なんでもない、の続きを

 あの日から、伊織は昼休みに来なくなった。だけど、来なくなった、という言い方は正しくないのかもしれない。そもそも、毎日三組で一緒に昼を食べると約束していたわけではなかった。伊織が昼休みになると三組へ来て、私の前の席に座り、一緒に弁当を食べる。それが何日も続いたから、いつの間にか当たり前になっていただけだ。

 たまたま伊織が来て、たまたま私がいて、それを繰り返していただけ。だから何日か来ない日が続いたからといって、それだけで何かが変わったとは限らない。そう思った。

 一日目は真緒たちと食べた。二日目も。三日目も。四日目になって、私はようやく、今週伊織と一度も昼を食べていないと気がついた。

 気がついた、というのも違う。本当は、最初から知っていた。今日は来なかった。昨日も来なかった。今日で三日。明日で四日。そうやって、私は毎日数えていた。

*

「水瀬さん、今日も昼こっち?」

「うん」

 昼休みになると、真緒が私に声をかけてくれる。私は頷き、弁当箱を持って移動した。最近では、もう「一緒に食べてもいい?」とも聞かなくなった。真緒たちも何も言わない。私が椅子を持ってきて、一つ机を増やすことが、少しずつ普通になっていた。

「今日の小テスト、やばくなかった?」

「最後分からなかった」

「水瀬さんでも? なんとなく全部できそうなのに」

「できないよ」

「でも平均より絶対上じゃん」

「そんなことないし、それと最後の問題が分からないのは別」

 そんな話をする。誰かが笑えば、私も笑う。飲み物を買いに行く子がいれば、一緒についていくこともある。会話が途切れても、前ほど気にならなくなった。何か話さなければと焦らなくてもいい。誰かが黙ってスマートフォンを見ていても、別の誰かが話し始めれば、また自然に会話が続く。

 私は、伊織がいなくてもちゃんと昼休みを過ごせている。それは、ずっと欲しかったもののはずだった。

「水瀬さん?」

 真緒に呼ばれて、私は視線を戻した。

「……ごめん。何?」

「次の現代文って、どこまで読んでくるんだっけ。私何もやってない」

 真緒が鞄から教科書を引っ張り出す。私は少し笑った。

「まだ間に合うよ」

「そう思って毎回ぎりぎりになるんだよね」

 真緒はページを開き、すぐに眉を寄せた。

「ねえ、この人、なんで怒ってるんだっけ?」

 私は教科書を覗き込む。前の台詞を指して話すと、真緒が「ああ、そっか」と頷いた。

 その途中で、廊下から足音が聞こえた。顔を上げかけて、止めた。真緒は次の行を読んでいた。私も、指を置いたページへ目を戻した。

*

 朝は、伊織と今まで通り一緒に登校した。放課後も、時間が合えば一緒に帰る。だから別に避けられているわけではないし、話もする。普通だった。何も変わっていないように見えるくらい、普通だった。

 でも、前とは違う。伊織は、私のことを先回りして聞かなくなった。「提出物持った?」も、「明日雨らしいよ」も、気づけばほとんど言わなくなっていた。

 たぶん、私が嫌がったと思っている。正確には、嫌だったわけではない。ただ、自分でできるようになりたい。そう言った。

 提出物は前から自分でも確かめていた。今は伊織からの言葉がなくても、入っていると思って鞄を閉じる。天気予報も、電車の時間も、自分で調べたものを信じて動く。

 朝、駅で会っても「傘持った?」と聞かれない。教室で昼を待っても、伊織は来ない。それだけで、以前より静かになったように感じる。私は、その静かさにも慣れなければいけないのだと思った。

