なんでもない、の続きを

 オープンキャンパスの日が近づいてきた。八月五日、土曜日。申し込んだときから分かっていた日付なのに、カレンダーに丸をつけると、急に現実味が増した。

 あと一か月ほど。一人で電車に乗り、知らない駅で降り、知らない大学へ行く。そう考えると、今でも少し怖い。けれど、前のように「だから伊織に一緒に来てもらおう」とは思わなくなっていた。

 不安なら、調べればいい。乗り換えも、駅から大学までの道も、大学の中の地図も、もう一度確認しておけばいい。それでも分からないことが出たら、その場で誰かに聞けばいい。

 できるかどうかは、まだ分からない。途中で迷うかもしれないし、受付で言葉に詰まるかもしれない。それでも、やってみたいと思えるようになった。最近は、そういうことが増えていた。

 私は、学期末にもう一度配られた進路希望調査を机の上に広げた。第一志望は、まだ正式には決めていない。それでも、文学部のある大学を三校書いた。そのうちの一つが、八月に行く大学だった。

 前の私ならまず伊織がどこの大学へ行くのかを聞いて、その近くから自分の進路を探していたと思う。今は違う。自分が何を勉強したいのかを考えて、自分で大学を探した。

*

「千景、今日進路指導室行く?」

 朝の電車の中で、伊織が聞いた。

「なんで?」

「この前、大学の資料見たいって言ってたじゃん。放課後寄る?」

 私は少し考えてから、首を横に振った。

「今日はいい。昨日、一人で行った」

 伊織の目が、ほんの一瞬だけ止まった。そして「へえ」と言って、すぐに笑った。

「ちゃんと調べてるね」

「うん」

 私は、調べた大学の名前を三つ言った。一校ずつ。伊織は知っている大学もあれば、名前だけ聞いたことがある程度のところもあった。

「結構ばらばらだね」

「学部で見たから。伊織は?」

「私はまだ二つくらい」

「県外の?」

「一つはね。もう一つは県内」

「高梨さんと行くんだっけ」

 言ってから後悔した。自分から名前を出したくせに、返事を聞くのが怖くなる。

「美月? 一つは一緒に行くかも。もう一つは予定合わなそう」

「そうなんだ」

 それだけ答えた。聞かなければよかったとは思わない。でも、聞いてよかったとも思えなかった。

「千景、ほんとに一人で行くんだよね。楽しみ?」

「……分からない」

「緊張する?」

「する」

「だよね。でも、千景なら大丈夫だと思う」

 伊織は笑う。前なら、その言葉だけで安心した。今も嬉しい。伊織がそう思ってくれていることは、ちゃんと嬉しい。

 でも今日は、それだけでは終わらなかった。

「……なんで?」

「何が?」

「なんで伊織は、大丈夫だと思うの」

 尋ねると、伊織は少し驚いたように私を見る。

「だって千景、最近いろいろ一人でやってるから」

「それだけ?」

「それだけって。十分じゃない?」

 伊織が笑った。

「……そう」

 私は窓の外を見る。朝の街が、一定の速さで後ろへ流れていく。私は大丈夫になっている。伊織もそう思っている。

 それは、ずっと望んでいたことのはずだった。なのに「大丈夫」と言われるたびに、少しずつ伊織の手が遠くなっていくような気がする。

 そんなふうに思う自分が、よく分からなかった。

*

 その日の昼休み、伊織は来なかった。最近は、そういう日も増えていた。最初のころは毎日のように三組へ来ていたけれど、今は週に二、三回くらい。それが普通なのだと思う。伊織は五組なのだから、五組の友達と過ごす日があって当然だ。

 私は真緒たちと机を寄せた。今日は四人。みんなで文化祭の話をしている。

「うちのクラス、カフェかもね。委員の子が話してた」

「カフェ? 準備大変そう」

「定番でいいじゃん」

 私は話を聞きながら、ときどき相槌を打つ。話を振られたら答える。最近は、自分からひとこと言うことも増えていた。

「水瀬さんは文化祭、何やりたい?」

「楽なやつ。だって去年、うちのクラスは飲食店で大変だったし」

「そうだったんだ」

 みんなが笑う。私も笑った。楽しい。たぶん前の私なら、こういう時間を「疲れる」としか思わなかった。今は、嫌ではない。むしろ、こうして誰かと同じ話題で笑えることがなんだか嬉しい。

