翡翠の約束~仙女のように可愛かったあの子は皇帝陛下でした~

 どん、どん、と鼓動をざわめかせる太鼓が鳴る。
 維(イ)珠鈴(シュリン)は胸の前で祈るように冷たい両手を組んだ。
 ちらりと周りを見れば、列に整然と並ぶ職人たちも同じような姿勢で固まっている。
「お集まりの職人諸君、審査が終わり申した」
 貫禄のある太い声の文官が朗々と告げると大広間の空気が引き締まった。
「新帝御即位を祝し、宮中の細工処では皇族への献上品を手がける新たな玉刻師(ぎょくこくし)を募っておった。そなたらの作品にて腕前を見極めさせてもらったぞ」
 文官は焦れる職人たちに向けて、落ち着くようにと手のひらを向けた。
「前置きはこのくらいにして……発表しよう。お題である蝋石の特性を活かした彫り方、細工の緻密さなどを踏まえ、栄光を手にした者は——」

 盛り上がる広間の隅で、珠鈴は力なく拍手をしていた。視線の先には栄光を掴んだ若い男たちが歓声を上げている。
(宮中に上がれる玉刻師なら、あの子に会えると思ったけれど……やっぱり甘くないか)
 玉刻師とは、玉——宝石の細工を生業にする職人だ。装飾品に嵌め込む宝石を細工して、より美しく煌びやかな世界を演出する。
 珠鈴は翡翠の産地である、とある里の生まれだ。そこで培った技術は都でも引けはとらないと太鼓判を押されてこの貢選会に参加したのだが、現実は厳しかった。
(早く帰ろう。嘆いていても仕方ない。一から修業のやりなおしだ)
 そう決めて部屋を出ようとした珠鈴だが、興奮と悲嘆の混ざる熱気にあてられて足元がふらついた。近くにいた男にぶつかってしまう。
「すみません」
 すぐに頭を下げたが、同じく落選の憂き目にあった相手の神経に触れたらしい。
「それが謝罪のつもりか?」
 珠鈴の倍もありそうな体躯の男が行く手に立ちはだかる。刺激してはだめな状態だと悟った珠鈴は、重ねて頭を深く下げた。
「大変失礼いたしました。ご容赦を」
「ご容赦——ねえ」
 男の拳が、近くの長机をがんと叩いた。並べられていた参加者たちの作品がばらばらと落ちる。
 突然の狼藉に周囲がしんと静かになる。しかし男は珠鈴を睨めつけたままだ。
 狂気を孕んだ目つきに珠鈴の呼吸が浅くなる。割って入る勇気のある者は誰もいない。
「そもそもなんで女が貢選会にいる? これは一世一代を賭けた男の仕事だ。綺麗な宝石に囲まれて陛下に見初められたいってか? そんなやつが職人気取りとは笑わせるな」
「……なんですって?」
 男を刺激しないようにと唇を噛み締めて俯いていた珠鈴だが、あまりの暴言に恐怖より怒りが勝った。
 きっと顔を上げて狼藉者を見据える。男はわずかに口の端を歪めた。
「は、なんだその顔。汚ねえ傷だな。化粧で化けねえとお妃様どころか嫁の貰い手もねえぞ」
「ご丁寧にどうも。あなたの心根よりはましだと思いますよ」
 頬に残る傷痕など、今更気にするものでもない。こんな男にかかずらっているほど暇ではないのだ。くるりと踵を返す。
「おい、待て!」
 男の手が手首を掠める。
「触らないで……っ」
 鳥肌が立つ。咄嗟に腕を引いたものの、袖口から覗いた傷跡に男はぎよっと目を剥いた。
「なんだ、こっちもか?」
「あなたには関係のないことです、離して!」
 振り払おうと身動ぎした拍子に、懐の守り袋から小さな石が転がり落ちた。
「!」
 硬い音が鳴る。床を滑ったその石は珠鈴の手をすり抜け、男の足元に転がった。
「なんだ?」
「返してください」
 石を拾い上げてまじまじと眺める男に、珠鈴は手のひらを突き出す。
(よりによって、あの石を落とすなんて……!)
