なんでもない、の続きを

 オープンキャンパスの前日は、なかなか眠れなかった。

 乗り換えの経路は、三回確認した。駅から大学までの道も、受付の場所も、説明会が行われる教室も調べた。必要そうな画面はスクリーンショットに残し、モバイルバッテリーを充電した。

 財布、定期券、学生証、筆記用具、折り畳み傘。机に並べたものを一つずつ鞄へ入れる。それでも布団に入って十分ほどすると、また身体を起こしていた。

 学生証は内ポケットにある。受付のメールも届いている。さっき確かめたばかりだった。私はファスナーを閉め、暗い机の前で少しだけ座った。

 伊織に言えば、もしかしたら一緒に来てくれるかもしれない。急だから、もう予定があるだろうか。でも、来てもらわなくても不安だと伝えれば、伊織は何か返してくれる。

 枕元のスマートフォンを取った。

『オープンキャンパス、気をつけてね。朝早いの?』

『七時過ぎに出る』

『ちゃんと起きてね』

 伊織との会話を読む。入力欄に『やっぱり』と打って、消した。何を続けるつもりだったのか、分かっていた。でも、四月からしてきたことを思うと、指が動かなくなった。買った本も、先生に聞いた問題も、進路指導室で書いたノートも、全部私の中にある。

 私は画面を閉じた。布団に戻っても、すぐには眠れなかった。冷房の小さな音を聞きながら、受付で言う言葉を何度も口の中で繰り返していた。

*

 目覚ましが鳴る少し前に目が覚めた。カーテンの向こうは、もう明るい。顔を洗い、私服に着替える。母が用意してくれた朝食は、半分しか食べられなかった。

「千景。受験じゃないんだから、そんなに緊張しなくても。帰り、遅くなりそうなら連絡してね」

 私は頷き、コップに残った麦茶を飲んだ。

 駅までの道は、いつもと同じだった。けれど制服を着ていないことも、駅へ向かう人が少ないことも、いつもの朝とは違った。

 改札の脇を一度見てから、そのまま通る。今日、もちろん伊織はいない。ホームへ降りて、予定通りの電車に乗れた。空いている席へ腰を下ろし、鞄を膝に置く。ここまでは、何も難しいことはなかった。

 スマートフォンを確認すると、七時三十五分。画面を消そうとしたところで、メッセージが届いた。

『千景、ちゃんと起きてる?』

 そう表示された文字に、思わず笑ってしまった。

『もう電車』

『早い』

『起きたから』

『えらい』

『子どもじゃない』

『そうだね、知ってる』

 そう届いた後に、すぐにもう一通送られてきた。

『着いたら教えて』

 私は、その文字をしばらく見ていた。

『うん』

 返事をして、スマートフォンをしまう。さっきまで肩に入っていた力が、少し抜けた。降りる駅の名前を、車内の表示でもう一度確かめた。

 最初の乗り換えは、問題なかった。調べていた階段を上がり、矢印の方向へ進むと、見覚えのある路線名があった。

 二回目は、迷った。駅が大きすぎた。頭の上にいくつも案内板があり、同じ色の矢印が違う方向を向いているように見えた。人の流れに押されて進んだ先で、一度立ち止まる。すぐ後ろから人が来て、私は慌てて柱の脇へ寄った。

 スマートフォンで構内図を開く。乗る路線は分かる。ただ、自分が今どこにいるのかが分からなかった。

 喉が狭くなった。辺りを見回すと、少し先に案内所がある。制服を着た駅員さんが、別の人に道を教えていた。教えてもらっていた人が去る。今なら聞ける。そう思って、私はそちらへ歩いた。

「すみません」

 声が小さく、駅の放送と重なった。届かなかったかもしれない。もう一度息を吸おうとすると、顔を上げてもらえた。

「はい、どうしました?」

「この路線に、乗りたいんですけど」

 スマートフォンの画面を差し出すと、駅員さんは表示を見て頷いた。

「手前の階段を上がって、右ですね。上がったところに案内が出てます」

「ありがとうございます」

 私は頭を下げて、教えられた階段へ向かった。手前の階段を上がって、右。ホームが見えた。表示された行き先を読むと、合っていた。

 予定の電車が来たとき、ようやく長く息を吐いた。座席に座ってからも、指先はひんやりしていた。でも、自分で聞けた。

 窓の向こうへ、知らない駅が流れていく。私は握りしめたままだったスマートフォンを、ようやく鞄の中にしまった。

 大学の最寄り駅では、同じくらいの年齢の人がたくさん降りた。制服の人、私服の人、保護者と一緒の人。私もその流れに交じって歩いた。すると、写真で見ていた門が、本当に目の前にあった。