*

 翌週の火曜日、ホームへ下りたところで伊織がくしゃみをした。

「……大丈夫? 昨日もしてた」

「そうだっけ」

 そう言って、伊織は鼻を軽くすすった。

「風邪? 熱ない?」

「ないない」

「本当に?」

 そう聞いたところで、伊織がふと私を見る。

「……なに」

「いや。千景に心配されるの、珍しいなと思って」

 その言葉に、私は少し腹が立った。

「私だって心配くらいするよ」

 そう言い返すと、伊織は笑った。

「知ってる。ごめん」

 謝っているのに、伊織はなんだか嬉しそうだった。その顔を見て、私は余計に何も言えなくなった。

 電車が来て、二人で乗り込む。今日は混んでいて、座れなかった。伊織の隣に立ちながら、私はさりげなく横顔を見る。いつも通りに見える。顔色も、それほど悪くない。

「伊織のクラスも、今日体育あるんだっけ。見学したら?」

「あるけど、そこまでじゃないよ」

「でも」

「千景、ほんとに大丈夫」

 そう言われた。その言葉が、胸のどこかに引っかかった。大丈夫と、伊織はよく言う。私も言う。大丈夫と言えば、それ以上聞かれなくて済む。相手を安心させられる。自分自身にも、まだ平気だと言い聞かせられる。

 便利な言葉だった。だから、あまり信用できない。

「……そう」

 それでも私は、それ以上聞かなかった。伊織が今まで私の「大丈夫」を信じようとしてくれたように。少なくとも、その場では。

*

 その日の放課後、私は一人で進路指導室へ行った。大学案内を開く。前にも見た大学。別の大学。文学部。心理学部。教育学部。興味のある授業名や、気になった言葉をノートに書く。

 何を学びたいのかは、まだはっきりとは分からない。それでも、分からないまま誰かの答えを待つのではなく、自分で考えてみることはできるようになった。

 これは好きかもしれない。これは違う気がする。この授業は受けてみたい。そうやって選ぶことが、以前より楽しかった。

 気づけば、下校時刻が近くなっていた。部屋を出てスマートフォンを見るけれど、伊織からのメッセージはない。私からも送っていない。今日は一緒に帰る約束をしていなかった。それだけだ。

 誰もいない昇降口を抜けて、私は一人で駅へ向かった。途中のコンビニへ寄る。飲み物を一本取って、レジへ並ぶ。

「袋おつけしますか?」

「いらないです」

 何も考えずに言えた。店を出てから、少しだけ嬉しくなる。前なら、そんな小さなことで嬉しくなる自分を恥ずかしいと思っていたかもしれない。でも今は、できなかったことができるようになることは、たぶん誰にとっても嬉しいし、たぶんその大きさは関係ない。

 私はペットボトルを鞄に入れた。そのとき、スマートフォンが震えた。

『まだ学校?』

 伊織だった。画面を見た瞬間、胸の奥が少しだけ緩んだ。

『今帰ってる』

『図書室に寄ってたの?』

『進路指導室』

『そっか。気をつけてね』

 それだけだった。以前なら、もしかしたら『迎え行こうか』とか、『駅で待とうか』とか、そういう言葉が続いたのかもしれない。でも今は違う。私が一人で帰れることを、伊織は知っている。私は画面を見て、『伊織は?』と送る。

『もう家』

『早いね。風邪大丈夫?』

『大丈夫』

 やっぱり、その言葉だった。

『ほんとに?』

 そう送ってから、少し待つ。

『ほんとに』

 私は『ならいいけど』と返した。そこで会話は終わった。本当は、もっと何か言いたかった。ちゃんと寝て、とか。無理しないで、とか。熱が出たら教えて、とか。

 どれも、伊織が私に言いそうな言葉だった。でも今さらそれを私が言ったら、伊織はどう思うんだろう。そんなことまで考えてしまって、結局何も送れなかった。

*

 翌日、伊織は学校を休んだ。朝にいつもの駅へ行っても、伊織はいなかった。五分。七分。来ない。遅刻する時間ではないと分かっているのに、入り口の向こうを見る。スマートフォンを見ると、メッセージが来ていた。