 そのはずなのに笑ったあとで、ふと教室の入り口を見てしまった。伊織はいない。いないという事実を、わざわざ確認してしまう。それだけで、胸の中に小さな空白ができたような気がした。

 私はすぐに視線を戻して、また話の輪へ入った。

*

 放課後、伊織からメッセージが来た。

『今日、少し遅くなる』

 私は『わかった』と返す。以前なら、どれくらいかかるのか気にしながら、教室で待っていた。スマートフォンを何度も見て、伊織から連絡が来るまで時間を潰した。でも今日は、『先帰るね』と続けて送った。

 少しして、『え』とだけ返ってきた。たった一文字。それを見て、手が止まった。だけどすぐに、もう一通来る。

『待ってなくていいよ。結構かかるかも』

 私は画面を見る。

『うん。だから先帰る』

 そう送った。伊織からの返事は、しばらく来なかった。私はスマートフォンをしまい、鞄を持つ。

「あっ、水瀬さんも帰る? 一人だったら、駅まで一緒に行かない?」

 前の席では、ちょうど真緒が立ち上がったところだった。

「うん」

 私は頷き、教室を出る。階段を下りる。真緒は横で、文化祭の係について話していた。私はそれに答える。昇降口へ着いて、靴を履き替える。すると、スマートフォンが震えた。

『そっか。気をつけてね』

 伊織だった。私は、『うん』と返した。それだけ。

「そういえば、今日は榊原さん待たなくていいの?」

 外へ出たところで、真緒が聞いた。

「用事があるみたいだから」

「そうなんだ」

 真緒は特に気にした様子もなく、駅のほうへ歩き出した。私も隣に並ぶ。その途中で、雨がぽつぽつと降り始めた。

「あ、やば。傘ある? 私ない」

 真緒が手のひらを上へ向けて、空を見る。

「ある。天気予報で、午後から雨って言ってたよ」

「朝あんなに晴れてたのに」

 私は真緒の横で、鞄から折り畳み傘を取り出した。

「入る?」

「いいの? 助かる」

 傘を開いて、真緒と二人で入る。肩がぶつからないように持ち直すと、真緒が少しこちらへ寄った。

「水瀬さん、やっぱちゃんとしてるよね」

「別に、傘持ってただけだよ」

「私、持ってないもん」

 真緒は笑っていた。私は、傘の縁から落ちる滴を見た。

「……伊織には、よく聞かれる」

「そうなの? 傘あるかって?」

「うん。ちゃんと持った? って」

 口にすると、伊織の声まで思い出した。鞄を覗こうとする顔も。持ってると答えれば、安心したように笑う顔も。

「水瀬さんなら、忘れなさそうなのにね」

 真緒は私の鞄をちらりと見て、笑った。

「榊原さん、ちょっと過保護だね」

 傘の柄を握る手に、力が入った。真緒は、私が傘を持っていると思ってくれる。伊織は、私が傘を持っているか確かめる。

 その違いが、急に気になった。伊織には、まだそう見えているのだろうか。聞いてもらわなければ忘れる。声をかけてもらわなければ、一人で困っている。

「違うよ」

 思ったより強い声が出て、真緒がこちらを見る。

「あ、ごめん。水瀬さんなら大丈夫そうなのに、って思っただけ」

 その声に、私は傘の柄を握り直した。

「……ううん。私こそ、ごめん」

 真緒は私を、ちゃんとしていると言ってくれた。それは分かっていた。伊織だって、心配してくれているだけだ。それなのに私は、何を違うと言ったのだろう。

「水瀬さん、そっち濡れてない?」

 言われて見ると、傘が真緒のほうへ傾いていた。

「平気」

「もうちょっと、こっち寄っていいよ」

 真緒が腕を引いて、私の入る場所を空けてくれる。半歩寄ると、雨が肩に当たらなくなった。

「ありがとう」

「こっちの台詞だよ。傘、入れてもらってるんだから」

 真緒が笑ったので、私も少し笑った。

 傘の柄をもう一度握り直した。朝、自分で天気予報を見て、自分で持ってきた傘だった。こうして、真緒が濡れないように一緒に歩くこともできる。伊織に話したら、また、よかったと言うだろうか。

