六月の終わりが近づくにつれて、雨の日が増えた。朝、家を出る前に天気予報を見ることも、いつの間にか習慣になっていた。
降水確率。最高気温と最低気温。電車の運行情報。それから、鞄の中の折り畳み傘。最初のころは一つ確認するたびに「今日は自分でできた」と意識していたけれど、最近はそこまで考えなくても手が動くようになってきた。
私は伊織に言われなくても、忘れない。
「千景。今日、傘持った?」
だけど、駅で会った伊織に聞かれる。
「持った」
「ちゃんと確認した?」
「した」
「よし」
「……なんで伊織が満足そうなの」
「なんとなく」
伊織が笑った。その会話自体は、以前と何も変わらない。伊織が聞いて、私が少しむっとしながら答える。何度も繰り返してきたやり取りだった。
変わったのは、そのあとだった。
「伊織は?」
「ん?」
「傘持った?」
「あ」
伊織が足を止める。肩にかけていた鞄を下ろして中を探し、少ししてから顔を上げた。
「……忘れた」
「伊織、何してるの」
「千景に言うことばっかり考えてたかも」
「人の心配してる場合じゃないじゃん」
「ほんとだね」
伊織が困ったように笑った。私は自分の鞄の中を見る。折り畳み傘は一本しかない。天気予報では、夕方から雨だった。もし予報どおりなら、帰るころには必要になる。
「伊織。帰り、入る?」
気づいたときには、もう口に出していた。自分から言ったことに驚いた。伊織もほんの少しだけ目を丸くする。
「いいの?」
「伊織が嫌なら別に」
「嫌じゃないよ、ありがとう」
伊織は笑った。その一言で、妙に気分がよくなった。いつもとは逆だった。伊織が忘れて、私は忘れなかった。伊織が困っていて、私が助ける側になった。傘を一本持っていただけなのに、それが思っていたより嬉しかった。
私は伊織に何かをしてもらうことばかり気にしていたけれど、こうして私のほうから何かを返せることもある。それが分かると、胸の中にあった重さが少しだけ軽くなるような気がした。
*
その日は本当に、放課後から雨が降った。昇降口を出ると空は朝よりずっと暗くなっていて、細い雨が絶え間なく地面を濡らしていた。
私は折り畳み傘を開く。伊織が、その横へ入った。
「千景、狭くない? 鞄濡れちゃうよ」
「平気。伊織がもう少しこっち来れば」
「千景が濡れるじゃん、傘持つよ。私の方が背高いし」
そう言って、結局伊織が傘を持った。その瞬間、一瞬だけ残念だった。せっかく今日は自分が傘を持っていて、私が伊織を入れてあげる側だったのに、気づけばまた伊織が傘を持っている。
そんなことを気にする必要なんてないのに。むしろ背の高い伊織が持ったほうが、たぶん二人とも入りやすい。分かっているのに、ほんの少しだけ「またいつも通りになった」と思ってしまった。
でも、傘の下は狭かった。歩くたびに肩が触れる。伊織の制服の袖が、ときどき私の腕に当たる。それだけで妙に意識してしまう自分が嫌になり、私はそっと外側へ寄った。
「千景、濡れるよ」
「平気」
「平気じゃないでしょ」
伊織が傘をこちらへ傾ける。すると今度は、伊織の肩が雨に濡れる。
「だめ、伊織が濡れてる」
「私はいいよ」
「よくない」
「じゃあ千景、もっとこっち来て」
言われて、私は少しだけ近づいた。近い。そう思ってしまった。相合傘なのだから、近くなるのは当たり前だ。こんなこと、中学のころから何度もやっている。雨の日に傘が一本しかなければ、自然にこうなった。
肩が触れても、腕が当たっても、以前なら何も思わなかった。けれど、一度「好きかもしれない」という言葉を知ってしまうと、今まで何の意味も持たなかった距離まで、急に意味を持ち始める。
私は傘の外へ視線を逃がした。濡れた道路。通り過ぎる車のライト。水たまりを避ける人の足元。私は伊織の肩を、できるだけ見ないようにする。
「そういえば千景。オープンキャンパス、申し込んだ?」
伊織が言った。それに、心臓が一度だけ強く鳴った。
「……まだ」
「締め切りないの?」
「ある、来月」
「そうなんだ。行くなら予定合わせるよ」
自然な言い方だった。前に一度言われたのと同じ。一緒に行こうか。伊織にとっては、たぶん本当にそれだけなのだと思う。
私が困るなら一緒に行く。不安なら手伝う。伊織が今までずっとそうしてきたように。私は雨の向こうを見たまま、静かに息を吸った。
「伊織。私……一人で行ってみようかな」