『ごめん。熱出たから今日休む』

 その言葉に胸の奥が、急にざわついた。

『何度?』

 すぐに送る。

『三十八度ちょっと』

『やっぱり大丈夫じゃないじゃん』

 そう送ると、返事は少し遅かった。

『昨日はほんとに大丈夫だったんだよ』

『病院行く?』

『午後行くと思う。親いるから』

『そっか』

 そこまで送って、まだ何か言いたかった。水分をちゃんと取って。薬を飲んで。寝て。スマートフォンなんて見ないで。そんな言葉が次々浮かぶ。

 全部、今まで伊織が私に言ってきたようなことだった。

『ちゃんと寝てね』

 結局、それだけ送った。少しして『はい』と送られてきた。その返事に思わず苦笑すると、そのあと『千景、学校遅れるよ』と続けてくる。時計を見ると、いつもの電車まであと二分だった。

『行ってきます』

 送る。

『いってらっしゃい』

 一人で電車に乗った。慣れた通学路だ。いつもの車両に立ち、降りる駅の表示を見上げた。

 なのに今日は、ずっと落ち着かなかった。きっと、伊織がいない理由を知っているからだ。体調が悪い。家にいる。それだけ。それだけなのに学校へ着いてからも、私は何度もスマートフォンを見た。

 授業中は見ない。でも、休み時間になるたび確認する。連絡はない。当たり前だ。きっと寝ているのだと思うし、むしろ寝ていてほしい。それなのに、何も来ていない画面を見るたびに不安になった。

「水瀬さん。今日榊原さん休みなの?」

 スマートフォンを見つめていると、真緒が振り返る。驚いて、私は顔を上げた。

「なんで知ってるの」

「だって今日、朝一人で来てたから」

 私は頷く。伊織と私が一緒に登校していることは、思っていた以上に周りから見えているらしい。

「熱」

「そうなんだ、心配だね」

「……うん」

 その言葉を聞いたとき、私は初めて自分が朝からずっと心配していたことをきちんと認めた。伊織がいなくても学校へ来られるとか、一人で電車に乗れるとか、そんなこととは何も関係がなかった。

*

 昼休み、私は一人で購買へ行った。棚を見ていると、伊織が好きなゼリーがあった。桃味。一度手に取る。透明な容器の中に、薄い白色の果肉が見えた。

 伊織が前に、「これ好き」と言っていた商品だった。いつだったかは覚えていない。ただ、覚えていただけ。

 私はゼリーを棚へ戻した。今日買ったところで、伊織には渡せない。明日も学校へ来るかどうかも分からない。家へ持って帰ったら、冷蔵庫へ入れておくことになる。そこまでして買う必要なんてない。

 そう思ったのに、しばらくしてからもう一度手に取った。理由は、自分でもうまく説明できなかった。

「それだけでいいですか?」

 レジで聞かれる。

「はい」

 答える。結局、私はゼリーだけを買っていた。鞄へ入れる。自分でも、何をしているんだろうと思った。でも明日、伊織が来たら渡せばいい。来なければ、私が食べればいい。

 ただ、それだけ。そう思うことにして、買ったゼリーはその日のうちに家の冷蔵庫へ入れた。

 伊織は翌日も休んだ。冷蔵庫を開けるたびに、桃の果肉が目に入った。来なければ私が食べればいいと思っていたのに、手は伸びなかった。

 木曜日の夜、伊織から連絡が来た。

『明日は学校行けそう』

『もう大丈夫なの?』

『うん。熱も下がった』

 私は少し迷ってから、『分かった』と返した。ゼリーのことは書かなかった。

 金曜日の朝、冷蔵庫からゼリーを出した。小さな保冷バッグへ入れて、冷凍庫の保冷剤も一つ足す。ファスナーを閉めてから、鞄の横に置いた。弁当とは別に、一つ荷物が増えた。