 その顔を思い浮かべてから、私は真緒の肩が濡れていないか、もう一度見た。

 駅に着いて真緒と別れたあと、一人で電車を待った。雨は強くなっていた。ホームの屋根を、細かな雨音が絶えず叩いている。電車が来るまで、あと四分。私はスマートフォンを見た。

 伊織からは何も来ていない。さっきの『気をつけてね』で止まっている。私は画面を閉じた。今日は自分から先に帰ると伝えて、真緒の誘いにも頷けた。返事に迷っていた四月より、選べることが増えている。

 電車が来る。乗る。空いていた席へ座る。窓についた雨粒が、走り出した電車に押されるように後ろへ流れていく。私はそれを眺めながら、伊織に会いたいと思っていた。

*

 次の日の朝、伊織はいつも通り駅にいた。

「千景、おはよう。昨日濡れなかった? 雨結構降ってたでしょ」

「平気。傘持ってた」

「よかった」

 伊織が笑う。私はその隣に並んだ。そして、伊織から聞かれてもいないのに、自分でこう言った。

「昨日、真緒と帰った。途中で雨降ったから、傘入れた」

「そうなんだ。佐伯さん、傘なかったの?」

「うん」

「じゃあ、助かっただろうね。よかったじゃん」

 伊織はそう言って、改札へ向き直った。その声に、私は定期券を取り出しかけた手を止めた。

「……伊織」

「ん?」

「本当に、そう思ってる?」

 伊織が振り返る。後ろから来た人が私たちの間を通り抜けて、私は通路の端へ寄った。伊織もついてきた。

「何が?」

「よかったって」

「思ってるよ」

 返事はすぐだった。私の手元を見て、伊織が続ける。

「千景、定期――」

「今、その話じゃない」

 伊織の口が閉じた。強く言うつもりはなかった。でも、いつものように改札を通ってしまったら、もう聞けなくなる気がした。

「最近、私が何かすると、伊織はよかったねって言うでしょ。でも、あんまり……よかった顔してない」

 そう言うと、伊織から笑顔が消えた。その瞬間に定期券の角が、私の指に食い込んだ。

「そんなことないよ」

「だって、今も。伊織は私が真緒といても、一人で何かしても。よかったって言って……それで終わりにする」

「終わりにしてるつもりはないけど」

「じゃあ、伊織はなんでそんな顔するの」

「それなら、ほかに何て言えばいいの」

 声は大きくなかった。私は口を開いたまま、伊織を見ていた。

「だって気にしなくていいって言ったの、千景でしょ。だから、あんまり聞かないほうがいいのかなって。でも、千景が話してくれたら、聞きたいし」

 私は何も返せなかった。伊織はそこで言葉を切った。私から目を逸らし、一度、唇を結んだ。

「千景。私、どうしたらいい?」

 寂しいなら、寂しいと言ってほしかった。けれど伊織は今、困っていた。私がそういう顔にさせていた。

「……そういうことじゃなくて」

「うん」

 伊織がこちらを見る。伊織は、続きを待ってくれている。

「伊織は、私がいなくても……」

 その先を言おうとして、喉が詰まった。平気なの。そう聞くつもりだった。でも、平気だと言われたあと、この電車に一緒に乗れる気がしなかった。

「千景がいなくても、何?」

 そう聞かれて、私は目を伏せた。

「……なんでもない」

 俯くと、すぐそばで改札の電子音が鳴っていた。

「なんでもなくはないでしょ。千景、ずるいよ」

 顔を上げられなかった。ずるい。伊織にそう言われたのは、初めてだった。