 男の手の中で、その石はひときわ小さく見える。芽吹いたばかりの若葉を思わせる淡い緑の石。そこに彫られた蘭の花は、珠鈴がひとすじごとに魂を込めたものだ。他人に——まして、このようなならず者に触れられたくはない。
 幼い日の思い出が蘇る。
 都からやってきた、華奢な美少女。珠鈴の後ろを雛のようについてくる様が愛らしくて、妹のように可愛がった姫君——ラン。
 本名も知らない彼女が皇族にゆかりの者だと知った珠鈴は、宮中に務めるため玉刻師になることを決めたのだ。
 あの時、何があったのかを知るために。
 そして彼女に約束した——贈り物をするために。
「この石……なんだ? 妙な色だな」
 男はなかなか石を手放さない。歯噛みした珠鈴が無理にでも取り返そうと一歩を踏み出した時。
 涼やかに玉(ぎょく)が鳴った。
 それを合図として空気が変わる。
「騒がしい。何事だ」
 冷涼な声色が場を支配した。
 誰もが口をつぐみ、呼吸すら憚られる静寂の中、その声だけが張りつめた糸のように響き渡る。
「控えろ。陛下——嵐環(ランカン)帝のお成りであるぞ!」
 珠鈴たちの諍いに手をこまねいていた文官が、切羽詰まった様子で場を取りなした。
 誰も彼もが慌ててその場に跪き頭を垂れる。その隙に男がさっと後ろ手に石を握りこんで隠した。
「ちょっ……」
 何としてでも返してもらわなければいけないが、皇帝陛下の御前で諍いを起こすわけにはいかない。
「陛下、こたびの玉刻師はこの者らに決まりましてございます」
 文官が前列の若者たちを指し示すが、皇帝は鷹揚に頷いただけだ。
「……試験では、翡翠を彫らせたのか」
「い、いいえ! 滅相もないことで。翡翠は皇家に連なる貴き宝物。試験で用いたのは別の」
「翡翠の気配がする」
 そう呟くと、皇帝はすいと職人たちの列に割って入った。
 人波が割れる。
 その足取りは迷いなく一直線に進み——。
「翡翠を持っているな」
 石を隠した男の前で、止まった。
「な、なんのことでしょう。おれ、いや、わたくしは」
「偽りを申すな。お前から翡翠の気配がする」
 男の言を遮る皇帝の声音は凍てつくほどに冷たい。その真後ろに膝をつく珠鈴もこの威容にあてられて息を呑んだ。
 嵐環帝。即位したばかりのこの年若い帝は、優れた技術者の登用に熱心だと専らの噂だ。
 翡翠は皇家の象徴。それを気にかけるのは皇帝ゆえのことだろうが——。
(気配、とはどういうこと?)
 珠鈴が思案していると、男は哀れなほどにかたかたと震えながら拳を開いた。
 皇帝は小さな石を一瞥する。
 短い吐息の合間に、しゃらりと冠を飾る玉が揺れた。
「こ、この娘が持っていたものにございます! わたくしは関わりのないことで……!」
 そのひと言で皇帝の視線が珠鈴へと移る。矢面に立たされた珠鈴はたじろぎながらも身を固くして頭を垂れた。
「そなたが、これを?」
「は……い」
 さらさらと衣擦れの音がする。珠鈴が見つめる床に影が落ちる。そして——皇帝は珠鈴の前に、膝をついた。
 場がざわつく。珠鈴もつられて顔を上げてしまう。
 目の前にあったのは、皇帝の手のひらに収まるかの石——翡翠だ。
「……ああ。やはりそうか」
 翡翠を優しく指でつまんだ皇帝は、日に透かすようにかざして目を細める。
「この彫り……間違いなくそなたの手によるものだな。珠鈴」
(どうして、私の名前を)
 皇帝は石と珠鈴を交互に見つめ、微笑む。そのほころんだ口元に既視感を覚えて、珠鈴の鼓動は高鳴っていく。
(そんな、まさか)
「かくのごとく緻密な細工は他にない。これを出品すれば魁として登用されたろうに。何故そうしなかった?」
 柔らかく問いかけられる。珠鈴はおずおずと口を開いた。
「お……恐れながら申し上げます。それは大切な友人への贈り物にございますゆえ」
「ほう、友人? どのような」
「幼き日に巡り会った娘です。彼女が貴き姫君と聞き、約束を果たすべく宮中に上がるため、励んで参った次第」
 語りながら、珠鈴の内に思い出が蘇る。
 春風を纏う仙女のように涼やかで、春霞のごとく珠鈴の前から姿を消した童女、ラン。