傘が、ほんの少しだけ揺れた。風のせいかもしれない。でも、その直後に伊織がこちらを見た。
「一人で?」
「うん」
「……そっか」
返事までに、思っていたより間があった。
「遠いけど大丈夫? 乗り換えあるよね。駅から大学も、結構歩くでしょ」
「調べたし、地図も見た」
「そうなんだ。じゃあ……大丈夫そうだね」
伊織は前を向いた。傘を持つ手が、ほんのわずかに動く。それから笑った。
「いいんじゃない? 千景、一人で行きたいんでしょ? だったら、行ってきなよ」
雨の音が、傘を細かく叩いていた。一定の音が続いているせいで、沈黙までいつもより長く感じる。
普通の声だった。怒っていない。不機嫌でもない。むしろ、応援してくれているように聞こえる。私が自分でやろうとしていることを、伊織は邪魔しない。それは、私が望んでいたはずのことだった。
それなのに。
「伊織。……嫌?」
聞いてしまった。自分でも、どうして聞いたのか分からない。伊織が目を瞬く。
「何が?」
「私が、一人で行くの」
「なんで? 別に嫌じゃないよ。千景が行きたいなら、行ったほうがいいと思う」
返事はすぐだった。
「そう」
また少し歩く。雨で濡れたアスファルトに、信号の色がぼんやり映っていた。
「でも」
そう言ってから、伊織が続けた。
「困ったらちゃんと連絡してね。無理して一人で何とかしなくてもいいから」
「分かってる」
私は頷いた。伊織の濡れた肩に、指を伸ばしかける。払ったところで雨は止まない。触れる理由が見つからず、手を引っ込めた。
傘を持つ伊織の手だけが、私と伊織の間にあった。
*
その夜、私はオープンキャンパスに申し込んだ。名前。高校名。学年。メールアドレス。一つずつ入力する。最後まで埋めると、画面の下に送信ボタンが出た。その直前で、一度だけ手が止まった。
これを押したら、本当に一人で行く。知らない場所。知らない人。乗ったことのない路線。一人で電車を乗り換え、一人で大学まで歩き、一人で受付をして、一人で説明を聞いて、一人で帰る。そうやって具体的に考えると、急に不安になった。
伊織に頼めば、一緒に来てくれる。たぶん、本当に予定を空けてくれる。乗り換えも一緒に確認してくれるだろうし、迷ったら先に地図を見る。そのほうがずっと楽だ。それに、たぶん楽しい。
私はしばらく画面を見たあと、送信ボタンを押した。受付完了。文字が表示される。
自分で決めて、自分で申し込んだ。私はスマートフォンを手に取り、伊織に報告しようとして、やめる。明日の朝でいい。何でもすぐ伊織に言わなくてもいい。報告しなくても、申し込んだという事実は変わらない。そう思って、スマートフォンを伏せた。
だけど五分後、私はスマートフォンを手に取っていた。
『申し込んだ』
結局そう送った。伏せたはずのスマートフォンを、また握っている。私は画面に映る自分の顔を見て、つい笑ってしまった。
しばらくして、伊織から返信が来た。
『お、早い。楽しみだね』
私は画面を見る。
『うん』
返す。それから、少し迷った。聞かなくてもいい。そう思ったのに、指が勝手に動いていた。
『伊織はオープンキャンパス行かないの?』
返信はすぐだった。
『行くよ』
それから二つ、大学名が送られてくる。一つは県内。もう一つは、電車で二時間以上かかる県外だった。知らない大学だった。
『遠いね。一人で?』
送ったあとで、胸の中がざわついた。なぜ一人かどうかを聞いたのか。その理由は考えなくても分かる気がして、考えたくなかった。返事が来る。
『クラスの子と行くかも』
私は画面を見た。クラスの子。誰だろう。高梨さんかもしれない。別の人かもしれない。何人かで行くのかもしれない。そこまで想像したところで、私は止めた。
聞けばいい。誰と行くの。簡単な質問だ。でも、聞きたくなかった。答えを知るのが嫌なのかもしれない。
『そっか』
それだけ返した。すぐに、『まだ決まってないけどね』と来る。
『うん』
返す。それで会話は終わった。私は一人で行くと言った。自分からそう決めた。なのに、伊織が誰かと行くかもしれないと聞いただけで、私は嫌だった。
自分勝手だと思う。自分は離れようとしているのに、伊織にはその場所にいてほしい。私が一人で歩けるようになっても、伊織の隣だけは空いたままでいてほしい。私に、そんなことを願う資格があるのか分からなかった。