「……何が」

「私には聞くのに、自分のことになると、なんでもないって」

 定期券の端を親指でなぞった。もう鞄の中にしまいたかった。でも、しまえばここから動けなくなる気がして、そのまま私は持っていた。

「私だって、千景に聞きたいことあるよ」

「何を」

 尋ねると、伊織が一度息を吸った。

「今、言いかけたこととか。最近、千景が何考えてるのか分かんないし」

「……今までは、分かってくれたじゃん」

 つい呟くと、伊織の目が止まった。言ってしまってから、指先が冷たくなる。

「言わなくても分かれってこと?」

「違う」

「でも、今そう言ったよ」

 言い返せなかった。困ったときも、帰りたいときも、伊織は気づいてくれた。だから今度も、うまく言えないところまで分かってほしかった。

「私、そんなに分かってないよ」

 伊織は私を見たまま言った。

「大丈夫って言われたら、大丈夫なんだって思うしかないじゃん。でも、それでよかったって言うと、変だって言われるし」

 改札を通る人の鞄が、私の肘をかすめた。脇へ寄ると、伊織も半歩動いた。二人とも、まだ定期券を手に持っていた。

「千景が先生に聞けたのも、大学調べたのも、よかったと思ってるよ。本当に」

「じゃあ、なんで」

「だから、それは嬉しいんだって」

 少しだけ強い声だった。伊織は唇を結び、それから私の手元へ目を落とした。

「……この前、千景のホームルーム、長かった日あったでしょ。先に帰っていいって来たから、私、待つよって返したじゃん」

 あの日の画面を思い出した。待つよ。その文字を見たとき、嬉しかったことも。

「でも、千景は大丈夫って言ったから」

「だって……まだかかりそうだったし。伊織、もう昇降口にいたんでしょ。ずっと待たせるの、悪いと思って」

 伊織はすぐには答えなかった。ただ定期ケースの角を、指先で一度なぞっていた。

「私、急いでなかったよ。だから、待つって言ったんだけど」

 顔を上げた。伊織は私の返事を待っていた。

 先に帰っていいとは言った。でも、一緒に帰りたくないと言ったつもりはなかった。昇降口に伊織がいなかったとき、足が止まった。帰っていいと言ったのは自分なのに、本当に帰ったんだと思ってしまった。

 そんなことまで言ったら、伊織はどう思うだろう。

「私……一人でも帰れるから」

 口から出たのは、それだった。伊織の指が止まった。

「……知ってるよ」

「じゃあ」

「私が、千景と一緒に帰りたかっただけなんだけど」

 声は小さかった。なのに、その前までの言葉より、はっきり聞こえた。

 私も、と言いかけた。でも、私が帰っていいと言った。大丈夫だと、念を押した。今さら同じだったと言って、信じてもらえるだろうか。

「じゃあ、待っててって言えばよかったの?」

 尋ねると、伊織が顔を上げた。その顔を見てから、責めるような言い方になっていたと気づいた。

「そう言ってほしいって話じゃなくて」

「でも、先に帰っていいって言ったら、嫌だったんでしょ」

「嫌っていうか……」

 伊織の言葉が止まる。私は鞄の紐を握りしめていた。

「私、やっと……伊織がいなくても大丈夫って思えるようになってきたのに」

 言い終えても、伊織は黙っていた。先生に聞けた日のノートを思い出した。本屋で一人で会計をしたことも。どれも、私には簡単ではなかった。ようやくできるようになったことを、ここで間違いにしたくなかった。

