮膚を断つ。
頬に、足に、赤が走る。
その感覚が痛みだと気づくより先に、珠鈴は気を失った。
「あの時……俺は助けようとした。でも、突然のことで風をうまく操れなかった。どうにかして風で押し上げようと思ったのに、逆に珠鈴を傷つけてしまった」
嵐環の手が傷をなぞる。
「私……こんな大切なこと、どうして、忘れて」
「怪我による発熱のせいだろう。見舞いにも行けないまま、俺はあの里から出ることになった。守るべき民を傷つけたのだから当然だ」
「そんな! ランのせいじゃない……むしろ、私のせいで」
「違う。俺が風を操れていれば珠鈴は傷つかずに済んだ」
嵐環は記憶の奔流に震える珠鈴の髪を撫でる。
「里の者が何も語らなかったのは、忘れたままがよいと判断したからだろう。となると……俺が明かしたことも、良かったものか……」
珠鈴は髪を撫でる手に触れる。その手のひらの冷たさに、嵐環こそが辛い思いをし続けてきたことを悟った。
「自分のことなのに忘れているほうが嫌よ。教えてくれてありがとう」
はっきりと言い放った珠鈴に、ランカンは目を見張る。その口調が昔に戻っていた。
「怒って……いないのか」
「怒るわけがないでしょう。むしろ嵐環ばかりに背負わせてしまうなんて、私こそ謝るべき。姉を気取っていたんだから、こういう時こそしっかりしないと。それにね」
珠鈴は袖を捲り、傷跡の残る腕を見せた。そして、ぐっと拳を握ったり開いたりを繰り返す。
「傷があっても、石は彫れてる! 私にとって一番大事なことは無事よ。だから安心して」
にっこりと笑顔を見せた珠鈴に、嵐環はくしゃりと顔を歪ませた。
「……何も知らないそなたを守ってやるつもりだったのに、そなたはいつも俺の想像の上を行くな」
「だって、私はあの頃と何も変わってないもの。石が好きでランが好き。それが私の土台なの」
ね、私の可愛いラン。
弾むような声色で励ませば、嵐環は噛み締めるように頷いた。
「その響き……昔は童女のようで嫌だったが」
「だが?」
「今は……悪くない」
嵐環は珠鈴の肩を抱く。
互いが瞳に映る距離に珠鈴は頬を染めたが、嵐環の唇は珠鈴の額に寄せられた。