 朝、駅へ行くと伊織がいた。その姿を見て、一瞬足が止まりそうになった。

「伊織……おはよう」

「おはよう、千景」

「大丈夫? 熱は下がった?」

 昨日の夜も聞いた言葉を、私は今朝も真っ先に聞いた。

「もう平気。熱も昨日の夜からないよ」

「ほんと?」

「ほんと」

 そう言われて顔を見るけれど、いつもより少しだけ白い気がした。

「まだ顔色悪い気がする」

「千景、今日厳しいね」

「だって、二日も休んだんだから」

「ごめん」

「なんで謝るの」

 伊織が笑う。いつもの笑い方だった。その笑顔を見た瞬間、ずっと胸の奥に力を入れていたことに初めて気づいた。ふっと緩む。安心した。自分が思っていたより、ずっとだった。

*

 その日、伊織は昼休みに三組へ来た。たぶん、伊織が来たのは二週間ぶりくらいだった。

「千景。今日、こっちで一緒に食べていい?」

 教室の入り口で聞かれて、私は少し驚いた。

「なんで聞くの。別に……前から聞いてなかったじゃん」

「そうだけど、いい?」

 そう言って、伊織は少し困ったように笑う。

「いいよ」

 返事をした瞬間、自分の声が思っていたより明るかった。前の席にいた真緒が私たちを見て、「榊原さんの分も、椅子取ってくる?」と聞いた。伊織が「自分で取ってくる」と言って、空いている席から椅子を借りる。途中から真緒の友達も来た。五人。