 白い案内板。学生らしい人の呼びかけ。奥には、高校よりずっと大きな建物が並んでいる。私は門の脇に立ち、鞄からスマートフォンを出した。

『着いた』

 そう送ると、すぐに既読になった。

『お疲れさま、すごいじゃん』

 私はもう一度、門を見上げた。ここまで来た。今朝、地図の中にしかなかった場所に、自分の靴で立っている。

『これから受付』

『がんばって』

 画面を閉じて、私は門をくぐった。だけど受付では、少し噛んだ。

「えっと……予約してる、水瀬です」

 それでも名前を確認した人が、資料を渡してくれた。「ごゆっくりどうぞ」と言われ、用意していた質問を一つ聞いた。

「あの、文学部の説明会は、どこですか」

「こちらの建物の二階です」

 地図に丸をつけてもらう。私はありがとうございます、と答えて歩き出した。誰も私の名前を知らない場所で、受付が済んだ。私は資料を抱える腕に、少し力を入れた。

 説明会の教室では、端の席を選んだ。隣には、一人で来たらしい女の子が座っていた。その子も鞄から筆記用具を出している。それを見て、私もノートを出した。

 始まってしばらくは、周りの紙をめくる音が気になった。自分だけ違うページを見ていないだろうか。ここで何か聞かれたら、答えられるだろうか。けれど授業の紹介が始まると、いつの間にか前を向いていた。

 言葉。物語。人が何を考え、それをどう書いて、読んだ人が何を受け取るのか。そういうことを、何年もかけて学べるらしい。

 気になる授業名を、ノートへ書いた。高校では使ったことのない言葉もあって、あとで調べようと印をつけた。

 体験講義では、短い小説を読んだ。

「書かれていないことを、書かれている言葉から考えてみましょう」

 先生がそう言って、登場人物の台詞を一つ取り上げた。同じ台詞なのに、前の一文を読んだあとでは、聞こえ方が違った。私は何度も文章を行き来した。そのとき、伊織が「よかった」と言うときの顔が、ふと浮かんだ。

 ノートに書きかけて、やめる。今は、この小説を読みたかった。続きを知りたくて、渡された紙の裏まで見た。

 講義が終わったときは、思っていたより時間が経っていた。使わなかった消しゴムが、机の端に置いたままだった。

*

 学食は混んでいた。券売機の前で迷っていると、後ろに人が並んだ。私は慌てて、温かいうどんのボタンを押した。真夏なのに、と食券を見て思う。冷たいものもあったけれど、取り消し方を聞くほどではなかった。

 受け取った器をトレーに載せ、席を探した。一つ空いている席の向かいで、親子が食べている。

「……ここ、いいですか」

「どうぞ」

 笑顔でそう言われ、私は会釈して座った。うどんからは、薄く湯気が上がっていた。冷房が効いているから、これでもよかったのかもしれない。箸を取る前に、なんとなく写真を撮った。