私はスマートフォンの画面を閉じた。自分で決めたことなのだから――そう言い聞かせた。
*
翌日の昼休み、伊織は珍しく来なかった。十二時四十分。いつもなら、もう来ている。十二時四十五分。私は弁当を食べながら、教室の入り口を何度か見た。
待っているわけではない。来ないなら来ないで大丈夫だ。そう思っているのに、誰かが廊下を通るたびに顔を上げてしまう。
「今日、榊原さん来ないね」
私の様子を気にしたのか、席に戻って来た真緒に言われた。
「……うん」
「五組で食べてるのかな?」
「たぶん」
それだけだった。別にいい。伊織は五組なのだから、むしろ今まで毎日のように三組へ来ていたほうが不自然だった。私は弁当を食べる。
「水瀬さんも、こっち来る?」
真緒が少し離れた机を指した。そこには、最近話すようになった真緒の友達が二人いる。一瞬だけ迷った。
「……いいの?」
「いいよ。椅子持ってきなよ」
そう言われ、私は弁当を持って席を移った。最初は、三人の話を聞いているだけだった。テストの話。体育の話。文化祭で何をやるか。誰かが話して、誰かが笑う。私にも話を振られる。少し考えて答える。笑う。
思っていたより普通だった。ずっと何かを話し続けなくてもいい。聞いているだけの時間があっても、誰も気にしない。私がひとこと答えると、そのまま会話が先へ進む。
そういう輪の中にいることも、以前ほど怖くなかった。
途中でスマートフォンが震え、画面を見る。伊織だった。
『ごめん、今日五組で食べてる』
私はメッセージを読む。以前なら、私は落ち込んだかもしれない。だけど今は、大丈夫と本当に言える。私は『うん』と返した。少しして、『千景は?』と来た。
私は目の前を見る。真緒たち。そのうちの一人が、購買で買ったプリンの蓋をうまく開けられずに苦戦している。
「貸して。なんでプリン開けるだけでそんな大仕事なの」
真緒が笑っている。私も笑った。
『真緒たちと食べてる』
そう送った。伊織の返信は、既読が付いてから少し遅かった。
『そっか』
それだけ。次に『よかった』と来た。私は画面を見つめる。よかった。伊織らしい。きっと、伊織は本当にそう思っている。私が一人ではなく、三組の人たちと昼を食べていることを喜んでいる。
それなのに、文字だけだからだろうか。その「よかった」が、ほんの少しだけ寂しそうに見えた。私はしばらく画面を見てから、スマートフォンをしまった。
*
放課後、伊織は昇降口で待っていた。
「千景、お疲れ。今日、昼ごめんね」
「別にいいよ」
靴を履き替えながら答えると、伊織は隣で待っていた。
「クラスでちょっと話してて、美月たちとオープンキャンパスの予定決めてた。まだ日程合うか分かんないんだけど」
「そうなんだ」
私は頷く。私が一緒に行かないと言ったのだから、伊織がほかの人と予定を決めるのは当たり前だった。上履きを置く。それから伊織と並んで、外へ出た。
「千景は佐伯さんたちと食べたんでしょ? 楽しかった?」
「……たぶん」
「よかった」
そう言って、伊織が笑った。また、その言葉だった。
「伊織……最近よく言うね。よかった、って」
「そう?」
「うん」
私をちらりと見てから、伊織は少し考えた。
「千景……前よりいろんな人と話すようになったじゃん。今日も、私が行かなくても楽しく食べられたんだなって思うと、よかったなって」
私は足元を見た。伊織が来なくても、昼休みは楽しかった。けれど、来るだろうかと入り口を見たことも、来なかったときの気持ちも、その一言には入っていない。伊織は私が見せた大学の名前も、真緒と食べていたことも覚えている。よかった、と言うたび、そのあとに何か続きそうで、続かない。
「……伊織は?」
「私?」
「よかった?」
「だからそう言ってるじゃん」
「そうじゃなくて」
そこまで言って、止まった。自分でも、何を聞きたいのか分からない。違う。だけど本当は、分かっている。
私が一人で平気になって、真緒と昼を食べて、伊織がいなくても困らなくなって。それでも、本当に伊織は嬉しいだけなのか。少しも寂しくないのか。そう聞きたかった。
でも――そんなことを聞いたら寂しいと言ってほしいのだと、自分で認めることになる。伊織が歩みを止める。私も止まった。
「千景?」
「……なんでもない」
また私は言えなかった。それに、伊織は少しだけ眉を下げた。
「最近、千景もそれ多いよね。なんでもない、って」