 だけど伊織は、間違いだなんて言っていなかった。

「……そっか」

 少しして、伊織が言った。

「……分かった」

 それで終わりそうになった。伊織が定期ケースを持ち直す。その手が改札のほうへ動いたので、私は慌てて口を開いた。

「そうやって、終わらせないで」

 伊織がこちらを見る。

「伊織。まだ、何かあるでしょ」

「あるよ」

 すぐに返ってきた。私は黙った。

「でも、言ったら、千景が一人でできるようになるの、嫌がってるみたいになるじゃん」

「……嫌なの?」

「そうじゃないって、さっきから言ってる」

 伊織は目を伏せた。一度、唇を噛んでから離す。

「待ってていいのか分かんなかったの。大丈夫って言ってるのに、私が残ってたら、千景を信じてないみたいだし」

「そんなこと」

「でも、先に帰ったら、千景と話せないし」

 言葉がなくなった。

 あの日、帰りの電車で、私は何度もスマートフォンを見た。伊織も、一人で帰った。私が送った『大丈夫』を読んで、昇降口から出ていった。

 そのとき何を思ったのか、私は聞かなかった。

「……伊織と帰るのが、嫌だったわけじゃない」

「うん」

 伊織は頷いた。それでも、顔は上がらなかった。

「私、自分でできるようになりたくて」

「一緒に帰ったら、だめなの?」

「だめじゃない」

「じゃあ、なんで?」

 その質問に、どこから話せばいいのか分からなかった。

 伊織がいれば、伊織を見る。分からないことがあれば聞いて、迷ったら決めてもらいたくなる。一人で帰るだけのことでも、待つよと言われたら、すぐにお願いしたくなる。

 それがどれだけ楽だったか。どれだけ、離れがたかったか。

「私……伊織に頼ってばっかりだったから」

「頼ってもいいよ」

 返事が早くて、顔を上げてしまった。

「千景が一人でやりたいことがあるのは分かった。でも、困ったときまで一人で何とかしなくていいじゃん。言ってくれたら、私……」

 そこで伊織が口を閉じた。来てくれる。続きを聞かなくても、そう思った。

 頷きたかった。じゃあ、これからも、と言ってしまいたかった。昼も、帰りも、伊織が隣にいてくれたらいい。私はまだ、そうしてもらえることに安心している。

「……それじゃ、分かんないの」

「何が?」

 伊織が好きだから会いたいのか。いないと困るから、離れたくないのか。一人でも大丈夫になれば、分かると思った。伊織に何もしてもらわなくても、それでも会いたいと思えたら。

 だけど目の前の顔を見た途端、その先が言えなくなった。

「千景?」

「伊織には……分からないよ」

 定期ケースを持つ伊織の手が下がった。その動きを見た瞬間、傷つけたと分かった。

「……そっか」

「違う。今のは」

「千景。分かってほしいのか、聞かないでほしいのか、どっち?」

 私は口を開いた。伊織は待っていた。答えを探しているうちに、その顔を見るのが怖くなった。さっきまで、言ってくれないと責めていた。伊織が話してくれたら、今度は私が何も言えない。

「……分からない」

 伊織が俯いた。

 駅の放送が、次の電車を知らせていた。いつもなら、そろそろ行こうと言われる時間だった。改札の向こうへ、人が次々に吸い込まれていく。

「千景」

 呼ばれて、顔を上げた。

「……今日は、一緒に行っていい?」

 喉が詰まった。先に帰っていいと言った日も、伊織はこんなふうに迷っていたのだろうか。毎朝隣に立ってくれた人に、今、私はそんなことを聞かせている。

「うん」

 それだけでは足りないと思った。伊織が目を伏せる前に、私はもう一度口を開いた。

「伊織と……一緒に、行きたい」

 伊織は私を見た。少しして、小さく頷いた。でも、笑わなかった。

「電車、乗ろう」

 伊織が改札へ向かう。私も定期券を持ち直した。

 まだ何も、うまく話せていない。それでも伊織は、改札を抜けたところで足を止めていた。私は隣へ急いだ。追いつくと、伊織が歩き出す。その横顔に何か言いたくて、でも言葉が見つからないまま、階段まで一緒に歩いた。

 ホームには、もう電車が入ってきていた。開いた扉から乗り込むと、伊織は奥へ詰め、隣に私が立てるだけの場所を空けた。私はそこに入った。

「……伊織、ごめん」

 車内の音に紛れそうな声だった。伊織は吊り革を持ったまま、こちらを見た。それから、迷うように目を伏せた。

「私も、言い方きつくなった。ごめん」

 だけど、大丈夫だよとは言われなかった。私もうまく返せなかった。扉が閉まる。揺れた拍子に、伊織の袖が手の甲へ触れた。

 学校の最寄り駅に着くまで、二人ともほとんど話さなかった。電車を降りると、伊織は人の流れを抜けたところで足を緩めた。私が隣へ並ぶと、また歩き出した。

 だけど待ってくれたからといって、さっきの言葉が消えたわけではなかった。それでも伊織は、私を待っていた。

*

 その日の昼休み、伊織は来なかった。連絡もなかったし、私も送らなかった。真緒たちと机を寄せて、弁当を開けた。話しかけられれば答えたし、笑うところでは笑った。それでも廊下から声がするたび、目だけが入り口へ向いた。