 白い器に、ねぎとわかめ。端には自分の指が少し写っている。おいしそうに撮れたとは言えなかった。

 伊織とのトーク画面を開きかけて、閉じた。伊織は、こんな写真を送られても困るだろうか。説明会のことなら話せるけれど、うどんは、うどんでしかなかった。

 スマートフォンを伏せ、食べ始める。熱かった。水を一口飲んでから、もう一度箸を持った。

 向かいの子が母親に、次はどこへ行こうかと聞いていた。私はチラシを広げ、図書館見学の時間を確かめた。

 そのあと行った図書館には、高い棚がいくつも並んでいた。窓際に閲覧席があり、遠くでページをめくる音がする。私は窓際の席を見た。

 ここに座って、本を読んでみたかった。

 見学のあと、キャンパスのベンチでパンフレットを開いた。入試、学費、通学時間。考えなければならないことは多い。家に帰ったら、母とも話そうと思った。

 志望理由の欄に書くなら、今日の講義のことだろうか。図書館も好きだった。だけど、建物が綺麗だからだけでは足りない気がする。

 私はノートを開き、授業名の横に、今日おもしろかったところを書き足した。誰に見せる文章でもなかったので、途中で言葉が重なっても消さなかった。

 顔を上げると、門のほうへ帰る人が増えていた。だけど、私はもう少しいたい、と思っていた。

 帰りの電車では、ボックス席の窓側の席に座れた。資料を何冊ももらったせいで、鞄が朝より重い。足も疲れていた。乗り換えで迷ったときから、ずいぶん長く歩いた気がする。

 ふと、窓の外に夕焼けが見えた。建物の間にオレンジ色の光が落ち、その上だけ薄い紫になっている。私はスマートフォンを出して、カメラを起動した。一枚目はぶれた。二枚目は窓の反射が入った。三枚目で、ようやく空が写った。

 この写真を、伊織に送ろうと思った。

 トーク画面から写真を選ぼうとして、隣に昼のうどんが並んでいるのが見えた。白い器。わかめ。写り込んだ、自分の指。伊織なら、きっと「今日あんなに暑かったのに」と言う。後ろに人が並んだから焦ったのだと答えれば、少し笑うだろう。でも全部食べたよ、と続ければ、「おいしかった?」と聞いてくれる。

 私は写真を大きくした。伊織とそんな会話を、したかった。

 講義がおもしろかったことも、図書館の窓際に座ってみたかったことも。駅員さんに一回目は聞こえなかったかもしれなくて、もう一回呼ぼうとしたことも。受付で少し噛んだことも。

 どれから話そう、と考えていた。

 隣の席を見ると、知らない人がイヤホンをして目を閉じていた。私は窓へ向き直る。

 今日、一人で来られた。分からないことは聞けた。お昼も食べた。行きたい大学も、自分で見つけた。あとは知っている駅で降りて、家へ帰るだけだった。

 伊織にしてもらわなければならないことは、もうなかった。それなのに、伊織の声が聞きたかった。

 画面に水が落ちた。うどんの写真の端に、小さな丸ができた。慌てて拭うと、別のところへまた落ちた。

 私は顔を窓のほうへ隠した。今日はいい日だった。失敗したからではない。帰れなくなったわけでもない。いい日だったから、話したかった。伊織に。

 鞄からハンカチを出して、畳まれた角を目元へ押し当てる。冷房の風に濡れた頬が冷たくなった。

 昼に撮った写真を、もう一度見た。あのとき送っていたら、うどんが冷める前に伊織の返事が来ただろうか。

 私は夕焼けの写真を選んで、送信ボタンを押した。

『今日、一人で行けた』

 そう打って、送った。既読はすぐにはつかなかった。伊織にも今日の一日がある。きっと私が知らない景色を見て、誰かと話したりしている。

 窓の外が、少しずつ暗くなる。しばらくして、スマートフォンが震えた。

『お疲れさま。すごく綺麗だね』

 私は口元にハンカチを当てた。嬉しいのに、また涙が出そうだった。

『千景、楽しかった?』

 怖かった。疲れた。迷った。けれど帰る時間になっても、まだ図書館にいたかった。

『楽しかった』

 そう返した。それから、『お昼』と書いてうどんの写真も送った。すると、すぐに返事が来た。

『うどん? 暑くなかった?』

 思わず笑った。つい変な息が漏れて、私は慌てて俯いた。

『熱かった』

『なんでそれにしたの』

 話したいことが、一つ増えた。私は入力欄に指を置いた。今まで何度も、言葉を消してきた場所だった。

『伊織に話したいことがいっぱいある』

 読み返すと、恥ずかしかった。うどんの写真より、ずっと。だけど私は、消さずに送った。既読がつく。少し間があって、『うん』と届いた。そのあとに、もう一つ。

『聞かせて』

 私はその言葉を、何度も読んだ。

 最寄り駅へ着くと、外は暗くなっていた。家までの道を、一人で歩く。誰にも腕を引かれない。道を確かめる必要もない。ポケットの中で、スマートフォンが指に触れていた。

 私は一度立ち止まり、母へ『もうすぐ着く』と送った。それから伊織へも、帰ってきたと伝える。

『おかえり』

 短い返事を見て、私はまた歩き出した。伊織に会いたかった。そして今度はその気持ちに、できたこともできなかったことも並べて理由をつけなかった。