「前からでしょ」
「前より多いよ」
私は目を逸らす。伊織は何か言おうとした。ほんのわずかに口を開いて、でも結局、何も言わなかった。先に口を開いたのは、私だった。
「伊織。もう……そんなに気にしなくていいよ」
「何を?」
「誰と食べたとか、一人じゃなかったかとか」
伊織の指が、リュックの紐の上で止まった。私は、その手を見た。
「……そういうつもりで聞いたんじゃないんだけど」
私は鞄の紐を握った。聞かれなくなったら、それも嫌なくせに。だけど、何が違うのか聞き返すのも怖かった。
「大丈夫だから」
伊織はすぐには頷かなかった。それでも私の顔を見てから、小さく「分かった」と言った。
「帰ろっか」
「……うん」
二人で歩き出す。隣にいる。歩幅も、距離も、何も変わっていない。肩と肩の間には、以前と同じくらいの空間しかない。それなのに最近、目に見えないところだけが、少しずつずれている気がした。
私は伊織の袖を見た。傘に一緒に入った日は、触れないで歩くほうが難しかった。今日は間に何もないのに、手を伸ばすことができなかった。
*
数日後、六時間目の体育の授業が長引いた。そのせいで、いつもよりホームルームが遅くなった。先生の説明を聞いている間にスマートフォンを見ると、伊織からメッセージが来ていた。
『昇降口いるよ』
私は、『先帰っていいよ』と返した。まだしばらくかかりそうだから、伊織を待たせる必要はない。そう思っていると、すぐに既読がついた。
『待つよ』
その文字を見て、一瞬だけ嬉しいと思った。でも『大丈夫』と送る。少しして、『ほんと?』と来る。私は『うん』と返した。それから、返信が来なかった。
十五分ほどして昇降口へ行くと、伊織はいなかった。当たり前だ。私が先に帰っていい、と自分で言った。大丈夫、と言った。だから、伊織は帰った。
それだけ。
靴を履き替えて外へ出て、一人で駅へ向かった。道も電車も、前から知っている。いつもと何も変わらない。ただ、今日は一緒に帰らないと、自分で決めたことだけが違っていた。
改札へ着いても、伊織が来るかもしれないと振り返らず、そのまま通った。電車の窓に映る自分の顔を見ながら、私は昇降口で足が止まったことを思い出した。
本当に帰ったんだ、と思ってしまった。帰っていいと、二回も送ったのに。
家に着くころ、伊織からメッセージが来た。
『着いた?』
『着いた』
『よかった』
また、その言葉。それから少しだけ間があって、『最近ほんと一人で何でもできるね』と送られてきた。私は画面を見た。褒められている。たぶん。伊織は、悪い意味で言っているわけではない。
『まだ全然』
『でも前より』
『うん』
そこで会話が止まった。私はスマートフォンを持ったまま、しばらく待った。何を待っているのかは、自分でも分からなかった。もう少し何か言われる気がした。あるいは、言ってほしかった。
しばらくして『いいことだね』と伊織から届いた。私はその文章を何度か読んだ。いいことだね。伊織は喜んでいる。そのはずなのに、どうしてだろう。
褒められているはずなのに、少しだけ突き放されたような気がした。そんなふうに受け取るのは、たぶん間違っている。私は自分から一人でできるようになりたいと言っている。伊織はそれを応援してくれている。
それだけだ。それなのに――私はすぐに返事ができなかった。
*
翌朝、いつもの駅で会った伊織は、いつも通りだった。
「千景、おはよう。昨日の体育、筋肉痛にならなかった?」
「少し」
「やっぱり」
伊織が笑う。いつもの笑い方だった。私の隣を歩いていて、昨日のメッセージなんて、何も残っていないように見える。私はたぶん、気にしすぎている。そう思った。
ホームへ下りると、今日は人が多かった。前から来た人を避けようとして、私は一歩横へずれる。以前なら伊織が先に気づいて、私の腕を掴んだと思う。危ないよ、と言うこともなく、ただ、自分のほうへ引く。
でも今日は、何もなかった。私は自分で避けた。ぶつからなかった。少し先へ進んでから、伊織が振り返る。
「千景、大丈夫?」
「うん」
「そっか」
伊織は笑った。私はその隣へ戻った。人を避けることは、前からできた。ただ伊織といるときは、足を動かすより先に、私はその腕を見ていた。
望んでいたことだ。そのはずなのに、伊織のすぐ隣を歩きながら――ほんの少しだけ、腕を掴んでほしかったと思ってしまった。