 昔なら、私は落ち着かなかったと思う。誰の話を聞けばいいか。いつ笑えばいいか。自分だけ黙っていたら変ではないか。そういうことをずっと考えていた。

 真緒に話を振られ、私は昨日の小テストのことを答えた。隣では別の子が飲み物をこぼしかけ、伊織がティッシュを渡している。

 誰かが私の返事を聞き返しても、前ほど怖くなかった。それでも笑い声が上がると、最初に伊織の顔を見てしまった。

「千景。今日、機嫌いい?」

「なんで? 普通」

「そう? なんかちょっと違う気がする」

「それ、榊原さんが来たからじゃない?」

 会話を聞いていた真緒が言った瞬間、箸が止まった。隣でも、伊織の手が止まっていた。

「……そんなこと」

「でも、いつもより喋ってるよ」

 真緒は笑って、それ以上は言わなかった。向かいの子に話しかけられ、そちらを向く。

 私は弁当に視線を戻した。たまたま。普通だよ。いつもの言葉なら、いくらでも浮かぶ。でも、どれも嘘みたいに感じた。

 伊織が隣で、小さく笑った気がした。だけど、その顔は見られなかった。

 食べ終えた弁当箱をしまってから、机の横に掛けた保冷バッグへ手を伸ばす。伊織も、ちょうど弁当の蓋を閉めたところだった。

「……伊織、これ」

 ファスナーを開けて、ゼリーを取り出す。伊織が私の手元を見た。

「ゼリー?」

「うん。食べられそうだったら」

「えっ、私に? いいの?」

 頷いて差し出すと、伊織は両手で受け取った。

「冷たい。千景、私がこれ好きなの、覚えてたんだ」

「覚えてるよ」

 返事をしてから、保冷バッグへ目を落とした。その中には、保冷剤だけが残っている。

「千景、購買行ったの?」

「……水曜に買った」

 そう言うと、伊織の手が止まった。

「ずっと、家の冷蔵庫に入れてたから」

 聞かれる前に付け足した。伊織は容器を見て、それから、開いたままの保冷バッグを見た。

「わざわざ持ってきてくれたんだ」

「今日は来るって、言ってたから」

 私たちの向かいで笑い声が上がった。真緒たちは、次の授業で当たりそうだと話している。伊織はゼリーを持ったまま、私を見た。

「ありがとう」

「……うん」

 購買でもらったスプーンを机に置いた。伊織はそれを手に取ったけれど、まだ袋を開けなかった。

「千景」

「何?」

「そういうの、ずるいよ」

 指が止まった。伊織を見ると、口元が少し緩んでいた。この間、朝の駅で言われたときとは、違う声だった。

「……何が」

「なんでもない」

「それ、ずるいんじゃないの」

 言ってから、伊織の顔を見た。伊織は一度目を丸くして、それから笑った。

「あ、ほんとだ」

 私も笑ってしまった。真緒がちらりとこちらを見たけれど、何も聞かず、向かいの子との話へ戻った。

 伊織がゼリーの蓋を剥がす。透明なシロップの中で、桃の果肉が揺れた。

「千景、一口いる?」

「伊織に買ったんだよ」

「じゃあ、全部食べる」

「うん」

 伊織が桃を一つすくった。私は保冷バッグのファスナーを閉めた。渡すまで場所を取っていたそれは、畳むと、鞄の隙間にすっと収まった。

*

 その日の帰りは、久しぶりに二人でゆっくり歩いた。伊織は病み上がりだからか、いつもより歩くのが少し遅い。私も歩幅を小さくした。しばらく進んでから、いつもなら伊織がこうしてくれていたのだと気がついた。

 隣を見る。伊織は前を向いて歩いている。疲れていないか聞こうとして、さっき昇降口でも聞いたことを思い出した。大丈夫、と笑っていた。何度も聞けば、伊織だって困るだろう。

 黙っていると、伊織が先に口を開いた。

「千景。最近、一人で帰る日も増えたね」

「うん」

 頷いてから、私は少し考えた。

「自分から、そうするって言うようになった」

「そうだね」

 返事のあと、伊織はしばらく黙っていた。

「……どうしたの?」

「いや。私が勝手に、千景のこと心配しすぎてたのかもって思っただけ」

 伊織は小さく笑った。前なら、その笑い方ばかり気にしていたと思う。本当にそう思っているのか、何か隠していないか。答えを探すように顔を見て、伊織が何も言わないと、不安になっていた。

 今日も少し不安になった。でも、昼にゼリーを受け取った手を覚えていた。ありがとうと言った声も、そのあと一緒に笑ったことも。

「千景は嫌だった? 私にいろいろ聞かれるの」

「嫌じゃないよ」

 すぐに答えた。伊織がこちらを見る。

「でも、千景は気にしなくていいって言ったじゃん」

 あのときの自分の声を思い出した。伊織は、私が言ったことを覚えている。私があとから胸の中で言い直しても、そちらは伝わらない。

「言ったけど、気にしてもらえなくなるのも……嫌だった」

 私は鞄の紐を握り直す。伊織は何も言わなかった。顔を見るのが怖くなって、足元へ目を落とした。勝手なことを言っている。自分でも分かっているから、続ける声が小さくなった。