「水瀬さん、それ食べないの?」

 真緒に言われて、箸の先を見る。卵焼きを挟んだままだった。

「……食べる」

 口に入れると、冷たかった。朝、伊織は私を待ってくれた。一緒に電車に乗って、学校まで歩いた。だから昼も来るかもしれないと、どこかで思っていた。

 だけど弁当箱を片づけるまで、入り口に伊織の姿は見えなかった。

 放課後になっても、スマートフォンに連絡はなかった。私は十分ほど教室に残った。配られたプリントをファイルへ入れて、鞄の中を整えて、それでも帰る支度が終わってしまうと、伊織とのトーク画面を開いた。

『一緒に帰る?』

 打ってから、読み返した。朝のことには何も触れず、これだけ送っていいのだろうか。謝る言葉を足そうとして、電車の中でも謝ったことを思い出す。そのまま送らずに画面を閉じた。

 教室を出て、昇降口へ向かった。靴を履き替えていると、外の壁際に伊織が見えた。スマートフォンを持っている。私が出ていくと、顔を上げた。

「千景、お疲れ」

「……お疲れ」

 それきり、言葉が途切れた。伊織が手を下ろすと、スマートフォンの画面が暗くなった。

「伊織、誰か待ってるの?」

「千景」

 短い返事だった。そう言われ、私は鞄を肩に掛け直した。

「……帰ったかと思った」

「私も。でも、まだ靴あったから」

 靴箱まで見に来たのだと思った。伊織が待っていてくれた。そのことが嬉しくて、でも伊織の顔を見たら、私はすぐに笑っていいのか分からなくなった。

「千景、帰る?」

「うん」

 二人で校門へ向かった。伊織は何も聞かなかった。今日の授業のことも、昼に何を食べたかも。私も聞けなかった。

 いつも曲がる角まで来たところで、伊織が口を開いた。

「数学の――」

 その声に、私は顔を上げた。

「……何?」

「今日、当てられた?」

「ううん」

「そっか」

 それで会話が終わる。靴の音が続いた。もう一言、何かを足せたはずだった。先生が黒板を消すのが早かったこと。真緒にノートを見せてもらったこと。思い浮かんだのは、伊織が前を向いてからだった。

「……伊織は?」

「当たった」

「できた?」

「一応」

 私は頷いた。いつもなら、難しかったとか、先生の説明が長かったとか、そこからもう少し続いた。今日は二人とも、聞かれたことだけに答えていた。

 駅前のコンビニが見えた。新商品、と書かれた小さな旗が揺れている。伊織の視線が入り口へ向き、歩く速さが少し落ちた。

「寄る?」

 聞くと、伊織がこちらを見た。

「千景、何か買うの?」

「……伊織が寄るかなって」

「私は、別に」

「そう」

 私は店の前へ目を戻した。冷たいものでも買えば、何か話せるかもしれないと思った。けれど、何が欲しいのか聞かれたら、私は何も答えられなかった。

 私たちはそのまま歩く。交差点で信号が赤になった。立ち止まってから、私はスマートフォンを取り出した。開いた画面に、送らなかった文字が残っていた。

『一緒に帰る?』

 すぐ隣に伊織がいる。私はその文字を消した。

「明日」

 声が重なった。二人とも黙り、伊織が私を見た。

「何?」

「……伊織からでいい」

「明日、帰り委員会あるから遅くなる。千景は?」

 明日は一緒にお昼を食べないかと、そう言うつもりだった。けれど、帰りの予定を聞いたあとでは、話を戻すのが難しかった。

「何時に終わるのかなって」

「まだ分かんない。終わったら連絡する」

「……分かった」

 信号が青になった。伊織が歩き出す。私も隣に並んだ。

 駅へ着くと、ホームには人が多かった。私たちは列の最後尾に並んだ。電車が入ってきて、扉が開く。乗り込む人に押されて、伊織との間に一人入った。

 その肩越しに、伊織がこちらを見た。私は小さく頷いた。伊織も頷き、奥へ進んだ。車内で人が動くと、伊織の隣が少し空いた。私はそこへ移った。

 袖が触れそうな距離だった。何か話せば、声を張らなくても届いた。伊織は吊り革を持ち、私は鞄の紐を握っていた。その数センチの距離だけが今までより、ずっと遠かった。