降水確率。最高気温と最低気温。電車の運行情報。それから、鞄の中の折り畳み傘。最初のころは一つ確認するたびに「今日は自分でできた」と意識していたけれど、最近はそこまで考えなくても手が動くようになってきた。
私は伊織に言われなくても、忘れない。
「千景。今日、傘持った?」
だけど、駅で会った伊織に聞かれる。
「持った」
「ちゃんと確認した?」
「した」
「よし」
「……なんで伊織が満足そうなの」
「なんとなく」
伊織が笑った。その会話自体は、以前と何も変わらない。伊織が聞いて、私が少しむっとしながら答える。何度も繰り返してきたやり取りだった。
変わったのは、そのあとだった。
「伊織は?」
「ん?」
「傘持った?」
「あ」
伊織が足を止める。肩にかけていた鞄を下ろして中を探し、少ししてから顔を上げた。
「……忘れた」
「伊織、何してるの」
「千景に言うことばっかり考えてたかも」
「人の心配してる場合じゃないじゃん」
「ほんとだね」
伊織が困ったように笑った。私は自分の鞄の中を見る。折り畳み傘は一本しかない。天気予報では、夕方から雨だった。もし予報どおりなら、帰るころには必要になる。
「伊織。帰り、入る?」
気づいたときには、もう口に出していた。自分から言ったことに驚いた。伊織もほんの少しだけ目を丸くする。
「いいの?」
「伊織が嫌なら別に」
「嫌じゃないよ、ありがとう」
伊織は笑った。その一言で、妙に気分がよくなった。いつもとは逆だった。伊織が忘れて、私は忘れなかった。伊織が困っていて、私が助ける側になった。傘を一本持っていただけなのに、それが思っていたより嬉しかった。
私は伊織に何かをしてもらうことばかり気にしていたけれど、こうして私のほうから何かを返せることもある。それが分かると、胸の中にあった重さが少しだけ軽くなるような気がした。
*
その日は本当に、放課後から雨が降った。昇降口を出ると空は朝よりずっと暗くなっていて、細い雨が絶え間なく地面を濡らしていた。
私は折り畳み傘を開く。伊織が、その横へ入った。
「千景、狭くない? 鞄濡れちゃうよ」
「平気。伊織がもう少しこっち来れば」
「千景が濡れるじゃん、傘持つよ。私の方が背高いし」
そう言って、結局伊織が傘を持った。その瞬間、一瞬だけ残念だった。せっかく今日は自分が傘を持っていて、私が伊織を入れてあげる側だったのに、気づけばまた伊織が傘を持っている。
そんなことを気にする必要なんてないのに。むしろ背の高い伊織が持ったほうが、たぶん二人とも入りやすい。分かっているのに、ほんの少しだけ「またいつも通りになった」と思ってしまった。
でも、傘の下は狭かった。歩くたびに肩が触れる。伊織の制服の袖が、ときどき私の腕に当たる。それだけで妙に意識してしまう自分が嫌になり、私はそっと外側へ寄った。
「千景、濡れるよ」
「平気」
「平気じゃないでしょ」
伊織が傘をこちらへ傾ける。すると今度は、伊織の肩が雨に濡れる。
「だめ、伊織が濡れてる」
「私はいいよ」
「よくない」
「じゃあ千景、もっとこっち来て」
言われて、私は少しだけ近づいた。近い。そう思ってしまった。相合傘なのだから、近くなるのは当たり前だ。こんなこと、中学のころから何度もやっている。雨の日に傘が一本しかなければ、自然にこうなった。
肩が触れても、腕が当たっても、以前なら何も思わなかった。けれど、一度「好きかもしれない」という言葉を知ってしまうと、今まで何の意味も持たなかった距離まで、急に意味を持ち始める。
私は傘の外へ視線を逃がした。濡れた道路。通り過ぎる車のライト。水たまりを避ける人の足元。私は伊織の肩を、できるだけ見ないようにする。
「そういえば千景。オープンキャンパス、申し込んだ?」
伊織が言った。それに、心臓が一度だけ強く鳴った。
「……まだ」
「締め切りないの?」
「ある、来月」
「そうなんだ。行くなら予定合わせるよ」
自然な言い方だった。前に一度言われたのと同じ。一緒に行こうか。伊織にとっては、たぶん本当にそれだけなのだと思う。
私が困るなら一緒に行く。不安なら手伝う。伊織が今までずっとそうしてきたように。私は雨の向こうを見たまま、静かに息を吸った。
「伊織。私……一人で行ってみようかな」
傘が、ほんの少しだけ揺れた。風のせいかもしれない。でも、その直後に伊織がこちらを見た。
「一人で?」