「聞かれると、まだできないって思われてる気がして。でも、何も聞かれないと……」

 そこまで言って、息を継いだ。

「もう私のこと、伊織は気にならないのかなって」

 靴の音が、二人ぶん続いた。

「……気になるよ」

 伊織が言った。顔を上げると、伊織は困ったように眉を寄せていた。

「だから、聞いていいのか迷ってたんだけど……千景が自分でやろうとしてるの、邪魔したくないし」

 さっき、疲れていないか聞くのをやめたことを思い出した。気になっても、聞かないことがある。私も今、そうしたばかりだった。

「……聞いてもいいよ」

「いいの?」

「うん。自分でやりたいときは、そう言うから」

 伊織がこちらを見た。

「なるべく、伊織にちゃんと言う」

 付け足すと、伊織の口元が緩んだ。

「じゃあ、私も聞く」

「うん」

 話が途切れた。何か足さなければと思ったけれど、伊織は前を向いたまま、私の隣を歩いていた。だから、今すぐ次の言葉を探さなくてもよさそうだった。

 道の先に、駅前のコンビニが見えた。以前、二人とも歩く速さを落としたのに、そのまま通り過ぎた店だった。

「伊織。今日、まだ時間ある?」

「あるよ」

 そう言われ、私は店の入り口を指した。

「少し寄りたい」

「何か買うの?」

「飲み物。……伊織も、一緒に」

 最後のひとことは、言わなくても伝わったかもしれない。それでも言うと、伊織は店のほうへ足を向けた。

「うん。私も何か買おうかな」

 自動ドアが開く。冷たい空気が頬に触れた。伊織が入り口の脇で足を緩める。私はその隣に追いついて、一緒に飲み物の棚へ向かった。

 何を話すかは、まだ決めていなかった。ただ、もう少し一緒にいたかった。それだけは、さっきより素直に思えた。

*

 七月の終わりの終業式の日。夏休みになると、伊織とは毎日会わなくなる。そのことを、私は数日前から考えていた。

 夏休みになれば、学校へ行かない。駅で会わない。昼休みもない。放課後もない。毎日同じ道を通らない。

 つまり、伊織に会う理由がなくなる。もちろん約束すれば会えるし、メッセージだってできる。電話だってしたければできる。でも今までは、約束なんてしなくても伊織に会えた。朝になれば、駅に行く。そこに伊織がいる。昼になれば、伊織が来る日もある。帰りになれば、一緒に歩く。

 学校があったから。同じ駅を使っていたから。同じ高校へ通っていたから。私は「会いたい」と言わなくても、伊織に会えた。その仕組みに、私はずいぶん頼っていたのかもしれない。

 終業式が終わって、通知表が配られる。夏休みの課題。先生の長い話。全部終わって昇降口へ行くと、伊織がいた。

「千景、お疲れ。夏休みだね」

「うん、お疲れ」

 いつもの会話だった。二人で駅まで歩いて、電車に乗って、最寄り駅で降りる。いつもの分かれ道まで来る。ここでいつもなら、「また明日」と言う。それでいい。明日になれば、また会うから。でも、いつもと違って明日は会わない。

「じゃあ夏休み、気をつけてね」

 別れ際に、伊織が言った。

「何に」

「いろいろ、オープンキャンパスとか。困ったら連絡して」

「……うん」

「じゃあ、また」

 伊織が手を上げて、そのまま帰ろうとする。

「伊織」

 私は呼び止めた。伊織が振り返る。

「なに?」

 何もなくても、連絡していい? 困っていなくても。道に迷っていなくても。傘を忘れていなくても。進路で分からないことがなくても。別に一人でできる日でも。

 ただ伊織に話したいから、連絡していい? そんなふうに聞きたかった。でも友達なのだから、連絡したければすればいい。わざわざ許可を取る必要なんてない。それなのに、どうして私は用事もないのに連絡することを、こんなに特別なことみたいに考えているんだろう。

「……オープンキャンパス、伊織も……気をつけて」

 結局、違う言葉になってしまった。それに伊織は少し笑った。

「ありがとう」

「うん」

「じゃあね、千景」

「……またね」

 伊織が歩いていく。私はその背中を見送る。前にも、同じように見送ったことを思い出した。曲がり角で見えなくなるまで。

 曲がり角の手前で、伊織が一度振り返った。私はまだそこにいた。慌てて手を上げると、伊織も同じように上げた。

 それから、見えなくなった。明日は休みだ。月曜日も、その次の日も。中学の保健室で月曜なら来ると言われたときのように、指を折って待てる日がなかった。

 スマートフォンを出したけれど、用はない。伊織に聞かなければ困ることも、まだ別れたばかりで何もない。トーク画面を開いたまま、私は何もできなかった。

 ただ、家へ向かおうとして一度だけ、もう誰もいない曲がり角を見ただけだった。