 約束の冠を贈るため、珠鈴は日夜修業を重ねてきた。
「皇家にゆかりの娘? 我が妹はまだ十にも満たぬし……どのような娘だ」
「……若草のような翡翠色の瞳を輝かせて、私の後ろをついてきておりました。身分を思えば畏れ多いことですが、妹のように可愛がっておりました」
 珠鈴、と呼んでくれた軽やかな声が鼓膜の奥に蘇る。
 ある日を境に消えたランを、どれほど探したことだろうか。
「……私の里では、翡翠が採れます。翡翠は貴き宝物(ほうもつ)。それと同じ瞳を持つランにまた会いたくて……心を込めて彫ったのが、その石なのです」
 丁寧に磨いた翡翠に蘭の花を細工した。蘭を選んだのは響きが同じ花だったからだ。
 この石が、花が、響きが——珠鈴をランの元へ導いてくれたなら。
 その願いを込めた石を手に、嵐環帝は吐息だけで微笑んだ。
「そなたも同じ気持ちでいてくれたか。しかし——友の顔を見忘れるどころか性別を勘違いしたままとは、どこか抜けているのも相変わらずだな?」
「……え?」
 気安い口調に、珠鈴はぽかんと口を開ける。
 その時、どこからか迷い込んだ春風がふたりの間を通り抜けた。
 嵐環帝の冠に施された雨粒のような玉飾りが揺れて、その目元が露わになった。
 若葉の如く瑞々しい翡翠色の瞳。
 仙女と見紛うほどにうるわしきかんばせ。
 その瞳を持つ者を、珠鈴は知っている。
 目の前には嵐のように勇猛果敢かつ、人の輪を重んじる温厚な性格と名高い皇帝——嵐環帝。
 その名を口にしかけて、はたと気がついた。
「……ラン?」
 翡翠の瞳が時を超える。
「ああ、そうだ。会いたかったぞ……珠鈴」
 その微笑みに、珠鈴の世界は翡翠色に染まった。
 居並ぶ者たちのざわめきも視線も消え去り、目の前に差し出された手と、その持ち主を交互に見つめる。
「ランが……嵐環帝?」
 珠鈴の問いに、若き皇帝は力強く頷いた。
「珠鈴……会いたかった」
「ラ……ン」
 腰が抜けた珠鈴を支えるように、嵐環はそっと手を伸ばす。
「ああ、ランだ。十年振りか。あの日、何も言わずに里を出てすまなかった。この傷も……」
 嵐環の指先が珠鈴の頬に触れる。そこに残るのは幼き日の傷跡だ。
「……痛かっただろう。いくら謝っても足りぬ」
 戸惑う珠鈴の身体が力強い腕に抱き寄せられる。ほんのりと薫る香。これは知らない香りだ。
 珠鈴の中で思い出と現実が入り交じる。
 思い出の中のランならば背を抱きしめ返せるのに。
 今、珠鈴の眼前にいるのは男——嵐環帝だ。
(これは……どういうこと?)
 混乱しながらも、珠鈴は懸命に考えを巡らせる。すると、周囲のざわめきが耳に戻ってきた。
「へ……陛下、その者は」
 文官が歩みでる。すると、嵐環はゆったりと顎を上げて文官ひとりではなく周囲を睥睨した。
「見てわからぬか」
 嵐環は手にした翡翠を静かにかざす。するとそれ自体が発光しているように、周囲は目を伏せた。
「この国において翡翠は玉座の象徴。皇族以外で翡翠に触れられるのは献上する玉刻師のみ。つまり、この娘もそういうことだ」
「ち、違います。私はただの見習いで、それに貢選会にも落ちてしまって——っ」
 しかし、嵐環は珠鈴の唇を人さし指で止めてしまう。
「翡翠に触れられる玉刻師。それはそなたが思うよりも貴重な立場だ。この貢選会とて、そなたの消息を知る手がかりになれば——と開いたのだが、まさか本当に現れてくれるとはな」
 翡翠の瞳が柔らかく細められる。いつか見た笑顔と重なるその目尻。
 珠鈴の胸が懐かしさで満たされる。しかし嵐環は珠鈴の腕を抱き上げるようにして立たせると、集った者たちに告げるように朗々と声を張った。
「彼女を……維珠鈴を妃として後宮に迎え入れる。とく準備をせよ」
「はっ」
 名だたる官吏が膝を着き、礼の姿勢をとる。図らずもそれを見下ろす形になってしまった珠鈴は、目の前の光景に目を奪われた。
「あ、あの、私、お妃になれるような身分では」
「案ずるな。そなたはもう、資格を兼ね備えていると申したばかりだ」
 嵐環の手で翡翠が柔らかく光を放つ。
 蘭の葉の透かし彫りが、明日からの光をうすらと通していた。