「うん」
「……そっか」
返事までに、思っていたより間があった。
「遠いけど大丈夫? 乗り換えあるよね。駅から大学も、結構歩くでしょ」
「調べたし、地図も見た」
「そうなんだ。じゃあ……大丈夫そうだね」
伊織は前を向いた。傘を持つ手が、ほんのわずかに動く。それから笑った。
「いいんじゃない? 千景、一人で行きたいんでしょ? だったら、行ってきなよ」
雨の音が、傘を細かく叩いていた。一定の音が続いているせいで、沈黙までいつもより長く感じる。
普通の声だった。怒っていない。不機嫌でもない。むしろ、応援してくれているように聞こえる。私が自分でやろうとしていることを、伊織は邪魔しない。それは、私が望んでいたはずのことだった。
それなのに。
「伊織。……嫌?」
聞いてしまった。自分でも、どうして聞いたのか分からない。伊織が目を瞬く。
「何が?」
「私が、一人で行くの」
「なんで? 別に嫌じゃないよ。千景が行きたいなら、行ったほうがいいと思う」
返事はすぐだった。
「そう」
また少し歩く。雨で濡れたアスファルトに、信号の色がぼんやり映っていた。
「でも」
そう言ってから、伊織が続けた。
「困ったらちゃんと連絡してね。無理して一人で何とかしなくてもいいから」
「分かってる」
私は頷いた。伊織の濡れた肩に、指を伸ばしかける。払ったところで雨は止まない。触れる理由が見つからず、手を引っ込めた。
傘を持つ伊織の手だけが、私と伊織の間にあった。
*
その夜、私はオープンキャンパスに申し込んだ。名前。高校名。学年。メールアドレス。一つずつ入力する。最後まで埋めると、画面の下に送信ボタンが出た。その直前で、一度だけ手が止まった。
これを押したら、本当に一人で行く。知らない場所。知らない人。乗ったことのない路線。一人で電車を乗り換え、一人で大学まで歩き、一人で受付をして、一人で説明を聞いて、一人で帰る。そうやって具体的に考えると、急に不安になった。
伊織に頼めば、一緒に来てくれる。たぶん、本当に予定を空けてくれる。乗り換えも一緒に確認してくれるだろうし、迷ったら先に地図を見る。そのほうがずっと楽だ。それに、たぶん楽しい。
私はしばらく画面を見たあと、送信ボタンを押した。受付完了。文字が表示される。
自分で決めて、自分で申し込んだ。私はスマートフォンを手に取り、伊織に報告しようとして、やめる。明日の朝でいい。何でもすぐ伊織に言わなくてもいい。報告しなくても、申し込んだという事実は変わらない。そう思って、スマートフォンを伏せた。
だけど五分後、私はスマートフォンを手に取っていた。
『申し込んだ』
結局そう送った。伏せたはずのスマートフォンを、また握っている。私は画面に映る自分の顔を見て、つい笑ってしまった。
しばらくして、伊織から返信が来た。
『お、早い。楽しみだね』
私は画面を見る。
『うん』
返す。それから、少し迷った。聞かなくてもいい。そう思ったのに、指が勝手に動いていた。
『伊織はオープンキャンパス行かないの?』
返信はすぐだった。
『行くよ』
それから二つ、大学名が送られてくる。一つは県内。もう一つは、電車で二時間以上かかる県外だった。知らない大学だった。
『遠いね。一人で?』
送ったあとで、胸の中がざわついた。なぜ一人かどうかを聞いたのか。その理由は考えなくても分かる気がして、考えたくなかった。返事が来る。
『クラスの子と行くかも』
私は画面を見た。クラスの子。誰だろう。高梨さんかもしれない。別の人かもしれない。何人かで行くのかもしれない。そこまで想像したところで、私は止めた。
聞けばいい。誰と行くの。簡単な質問だ。でも、聞きたくなかった。答えを知るのが嫌なのかもしれない。
『そっか』
それだけ返した。すぐに、『まだ決まってないけどね』と来る。
『うん』
返す。それで会話は終わった。私は一人で行くと言った。自分からそう決めた。なのに、伊織が誰かと行くかもしれないと聞いただけで、私は嫌だった。
自分勝手だと思う。自分は離れようとしているのに、伊織にはその場所にいてほしい。私が一人で歩けるようになっても、伊織の隣だけは空いたままでいてほしい。私に、そんなことを願う資格があるのか分からなかった。
私はスマートフォンの画面を閉じた。自分で決めたことなのだから――そう言い聞かせた。
*
