翡翠の約束~仙女のように可愛かったあの子は皇帝陛下でした~

 数日後、後宮の一角にある小さな工房から、鈴を転がすような声が聞こえてきた。
「これが私の簪? あんなに野暮ったかったのに、都で流行りの新品みたい!」
 目を輝かせて簪をくるくる回す宮女を、珠鈴は微笑ましく見つめて頷いた。
「とても状態の良い月長石でした。その良さを活かすため、台座をすっきりとしたものに取り替えました」
 珠鈴は持ち込まれた簪の台座を隣に並べる。せっかくの石を埋もれさせる大ぶりな台座から、最低限の金具で石を支える作りに替えただけだが、洗練されたその形状のおかげで月長石の涼やかさが際立っていた。
「これで他の子と並んでも見劣りしないで済むわ。ありがとう」
「こちらこそ貴重な経験をありがとうございました」
 宮女を深い礼と共に見送った珠鈴は、数日前の貢選会に思いを馳せた。

 思わぬ騒ぎの起きた貢選会。
 珠鈴を罵倒したあの男は即座に宮中から追放された。この先の参加資格も剥奪されたという。
 ラン——嵐環帝は翡翠細工の巧緻さを高く評価してくれた。審査員たちの評価も同じで、この翡翠を出品していれば合格は間違いなかったろうにと惜しんでくれた。
 特例として珠鈴にも玉刻師の免状を与える——とまで話は進んだが、珠鈴はそれを固辞したのだ。
「お題は翡翠でなく蝋石。出品はひとりひと品が決まりでした。私だけが異なる基準で評価されるわけには参りません。優れた腕前ならば翡翠以外でも結果を残せたはず。そうできなかったのが今の私の実力です」
 そうきっぱり言い切った珠鈴に、周囲は却って好感を抱いたらしい。
「ならば宮中すべての細工を手がける玉刻師ではなく、限られた範囲での仕事で経験を積むのはどうだろうか」
 そうして嵐環は、珠鈴に後宮内の工房と仕事を与えたのだ。
 そこでの役割は、主に妃や宮女の宝飾品の手直し。翡翠だけではなく、多くの石に触れることで研鑽を積める絶好の機会だ。
 うってつけの条件に珠鈴は二つ返事で引き受けたのだが——納得いかないことがひとつある。
「ね、玉妃(ぎょくひ)様。わたくしの珊瑚の耳飾りなんだけど」
 垂れ目の妃が、侍女を引き連れて耳たぶを気だるげにいじっていた。
「はい、ただいま」
 後宮に妃として入ることだけは、固辞できなかったのだ。
 玉妃という二つ名めいた肩書きも、くすぐったい。
 珠鈴は妃という柄ではないのだ。宝石を身に着けて着飾るよりも、職人として磨いたり整えたりしていたい。
「この珊瑚、いとこからの贈り物なの。実家は貿易商でね、珍しいものがよく手に入って……こんなの宝石箱には溢れてるんだけどね」
 自慢話に相槌を打ちながら、珠鈴は珊瑚の耳飾りをじっくり見る。
 色や大きさを見るに、その質は妃の評価とは真逆だ。その扱いも雑なことが表面の傷から読み取れる。
「一族で一等の美人がわたくし。だから後宮でもそうなさいって激励にもらったの」
 気だるげながらもその口ぶりは誇らしげだ。
 珠鈴は珊瑚を通して、贈り主の願いに思いを馳せる。
 ならば珠鈴のなすべきことは——質の良し悪しに関わらず、この珊瑚の役割をまっとうさせてやることだ。
 珊瑚を労わるように、柔らかい布で拭って丁寧に汚れを落とす。
 緩くなっている留め金も新しいものに替えてやる。
 持ち主を輝かせる珊瑚の手伝いをする。石の望みを読み取って、込められた思いを未来に繋ぐのが珠鈴の役目だ。
「あなた、本当に陛下のご寵愛じゃないの?」
「え?」
「わたくしたちって皇族との繋がりを作るためとか、取引のために実家から捧げられてここにきたの。でも、あなたは陛下に望まれたわけでしょう?」
「それ、は……」
 珠鈴は口ごもる。
 大枠は彼女の言うとおりだ。
 しかし、寵妃という自覚など珠鈴にはない。
 嵐環への情はある。しかしそれは男女のものではない。
 嵐環とて、それは同じだろうと思う。昔馴染みを懐かしむ気持ちが高じて手を差し伸べてくれたのだろうし、何より珠鈴はランを女人だと思っていたのだ。
「私は……ただの職人です。妃の肩書きは、後宮に置いて頂いているいわば建前ですよ」
「ふうん? それならいいけど」
 修繕の終わった耳飾りを盆に乗せて差し出せば、妃は無造作に付け直して鏡を覗き込む。
「皇帝陛下は着飾ってる妃を尻目に傷のついた石にご執心……なんて、笑えないものね?」
 細い指で自分の頬をすっと撫でる。それは珠鈴の傷跡を揶揄する仕草だ。珠鈴は表情を固くして頭を下げた。
 
 静かになった部屋でひとり、鏡を見る。
 妃という立場上、最低限の化粧も覚えたが、頬の傷跡を消すほどの厚いものはしていない。
 それでいいと思っている。珠鈴にとって、消したい傷跡ではないのだから。
 袖を少し捲って、腕の傷を見る。ふくらはぎにも同じものがある。
 ランとのことは幻ではなかったのだと、この傷跡が教えてくれている。
 突然訪れた別れの日。あの日に何があったのか、はっきりと覚えているのはこの傷跡だけなのだから。