翌日の昼休み、伊織は珍しく来なかった。十二時四十分。いつもなら、もう来ている。十二時四十五分。私は弁当を食べながら、教室の入り口を何度か見た。
待っているわけではない。来ないなら来ないで大丈夫だ。そう思っているのに、誰かが廊下を通るたびに顔を上げてしまう。
「今日、榊原さん来ないね」
私の様子を気にしたのか、席に戻って来た真緒に言われた。
「……うん」
「五組で食べてるのかな?」
「たぶん」
それだけだった。別にいい。伊織は五組なのだから、むしろ今まで毎日のように三組へ来ていたほうが不自然だった。私は弁当を食べる。
「水瀬さんも、こっち来る?」
真緒が少し離れた机を指した。そこには、最近話すようになった真緒の友達が二人いる。一瞬だけ迷った。
「……いいの?」
「いいよ。椅子持ってきなよ」
そう言われ、私は弁当を持って席を移った。最初は、三人の話を聞いているだけだった。テストの話。体育の話。文化祭で何をやるか。誰かが話して、誰かが笑う。私にも話を振られる。少し考えて答える。笑う。
思っていたより普通だった。ずっと何かを話し続けなくてもいい。聞いているだけの時間があっても、誰も気にしない。私がひとこと答えると、そのまま会話が先へ進む。
そういう輪の中にいることも、以前ほど怖くなかった。
途中でスマートフォンが震え、画面を見る。伊織だった。
『ごめん、今日五組で食べてる』
私はメッセージを読む。以前なら、私は落ち込んだかもしれない。だけど今は、大丈夫と本当に言える。私は『うん』と返した。少しして、『千景は?』と来た。
私は目の前を見る。真緒たち。そのうちの一人が、購買で買ったプリンの蓋をうまく開けられずに苦戦している。
「貸して。なんでプリン開けるだけでそんな大仕事なの」
真緒が笑っている。私も笑った。
『真緒たちと食べてる』
そう送った。伊織の返信は、既読が付いてから少し遅かった。
『そっか』
それだけ。次に『よかった』と来た。私は画面を見つめる。よかった。伊織らしい。きっと、伊織は本当にそう思っている。私が一人ではなく、三組の人たちと昼を食べていることを喜んでいる。
それなのに、文字だけだからだろうか。その「よかった」が、ほんの少しだけ寂しそうに見えた。私はしばらく画面を見てから、スマートフォンをしまった。
*
放課後、伊織は昇降口で待っていた。
「千景、お疲れ。今日、昼ごめんね」
「別にいいよ」
靴を履き替えながら答えると、伊織は隣で待っていた。
「クラスでちょっと話してて、美月たちとオープンキャンパスの予定決めてた。まだ日程合うか分かんないんだけど」
「そうなんだ」
私は頷く。私が一緒に行かないと言ったのだから、伊織がほかの人と予定を決めるのは当たり前だった。上履きを置く。それから伊織と並んで、外へ出た。
「千景は佐伯さんたちと食べたんでしょ? 楽しかった?」
「……たぶん」
「よかった」
そう言って、伊織が笑った。また、その言葉だった。
「伊織……最近よく言うね。よかった、って」
「そう?」
「うん」
私をちらりと見てから、伊織は少し考えた。
「千景……前よりいろんな人と話すようになったじゃん。今日も、私が行かなくても楽しく食べられたんだなって思うと、よかったなって」
私は足元を見た。伊織が来なくても、昼休みは楽しかった。けれど、来るだろうかと入り口を見たことも、来なかったときの気持ちも、その一言には入っていない。伊織は私が見せた大学の名前も、真緒と食べていたことも覚えている。よかった、と言うたび、そのあとに何か続きそうで、続かない。
「……伊織は?」
「私?」
「よかった?」
「だからそう言ってるじゃん」
「そうじゃなくて」
そこまで言って、止まった。自分でも、何を聞きたいのか分からない。違う。だけど本当は、分かっている。
私が一人で平気になって、真緒と昼を食べて、伊織がいなくても困らなくなって。それでも、本当に伊織は嬉しいだけなのか。少しも寂しくないのか。そう聞きたかった。
でも――そんなことを聞いたら寂しいと言ってほしいのだと、自分で認めることになる。伊織が歩みを止める。私も止まった。
「千景?」
「……なんでもない」
また私は言えなかった。それに、伊織は少しだけ眉を下げた。
「最近、千景もそれ多いよね。なんでもない、って」
「前からでしょ」
「前より多いよ」
私は目を逸らす。伊織は何か言おうとした。ほんのわずかに口を開いて、でも結局、何も言わなかった。先に口を開いたのは、私だった。
「伊織。もう……そんなに気にしなくていいよ」
「何を?」
「誰と食べたとか、一人じゃなかったかとか」
伊織の指が、リュックの紐の上で止まった。私は、その手を見た。
「……そういうつもりで聞いたんじゃないんだけど」
私は鞄の紐を握った。聞かれなくなったら、それも嫌なくせに。だけど、何が違うのか聞き返すのも怖かった。
「大丈夫だから」
伊織はすぐには頷かなかった。それでも私の顔を見てから、小さく「分かった」と言った。
「帰ろっか」
「……うん」
二人で歩き出す。隣にいる。歩幅も、距離も、何も変わっていない。肩と肩の間には、以前と同じくらいの空間しかない。それなのに最近、目に見えないところだけが、少しずつずれている気がした。
私は伊織の袖を見た。傘に一緒に入った日は、触れないで歩くほうが難しかった。今日は間に何もないのに、手を伸ばすことができなかった。
*
数日後、六時間目の体育の授業が長引いた。そのせいで、いつもよりホームルームが遅くなった。先生の説明を聞いている間にスマートフォンを見ると、伊織からメッセージが来ていた。
『昇降口いるよ』
私は、『先帰っていいよ』と返した。まだしばらくかかりそうだから、伊織を待たせる必要はない。そう思っていると、すぐに既読がついた。
『待つよ』
その文字を見て、一瞬だけ嬉しいと思った。でも『大丈夫』と送る。少しして、『ほんと?』と来る。私は『うん』と返した。それから、返信が来なかった。
十五分ほどして昇降口へ行くと、伊織はいなかった。当たり前だ。私が先に帰っていい、と自分で言った。大丈夫、と言った。だから、伊織は帰った。
それだけ。
靴を履き替えて外へ出て、一人で駅へ向かった。道も電車も、前から知っている。いつもと何も変わらない。ただ、今日は一緒に帰らないと、自分で決めたことだけが違っていた。
改札へ着いても、伊織が来るかもしれないと振り返らず、そのまま通った。電車の窓に映る自分の顔を見ながら、私は昇降口で足が止まったことを思い出した。
本当に帰ったんだ、と思ってしまった。帰っていいと、二回も送ったのに。
家に着くころ、伊織からメッセージが来た。
『着いた?』
『着いた』
『よかった』
また、その言葉。それから少しだけ間があって、『最近ほんと一人で何でもできるね』と送られてきた。私は画面を見た。褒められている。たぶん。伊織は、悪い意味で言っているわけではない。
『まだ全然』
『でも前より』
『うん』
そこで会話が止まった。私はスマートフォンを持ったまま、しばらく待った。何を待っているのかは、自分でも分からなかった。もう少し何か言われる気がした。あるいは、言ってほしかった。
しばらくして『いいことだね』と伊織から届いた。私はその文章を何度か読んだ。いいことだね。伊織は喜んでいる。そのはずなのに、どうしてだろう。
褒められているはずなのに、少しだけ突き放されたような気がした。そんなふうに受け取るのは、たぶん間違っている。私は自分から一人でできるようになりたいと言っている。伊織はそれを応援してくれている。
それだけだ。それなのに――私はすぐに返事ができなかった。
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翌朝、いつもの駅で会った伊織は、いつも通りだった。
「千景、おはよう。昨日の体育、筋肉痛にならなかった?」
「少し」
「やっぱり」
伊織が笑う。いつもの笑い方だった。私の隣を歩いていて、昨日のメッセージなんて、何も残っていないように見える。私はたぶん、気にしすぎている。そう思った。
ホームへ下りると、今日は人が多かった。前から来た人を避けようとして、私は一歩横へずれる。以前なら伊織が先に気づいて、私の腕を掴んだと思う。危ないよ、と言うこともなく、ただ、自分のほうへ引く。
でも今日は、何もなかった。私は自分で避けた。ぶつからなかった。少し先へ進んでから、伊織が振り返る。
「千景、大丈夫?」
「うん」
「そっか」
伊織は笑った。私はその隣へ戻った。人を避けることは、前からできた。ただ伊織といるときは、足を動かすより先に、私はその腕を見ていた。
望んでいたことだ。そのはずなのに、伊織のすぐ隣を歩きながら――ほんの少しだけ、腕を掴んでほしかったと思ってしまった。



